第2話 お兄ちゃんの馬車は速すぎる
「……まだ王城だよ。猫をかぶっておきなさい」
「え、しんどい」
横目で窘めてくるお兄様に、私は眉を寄せて本音をこぼした。
だいたい、幼い頃から屋敷を抜け出しては、街の人々に紛れて遊び歩いていたのだ。令嬢らしい言葉遣いなんて、必要に迫られて身につけただけの仮面にすぎない。
完璧な令嬢を演じ続けるのは、神経をすり減らす。
コルセットに締めつけられたまま背筋をぴんと伸ばし、優雅な作り笑いを貼りつけておくのも、もう限界だった。
背後では、広間がまだ騒がしい。
お兄様は肩をすくめると、門の方角を指した。
「馬車を用意してある。帰ろうか」
「そうね、お兄ちゃん。こんなところ、一分だっていたくないし」
これ見よがしに飾られた美術品も、等間隔に立っている警備の騎士たちも、今の私には鬱陶しいだけだ。
早く王城から出たい。
自然と足も速くなる。とはいえ、さすがにドレスの裾をたくし上げて走るわけにはいかない。あくまで優雅に見える範囲で、できるだけ速く歩く。
これがまた、なかなか難しかった。
「ところで、念願どおり婚約破棄になったわけだけれど、肝心の異世界へ行く方法は夢で見たのかい?」
お兄様に尋ねられ、私は小さく息を吐いた。
「それが、行き方だけはまったく夢に出てこないの。どうすれば行けるのか分からなくて」
「困ったね。準備のしようがない」
歩きながら腕を組み、エラリオお兄様は難しい顔で考え込む。
「今晩にでも見るかもしれないけどね」
なんの根拠もなく、都合のいいことを口にしてみる。
すると、お兄様はどこか面白がっているような声で尋ねてきた。
「しかし、どうして僕までなのかな?」
心当たりなら、ある。
私が屋敷を抜け出すたびに捜し出し、両親への言い訳まで考えてくれたのは、いつだってお兄様だった。
大好きなたった一人の兄と離れるなんて、昔から考えたこともない。きっと未来の私も、お兄様を置いていくつもりなどなかったのだ。
それを本人へ素直に話すのは、なんだかものすごく負けた気がする。
「……さあ?」
私はすっと視線を逸らし、わざとらしく小首を傾げてみせた。
王城の正門を抜けると、夜の冷たい風が火照った頬を撫でていく。
その先では、我が家の紋章を掲げた馬車が待っていた。私たちに気づいた御者が、慌てて姿勢を正す。
「お待ちしておりました、エラリオ様、レミーシャ様」
「ありがとう。帰りは僕が操るよ」
「やはり、そうおっしゃいますか……」
御者は止めようともせず、溜息を吐いた。
どうやら、お兄様が自分で操ると言い出すことなど、最初から分かっていたらしい。
お兄様は車輪と馬具の状態を一通り確かめると、当然のように御者台へ上がった。御者も慣れた様子で場所を空け、手綱を渡す。
「お兄ちゃん、また自分で操るつもりなの?」
今さら聞くまでもないとは思いつつ、呆れ半分に声をかける。
エラリオお兄様は手綱の張りを確かめながら、事もなげに笑った。
「来るときはともかく、帰りまで他人が操る馬車になんて乗りたくないよ。道の様子を見て、石があれば避けるか乗り越えるか、曲がり角へどう入るかを考えるの、楽しいじゃないか」
この人は本当に、道筋や速さを頭の中で組み立てることばかり好む。
「……相変わらず変な趣味」
「レミーシャには言われたくないなぁ」
楽しげに言い返され、私は心外だとばかりに胸を張った。
「何よ。私は普通よ」
「普通の子は、あんな手の込んだ裏工作をしないよ」
図星を突かれ、ぐっと言葉に詰まる。
「……むぅ」
反論できないまま、不満げに唇を尖らせて客車へ乗り込んだ。
座席へ腰を下ろすと、頭上から軽快な声が降ってくる。
「さあ、出すよ。しっかりつかまっていてね」
「つかまっていなきゃいけない馬車なんて、お兄ちゃんが操るものくらいだよ」
文句を言いながらも、私は大人しく車内の手すりをきつく握り締めた。
ぱしん、と鞭の音が夜気を裂く。
二頭の馬が弾かれたように駆け出し、馬車は誰かに蹴り飛ばされたような勢いで前へ跳ねた。
石畳を叩く蹄の音が、みるみる速くなる。車輪が継ぎ目を越えるたび、客車が細かく震えた。
大通りへ出る手前の石畳には、深く抉れた箇所がある。この速さで車輪が落ちれば、客車が大きく跳ねるどころでは済まない。
それでも、お兄様は速度を緩めなかった。
穴へ差しかかる少し手前で、お兄様が手綱を巧みに操る。二頭の馬がわずかに進路を変え、それに引かれる馬車も緩やかに向きを変えた。
「わっ!」
身体が横へ振られ、座席から投げ出されそうになった。
車輪は抉れた石畳の縁ぎりぎりをかすめ、そのまま速度を落とすことなく大通りへ飛び出していく。
「さすがでございます。あれを踏んでいれば、かなり速度を落とされるところでした」
御者台から、感心しきった声が聞こえてきた。
「そこ! 感心するところが違う!」
「そうでしょうか」
「大回りしたら遅くなるだろう?」
「乗り心地の心配をしてよ!」
返ってきたのは、お兄様と御者の楽しそうな笑い声だった。
この似た者同士め。
その笑い声を聞いた途端、ふと予知夢の光景が重なった。
夢の中で奇妙な乗り物を操っていたお兄様も、今と同じように楽しそうに笑っていた。
なぜ、あの乗り物を操っていたのがお兄様なのか。
今さらながら、その理由が少しだけ分かった気がした。




