八月
田舎の朝の静寂はセミの大合唱と草刈り機のエンジン音によって破られる。
昨日の太陽の余熱を今日まで持ち越しているので、朝にも関わらず外の気温は早くも三十度近くに上がる。テレビ番組に出演する専門家は熱中症対策を訴えるが、その声は学校や部活の顧問の耳には届かない。夏が暑いのは当然で、それに負けるのは意志薄弱。根性の問題だ。
受験生と教員は教室内でドロドロになり勉強する。部員たちはフライパンのように熱いグラウンドで汗を流し、真っ黒に日焼けする。時尾は午後のバイト中、部活から戻ってきたばかりの日沖渚を見つけてびっくりした。
肌はまさに小麦色で、そのせいで前より余計に細く見える。汗を吸ってから乾いた髪はパサパサだ。にも関わらず元気そうで、レジの時尾に気づくとにっこり笑い、白い歯を輝かせる。
「今日も部活か。狂ってるな」
「みんな狂ってるから分かんないや」
彼女は一本六十円のソーダ味のアイスキャンディーをレジに置き、料金を支払う。何度も洗い脱色したカサカサのTシャツが涼しげだ。
「柚葉はどうしてる?」
「お盆中はこっちにいるから、今のうちに母方のおじいちゃんとおばあちゃんの家に行ってるんだって」
「そうか。きみもほどほどにな」
「だいじょうぶだって。慣れてるから」
午後六時にバイトを終えた時尾は寮に戻った。明日の土曜日は男たちと海に遊びに行く予定なので、夕食後は夜ふかしせず早めに寝た。
その日も朝から晴天だった。時尾、一真、陽太の三人は鯉泉駅に集合し、ホームで電車を待った。
「お前また髪赤くなったんじゃね?」と一真が陽太に聞いた。
「夏休み中だからいいだろ。お前も染めればいいのに」
「親父にぶん殴られる。客商売をなめんなって」
「厳しいんだな。じゃあ今日お前がどこ行くか知ってんのか」
「友達と今宮のほうに行くって言っておいた」
「まぁ嘘じゃねえな。でももしナンパに成功して、どっかで一泊することになったらどうするよ?」
「大丈夫。たぶんそういうことにはならないから」と、時尾が初めて口を挟んだ。
「今から弱気なことを言うなよ。おれはやる気満々だぜ」
陽太はどこからともなく栄養ドリンクを取り出し、一気に飲み干し、ゴミ箱に放り投げた。
彼らは今宮で電車を乗り換え、海沿いの隣県に向かった。車内には若者や親子連れの姿がちらほら。魅力的な女子大生の姿も。
「年上も悪くないよな」と、吊り革につかまりながら陽太が言った。
「むしろ年上がタイプだ」と一真。
「おれは熟女でもぜんぜんオーケー」と時尾。
「熟女ってアバウトだな。だいたい何歳ぐらいまで?」と一真。
「よ、いや、三十ぐらいかな」
「ストライクゾーン広すぎだろ」と陽太。
終点に近づくと車窓から海と浜辺が見えるようになった。穴場の海水浴場で、海の家がいくつかあるのみ。その代わりに薄青色の水と白い砂浜が目にやさしく綺麗だ。海なし県で暮らす三人のテンションは否が応でも高まった。
彼らは潮風で傷んだ木造の駅舎を出て、お土産屋が並ぶこの町の表通りを歩き、浜に下りた。まだ時間は早いが、先に来ていた海水浴客たちは着替えを終え、日陰で日焼け止めを塗るなどしていた。
三人は目についた海の家に入った。道具のレンタルどころか、更衣室やシャワーを借りるだけでも、バイトの時給が軽く飛ぶことに気づいた。
「中に水着を着といて良かった」
「ビーチパラソルはどうする、一人ずつ借りるか?」
「とりあえずパラソルは大を一つ、チェアは二つ借りて、交代で使うようにしよう」
時尾の案が採用された。彼らは適当な場所にそれらを設置し、パラソルの日陰の中から外の様子を伺う。若者は大学生が中心で、高校生らしき人はいない。年上の女たちはカラフルなビキニを着て、知り合ったばかりの男たちとビーチバレーを楽しんでいる。全身のどこを見ても輝いて見える。
「ああくそっ、おれたちも早く女を探しに行こうぜ」
「みんなで行くか、手分けして探すか」
「三人で行って同じ人数を連れ帰ったらここが手狭になるぞ」
「じゃあ一番早く女を連れ帰ったやつがここを独占か。いざ勝負!」
彼らは足の裏で砂のきめ細かさを感じつつ四方に散った。一真はさっき道具を借りた海の家に戻り、陽太は海の中で遊ぶ女のペアに声をかけに行く。時尾は彼らを見送った後、とりあえず浜辺をぶらついてみることにした。
彼もこういう場所に来るのはほぼ初めてだ。店を一軒ずつ観察するだけでも興味深い。店員はこの夏に稼ごうと住み込みで働く若者ばかりで、客よりも真っ黒に焼けている。店員同士の仲が良く、どの店でもすでにカップルができている。
少子高齢化が叫ばれる昨今だが、炎天下ベタつく海水で水浴びをしようとする物好きな年寄りはおらず、ここは若者の楽園だ。親たちだってせいぜい三十代で、子供と遊びながら若い異性に目をやり、複雑な表情をする。近いようで遠い日の記憶。捨てきれぬ思いと諦め。でも、今の彼らには子宝がある。
「ちょっとぉ、中途半端に年取ってるの私たちだけじゃない?」
「いいからいいから。そんなこと誰も気にしないわよ」
店内から聞き覚えのある声。時尾は一番大きくおしゃれな海の家の軒先に立ちながら、中から出てきた女二人の背中を見る。左の女はやや背が高く、足がすらりとし、ヒップがよく引き締まっている。右の女はやや背が低く、肌が透き通るほど白く、自然な丸みを帯びた体だ。彼女たちはさっき時尾たちがやったようにパラソルを設置しようとするが、不器用でうまくいかない。それから二人はじゃんけんを始めた。何度かあいこが続いた後、背が高いほうがガッツポーズ。背が低いほうは周囲を見渡し、時尾に狙いを定め、ずんずん歩み寄る。遠慮なく彼の顔を近くから覗き込み、
「きみ、高校生?」と聞く。
「まぁ一応」
「ちょっと手伝ってほしいんだけど来てくれない?」
「いいですよ」
時尾は、どこかで会ったことがあるようなと首を傾げつつ、その女の後に続く。背が高い女は両手を腰に当て、戻って来る二人を見る。
「ちょっとその子、高校生じゃない? どうして大人を呼ばないのよ」
「大人だと緊張するから」
時尾は午前中の日差しに目を細めつつ女たちを見る。教室の外で、しかも水着姿で会うから分からなかったが、どうも片方は自分の担任のようだ。
「もしかして、新沢先生ですか」
「まさか……時尾くん?」
「そちらは?」
「佐伯先生」
「本当だ。メガネを外して、白衣じゃないから分かりませんでした」
「私だって好きで年がら年中白衣を着てるわけじゃないわ」
時尾は素手で深く穴を掘り、パラソルを立てて固定し、二人分のチェアを並べた。
「ところで先生たちは海まで何をしに来たんですか」
「そんなの決まってるでしょう……」と新沢が言いかけたが、佐伯が代わってこう話す。
「ただの息抜きよ。たまにはいいでしょ。あなたは?」
「女の子をナンパに来たんです。ほら」
時尾の指の先、海の浅いところでは、陽太が二人の女に必死に食らいつくも、鼻であしらわれている。一真は海の家の外に立ち、出てきた女たちに片っ端から声をかけるも、礼儀正し過ぎて逆に不気味がられている。海でのナンパはなかなか上手くいかないようだ。
「なにやってんだかあの子たちは」と新沢。
「男として一皮むけないと、とか言ってました」
「なんか寒くなってきた」と佐伯。
「先生たちは泳がないんですか? おれが荷物を見てますよ」
「サンキュー、助かるわ」
大人の女二人は砂浜に慣れない足取りで海に向かった。時尾はチェアに横たわりながら二人の様子を見守る。本人たちは気づいてないが、周りの男たちから視線を浴びている。適度に運動をし魅力的なスタイルの新沢は派手な柄のビキニがよく似合う。自然美を保っている佐伯は緑色のフリルの水着が愛らしい。時尾は、先生たちの後ろ姿にちらちら目を向ける陽太を見ると、どうか声をかけてくれるなよと必死に念じた。
ついに、髪を染めた大学生風の男二人が馴れ馴れしく新沢と佐伯に声をかけた。時尾はわざと麦わら帽子で顔を隠し、寝たふりをする。日陰でじっとしていると意外と涼しく、彼は本当に眠たくなってきた。
「荷物ありがとね」
時尾は新沢の声で目を覚ました。彼女も佐伯も来たばかりの時より嬉しそうだ。
「海はどうでした?」
「時間を忘れて楽しんじゃった」
「まだまだ私たちも捨てたもんじゃないわね」
新沢のお腹がぐーっと鳴った。彼女は高そうなサングラスをかけ、「荷物、もうちょっとだけ見ててね」と言うと、佐伯の手を引き食べ物を売る屋台に向かった。
イカ焼き、フランクフルト、焼きそば、ジュース。新沢と佐伯はチェアに、時尾は日陰の砂の上に座り、食事を始める。
「こういうところで食べるこういう料理って、なぜか美味しいのよね」と新沢。
「特別な日の楽しい記憶があるからでしょうね」
「時尾くんって年寄りじみたとこあるよね。人生二周目?」と佐伯。
「ま、まさか」
彼らは黙々と食べながら海を見る。ゆっくり寄せては返す水。真上から降り注ぐ日差し。おぼろげな水平線。海の家の賑わい。テラス席で酒を飲む若者。泣き止まない小さい子。パラソルの日陰に偶然集まった先生と教え子。
「南原くんたちどこに行ったのかしら」と新沢。
「さすがにバテたでしょう。中で食事してるんじゃないですか」
「時尾くんは私たちといていいの? ナンパに来たんじゃなかったの」と佐伯。
「あんまり女の人にガツガツするタイプじゃないんです。先生たちといるほうが落ち着きますよ」
「それって私たちを口説いているわけじゃないよね?」と新沢。
「どうでしょうか」
「はぁいミセス・アラサワ! ハウアーユー?」
かき氷を片手にニヤニヤしているのは陽太で、焼きトウモロコシをかじりながら呆れ顔をしているのは一真だ。新沢は「アイムファイン」と返す。
「すごいビキニですね。若い男を引っ掛けにきたんでしょう」
「人聞きの悪いこと言わないでよ」
「そちらは……もしや佐伯先生? 驚いたな」
「なにかおかしいかしら?」
「いえ、べつになにも」と一真は言い、顔を赤くし下を向いた。陽太は肘で彼を軽く小突きつつ、
「まさか先生たちをナンパしてたとはな」と時尾に言った。
「そっちの収穫は?」
陽太も一真も欧米人のように両手を広げ、大きく頭を振る。新沢と佐伯はたまらず吹き出した。
「まだ午後の時間があるでしょう。私のクラスの子なんだから男を見せなさい!」
担任に発破をかけられた男子二人は、背中を押されるようにしてその場を立ち去った。
浜辺を風が渡り、体の表面からさっと熱を奪う。
「来て良かったわ」
「本当に」
「おれもそろそろ行きますね」
「また学校で」
「残りの夏休みも楽しんでね」
時尾は自分たちのパラソルの下に戻った。陽太と一真は作戦を変更したらしく、二人一組で同じく二人組の女にアプローチを試みている。一真はもうやる気を失い後ろに一歩下がり、陽太に任せっぱなしだ。粘り強い陽太は営業に向いているかもしれない。
「結局収穫ゼロだった」
「おれたちってそんなにイケてないかな」
「スイカを買っといたから、みんなで割って食べよう」と、時尾が二人をねぎらって言った。
ビニールシートの上にスイカを置き、タオルで目隠しをし、流木を地面に立てクルクル回転し、周りの指示を頼りにふらつきながら標的を目指す。木は何度も砂浜に穴を開けた。
「目が回ったら女のことはどうでも良くなってきた」
「普段は目が回っていて、今は正気に戻ったんじゃないか」
「ちがいねえ」
西に沈み出し、柔らかくなってきた日差しを浴びながら、不揃いのぬるいスイカをかじる。種や汁で濡れた手に砂がこびりつく。汚れを気にせず無心で食べる。半分ほどでギブアップ。
陽太はヤケクソになり、「スイカいりませんか? 無料でーす」と声を上げる。するとちょうど喉が渇いていた男女が群がり、すぐになくなってしまった。
「最初からこうしとけばよかったな」
日焼けによる肌の痛みは数日続いた。それが収まると脱皮が始まった。時尾の部屋の床は粉だらけになった。温泉の仕事を手伝う一真が一番きついだろうと思い、彼のために苦笑する。単なる日焼けで一皮むけた陽太はただただ滑稽だ。
二人とも本当にいい男友達だ、と時尾は思う。
ある日の夕方。外から戻ってきた時尾は寮のラウンジのソファーに座った。ここはいつもエアコンが効いているので、夜まで涼むにはちょうどいい。彼はリモコンを使いテレビをつける。地元のテレビ番組が市内に新しくできた隠れ家カフェを紹介している。
六時前になると全国ニュースに切り替わった。世間はそろそろお盆休みに入るらしく、テレビ局のリポーターが首都近郊の国際空港を訪れ、お盆に有休を合わせ海外旅行に行く家族連れを取材する。
「早めに行って、ゆっくり帰って来るつもりです。そのほうが混雑を避けられ、航空券も安いですし」と父親が得意そうに答えた。
なるほど最近の寮の寂しさはそういうことか。首都が恋しい寮生が早めに帰省したため、時尾はソファーを独占し、テレビのチャンネルを自由に変えられる。人数が減ったぶん食堂も静かで、七時前の調理が最も忙しい時間にも関わらず目立った音が聞こえてこない。
そのままぼんやりテレビを眺めていると七時になった。少ない寮生が上から下りてくる。
「時尾先輩。晩ごはん一緒に食べませんか?」と、西村明音が彼を誘った。
「明音ちゃんは実家に帰らないんだ」
「実は親の仲が悪くて、帰っても気まずいだけなんですよね」
立ち話している間に広沢歩も一人で下りてきた。浮かない顔だ。
「歩くんも一緒にどう?」と、時尾が彼に言った。
「えっ? あ、はい」
ずっと人と話していなかったのか、歩は声がやや上ずっている。三人は食堂に進み、短い列に並び、自分の料理をトレイにのせる。壁際の観葉植物に近い席に座る。歩が沈んでいるので、明音は時尾に話しかける。
「そう言えばそろそろ鯉泉の夏休みですね」
「うん。屋台も花火もすごいらしいよ」
「神社の花火を一緒に見た男女は恋仲になれるって噂があるんです」
「へえ、本当?」
「はい。うちのクラスのカップルも花火が縁でしたし、今年は一緒に見に行こうって約束している人も数組います」
「そう約束できる時点ですでに脈ありって感じだね」
「そうですね。でも花火はロマンチックだから、その気にさせる効果があるんでしょうね」
「それって本当かな」
歩が急に口を開いたので、時尾も明音も驚いて同時に「はい?」と聞き返した。
「花火を見れば好きな人と付き合えるってことが」
彼の口調があまりにも真剣だったので、明音は重大な責任を感じ、「で、でも分かんないよ、噂は噂だから」と言い逃れした。
「歩くんは柚葉と見に行きたいんじゃない?」と時尾が聞いた。
「はい、そうなんですが……」
歩は時尾の助言に従い、夏休み前に図書室に足繁く通った。柚葉は週に二回ぐらい読書か勉強に来た。歩は偶然を装い、本を探す彼女の隣に立ち、気づかれるのを待った。
「あら、あなたは」
「広沢歩といいます。青井先輩ですね」
「どうして私の名前を?」
「寮で時尾先輩から聞きました」
「あぁ時尾くんから」
二人は時尾という共通の話題で盛り上がりかけたが、そこは静かな図書室だ。しかしそのまま別れるのも妙なため、柚葉から「隣り合って座りましょう」と誘った。
机の仕切りの隣には柚葉がいる。そう思うと、適当に手に取った本の内容など頭に入るわけがなかった。歩は本を広げながら彼女のことばかりを考えていた。さっきの嬉しそうな声、その余韻を噛み締めながら。
「私もう帰るけど、広沢くんは寮だよね」
「は、はい。でも途中まで」
歩は校門まで柚葉を見送った。二人はそこで立ち止まり、さっきしようとしていた時尾の話をした。
「懐が広いっていうか、みんなのリーダーって感じの人で、頼りになるの」
「そうですね。一個上なだけなのに落ち着きがあって」
「広沢くんは一人暮らしで寂しくない?」
「時々は」
「連絡先を交換しましょう。私も寂しくなった時にメールするから」
「はい!」
「で、その後はどうなったの?」と時尾が聞いた。
「なんにも。向こうからぜんぜん連絡が来ないんですよ」
「それは男の方から誘わないと」と明音が言った。
「えっ、そういうものなの?」
「あったりまえでしょう。待ってて女が捕まるわけないじゃない」
「実は柚葉たちクラスメイトと夏祭りに行くことになってるんだ。その時におれから歩くんに電話するから、さり気なく彼女と二人きりになり、花火でも見ながら告白するといい」
「告白って、いきなりそこまで!?」
「自信ないの?」と明音。
「だってぼくなんかダサいし、むしろ青井先輩が苦手なタイプかもしれないし」
「確かにもっと明るい爽やかな印象にしたほうがいいかもね」
明音は時尾に同調し、「思い切ってイメチェンしてみる? 歩くん本当はイケメンなんだし、自信がついていいと思うけどなぁ」と言った。
それから時尾と明音は歩を励ました。歩もだんだんその気になり、「じゃあ二人の都合の良い時にお願いします」と頼んだ。
翌々日。彼らは電車で今宮に移動し、明音が電話で予約を入れておいた表通りの美容室に入った。明音は美容師の隣に立ち、歩の反対を押し切り、前髪をバッサリ切ってもらった。それだけで顔の印象がずっと明るくなった。
「メガネも取ってごらん」
もはや誰だか分からなくなった。色白だが小顔で堀りが深く端正で、外国人の血が入っているかのようだ。
「あらやだ、私が好きになっちゃいそう」
「じゃあメガネをやめてコンタクトにしよう」
彼らは近くの眼鏡店に入った。平日なのでそれほど待たずに検査が終わった。レンズは後日、寮に送ってくれるという。
「さぁ、次はファッションよ。文系の物静かな先輩に受けそうな、大人しく爽やかな美少年にしてあげるわ」
今年もお盆休みに入った。子供にとってのそれは夏の終わりを予感させるイベントで、墓参りや親戚との食事という義務、テレビで見る全国戦没者追悼式の厳かな雰囲気、炎天下で汗だくになり球を追いかける甲子園球児などが混ざり合い、名状しがたいゆううつな気分になる。残り少ない夏休みをむざむざと浪費するやるせなさ。その記憶があるから、人はこの季節にセミの鳴き声を聞くと条件反射で冷や汗をかき、胸が締めつけられる思いになる。
時尾は自室の電気を消し、線香の匂いを感じながら、お盆の午後のひとときを過ごした。
Uターンラッシュが終わり、寮生が戻り始め、寮が徐々に活気づいてきた。キャリーケースを引くゴロゴロという音が外から近づき、ラウンジで久々の再会を喜ぶ大げさな声が響く。その頻度は八月最後の土日が近づくにつれ高くなっていった。
「花火の前に帰って来るなんて、首都と鯉泉のいいとこ取りしてて羨ましいなぁ」と、明音が帰省していた友達に言った。
「明音は夏祭りどうするの?」
「もちろん行くわよ。浴衣を着て、運命の人と出会いに行くわ」
第四金曜日の夕方。時尾はバイト先のスーパーから学校に帰る途中、商店街がいつになく賑わっていることに気づいた。明日の夏祭りと花火大会を目当てとする宿泊客のおかげだ。彼らは寂れた商店街に一種のノスタルジーを感じ、そこでなおも経営を続けている店に好奇心を抱き、ふらりと立ち寄った。
居酒屋からは、早くも一杯やり上機嫌になった客の大声が聞こえる。旅館の浴衣を着た若い観光客は石畳の上で下駄の音をカランコロンと響かせ、そのまま裸足になり、裾をまくり上げて足湯に浸かる。時尾が今まで存在を知らなかった弁当屋の前には長い行列ができ、旅行雑誌を持っている人もいる。どんな名物弁当があるのだろうか。
祭りの前の賑わい。時尾も胸が高鳴った。明日はきっといい日になるだろう。
天気予報が当たり、土曜日は快晴だった。朝からセミがうっとうしく、押しつけがましく、最後のお願いのように鳴いた。
時尾たち五組の五人組は午後、ふじた温泉で合流した。着替える前に湯を浴びさっぱりし、祭りの後に汗を流し疲れを取るためだ。そこまで気合を入れる地元民は少なく、温泉は平常運転だった。
彼らは湯から上がり、着替え、食堂に集まった。女子はみな浴衣で、男子は普段よりは洒落た私服を着ている。
「おっ、馬子にも衣装ってやつだな」と陽太が渚を茶化した。
紺地に薄青色の笹が描かれた古風でシンプルな浴衣。白い帯をキュッと締め、美しくも芯の強さを感じさせる。
「お母さんのお下がり。悪くないでしょ」
「柚葉も似合ってるじゃないか」と時尾が言った。
淡い黄色地に桃色の花柄がかわいらしい浴衣。同じ色と模様の帯で統一し、華やかではあるがふわりとした印象だ。
「そ、そうかな」
「ってかなんで佳奈まで着替えてるんだよ」と一真。
中学生の佳奈は、余所行きの涼し気なワンピースを着ている。設備故障による休業中に行った家族旅行で着たものだ。
「学校の友達と遊びに行くの」
「まさか彼氏でもできたのか」
「お兄ちゃんには関係ないでしょう」
佳奈は鼻歌交じりで食堂を出ていった。
五人も冷たい水を飲んでから外に出た。水を引いた夏の田んぼと畑の表面を祭り囃子が軽快に跳ね回る。彼らはその音を頼りに神社を目指す。虫の鳴き声が騒々しく、今日が特別な日であることを知っているかのようだ。
「こんな時間にみんなで外を歩くとそわそわするね」と渚。
「なんだか懐かしい感覚だ」と一真。
やがて駅前にたどり着き、商店街を抜け、学校の裏山にある神社を目指した。
まだ薄明るい空の下、参道の両脇に屋台が連なっていた。地元や外から来た子供たちは、大人よりも気軽に着られる浴衣姿になり、カラフルな水風船や金魚の袋を手にしている。ある若いカップルは黒と白の浴衣をすっきり着こなし、射的屋で一喜一憂する。中高生は食欲旺盛で、しばしば呼び方で物議を醸す大判焼きや大阪焼きを頬張るか、チョコバナナやりんご飴をゆっくり味わいながら社殿に向かい上がっていく。鯉泉がこれほど混雑するのは年に一度だけだ。
時尾たちも小腹が空いたので、めいめい好きな食べ物を屋台で買った。渚はフライドポテト、柚葉はベビーカステラ、一真は唐揚げ、陽太はたこ焼き、時尾は焼きそば。それを回し食いすれば単調にならない。飲み物はもちろんキンキンに冷えた炭酸飲料。若くタフな体で糖分と塩分と油を吸収すると、空腹が静まり落ち着いてくる。
彼らは射的、くじ引き、輪投げ、ヨーヨー釣りなどで時間を潰した。いつの間にか空が真っ暗になり、そのぶん地上の屋台が明るさを増した。
「そろそろ花火の時間だな」と一真。
「おれちょっと用事を思い出した」と陽太は言い残し、一人でどこかへ消えてしまった。
「どこに行くのかしら?」と柚葉。
「どうせまたナンパでしょう。まったく懲りないんだから」と渚。
時尾はケータイで立て続けに電話をかける。
「誰かと約束でもあるのか」と一真。
「ああ、ちょっとね」
「だったら邪魔しない。おれも適当に歩くから、花火が終わったら温泉で会おう」
「青井先輩、こんばんわ」
「あら広沢くん」
歩がさりげなく現れた。今日はメガネをかけず、服装も明音の言いつけに従っている。制服姿よりもずっとカジュアルで、付き合いやすそうな雰囲気だ。
「良かったらこれから花火を一緒に見ませんか」
「あっ、でも……」
「私に遠慮しないで。さっき陸上部の後輩を見かけたから声をかけに行く」と渚。
あっという間に四人が散り、屋台と屋台の間に一人取り残された時尾。数分待つと、光と光の間からぼんやりと人影が近寄ってきた。
「お待たせしてごめんなさい」
桜庭多枝はバイト帰りで、店のエプロンの下でも目立たない、半袖の白いトップスを着ている。時尾もTシャツではなくシンプルなポロシャツにしているだけだ。
「どこで花火を見る?」
「あんまり人がいないところがいいな」
「だったら学校に行きましょう。校庭から見る空は広いわ」
彼らは太鼓の振動を背中に感じつつ神社を離れていった。まだ商店街を歩いている途中で、山にそびえ立つ神社の鳥居の奥から花火が上がった。多枝の顔が暖色に染まった。
「一発目から見事だね」
「今年は特に協賛企業が多いらしいの」
彼らは寮生のために開け放しになっている裏門から校内に入った。夜の学校には不気味な噂がつきまとうものだが、今夜だけは不穏な空気を微塵も感じ取れない。山から吹き下ろすそよ風に火薬の匂いが混ざる。時尾は小さい頃の運動会を思い出す。
「どうせだから真ん中に堂々と座りましょう」
昼間ならば運動部の部員が我が物顔で支配している校庭に座り、砂利のザラつきと余熱を感じながら、異性と肩を並べて星空に浮かぶ花火を見る。全身で夜の空気を吸い、大きく息をつく。
「人混みから出られてせいせいした」
「本当に。ここは静かで最高ね」
神社の奉納花火大会だからか菊が多かった。火の玉が煙を吐きつつ夜空に上がり、パッと花開き、黄色い閃光を四方八方にばらまく。時間差で「ドン」と音が伝わる。花火の密度が上がるにつれ、どの音がどの花火に属するか判然としなくなる。赤、青、緑の菊と牡丹。星々が三色の煙で霞む。煙を払うようにひときわ大きな黄色の柳が上がり、前半の部が終了する。
「綺麗だったな」
「そうね」
二人は黙って空を眺め、余韻に浸る。気分爽快で、花火を見る前より涼しくなったようだ。
「いよいよ夏も終わりね」
「そうだな。おれの寮生活ももう少しで折り返し地点だ」
「きっとまた戻って来るんでしょう」
「分からない。だから今のひとときを存分に楽しまないと」
時尾はビニール袋から、屋台で買っておいたお好み焼きとラムネを取り出し、多枝に渡した。
「ありがとう。まだ食べてなかったの」
空に大きな日輪が広がり、後半の部の開始を告げた。最初からハイペースで、前の花火の残像が消えないうちに次の花火が上がる。複数の色が混ざり合い、一瞬だけこの世に存在する朧げで儚い光が生まれ、地上の人々に等しく降り注ぐ。時尾は実際には見たことがないが、オーロラに似ていると感じた。
大会を締めくくるのはハートの連続花火だ。祭りに恋愛成就のご利益があるとの評判を受け、今年初めて上げることになったという。
先にかわいらしい小さな赤のハートが上がり、次に緑や青のハートが浮かび、ほのかに甘いムードを醸し出す。神社の方から若い男女のどよめきとため息が聞こえる。数々のハートが上がっては消え、その輝きで人々の心に、形を変えつつも永遠に消えない華麗な火を灯す。
最後は小さな花火が同時に上がり青いハート型の枠を作り、その中央にできた広いスペースに真っ赤なハートが宝石のようにぴったりはめ込まれた。夜空に大歓声が響き、花火大会は盛況のうちに終了した。
黒いキャンバスに描かれた赤と青のハートが時間の経過で歪み、消えていった。
「終わっちゃったね」
「終わらぬ宴はない、か」
「それでも永遠に変わらないものがあるって信じているの」
「おれもそうだ。だから寮生活が終わることをそれほど悲観してないよ」
「私も高校を卒業すれば地元を離れる。けれど必ず戻ってきて、今日みたいにこの空を見上げ、何千年も何万年も前の星あかりを浴びる。その時、隣に誰がいるか分からないけど、今日という日を必ず思い出す。高校生のあなたの影が私に寄り添う」
そこまで言い切ると多枝は口を閉ざした。
「戻ってくるよ。おれも必ず」
二人は立ち上がり砂を払った。寮生の一部が早くも祭りから戻り、話し声が聞こえる。多枝は目で時尾にこの後どうするか問いかける。彼は「うーん」と唸り、
「ふじた温泉って行ったことある?」
「名前は聞いたことがあるけど、まだ」
「祭りが終わった後にクラスの友達と集合することになってるんだけど、一緒に来ないか」
「かまわないの?」
「うん。そろそろきみのことを紹介したいし」




