十月
夏休みボケがようやく解消されたかと思えばもう秋で、十月中旬には中間テスト、最終日には二年生の修学旅行が予定されていた。
旅行先は毎年、日暮市と決まっている。小中学校のうちに首都や古都に行ってしまうのと、海外旅行するほどの予算もないので、なんとなく近くも遠くもない日暮に落ち着いている。
六時間目。二年の各クラスでは旅行に向けた話し合いが行われた。五組担任の新沢えりかはテンションが低かった。
「なんでわざわざ実家を旅行しないといけないわけ?」
「えっ、新沢先生の実家って……」
「日暮。日が暮れるところ。名前からしてジジ臭いでしょう」
日暮市は世界遺産に登録された「日暮西照宮」を始めとする神社仏閣が有名で、近年は外国人客の姿もちらほら見られる、国際的な観光都市だという。
「なにが都市よ。鯉泉よりも過疎ってるぐらい」
「じゃあ地元の人はどう生活してるんですか」
「観光業に従事するか、私みたいに外に出るかよ」
「だからミセス・アラサワは鯉泉に馴染んでるのか」と陽太が納得した。
一泊二日の旅行は大型バスでの移動や宿泊を除くと、グループ別の自由行動になる。
「じゃあサクッとグループを作っちゃって」
もちろん、時尾、渚、一真、柚葉、陽太が一緒になった。他の生徒のほとんども事前に決めていたようで、最後に友達が少ない目立たない男女が一人ずつ残った。
「よし。あなたたちには特別に、私が地元民オススメのスポットを紹介するわよ」
それからは各グループに分かれて行動計画を立てた。一真はアンドー書店で買った、日暮市のガイドブックを持ってきていた。
「真面目な本もいちおう売ってるんだな」
「シッ、静かに」
彼らは地図で滞在先の旅館の位置を確かめた。旅館から日暮西照宮の門前まで続く参道の両側には、土産、料理、スイーツ、工芸品などの有名店が建ち並び、星マークがいくつもついている。
「事前に細かく計画を立てすぎるとつまんないから、行くとこだいたい決めて後は適当に歩けばいいんじゃない?」と渚。
「そうだな。若者にとって刺激的な観光地じゃないんだし、ゆっくり羽根を伸ばそうぜ」と陽太。
「じゃあ必ず行きたいところをピックアップしましょう」と柚葉。
このような話し合いが一時間で終わるわけがない。各組の担任は生徒の自主性に任せることにして、職員室に引き上げた。
教頭の石川昌彦は職員用の掲示板の前に立ち、「下見には誰が行きますかな」と聞いた。
「おれたちはもう何度も行ってるから、新しく来た若い先生たちにお願いしましょうか」と小野寺大輔が言った。
「私は実家なんでパスします」と、新沢が先手を打って言った。
「下見は生徒の安全確保に向けた大切な仕事なんですよ。実家だからって油断している新沢先生が一番危ない。優先的に行ってもらいます。それから風間先生と佐伯先生も初めてですね。その三人でいいでしょう」
三人は職員室の片隅に集まった。
「あーあ、厄介なことになっちゃった」
「遊びじゃないけど、授業を休んで行けるんだからいい息抜きになるでしょ」
「佐伯さんに続いて、新沢先生にも実家を案内してもらうなんて奇遇だな」
「美人教師二人と行ける幸運に感謝しなさい」
「じ、自分で言うか……」
新沢は、「ところであなたたち二人はどうなってるの?」と二人に聞いた。
「ど、どうって?」
「べ、べつに何もない」
「べつにって」
「あぁいや、そういうわけじゃ……」
「下見の当日、わたし風邪でも引こっか?」
「だいじょぶだいじょぶ!」
「気を遣わないでくれ」
やっと話し合いが終わり、一真、柚葉、陽太、それから珍しく部活が休みの渚の四人で一緒に下校した。陽太がまたコロッケを買いたいということで、肉屋の行列に並ぶ。
「前の日曜にこのへん歩いたら、風間が佐伯と一緒だったな」
一真が顔を曇らせた。
「なん、だと」
「平日でもないのになんで風間が、って思ったんだけど、佐伯と仲良さそうにラーメン店に入ってったぞ」
「そういえばその日の午後、セミールでバイトしてたら、二人で玩具売場を歩くのを見たわね」と渚。
「玩具? まさか……あっ、おばちゃんコロッケ六個!」
「おれはいらない」と一真。
「私も」と柚葉。
「じゃあおれが三個で、渚は」
「二個!」
「はいはい。いま揚げるから待っててね」
「もしかしてあの二人付き合ってるのかしら」と柚葉。
「あり得るわね。赴任先でのロマンス。よくある話よ」
「それよりさ、時尾のほうが実際怪しくね?」
「そ、そうだそうだ。うちの温泉に連れてきた女子がいるだろう」
「柚葉みたいにラブラブって感じじゃないけど、どっちも落ち着いていて、お似合いだったわ」
「実は個人的に聞いてみたんだけど、部活とバイトがたまたま一緒なだけだって」
「コロッケ五個お待たせ!」
「アチチ! 口の中が火傷しそうだ」
「久しぶりに食べるとまた格別ね!」
寮の二年生の間でも修学旅行が話題になっていた。ラウンジでくつろぐ寮生は、期待外れの旅行先だと口では言っても、やはり今から楽しみな様子だった。
その前に中間テストがある。学年を問わず、それは今の鯉泉高校の生徒にとって優先事項だった。
「やばいやばい! 授業中に寝てたから出題範囲ぜんぜん分かんないよ。ねえねえ、ノート写させて!」
西村明音は一階の右の階段前に立ち、同学年で話せる仲の女子に片っ端から声をかける。しかし彼女たちもこれから対策が必要なので貸すわけにもいかない。ラウンジに明音の必死な声が虚しく響く。
彼女は時尾が学校から帰ってきたことに気づくと、彼にしがみつき、頼み込んだ。
「どの教科が分からないの?」
「ぜんぶ。ぜんぶ教えてください」
「弱ったなぁ……」
その時、早乙女蘭が上から下りてきた。彼女はしばらく明音と時尾の様子を見てから、こう言った。
「実は直人くんの遅れを取り戻すため、私が勉強を見てあげることになってるんだけど、いっそみんなでやることにしたらどう?」
「勉強会か、いいですね。いつやります?」
「都合がつく日に自由参加で。今は涼しく快適な季節だからキッチンが使えるわ」
その日はバイトがなかったので、時尾は夕食後に歩も誘い、蘭の誕生日を祝った一階のキッチンに入った。蘭は直人に熱心に指導中で、明音は手持ち無沙汰でボケっとしている。
「待ってました! 歩くんのノート見せてよ」
五人はしばらく己の勉強と向き合った。直人は時々苛立たしそうにため息をつき、蘭は一学期の内容から根気よく教え直す。
「足を引っ張ってごめん。きみの成績が落ちたら申し訳ないよ」
「いいのいいの。私だけがいい点数をとってもしょうがないわ」
「ふう! これでだいたい写し終わった」
「それで、内容は頭に入った?」
「ぜんぜん。あの、これってどういう意味ですか?」
歩は勉強に集中できず、どこか上の空で、しばしば窓の外を見る。
「手が止まっているじゃないか。どうしたの?」と時尾が聞いた。
「いえその、まだ気が早いですけど、進学先どうしようかなって」
「鯉泉に戻ってきて、彼女とゴールインしたいんでしょう」と明音。
「そうなんだ。親を説得して今宮大学を受験するって言ったら、そんなことはやめてほしい、私のために犠牲にならないで、だってさ」
「あー、それは本音かも。彼女からしたら重いもんね」
「じゃあぼくと別れることになってもいいのかって聞いたら、泣き出しそうな顔になって」
「どっちも本音よ。だから苦しいのよ」
「ちょっと、時間がもったいないから集中しましょう」と、蘭が注意した。
時尾は明音に歩のノートから書き写した内容を解説する。教えてもらえれば飲み込みが早い明音は「なるほど」としきりに頷き、メモを加える。歩はまだ解けない難問に挑もうとしている。
「ふぅ。おかげで一人で勉強をやり直す目処が立ったよ」と、直人が久々に口を開いた。
「分からないところがあったらいつでも聞いてね」
「早乙女先輩って面倒見がいいですね」と明音。
「おせっかいなだけよ」
「きみのおかげで周りの人が助かる。本当にありがとう」
蘭は少しだけ顔を赤くし、「誰にでもおせっかいなわけじゃないけど」とつぶやいた。
「あら早乙女先輩ってやっぱり……」と、明音が時尾に小声で聞いた。
「笹原先輩の今後に期待だな」
勉強会はテスト直前の土日まで続いた。時尾は夜遅くバイトから戻ってくる時、必ずキッチンに顔を出した。彼らのやり方にならい、別の寮生もそこを利用した。明音は誰からもよく吸収した。蘭と直人は常に隣り合って座った。歩は部屋で悶々とするよりはと参加するが、やはりテスト対策がはかどらない様子だった。
「どっちを選ぶにしても勉強しておくに越したことはないよ」という直人には効いた時尾の助言も、歩にはまったく効果がないばかりか、逆に焦らせるほどだった。
「そんなこと分かってます、分かってますって……」
テストは数日であっさり終わり、その翌週には結果が出た。地頭のいい明音は付け焼き刃でめでたく全教科平均点を取り、基礎がしっかりしている直人は前ほどではないが点数を取り戻した。蘭は直人に教えたことで自分も学び、トップクラスを維持した。普段から勉強を楽しんでいる時尾も成績が良かった。歩は可もなく不可もなくで、心の迷いが出た。
「英語赤点だった。担任なのに容赦ねえよな」と陽太。
「なんか化学の点数がすごく上がってた」と一真。
「私は今回も赤点を華麗に回避! 心置きなく修学旅行を楽しめるわ」と渚。
「そうね。受験前の残り少ない楽しい学校行事だから大切にしましょう」と柚葉。
十月最終日。朝早くから鯉泉高校の校庭に大きなバスがずらりと並んだ。のたうち回るヘビのようなタイヤの跡が地面につき、辺りには砂埃が立ち込めている。二年生は先生たちに率いられ、バスにゆっくり乗り込んだ。バスはヘビのように連なって学校を出たが、高速道路に入るころにはちょうどいい具合に分散した。
平日の高速道路は順調で、二時間半ほどで日暮インターチェンジを出た。観光街でもある参道に入ると、行楽客の車で混雑したが、十一時半には宿泊先の大きな旅館に入ることができた。フロントで先生たちがチェックインし、各部屋の代表者がルームキーを受け取り、全員で部屋に入り荷物を置き身軽になる。時尾たちの五人組は十二時半過ぎに旅館前に集合した。
「まずは食べるところを探さないと」と時尾が言った。
「日暮に来たんだから、ファミレスでご当地限定の料理を食べようぜ」と陽太。
「どうしてその発想になるの……」と柚葉。
「せっかく小遣いを貯めておいたんだから贅沢しよう」と一真。
彼らは参道を歩いた。一階建ての木造の店が建ち並び趣深い。その多くが土産店で、どこの観光地でも買えるキーホルダーや模造刀、それから日暮でしか買えないお盆、木の小物入れ、染め物などを店先に並べている。時尾たちのような修学旅行生や、紅葉を観賞に来た高齢の夫婦などが足を止める。
「お腹すいたー。お昼ごはんまだ?」と渚。
「西照宮のほうに歩いていけば何かしら食べられるはずだ」
一真のその言葉どおり、道沿いにはカフェ、茶屋、料亭、レストランなどが増えてきた。どこも分かりやすく入口付近にメニューを置くか、商品名と価格を書いたボードを立てている。
「湯葉ランチで二千円超え。若者向けじゃないわね」
「だろ? やっぱコスパがいいファミレスだな」
「あそこの食堂はどうかしら」
湯葉ラーメンと湯葉カレーが有名な店らしく、料金も千二百円ほどと周囲の店よりは良心的だ。彼らは狭い階段を上り二階の窓際の席に座った。そこからは参道を一望できる。白髪、帽子、茶髪、金髪、むき出しなどの頭が左右に揺れつつ、紅葉で燃えるような山に佇む西照宮を目指す。人々の喧騒から距離を置き、山から吹き下ろすそよ風を感じつつお冷を飲むと、やや古くみすぼらしい店でも贅沢な気分になれる。
「おい、佐伯と風間がいちゃいちゃしてんぞ」と陽太が一真に言った。一真は窓の外に目を向ける。二人は路傍に立ち、鯉泉高校の学生服を着た生徒に気を配りながら、旨そうな湯葉豚まんを頬張っている。
「風間先生、うちの新沢先生とくっつくかと思ってたけどね」と渚。
柚葉と時尾はラーメン、一真はカレー、渚と陽太は両方のセット。カレーは湯葉のおかげでとろみとコクがあり、きのこや玉ねぎなどの具材とマッチする。ラーメンはチャーシューの代わりに大きな湯葉と温泉卵が存在感を放ち、スープの味をマイルドにする。
「半分も食べないうちに飽きてきちゃった」と柚葉。
「カレーもまぁ正直、普通に豚肉のほうが美味いな」と一真。
「観光地メニューなんてそんなものだろう」と時尾。
「なっ、なっ? 明日はファミレスにしようぜ」
「あんがい陽太の言う通りにしたほうがいいかもしれないわ」
五人は店を出て散策を続けた。すぐに飽きたから気付かなかったが、さっきのランチは量が少なく、早くも物足りなくなってきた。甘いものに目がない柚葉は、和菓子店の裏にある工房の煙突から漂う甘い香りに気づいた。
「ちょっと早いけどお茶にしましょう」
彼らは大きな赤い傘が設置されたテラスの床几に座り、抹茶と二種類の和菓子のセットを注文した。くず餅、水まんじゅう、羊羹、きんつばなどの上品な甘みと香り、それによって引き立つ抹茶のまろやかな苦みがスープやカレーの出汁の味を払い、舌先のざらつきを取り戻した。
「なんかプチセレブって感じね」
「和菓子ってこんなに美味しいんだ。知らなかった」
「抹茶って意外と飲みやすいな」
「和菓子か。風呂上がりにも悪くないかもしれない」
彼らが感想を語り合う間、時尾は担任の新沢が二人の生徒を連れ、山の方から下りてくるのを目にした。
「まったくどこに行ってもすごい人出ね」と、新沢が男子と女子に言った。
「ねえ、他にどこか行きたいとこある?」
「い、いえ」
「べ、べつに」
「若いのにつまらないわね。じゃあ今日はこの辺りを適当に歩くことにして、明日は私が行きたいところに行くってことでオーケー?」
「は、はい」
一泊二日の旅は短い。時尾たちは今のうちにお土産を買っておくことにした。食べ物だけでも、行列ができるプリン、香ばしくしっとりしたカステラ、あんこにこだわった最中、地元産の高級卵をふんだんに使ったバウムクーヘンなどバラエティ豊富だ。女子たちは家族に贈るお菓子を、男子たちは自分の記念にするキーホルダーなどの小物を購入した。
五時前。西照宮の正門「清明門」は落ち行く夕日を浴び、黄金色の光を反射し、山の赤・黄・緑を花火のように明るく照らしている。山全体から神々しい光が降り注ぐ参道は銀色の川となり、たおやかな曲線を描きつつ観光客を運ぶ。参拝を終えた鯉泉高校の生徒の顔には厳かな影がかかる。時尾たちは彼らと合流し、旅館に戻った。
「夜ご飯の前にお風呂に入りましょう」
「賛成!」
旅館は鯉泉高校の貸し切りで、生徒や教職員たちは他の宿泊客の迷惑になる心配なく、滞在を楽しむことができた。いつも学校で制服姿で会う面々と裸で温泉に入り、浴衣姿で館内を散策するだけでも新鮮だった。
温泉はさすがに二年生全員を収容するほどの広さはなく、時間を決めクラス別に入ることになった。時尾たちの五組は食事前の六時からだった。
「ふじた温泉以外の温泉に入るのひさしぶりだな」と、陽太が更衣室で言った。一真は掲示物に目を向け、「おれもそうだ。どれどれ、泉質は……」と調べ始めた。
更衣室から露天風呂に通じる戸を引くと、時尾たちは異様な光景を目にした。裸の男たちがぴくりとも動かないのだ。連山の間から漏れる余燼に照らされる濡れた体は、噴水や泉の周りに置き忘れられた石像のよう。
「おっす。いったいなんのマネだ?」
「シーッ!」
陽太は男たちの殺気立つ目に驚いた。ある男子はウサギのように両手を耳に当てることで、新しく入ってきた三人に注意を促す。やがて彼らにも理由が分かった。御簾垣の外に広がるうっそうとした竹林の奥から、女子たちの声が聞こえてくるのだ。
「開放的でいい気持ち!」と、ひときわ大きな声を上げたのは渚だ。
洗い場、湯船の縁、岩陰で石化していた男たちは同時に唾を飲み、喉仏を上下に大きく動かした。
柚葉の小さいが高くよく通る声が続く。
「お湯がとろっとしていてお肌によさそう」
先に入っていた女子たちも会話に加わる。声が重なり、男子たちには自分が好きな女子の声しか判別できない。男子に聞こえないと思っているのか、女子の話の内容がだんだん過激になっていく。
「クラスの男子のことどう思う?」
「あんまイケてる人いないね」
「千葉くんかっこいいじゃん」
「スポーツやってるからいいお尻してるよね」
岩にしがみつき動けなくなっている千葉の尻を誰かが濡れたタオルでピシャリと叩く。千葉と男たちは忍び笑いをする。
「私は遠藤くんが好きかな。かわいくて、弟みたいで、母性本能をくすぐられるわ」
「私は松本くん。顔は普通だけどユーモアがあって優しいから」
「綾ちゃんって遼くんと付き合ってるんでしょう。今夜どうするの」
「なんだったら私たち別の部屋に泊めてもらうよ」
「ありがとう! 本当に助かるわ」
「ちゃんとゴム持ってきた?」
「ううん。そういうのって男のほうが準備するものじゃないの?」
「バカね。男なんて無責任なんだから」
「お前、持ってきたのか?」
「くるわけないだろう」
「絶対につけさせること。どうせ我慢できないんだから」
「遼くん早そうだしね」
ガララ!
「馬鹿に静かだな! 悪いことを企んでるんじゃないだろうな」
「ぎゃあ!」
「うっそ石川じゃん」
「てか声筒抜けだし!」
「その声は田中だな。先生を呼び捨てとは聞き捨てならん」
石川昌彦の後に続いて入ってきた小野寺大輔は、「まあまあ旅行中ですし、大目に見てあげましょう」となだめた。石川は「フン」と鼻息をつき、体を洗い始めた。
再生ボタンを押したかのように男子たちが動き出した。ずっと湯船に浸かっていた連中はゆでダコのように全身が真っ赤になった。くしゃみをこらえていた時尾たち三人はやっと風呂に入り、両手両足を伸ばしてくつろぐ。
「あれ? あれ?」
「どうした陽太」
「おい、石川がシャンプーしてるぞ」
「それがどうした?」
「地毛だったのかよ!?」
男風呂がどよめき、全員が石川の頭を見る。シャワーで泡を落とした髪は濃く、黒々としている。彼は唖然として自分を見る男子たちに「何か問題でも?」と聞いた。
あるお調子者の男子は、「石川先生の髪はヅラだと思ってました。すみませんでした」と正直に謝った。裸の石川にはそれがこの上ない賛辞に聞こえた。
「決めてかかると思わぬ大失敗をする。いい教訓になったな」
生徒たちは部屋で浴衣に着替え、一階の畳敷きの大広間に集まった。五組はさっきの温泉の出来事で無礼講になった。彼らは男女やグループの区別なく入った順に着席し、偶然隣り合った人と同じ話題で盛り上がった。
「あ、あ、マイクのテスト中」
「いいぞ大ちゃん!」
小野寺がマイクを握り、堅苦しい挨拶をした後、食事が始まった。夕食はまた湯葉や豆腐を使った地味な料理だったが、どれも丁寧で上品な味がした。高校生たちは日常生活ではめったに食べられない御膳に舌鼓を打った。
「アアッ、ウンッ、えー、これから座興に入る。誰か歌いたい者は?」
石川に急に変なことを聞かれた生徒と教職員一同は食べながら彼を見守る。
「始まるぞ、石川先生の十八番」と、小野寺が隣の新沢に言った。
「仕方ないな。ではまず私が一曲歌わせてもらおう」
石川の昭和演歌メドレーは一時間近く続いた。誰も真面目には聞かなかったが、温泉旅館にぴったりな「日本のこころ」に触れたことと、地毛に続き石川の意外な一面を見れたことが良かった。それにこぶしが効き、かなり上手で、演歌はおおむね好評だった。
「ふだんからもっと愛想よくすればいいのに」と生徒たちは思った。
宴は八時半ほどで解散となった。消灯時間は十時でまだ時間がある。生徒たちは慣れない下駄の音を響かせ、一階ロビーの奥にある卓球スペースに集まった。
「おっ、これを見ると条件反射で体が動くのよね」
卓球部顧問の佐伯理沙は袖まくりをし、白くきれいな二の腕で髪を後ろで結び、ラバーがすり減ったラケットをつぶさに調べた。
「顧問をやってるだけでなく、実際にできるんだ?」と、風間が聞いた。
「これでも元国体選手よ」
日中に何があったのか知らないが、佐伯はまったく手加減しなかった。鋭い眼光で風間を睨み、キレの良いサーブをバンバン打ち込み、かすらせもしなかった。風間がなんとか返しても、スピンやカーブをかけて打ち返し、技術で翻弄した。
「す、すげえ」
「佐伯先生かっこいい」
「相手にならないわね。次!」
誰も彼女の敵ではなく、卓球部員でさえ歯が立たなかった。
「お前が行けよ」と、一真が陽太に促した。
「お、お前こそ」
「面倒くさいわね。二人まとめてかかってきなさい」
二対一の戦いが始まった。素人が束になったところで意味がなく、一真も陽太も佐伯が打つ球にまったく反応できなかった。
「おい、今の見たか?」と陽太が一真に聞いた。
「う、うぅ……」
「隙あり!」
佐伯は膝を曲げ腰をかがめ、一瞬だけ対戦相手と目を合わせ、脇を締めつつ奥の利き腕を前に送り出す。その瞬間、二つの程よく熟した果実が揺れ、着崩れてきた浴衣の胸元からこぼれそうになった。
球は一真の鼻に直撃した。それが最後の一押しになり、鼻血が噴出した。
「先生ちょっとタンマ! 一真が大変です!」
一真が佐伯の膝枕で昇天している間、時尾は一人で館内を散策していた。ロビーの隣にはお土産コーナーがあり、日暮限定フレーバーのお菓子などが充実している。時尾はフルーツ牛乳を買い、それを飲みながら中庭に出た。
回廊に囲まれた広い庭は灯籠でライトアップされ、木々と岩の陰影が白い砂の上にくっきり浮かび上がり、夜ならではの幻想的な光景が広がっている。時尾は鏡のように月と星の夜空を映す池に浮かぶ飛び石を渡る。下駄の音と共に幼少時代の懐かしい感覚が不意に蘇る。
中ほどまで渡ると、向こうからも人が来た。その人は時尾がいることに気づきながらも避けようとしなかった。
「時尾くん」
「桜庭さん」
二人は池の上で巡り合った。月の光を浴びる桜庭多枝の顔は磁器のように白く、つややかだった。
「一緒に旅行に来たのに、やっと会えたね」
「本当に。今日はどんな一日だった?」
「クラスの友達と西照宮を見てきたの。あなたは」
「おれは明日だ」
「夕方の西照宮は見惚れるほどきれいだった。今も目に浮かぶほど」
「そうか。明日だってきっと美しいはずだ。楽しみにしてるよ」
飛び石の間隔は、浴衣の裾をきつくし下駄まで履いている女子には広かった。時尾は手を伸ばし多枝を助けた。二人は狭い飛び石の上で向き合った。多枝は食後に温泉に入ったばかりらしく、体がまだ火照り、生乾きの髪からいい匂いがした。
時尾は慌てて次の石に移り、さっきよりためらいがちに手を伸ばす。多枝はさっきより慎重にその手を握る。人は手のひらで細やかな感情表現をする生き物だ。池を離れた後も、彼らはその手を放すことができなかった。魔法が解けてしまうのを恐れるように。
二人は回廊の欄干に寄りかかり、真っ赤に燃える楓を見る。時尾はついに熱さに耐えかね手を放した。
「時尾くん」
「なに?」
「……なんでもない」
「あの」
「うん?」
「きみと二人きりになれて本当に良かったよ」
「ありがとう」
消灯時間の十時になった。生徒たちは一応自分たちの部屋に戻った。教職員は各部屋の見回りと点呼を終え、自分たちの部屋に引き上げた。
新沢と佐伯は相部屋だった。二人は広縁の椅子に座り、ようやくビールで乾杯する。疲れのために少し飲んだだけで酔いが一気に回る。
「ねえねえ聞いてよ、風間先生ったらねぇ」
「どうしたの?」
「ずっとどこか上の空なの。鯉泉や日暮で何を目にしても印象に残らず、私が何を言っても右の耳から左の耳へって感じで」
「……でしょうねえ」
「礼儀正しく接してはくれるんだけど、首都が合わなくて田舎に戻ってきた私みたいな人をどこか見下している風で」
「あの人の基準は首都で、心は今も首都に留まっているのよきっと」
「鯉泉のことを少しでも理解しようとしてくれることは嬉しいけど、お互いに無理するよりも、最初から同じタイプの人と付き合ったほうがいいに決まってるよね」
「そういうこと。理沙ちゃんが悪いわけでも、風間くんが悪い人なわけでもないから、あんまり気に病むことないわ」
「あーあ、気が合う男の人とめぐり逢いたいなぁ」
「年齢考えると焦っちゃうよね」
「思い切って転職しよっか」
だが、非現実的なことをいつまでも話し続けることはできず、仕事の話に戻る。
「うちのクラスでグループを作れなかった二人の子がいるの」
「へえ、いじめとか?」
「そんなんじゃないけど、暗くて、内向的で、いつも沈んでるのよね」
「それで修学旅行はどうしてるの?」
「私が案内してあげてる」
「偉いのね。私なら無理に他のグループに入れちゃうけど」
「それはさすがに残酷かと思って。でも担任なんかと一緒で楽しいかしら」
「楽しいかどうかは分からないけど、えりかちゃんの気遣いにはきっと感謝するはずよ。今でなくても大人になってから」
「よし、じゃあ明日は地元民しか知らない隠れスポットに招待しましょうか」




