第1話 婚約破棄、喜んで承ります
「右3、クレスト、ギャップ! 200!」
私は隣に座るお兄様へ、手元の紙片に記された呪文を読み上げていた。
叫んでいるわけではない。ただ、正確に伝わるよう、声の抑揚とテンポだけは意識する。
お兄様は、丸い円盤のようなものを両手で握っていた。その横顔には、今まで見たこともないほど楽しそうな笑みが浮かんでいる。
窓の外では、景色が色と形を失い、線となって後方へ飛んでいく。
前方に馬の姿はない。それなのに、私たちを乗せた奇妙な乗り物は、恐ろしい速さで未知の道を突き進んでいた。
でも、少しも怖くない。
大好きなお兄様と一緒に、声を上げて笑っている。それだけで楽しくて、胸が高鳴った。
私たちが生きる『ウィンテリヌス』では、絶対にあり得ない光景。
――それが、私の見た「予知夢」だった。
ふう、と小さく息を吐き、目の前の現実へ意識を戻す。
眩いシャンデリアの光が降り注ぐ中、ヴァロ王国のガドロフ王子が、可愛らしい妹のリヴァ王女を背に庇って叫んでいた。
「聞いているのか! お前との婚約は破棄だ!」
ああ、そうでした。
今日は華やかな舞踏会の日。
会場へ到着して早々、私は大勢の貴族が取り囲む広間のど真ん中で、婚約破棄を言い渡されていたのだった。
「ええ、はい。というか、喜んで」
ガドロフ王子の青い目が、大きく見開かれた。
「喜んで!?」
「はい、王子殿下。喜んで婚約破棄をお受けいたします。……いえ、わたくしの方からお願いしたいくらいですわ」
ただ受け入れるだけでなく、前のめりになって同意したのが気に障ったらしい。彼の顔が、みるみる朱に染まっていく。
「どの口が言う! お前は散々、我が友人たちを誘惑し、我が妹を侮辱した罪人だというのに!」
唾を飛ばさんばかりの勢いで捲し立てるガドロフ殿下。その背後では、兄と同じ金髪と青い瞳を持つリヴァ王女が、いかにもか弱そうに身を縮め、彼の袖をきつく握っている。
ああ、本当に馬鹿馬鹿しい。
「なんとでもおっしゃいなさい。わたくしには身に覚えがクソほどないので、痛くも痒くもございません。そもそも、そこにいる貴方の妹が吹聴した妄言でしょう」
令嬢にあるまじき、はしたない言葉。
けれど、ずっと腹の底に溜め込んでいたものを吐き出してしまえば、胸の内は驚くほど晴れやかだった。
周囲の貴族たちが、信じられないものでも見るように目を見開く。一斉に息を呑む音まで聞こえた。
「何を!」
「では殿下。婚約破棄、確かに承りましたので、わたくしは早々に退散いたしますわ。それでは皆様、ご機嫌よう」
「待て! まだ終わっては――」
騒ぎ続ける元婚約者を置き去りに、私は赤いドレスの裾をつまみ、完璧なカーテシーを決めてみせた。肩にかかる錆色の髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。
そのまま踵を返す。
ざわめく貴族たちが割れるように道を空けていく中、私は一度も振り返らず、堂々と広間をあとにした。
夜会の喧騒が遠ざかり、人気のない廊下まで来たところで、ようやく肩の力を抜く。
「ふぅ」
「なかなか痛快な寸劇だったね、レミーシャ」
不意に降ってきた聞き慣れた声に、私は振り返った。
壁に背を預け、面白そうにこちらを眺めている兄の姿がある。私と同じ錆色の髪に、群青の瞳。その整った顔には、人を食ったような笑みが浮かんでいた。
「あら、いやだ。見ていらっしゃったの? お兄様」
「かなり素がだだ漏れだったようだけど」
苦笑するエラリオお兄様へ、私は扇で口元を隠しながら、優雅に微笑んでみせた。
「構いませんでしょう? もう王城には来ませんし、わたくしはこれから『異世界に行く』んですから」
「『異世界』?」
お兄様が不思議そうに首を傾げる。
「だって、夢を見ましたのよ。わたくしの能力は、お兄様もご存じでしょう?」
「夢見の能力だったね。それで、夢に出てきた『異世界』とやらは、どんなところなんだい? そろそろ教えてくれてもいいだろう?」
「そうですわね。無事に婚約破棄されましたから」
私はくすりと笑い、お兄様と並んで歩きながら、予知夢で見たものを話すことにした。
本当なら、もっと早く教えるべきだったのだろう。
けれど、婚約破棄が成立する前に口を挟まれては困る。だから今日まで、黙っていた。
「このあと、見知らぬ世界で、お兄様と二人、奇妙な乗り物に乗っていましたの。お兄様が操るそれは、景色が流れて消えてしまうほどの速さで駆けていましたわ。その隣で、わたくしは紙片に書かれた意味の分からない呪文を、次々と唱えていましたのよ」
「……え、僕?」
「お兄様、とても楽しそうにしておりましたわ」
「楽しそう?」
「ええ。少なくとも、こんな窮屈で、冤罪を吹っ掛けられるような世界にいるより、ずっと楽しそうでしたわ」
私の予知夢は、これまで一度たりとも外れたことがない。
その事実を誰よりも知っているお兄様が、探るように目を細めた。
「あの王女が君の撒いた餌に食いついて、王家の側から婚約破棄を切り出すよう仕向けたのは知っていたけれど……それで、冤罪ねぇ」
じとっとした視線が、私を射抜く。
どうやら、すべてバレているらしい。
さすがは我が兄。誤魔化しは利かないか。
「なんのことですの?」
それでも私はすっとぼけ、あくまで可憐な被害者として微笑んだ。
「……まったく。君の夢はいつも唐突だね」
お兄様は呆れたように笑った。
「まあ、いいさ。どのみち僕は、退屈しのぎに次の遠征のコース取りを練っていたところだったからね」
お兄様は懐から折り畳んだ紙片を取り出し、ひらひらと振ってみせる。地図の切れ端には、几帳面な字で経路と所要時間がびっしりと書き込まれていた。
最短距離を選ぶことよりも、立ちはだかる難所をいかに早く、確実に突破するか。
それを考える方が性に合っている――昔から、そういう人だった。
「遠征なんて行かせませんわ。お兄様も一緒に異世界へ行くんですもの」
私は扇を閉じ、最後だけ、幼い頃の口調に戻した。
「――これは私の予知夢だよ、お兄ちゃん」




