九月
二学期が始まる前日、寮生が全員戻ってきた。食堂の職員も久々に勢揃いし、豚の生姜焼き、なめこと大根の味噌汁、ほうれん草のごま和えなどを思い出させる懐かしい笑顔で生徒たちを迎えた。
時尾、明音、歩は久しぶりに早乙女蘭、笹原直人と夕食を取った。積もる話があり、食堂内は騒然としていた。
蘭は寮に残った三人に、「夏休み中はどうしてたの?」と聞いた。
「報告があります!」と明音が元気よく言った。蘭と直人はきょとんとし、メガネを外した歩は真っ赤になりながらも笑みを浮かべる。
「歩くんがお祭りで告白に成功しました!」
明音に促され、歩が祭りの日にあったことを話した。
歩と柚葉は神社の境内で花火を観賞した。若い人々は浴衣姿で人混みにもまれるという別の体験を同時に楽しんだ。
「人で一杯ですね」
「そ、そうね」
「はぐれないように、ぼくの手をつかんでください」
歩の中からそんな勇気が湧いて出たのも、柚葉がためらわず異性の手を握ったのも、この非日常のためだろう。彼らは普段の自分のキャラや社会の常識などから解き放たれた。頭上でいくつも美しい花が咲き、その音と匂いで会場の雰囲気を野性的に盛り上げた。周囲から人が押し寄せ、二人の身体が密着した。男は女の、女は男の匂いをかいだ。
「実は先輩のことずっと……」
ドン!
「えっ、なに?」
「ずっと……」
ドン!
「えっ?」
歩は口を柚葉の耳に近づけようとしたが、途中で軌道修正し、頬にキスをした。彼女は避けようとせず、彼の抱擁に包まれた。二人は人の波が引くまで相手の体にしがみついていた。
「ぼくのことを、男らしくて頼りになるって言ってくれました」
「イメチェンのおかげね」と、明音が本人よりも得意そうに言った。
「繊細な子だから、傷つけないよう気をつけるんだよ」
歩の惚気話が落ち着き、蘭や直人の話題に移った。
「私は特に何もなかったんだけど、直人くんの家が大変で」
直人の成績が落ちたという情報は彼の両親に衝撃を与えた。父親は烈火のごとく怒り、母親は過剰なほど心配した。
「お前を信頼した私が馬鹿だった。二学期からは首都に戻れるよう手配しておく」
「この夏休み中に勉強の遅れを取り戻すのよ。家庭教師を雇うから」
「それで、どうなったんですか?」と、無事戻ってきた直人を見ながら明音が聞いた。
「とにかくショックで、気がついたら家を飛び出していた」
直人は宛もなく都心を彷徨った。家、駅、学校の間を最短距離で行き来するだけの日々。彼は自宅周辺に何があるかさえ知らなかった。周囲を行き交う人も彼のような家出少年に目もくれなかった。ふと、鯉泉が恋しくなった。
「結局は家に戻るしかなかったんだけど、あの短い時間が決定的だった。ぼくはついに親の呪縛から解放されたんだ」
親子は初めて喧嘩をした。父はコップや皿を割り、母は気を失いかけ危うくソファーに倒れ込んだ。破壊された秩序。そこから真っ先に立ち直れたのは若い子だった。
「ぼくは一人で生きていく。息苦しくって、もうそうするしかないんだ」
残りの夏休みは冷戦状態が続いた。親子は徹底的な決裂を恐れた。父は子を勘当できず、母は子を拘束できず、子は子でまだ親の保護が必要だった。
直人は携帯ゲーム機とパソコンを駆使し、鯉泉の寮で知り合った友人と遊んだ。勉強はまったく手につかなかった。セミの声も届かない高層マンションの中で時は流れていった。
直人は気づかなかったが、彼の母は一度だけ、外の喫茶店で蘭と会った。蘭は彼について見聞きしていることを伝えた。
「直人くんは急に自由を手にし、戸惑い、迷い、手探りで道を探しているんです。どうかしばらく温かい目で見守ってくださいませんか」
「このまま点数が下がっていったら好きな学部を選べなくなるし、そもそも進学できるかさえ不安だわ」
「それは直人くんが自分の意志で乗り越えることです。とにかく彼を信じましょう」
直人はついに両親と和解することなく再び家を離れた。新幹線と電車を乗り継ぎ鯉泉に入るとそこは別世界だった。人が少ない田舎の夏の風景は彼の張り詰めていた心を解きほぐした。
「今はここがぼくの居場所って感じだ。前の生活にはもう、二度と戻れない」
彼は箸を使い魚の骨を丁寧に取り除く。育ちの良さは否定できない。彼はゆっくり食べ終えるとラウンジに移り、休み中もゲームでつながっていた二人の友人と盛り上がり、夜ふかししてから寝た。
長い夏休みが終わったが夏はまだ続く。小中高生は朝から大汗をかき、寝ぼけ眼をこすりながら学校に通った。
始業初日は生徒指導の小野寺大輔にとって最も忙しい日だ。彼はいつものジャージを着て、全校生徒が避けては通れない玄関前で仁王立ちし、生徒の変化を細かくチェックする。
「男なのにそんなに髪を長く伸ばすやつがいるか。暑っ苦しくてかなわん」
「朝から不機嫌すね。また奥さんにガミガミ言われたんですか」
「夏休み中に今宮の繁華街でおかしなバイトしてるのを見たぞ」
「うわっ、大ちゃんってロリコンだったんだ。奥さんに言ってやろー」
大輔も本気で怒っているわけではない。本音ではできるだけ生徒の自由にさせたい。そのため、うるさい保護者や外部の人間に見せつけるように、こうして厳しいふりをしているのだ。
自分の若い頃と比べれば可愛いものだ。昔はひどい時代だったからな。問題がようやく問題視されるようになっただけ今の世代は恵まれている。彼はそんなことを考えながら、朝の玄関に大きな声を響かせた。
「おっはよー!」
同じく朝から元気な声で二年五組に入ってきたのは、陸上部の日沖渚だ。お盆休み以外はよく部活に励んでいたので、彼女にとっては自然な振る舞いだが、まだ夏休み気分を引きずる陽太には少々暑苦しい。
「もうちょっと音量を絞ってくれよ。頭にガンガン響く」
「みんなおはよう」
渚の代わりに音量を絞ったのは青井柚葉だ。声が小さいだけで、柔和な笑みが眩しい。
「おっ、彼氏ができたらなんか雰囲気変わったな」
花火大会後、柚葉は歩を、時尾は多枝を連れてふじた温泉に戻った。
片や成就した初恋、幸せオーラ全開。見ているこっちが恥ずかしくなる。
「後輩の広沢歩くん。今日から付き合うことになりました」
片や適度な距離感、慎ましい笑顔。見ていて自然で、いい具合に脱力している。
「同じ英語部の桜庭多枝さんだ。バイト先も同じで、前から良くしてもらってる」
「みんなで会ったばかりだから特に新鮮味はないな」と、最後に遅れて教室に入ってきた一真が言った。
ホームルームのチャイムが鳴り、担任の新沢えりかが教壇に立った。
「みんな日に焼けたわね。夏休みはどうしてましたか?」
それ自体は無難なあいさつだが、時尾たち三人と目が合うと背中から冷や汗が出た。
「新沢先生は?」と、一番前の席に座る陽気な女子が聞いた。
「私は夏期講座に出てたから、受験生と同じで夏休み返上よ」
「だからたまの休みに海ではっちゃけようとしたんすね」と陽太。
「そうそう、素敵な男性と一夜限りの……って、なに言わせてんのよ!?」
「勝手に言ったんじゃん」と一真がぼそり。
「と、とにかく、来週から放課後の進路相談が始まるから覚えておいてね」
エアコンがない教室で眠くなる授業。夏休み前に逆戻りしたかのよう。しかも次の楽しい行事や冬休みはまだまだ先。生徒たちは久々の学校生活の初日にして嫌気が差してきた。
しかしながらこの休み中に人間関係が変化していた。時尾たち五人はさらに仲良くなった。何があっても相談し、共に進んで乗り越える絆ができた。誰か一人に何かが起きれば、それは他の四人にとっても大事で、詳細な情報もごく自然に、直ちに全員に共有されるだろう。
四時間目の授業が終わった。新沢は早足で職員室の自分の席に戻り、保冷バッグに入れておいた半額の鮭弁当を取り出す。彼女の隣は現在空席なので、友人のように親しい関係になった佐伯理沙がそこに座り、一緒に昼食を取る。
「おや、たしか佐伯先生」と、一学期と様子が異なることに気づいた対面の風間慎二が聞いた。
「風間先生ですね。えりかちゃんからよく話を聞きますよ」
「へえ、どんな?」
「わざわざ今宮から通い、鯉泉に染まろうとしない、首都が恋しい独身男性って」
「おれが鯉泉に馴染めないのは、もっと深く知るきっかけがないからです。佐伯先生は地元の人みたいですし、もし良かったら今度の休みにでも、魅力的なスポットを紹介してもらえませんか」
「私を誘ってるんですか?」
「案内をお願いしているだけです」
「理沙ちゃん、やめときなよ」
「分かりました。退屈でも途中で帰らないと約束してくれれば」
「約束します」
風間はこれから購買部に買いに行くようで、席を立った。
「思ったより丁寧で感じの良い人じゃない」
「最初だけよ。すぐ雑になるに決まってるわ」
「いきなりデートに誘われるなんて驚いちゃった」
「なにウキウキしてるのよ」
「べっ、べつに。えりかちゃん妬いてるの」
「まさか」
事前連絡通り、次の週から進路相談が始まった。各クラスの担任が放課後に生徒と面談し、その意向を聞き、助言する。
鯉泉高校は普通科の進学校で、生徒は主に進学について相談する。将来何をやりたいか、そのために学ぶべきことをどの大学で学べるか、今の学力でその大学に合格できるか。家庭は進学を支持してくれるか、もし私立になっても学費を出してもらえるか。
中には進学をためらう生徒もいる。何もやりたいことがないのに辛い勉強をし高い学費を払ってまで行きたくない、というのが主な理由だ。その場合、担任は自分や他の卒業生の経験に基づき、進学するよう説得を試みる。
面談は五十音順で行われた。青井柚葉は初日だった。
翌日の昼休み。五人で教室にいる時に、陽太から「で、どうだった?」と聞いた。
「私は今宮大学を受験するって決めてるから、あっさり終わっちゃった」
「首都に行こうとは思わなかったのか?」と一真。
「ええ。今宮なら実家から通えるし、無理に背伸びして首都で一人暮らしする必要もないわ。ただ早めに専攻を決めたほうがいいって言われたけど」
「今日は時尾くんの番ね。どうするつもりなの?」と渚。
「実際どうしようね。先生とよく話してみるよ」
その日のホームルーム後、時尾は指定された時間に指定された空き教室に入った。中央に机と椅子がぽつんと並べられ、新沢が窓辺に立ち時尾を見る。
「三階の一番暑い教室で、将来についてじっくり冷静に話し合うなんて土台無理よ」
「まったく同感です」
二人は椅子に座り、向き合った。学校だと先生は実年齢以上に、生徒はまだあどけなく見える。
「まずはええっと、将来の夢や目標を聞かせて」
「人の邪魔にも害にもならず、自分と周囲の人が楽しく、満足できる生活を送りたいです。おおざっぱですが」
「そうねえ、そんなところが現実的よね。で、それをどうやって実現するつもり?」
「首都はとにかく人が多すぎます。おれが一人消えたところでどうってことありません。鯉泉みたいな地方のほうが生きて生かされている実感があります」
「あー確かに。なんか人間がレアよね。首都から来たとか、地元の人より若いとかってだけでチヤホヤされるし」
「寮生活が終わって首都に戻るのが今からゆううつです」
「私も最近そんな感じ。こっちに来た最初の二週間ぐらいは毎日首都に帰りたいって思ってたけど、一カ月ぐらいたってからかなぁ、首都での日課とか価値観とか人の目とかめんどくさくなって、鯉泉でもいいかって」
「気分的にもうこっちの人間になっちゃった感じですね」
「ほんとそう。私はどうしよっかなー」
「本格的に移住なんてどうですか」
「いいかもいいかも。とりあえず来年もこっちでの勤務を志願して、その間にこっちで生活の基盤を築ければ」
「地元の男性と結婚すれば手っ取り早いですよ。新沢先生ならいくらでも相手がいるでしょう」
「時尾くんってお世辞が上手ね。っていうか、いつの間にか私の人生相談になってない?」
「いいんです。おれはもうだいたい決まってるので」
渚は首都の私立校をスポーツ推薦で目指し、陽太は三年生になるまでに進学か就職かを決めることになった。困ったのは一真だ。
「おれは首都に進学したいんですけど、親が反対してて……」
「家族で温泉を経営してるんだっけ?」
「勉強なんかしても家業の役に立たない、お前が継がなければ店は終わりだ、長年通ってくれた地元のお客さんをどうするんだって」
「藤田くんと時尾くんを交換できれば丁度いいのに」
「まったくです」
「じゃあ親御さんを説得するしかないわね。今度、温泉に行った時にでも話してみるわ」
「そう言えば新沢先生、まだ来たことありませんね」
「そうなのよ、温泉は私の数少ない趣味なのに。水温は? 泉質は? 効能は?」
「後は温泉の話で終わった」と、一真が四人に報告した。
「ミセス・アラサワの交渉術に期待するんだな」と陽太。
「おれだって家の仕事の大切さは理解しているつもりだ。けどそのために一度きりの自分の人生を犠牲にしたくない」
「温泉の後継ぎなんて羨ましいけどな。でも自分の可能性を試したいって一真の気持ちも分かるよ」と時尾。
「とにかく大学で学びたいこと、やりたいことをはっきりさせて、お父さんお母さんにやる気をアピールするしかないわね」と渚。
「どちらにしても、私たち卒業したら離れ離れになるのかな」と柚葉。
「その前にまずおれがここを去ることになる」
「そっか、入学してからもう半年近くになるもんね」と渚が驚いて言った。
「せっかく仲良くなったのに辛いな」と陽太。他の三人も落ち込み、口を閉じる。時尾は彼らに感謝しながら、こう言った。
「悲しむことはない。別れを怖がるよりも、それがあるからこそ今を楽しみ、明日も明日で素晴らしい日が訪れることに期待しないと。おれたちはまだ若い。失うものより得るものの方が多いんだから恐れず前に進もう。必要な時は連絡し、鯉泉に集おう。その時の話の種に、これから思い出をたくさん作ろう」
今年の十五夜は九月の第三日曜日だった。星空を見上げる習慣がない寮生たちは今まで重視してこなかったこのイベントを急に思い出し、自分たちのやり方で祝おうとした。
明音はクラスの友達とセミールに月見バーガーや団子を食べに行った。歩は柚葉と神社に月見に行く予定だ。バイトもなく暇な時尾は河原までススキを取りに行った。
長い残暑はようやく終わったが、今でも日中の最高気温は三十度近くまで上がる。休日の午後の河原は水の流れとその音以外に気配がない。近所の人々は昼寝をし、野良猫も物陰にじっとうずくまっている。太陽はゆっくり沈みつつ地上の影を伸ばす。今ごろ首都の人たちは何をしているだろうか。
ススキの見頃はまだ先で、高校生のように青々としている。時尾は興ざめし、一旦寮のラウンジに戻った。
「あら時尾くん」
「早乙女先輩」
「今夜は予定ある?」
「天気もいいし月見でもするつもりです」
「ちょうどよかった。私も直人くんを誘おうと思ってたんだけど……」
「おれから誘いましょう」
時尾は直人の部屋をノックするが、返事はない。出かけてないから寮にいるはずなのだが。
隣の部屋が何やら騒がしい。男子が集まり遊んでいるようだ。部屋番号の下の表札には「松本」という紙が入っている。時尾はそのドアを叩いた。部屋の中が急に静まり、少し間を置き、奥から足音が近づいてくる。
「誰?」
「笹原先輩に用事があって」
「あっ、時尾くんか。ぼくの部屋じゃないけど上がってよ」
同じ間取りだが整理整頓されず汚い部屋では、直人とその二人の友達が床のクッションに座り、中古で買ったテレビを使いゲームをしている最中だった。
「なかなか難しくて、誰もクリアできなくて困ってたんだ」
「早乙女先輩から月見をしようって誘われたんですけど、笹原先輩はどうしますか」
「月見か。でもゲームを中途半端で終わりたくないな。明日からまた学校だし」
「おれに貸してください」
それは時尾が若い頃にハマったアクションゲームで、今でもやり方をなんとなく覚えている。彼はコントローラーを巧みに操り、難関を難なく突破し、ラスボスをさっさと片付けた。
「どうしてそんなに上手なんだ?」と、松本という男から聞かれた。
「勉強と同じで、一人で粘り強く集中してプレイすればできるはずです」
なんとなく座が白けて解散となった。時尾は直人と共に部屋を出て、ラウンジに下りた。
「これからお買い物に行きましょう」と蘭が言った。
さがらやでは十五夜に合わせ、団子、里芋、秋の果物などが催事売場でまとめて販売されていた。店長が作ったウサギ、月、ススキの装飾は愛嬌たっぷりだ。月見に特にこだわりがない三人は、調理せずに食べられる団子を買った。
「首都のお店より鯉泉のスーパーの方が季節感があるのはなぜかしら」
「それを楽しむ心の余裕があるからじゃないかな。第一、首都の季節感ってろくなものがないよね」
「例えば?」
「人だらけの花見、長くうっとうしい梅雨、ヒートアイランド現象、台風や雪で麻痺する交通機関。ハロウィンとかクリスマスみたいな外来のイベントはどこよりもロマンチックなんだけど」
寮の夕食も、月見うどんや里芋の煮物など、十五夜らしい料理ばかりだった。時尾、蘭、直人の三人は食べ終えるとテラスに出た。時尾は部屋から持ってきた蚊取り線香にマッチで火をつける。月明かりを浴びるテラスに夏の残り香が漂う。
「あぁ、本当にきれいね」
一月前に花火が上がった夜空には橙色の月が懸かっている。裏山と神社の鳥居が黒く、くっきり浮かび上がり、月を一年で最も明るく見せる。円く柔らかい月。時尾はふと、桜庭多枝を思い出す。
「こんなに遠くを見るのは久しぶりだ。心が洗われるよ」
三人は黙して月を見る。その模様はウサギの餅つきのよう。思い出し、団子を食べる。既製品でも特別な味がする。
「甘いものは別腹だから不思議」
「きみは鯉泉に来てからちょっと太ったんじゃないか」
「そうかもね。べつにいいじゃない」
「べつにいいよ」
三人はゆっくり時間をかけ、十五夜の料理と美しい満月の印象を消化しきった。蘭は予定していた通り、自然にこう切り出すことができた。
「直人くんは進路のこと真剣に考えてるの?」
「ぼくにはまったく想像できないんだよな。昔のように親の言いなりで生きていく人生も、親に反抗して自立し生きる人生も。どっちも嫌なのに、そのどちらか一択しかない。今のぼくにはその選択が怖いんだ」
「自立のために勉強すると思えば答えは一つですよ」と、時尾が口を挟んだ。
直人はしばらくその言葉を噛み締め、「なるほどそうだね」と頷いた。
「どっちを選ぶにしても勉強は必要か。どうしてそんな単純なことが分からなかったんだろう」
「遠回りしていろんな景色を見たからいま気づけたのよ」
「鯉泉に来て、きみや時尾くんたち、それから松本くんや渡辺くんと出会わなければ、ぼくはまだ何の疑問も抱かずなんとなく勉強を続けていたんだろうな」
直人は確かに何かを掴んだようだ。蘭は時尾に微笑みかけ、感謝を示した。
雲隠れしていた月がまた顔を出した。
秋分の日による三連休明け。朝から涼しい風が吹き、本格的な秋到来を予感させた。
二年生全員の進路相談が終わり、五組の生徒たちはまた自分の日常生活に戻っていった。柚葉だけは初めての異性との交際から刺激を受け、大きく印象が変わった。
「歩くんって紳士的で頼りになるの」
「私のこと初めて柚葉ちゃんって呼んでくれたの」
彼女は誰彼かまわず自分たちの仲を言いふらした。それが周囲の全員に共有されるべき朗報、この学校という狭いコミュニティでの一大事であるかのように。彼女が浮かれすぎているので、あまり親しくない人は悪く思った。
「ちょっとかわいいからって調子に乗って」
「初恋は実らないっていうからな。後で吠え面をかくぞ」
九月下旬は久しぶりに英語部の活動があり、部員全員が二階の空き教室に集まった。彼らはもう終わってしばらくたつ夏休み中にあったことについて雑談した。部員の多くは「夏季短期留学」の計画を実行に移すことなく、日本語のシャワーをたっぷり浴びて過ごしたという。
「やっぱり本当に英語圏に身を置かないとだめね。日本では英語を使う必要がないんだから」
「そうなのよ。わたし右手を怪我したことがあって、しばらく左手で箸を使いご飯を食べてたの。怪我が治って右手を使えるようになったらすぐ左手が使えなくなった。きっと語学も同じことね」
ついに海外のオンラインゲームで英語を使いネットユーザーと交流することに成功した男子は、「時尾くんは英語勉強してた?」と聞いた。
「バイト中にお釣りを頭の中で読み上げていたよ。フィフティーンハンドレッドトゥエンティワンイェン、ってな具合に」
「道理でレジ打ちがいつもよりもたついてたわけね」と桜庭多枝が会話に加わったところで、顧問の新沢が教室に入ってきた。
「今日は英語でディベートしてもらいます。お題は、デートの食事は男が奢るべきか」
拙いながらも白熱した議論が展開された。最後に、多枝が「奢るべきではない」側を、時尾が「奢るべき」側を代表し発言した。
「男性が奢るべきという考え方こそが女性差別を促進するのです。女性はそれに甘んじるべきではありません。一個の人間として自立することが重要です」
「日本では男女の賃金格差がある以上、男側が多く出費するのは当然です。もし本当に割り勘を目指すなら、先に男女同一賃金にしないと、平等の名のもとに女性に不公平になります」
部活が終わった後、時尾と多枝はバイトまで時間があるので、教室に残り話をした。
「あなたの本当の考えを聞かせて」
「割り勘だな。少なくとも社会人になるまでは」
「同感。バイトならば時給変わらないものね」
「そう言えば寮の後輩がバイトを探してるんだ。彼女に奢りたいからって」
「それを原動力に頑張って働けるなら、あんまり頭ごなしに否定すべきではないかも」
「男は動物の本能で女を自然と守ろうとするそうだよ」
「そうなのかもしれないけど、それを無理に押し付けられるのは辛いかも」
「まったくだ」
ちょうどいい時間になり、二人は学校を離れた。セミの鳴き声がだいぶ静かになった商店街を歩く。平日の午後は閑散とし、足湯から漂う温泉の匂いが鼻につく。
「きみのクラスは進路相談終わった?」
「ええ。先週中に」
「きみは進学希望だったよね」
「留学制度がある大学に行きたい。けれど、それが叶わぬ夢だってことも分かっている」
「ど、どうして?」
「実はうち、両親が離婚してて、ずっとお母さん一人に育てられてきたの。たとえ奨学金をもらえても大学に行く余裕はない。早く働いて家計を助けないと」
「そうだったのか。それなのにきみは前向きなんだね」
「バカみたいでしょう。だから私は夏に本気で英語を勉強したのよ。寝ても覚めても英語で物事を考えて。そうすることで現実逃避していたの」
「そうやって逃げ続ければいいよ」
「えっ、なに?」
多枝の声が初めて刺々しくなった。時尾は構わず続ける。
「そうすればいつか、きみが行きたい場所にたどり着けるかもしれない。おれにはきみが必ず夢を叶えるようにしか思えないな」
「時尾くん……」
「外国に行きたいっていう気持ちに嘘はないんだろう」
「うん」
「だったら自信を持って逃げ続けよう。恥じることはない。おれはきみを信じているよ」
「ありがとう」
商店街の床屋の時計はもう五時を過ぎている。十分ほど進んでいるためだが、二人は焦り、早足になる。石畳を踏みしめる衝撃と胸の高鳴りが重なって呼吸が乱れる。深く息を吸って吐いても喘ぎは収まらない。それでもこの道、この時間が永遠に続けばいい。
一年限りの青春も半年が経過しようとしていた。




