十一月
二日目は生憎の雨だった。旅館が貸し出す傘では足りず、雨を気にする女子は外に出てすぐの所にある、景観に配慮し茶色になっているコンビニでビニール傘を購入した。雨で重厚感が増し、華やかさより渋さが目立つようになった西照宮を目指し、参道に透明なクラゲたちが連なった。
生徒たちの外出を見届けた新沢は旅館のロビーに戻り、そこで何をするでもなく突っ立っている男子と女子に声をかけた。
「本当に特に行きたいとこないのね?」
「はい」
「後悔しても知らないわよ」
彼女は二人の生徒を連れて旅館を出て、日暮駅前でレンタカーを借りた。
「先生、運転できるんですか」と女子が不安そうに聞いた。
「たぶんね。ペーパードライバーに毛が生えたようなものだけど」
不慣れな運転だが、観光街を離れると車が減り道が広くなり、余裕が出てきた。
「前の車についていけば大丈夫」と、新沢が上機嫌で言った。
「まっすぐで良かったんですか」と男子。
「やばっ、曲がるんだった」
「ところでどこに連れて行ってくれるんですか」と女子。
「リアルな地元民を見れる場所。いわば観光地の裏側ね」
日暮市は広い。観光業は西照宮の周辺に集中し、そこから少し離れればもう、人口減少中のありふれた田舎町だ。
「ここが日暮の本当の大通りよ」
片側二車線の国道の左側には、古い家電量販店、やたら新しく大きなパチンコ屋、周辺地域より料金が不当に高く設定されているガソリンスタンド、農家にはありがたいホームセンター、昔から地元民の生活を支え続けている「ルパセ」というショッピングセンターなどがある。チェーン店は回転寿司とファミレスとコンビニが一軒ずつのみ。
道の右側は店が少なく、警察署や消防署の間にだだっ広い田んぼや畑が広がり、歯が何本も抜け落ちた子供か年寄りの口のようだ。この自然豊かで遠くに連山が眺められる道を一往復することが、世界的に有名な観光地の陰で生きる人々にとって最大の娯楽なのだ。
「さすがにパチンコには連れていけないからルパセにしましょう」
男子と女子は店に入る前からそこの異様さにたじろいだ。赤色の屋上看板にはその店名が白色で書かれているのだが、長年塗り直していないので雨の働きにより色が落ち、血の涙を流しているように見える。築三十年以上の建物も塗装が剥がれ落ち、夏の虫が壁の表面にこびりつきシミのようになっている。正面入口のどこかに設置されたスピーカーは絶えずこう訴える。
「車椅子マークのついた駐車場は、障害者、高齢者、妊婦など、車の乗り降りに配慮が必要な方の専用スペースです。健常者の方のご利用はお控えください」
「禍々しい雰囲気ですね」
「積年の恨みのようなものを感じる」
「いい日本語知ってるじゃん。二人ともよく本読むの?」
「ええ」
「まあ」
店内に入っても印象はぜんぜん良くならない。一階は全体的に薄暗く、食料品コーナーの冷蔵庫のせいか嫌に寒い。ファッションのエリアは客が少なく閑散としている。唯一賑わっているのは、男性店員がハキハキとした声とオーバーな身振り手振りで、集まった高齢者向けに健康食品などを売りつける胡散臭いスペースだ。
「昔はあそこが本屋だったのに」
二階では雑貨、家具、玩具、家電などが売られている。奥の方にはゲームコーナーがあり、その隣には小さなフードコートも。平日の利用者は客より従業員が多く、タバコを吸いながら無料のお茶を飲み仕事をサボっている。
「こんなシケた店でも地元の人間にはありがたい存在なの」
「鯉泉のセミールみたいな?」と女子。
「そう。私はここでおじいちゃんから誕生日のプレゼントを買ってもらった。自転車もここね。ルパセには私たちの楽しい思い出がいっぱい詰まっている。だから帰省するたびについ、ここに寄りたくなる。そのたびに、私にとって大切な店が一つずつなくなるのは寂しいけどね。親が年老い、徐々に体が悪くなっていくのを見るような気分よ」
ゲームコーナーの内容は意外と充実している。最新のプライズが入ったクレーンゲーム、小さい子供用の乗り物、さまざまな種類のメダルゲーム。パチンコに行くお金がない、遠くに遊びに行くのがおっくうな年寄りが、メダルの増減に一喜一憂する。
「観光街のお店で見る人たちとぜんぜん違いますね」と女子。
「あのおばさん、なんか店員に怒鳴ってますよ。怖いなぁ」と男子。
「声が大きいだけで怒ってるわけじゃないのよ」
「どうして分かるんですか」
「私のお母さんだもん」
「えりかじゃない! どうしたのこんな時間にこんなとこで?」
「修学旅行の引率でね」
「ぜんぜん元気そうじゃん……」
「せっかく帰ってきたんならお父さんにも顔を見せなさい」
寺の駐車場にレンタカーを停めるころには雨が止んだ。高校の教師、その教え子と母の四人は「新沢家之墓」と彫られた墓石の前で、線香と花の匂いを嗅ぎながら合唱した。晴れ間が出て、周囲の林から涼しく湿った緑色の風が吹く。墓地にいる人間は彼らだけで、お供え物を狙う一匹の野良猫がパトロールをしている。
母はルパセで買ったワンカップの蓋を開け、中身を墓石に浴びせかけ、「くそったれじじい」と毒づく。それから墓石の下を指差しながら、関係ない男子と女子に向かって「飲んだくれの末路がこれよ」と断言する。
「私のお父さんもおじいちゃんもお酒が原因で亡くなったの」
そう言う新沢に悲しむ様子はない。母の行為も愛情表現の一つで、次にビニール袋からクリスマス用のシャンメリーを取り出した。
「ルパセはいつも気が早いのよね」
新沢は、彼女が子供のころから人気があるアニメキャラの包装紙を剥がし、栓を開け、母に渡す。母は親指で栓をしながら激しく振り、噴き出る泡を墓石にかける。
「死んだらシャンパンを浴びるように飲みたいって言われてね。死人にゃもったいないからジュースにするのさ」
巣に隠れていたアリが集まり、墓石から滴る砂糖水と泡に溺れる。線香の白い煙が秋空にたなびく。
「じゃあ私は帰るから、この子をお願いね」
そう言われた男子と女子は複雑な笑みを浮かべ、担任の母の去りゆく後ろ姿を見送った。
「お墓参りまで付き合ってもらってごめんね」
「いえいえ」
「お昼は私が奢ってあげる」
彼女は市役所の広い駐車場に車を停め、徒歩で近くのラーメン屋に入った。同級生の家で経営しているそうで、薄暗い店内には調理担当の爺さん、接客担当の婆さんと、数人の常連客がいた。
「えりかちゃん帰ったの」
「お客さんを連れてきたわよ」
定番ラーメンという何が定番なのか不明な品を三人分注文した。カウンターの客は棚の上に置かれた小さなテレビに目を向ける。小上がりの座布団に腰を下ろした新沢は、男子と女子に「ほら、足を崩して」と促す。
「あなたたち、クラスに親しい友達はいないの」
「ええ」
「べつに」
「それで、高校生活は楽しめてる?」
「まあ」
「それなりに」
「そう。だったらいいんじゃない。私もそうだったし」
「先生が?」
「信じられない」
「私お父さんと仲良しだったの。お父さんは高校に合格した時も誰よりも喜んでくれた。それなのに急に病気で亡くなっちゃって。ショックだった」
「学校はどうしたんですか」
「泣きながらでも毎日通った。それがお父さんの願いだったから。もちろんそれで友達ができるわけないよね。周りも私の事情なんて知らないから、ただのうつで陰気な女だと思われた。男子からも女子からも嫌がらせを受けた。学校なんて大嫌いだった」
「意外ですね」
「そんな私にやさしく声をかけてくれる人がいた。担任の先生で、ちょっとお父さんに似ていた。先生だけは私のことを気にかけてると思ったら、学校に行くのがそれほど苦ではなくなった。私が進路に悩んでいる時も相談に乗ってくれた。進学して勉強を続けたい私を励まし、お母さんを説得してくれた。私はあんな先生になりたくてこの職業を志したの」
「なるほど」
「新沢先生はその恩師に近づけましたか?」
「私なんて青二才よ。まだその先生の真似事しかできてないから」
「はいお待ちどおさま」
醤油スープ、細い縮れ麺、ネギ、ワカメ、メンマ、ナルト、数枚のチャーシュー。まさに定番中の定番だ。新沢はコショウを入れすぎ、くしゃみをした。
「お弁当を持ってこれなかった時、先生がここでラーメンを奢ってくれたの。味はぜんぜん変わってないけど、あの時と今とではまた違った味わいがあるわね」
「先生、ぼくたちさっき行きたいところができたんですけど」
「どこでも遠慮なく言って」
「古本屋です」
「雨の西照宮も趣深くて良かったわ」
「そうね。ガイドブックみたいにキラキラしてなかったけど、雨が降ったから空いてて、普段の自然な姿が見れた感じ」
「神主さん、英語で説明してて凄かったな」
「なんにしても広いから腹減ったぜ。昼はなに食う?」
時尾たち五人は観光街を歩きながら探すが、腹の足しにならない高い食べ物ばかりで、今ひとつ心惹かれない。そろそろ肉をガッツリ食べたいところだが……
「あっ、どっきりグッピーだ! 鯉泉にないから行ってみたい!」と渚が言った。
異論がないのでそこにした。元から茶系統のおとなしい色調の店なので、観光街の中に自然に溶け込んでいた。しかし店内の様子は別の店と違った。他に行く場所のない地元のおばさんたち、近くの工事現場で働く作業員たちにベビーカーを使う観光客が混ざり、騒然としている。
「やっぱこういう店のほうが落ち着くよな」
ご当地メニューはなかったが、ハンバーグ、パスタ、クリームソーダ、パフェなど、いつもCMでしか見ることのない憧れの料理をついに味わうことができ、全員大満足だった。
「しかし昨夜は大騒ぎだったな」と一真。
「消灯からが本番だった」と陽太。
五組の一部の生徒たちは温泉で盗み聞きしていたので、例の綾という女子の部屋を覗きに行った。ところが待てど暮らせど遼という男子が来る様子はない。彼ら彼女らがしびれを切らしたころ、部屋から綾が出てきた。
「裏をかいて遼の部屋に行くんだ」
だが彼女が無事に彼のもとにたどり着くことはなかった。羽目を外して酒を飲んだ石川が酔っ払い、見回りと称して廊下を徘徊していたからだ。ふだんお硬い人ほど酒が入ると醜態をさらしやすい。
さっきあれほど歌ったのにまだ足りないのか、石川は脱げたスリッパをマイク代わりにし、その場でワンマンライブを開始した。今度は昭和のアニメ曲メドレーだった。野球少年のど根性を歌いながらふらついて歩き、何かにつまずいて転んだ。
「こらっ! きみ、そんな赤くなるほど飲んだらいかんね……」
彼は消火器を相手に延々と説教をした。一堂忍び笑い。自販機の間に隠れた綾は出るに出られない。心配になった遼が部屋から出てきた。そこで五組の連中の待ち伏せにあったことに気づいた。
「それからどうなったの」と渚が聞き、一真が答える。
「石川が消火器を抱いて寝ちまったから、そのまま綾を遼の部屋まで送ってった。枕投げしたり、さんざんからかってから解放してやった」
「綾と同室の女子がまた意地悪でよ、どさくさに紛れて、綾が持ってたゴムをこっそりくすねたんだ。あの二人、途中でアレがないことに気づいたんだろうな」と陽太。
「遼くんと同じ部屋の男子はどこで寝たの?」と柚葉。
「そのまま綾の部屋に入ってった。ゴムもゲットしたことだし、やることは一つだけだろ」と陽太。
ぐだぐだ話をしているとあっという間に集合時間が迫ってきた。彼らは急いで店を出た。旅館の駐車場に停まるバスの前で、先に来た生徒たちがすでにクラス別に並んでいる。旅行団の団長である石川はくしゃみを連発し、ガタガタ震えている。
最後に戻ってきたのは新沢と二人の生徒だった。男子と女子は大量の本が入ったビニール袋を両手に持っていた。
「豊漁豊漁。さぁ帰るわよ」
来た時と同じようにバスは順調に高速道路を走り、二時間半後には鯉泉に入った。出発した時はあんなに明るく希望に満ち溢れていた校庭も、帰ってきた時は真っ暗で荒涼とし、見ているだけで気が沈むほどだった。バスから降りた生徒たちは即解散となった。
たった一日離れていただけなのに鯉泉は懐かしかった。秋の刈り取りが終わり、スズメも寄り付かなくなった田んぼは茶色く平らになり、来年の田植えに向け静かに力を蓄えている。幼稚園児が芋掘りをしたばかりの畑に影が落ち、穴を実際以上に深く見せる。今にも沈もうとする夕日は山々の輪郭をくっきり浮かび上がらせる。空は青から橙、夜の藍へと変わり、星々がちらつく。商店街の街灯が瞬き、人々に何度も踏まれた石畳がとろみを帯びた輝きを放つ。電信柱のカラスがけたたましく鳴き静寂を破り、神社の鳥居に向かい飛んでいく。
稲刈り後の香ばしい匂い、掘り返された土の湿った匂い、商店街に漂うコロッケやラーメンや湯けむりの匂い。それらが秋風に乗りどっと押し寄せ、観光地から帰ってきたばかりの若者たちを郷愁で包む。
時尾たち寮生は調理が始まった食堂から漂う匂いで、寮に入る前から帰ってきたなと実感した。
「おかえりなさい!」とラウンジで明るく出迎えてくれたのは、一年生の西村明音だ。時尾はそのままラウンジに残り、次々と下りてくる先輩や後輩にあいさつし、特にお世話になっている人にお土産を手渡す。そうこうしているうちに夕食の時間になった。油が少ないあっさりしたものばかり食べてきた二年生たちは、若者向けの食堂のありがたみを身をもって知るのだった。
いつの間にか鯉泉が第二の故郷になっていた。ここが気に入っている人にとってもそうでない人にとっても、それは偽らざる事実だった。
修学旅行後の最初の土日は穏やかではなかった。
家で大人しくしていたのは一真だけだろう。彼は休みの日も家の仕事を手伝った。そうせざるを得なかったからだ。しかし心境には変化が生じていた。
彼は修学旅行を大いに楽しもうと決めていた。仲間たちと観光地をめぐり、夜は消灯時間を守らず、他の男子と一緒にカップルをからかってみたりした。それが性に合わないという反省が今の彼に落ち着きを与えた。自分に課せられた仕事を黙々とこなすことが今の彼には一番必要だった。
熱愛中のカップルは一日たりとも離れ離れになりたくない。歩は柚葉が日暮市から帰って来たその日、校庭で彼女を迎えた。二人は校舎の連絡通路の外にあるベンチに座った。柚葉が話し、歩が聞いた。翌日も学校で会い、土日もセミールで時間を潰した。旅行前と同じように。
二人の間にはまだ体の関係がなかった。歩は人目を忍ぶようにして、喫茶店のテーブルの下で彼女の手を握るか、隣に座り肩を寄せるぐらいで、唇さえ交わそうとしなかった。二人ともそれだけでは物足りなかったが、行く所まで行く思い切りの良さもなかった。そんな状態が続くと、自分のせいだけでなく相手のせいを疑うようになった。
歩は一年後輩だ。肝心なことは先輩がリードすべきではないか。
柚葉は女子だ。恋人として為すべきことは男から為すべきではないか。
部活を二日も休んでしまった渚は、なまった体の調子を取り戻そうと陸上の練習に励んだ。スポーツの秋。部員たちは万全の体調で練習に挑めることが嬉しかった。懸命に走り、跳び、お天道様の下で汗を流し、空きっ腹を抱えて家に帰り美味しいご飯を食べる。そんな生の実感は彼らが生きる糧になった。
もちろん部員たちにも打算や思惑がある。渚だってスポーツ推薦を取り安心して走り続けたい。しかしもし次の大会でいい成績を収められなかったらどうなるか。怪我をしたら? 学力で受験する可能性を完全に捨ててもいいのだろうか。彼女の屈託ない笑顔の裏側には人生の悩みと迷いも隠されていた。
彼女が尊敬する陸上部の部長でさえ、受験を控え練習に毎回顔を出せなくなった。その三年生の男子は放課後、図書室の椅子に座り校庭の練習を見守りながら勉強した。あの頃に戻りたい、スポーツで芽が出ればよかった、後輩には自分のように後悔させたくないと思いつつ。
十一月中旬の晴れた気持ちの良い日。彼は校庭から聞こえる運動部員の声を聞くと血が騒ぎ、後輩たちにあいさつだけでもしようと思い、勉強を早めに切り上げた。
「あっ、先輩だ」
「部長お久しぶりです!」
部員たちは今でも自分を慕ってくれる。勉強ではこんな落ちこぼれなのに。彼は感激し心を動かされた。それに一人での孤独な戦いにも疲れていた。
練習後、彼は特に熱心で将来有望な渚に声をかけ、一緒に下校した。
「勉強の調子はどうですか」
「それが思うように進まなくて。部活ばかりで基礎をおろそかにしてたツケが回ってきたよ」
「部長でさえ!? なんだか不安になってきました」
「きみは運動で突き抜けるものを持っているから大丈夫。おれが太鼓判を押すよ」
「ありがとうございます」
部員と話をするのが久しぶりだからか、あるいは単純に汗をかかなかったからか、部長は以前ほど快活でも雄弁でもなかった。渚から聞かれたことに答え、やっと自分に関することをぽつりぽつりと話したかと思うと、何倍も質問を返す。その対象は部活や部員という全体から、渚という個人に絞られてくる。
「次の部長には、実力も人柄もきみがふさわしいと思う」
「私なんかが……」と渚が謙遜すると、部長は急に饒舌になり、口を極めて彼女を褒めそやした。最後は「おれはずっときみのことが好きだった」という言葉で締めくくった。
渚はぽかんとし、他人事のように「それってもしかして告白ってやつですか」と口にした。
「そう思ってもらいたい。きみはぼくをどう思う?」
彼女は一度も恋愛したことがなく、誰かを好きになること、ましてや誰かから好かれることなど思いも寄らなかった。
「それで、なんて答えたの?」と、柚葉が翌朝の教室で聞いた。
「私には分かりませんって。そうしたら、ゆっくり考えてほしい、クリスマスまでには結論を出してほしいって言われたの。ねえ、人を好きになるってどんな感覚なのかな?」
一真と共に教室に入ってきた陽太が口を挟んだ。
「おっ、渚が恋愛相談か。明日は雹が降るな」
「ちょっと真剣なんだから茶化さないでよ」
「自分の思いを相手に伝えないと胸が破裂しそうで我慢できない、って感覚じゃないかな」と一真が言った。
「お前って誰かに告白したことあんだっけ?」
「中三のころにな。気味悪がられたけど」
「そこまで思い詰めたら相手もプレッシャーだろ。おれみたいにもっと頻繁にガス抜きしないと」
「先輩に告白されてから何か変わった?」と柚葉。
「私にとって部長はずっと憧れの存在だったのに、手が届く身近な人になって、戸惑っている。私が考えていたような人と違ってて。それがいいのか悪いのか分からなくて」
「分かるわ。でもそれは仕方ないことよ。近づけば相手の長所も短所も余計に見えてくるから」
「経験者は語るねえ」と陽太。
「クリスマスまでってのはちょうどよかったんじゃないか。それまでゆっくり考えて結論を出すといい」と一真。
ホームルーム直前になって時尾が登校した。寮生ならではの荒業だ。すぐチャイムが鳴り、担任の新沢えりかもやってきた。
「はいはい静かに。十一月はもう何も行事がないけど、風邪とか失恋とかに気をつけて生活するのよ」
「ミセス・アラサワはどっちの心配もなさそうですね」と陽太。
いつもの新沢ならば「うっさいわね」と元気よく返すが、今日の彼女はゆううつそうにため息をつくばかり。
「先生どうしたんですか?」と、修学旅行中に面倒を見てもらった女子が聞いた。
「それがねぇ、もうすぐ私の誕生日なの」
「おめでとうございます」
「ちっともめでたくないの。二十代が終わっちゃうから」
ざわついていた教室が水を打ったように静まり返る。
「……あんたたち、ご愁傷さまって思ったでしょ」
午前の授業が終わり昼休みになった。時尾は玄関まで弁当を取りに行く。彼は早乙女蘭と笹原直人の後ろに並んだ。
「時尾くん。一緒に食べようか」と直人が誘った。蘭も頷いたので、時尾は「それでは」と返事をした。
三人はそのまま靴を履き替え校庭に出て、食堂のテラス席に移動した。彼らは日当たりが良すぎるせいで空いている席に座った。
学校の敷地を取り囲む黒い塀の内側に植えられた桜の葉は、晩秋を迎え黄から赤へと移り変わり、芝生の上にひらりひらりと落ちる。花とは違う鮮やかな色で見る人の目を楽しませる。春と同じようなそよ風が渡るが、それが冬を迎えようとしている人に与える印象は大きく異なる。
「しかしもう鯉泉に来て半年以上になるのか。早いね」と直人がしみじみと言った。
「早いけど、いろいろあったわね」
「ぼくにとっては激動の半年だった。この半年で起きた心境の変化は過去数年分ぐらいかも」
「私から見ても大変そうだったわ」
「それでもぼくは一周して元の道に戻ってきた。歩む道は変わらないけど歩む目的が変わった。ぼくは勉強して進学する。親に言われたからではなく自分で考えて生きるために。大学で何かを掴むために」
太陽が真上から西に傾き始め、三人の弁当が置かれた白いテーブルを眩しく照らす。反射を直に受ける直人は蘭の隣に移る。
「無事この道に戻れたのは時尾くん、そして何よりきみのおかげだよ」と、直人は蘭の顔を見ながら言った。
「まだ誰にも言ってなかったけど、私たちもう付き合っているの」
時尾は聞こえたことを示すため静かにうなずいた。
直人と蘭の間には熱愛中らしい様子は微塵も見られない。日傘の下に自然と寄り合い、それが長引き、無理に離れる理由もなくなった男女。そんな印象だ。
口止めされなかったが、時尾は蘭と直人の交際を自ら誰かに話すつもりはなかった。
弁当箱を直接食堂に返した後、時尾は五時間目の授業がある化学室に向かった。修学旅行以降、一部の男子生徒の間で佐伯の人気が急上昇中だ。普段は白衣にメガネでおしとやかな印象なのに、旅館では浴衣を着こなし鋭い眼光でサーブをし、そのギャップで年上好きの男子のハートを射抜いた。一真に至っては、夏休み中に水着姿まで拝んでいるのだから、夢中になるのも無理はない。
彼は、慣れた手つきで数種類の溶液を調製し、試験管に慎重に注ぐ佐伯を見ながら、「理沙ちゃん、たまんねえよな」とつぶやいた。
「お前まさか胸が破裂しそうなんじゃあ?」と陽太。
「我慢しすぎてガスが漏れそうだ」
数学の風間慎二が佐伯にアプローチを試みたが失敗したという噂は一真に希望をもたらした。陽太はいつか本当に近くで爆発されては困るので、面白半分にこう聞いた。
「クリスマスにコクっちまえば?」
「バカっ。相手は先生だぞ。生徒と交際なんてバレたら懲戒免職処分だぞ。わいせつ行為なんて言われ、社会的な信用を失い、再就職できなくなるぞ」
「そこまで考えてたのかよ……」
放課後には英語部の部活があった。受験前の三年生を除き、全員が参加した。
顧問の新沢はしきりにため息をつき、部員にプリントを配布する。それには各国のクリスマスの風習がイラストや写真入りで解説されていた。
「皆さんのクリスマスの過ごし方や予定を教えて下さい」
みな似たりよったりだが、夜に何を食べるかは各家庭によって分かれた。ピザやチキンをテイクアウト、ホットプレートで焼き肉、高い黒毛和牛を買ってすき焼き、カニ鍋パーティー。もちろんケーキは欠かせない。
「昔はケーキやプレゼントが純粋に楽しみだったんですが、もうあのころには戻れませんね」と、二年生の女子が言った。
「それはあなたたちが大人になったからよ。これからいい恋人を見つけ、家庭を築き子供ができれば、また違った楽しみができるはずよ」
陽太がいれば、結婚したこともないのによく分かりますね、とツッコミを入れることだろう。時尾はそう思い、プッと吹き出してしまった。
新沢は見咎め、「時尾くんの予定は?」と聞いた。
「未定です。でも今年は何かいいことがあるのではと期待しています」
彼はそう言い終えると、さり気なく桜庭多枝に目を向けた。彼女はプリントに目をやっていたが、彼の視線を感じたようで、ほほ笑みを浮かべた。
部活が終わった。新沢はブルーな顔で職員室に戻った。
来週で三十になってしまう。彼女にとっては人生の一大事だが、それで周囲の何かが変わるわけではない。同僚たちは普段通り自分の仕事に追われている。小野寺大輔は他校の生徒とケンカした男子を叱り、教頭の石川は数人の教職員を集めミーティングを行っている。親友の理沙はまだ体育館で部活を指導中だ。
鯉泉で一人寂しく誕生日を迎え、クリスマスをやり過ごす。それでいいのだろうか。
「来年度まであと四カ月ちょっとあるのか」
対面の席に腰を下ろした風間慎二がそう言った。新沢は、時間の計算の仕方が自分と彼とでは違うと思った。風間には少なくとも首都に帰れるという希望がある。自分は鯉泉で何も手にしないうちにまた一つ無駄に歳を取ろうとしている。
「そう言えばそろそろ誕生日なんだって?」
「ええ。あなたは先月だったそうね。どう、三十代の気分は?」
「悔やんでいるヒマはない。あっという間に四十代になるからな」
「まったくその通りね。歳を重ねるほど時の流れが速くなって嫌になるわ」
「新しい出会いや新しい体験を求めなければ毎日が同じ無感動な日々になる」
「どうせすぐ歳を取るんだから、何かしら地道にコツコツ積み上げていかないと」
「きみはそれだけで満足なのか?」
「だって仕方ないじゃん」
「鯉泉にいるからって諦めてないか」
「そういうわけじゃないけど」
「おれは鯉泉のせいにはしても諦めはしないぞ。それは自分の意志次第だから」
「だから理沙ちゃんに接近しようとしたのね」
「鯉泉にいる残りの時間を無駄にするつもりはない。一つでも良い思い出を作りたい。おかしいか?」
「べつに。理沙ちゃんが軽い女じゃなかったのが残念ね」
「彼女はしっかりした人だ。おれが悪かったと思ってる」
「そう」
「ところで誕生日は予定あるのか」
「唐突に何よ」
「あるいはクリスマスでもいい。一緒に過ごさないか」
「結構です」
「きみとなら首都に戻ってもいい関係を続けられると思うんだが」
「私たちは別タイプの人間よ」
「だからといって合わないとは限らない。試しに付き合い、様子を見るのはどうだ」
「お断りします。それに私、鯉泉に残るかもしれないし」
「はぁ?」




