七月
梅雨も後半戦に入った。前線が消えかかり、晴れや曇りや雨の中途半端な天気が続いた。気象庁は梅雨明けの発表を出し渋った。
雨が上がり晴れた日の昼。時尾、陽太、一真の三人組は屋上に続く階段の踊り場で弁当を広げた。時尾は寮生用の栄養バランスの取れた幕の内、一真は珍しく母に詰めてもらった店の残り物、陽太はコンビニで買ってきた大量のサラダ。
「お前ウサギか?」と一真が陽太に言った。
「ハンバーガー屋のメニューを割安で買えるから、普段はあっさりしたものを食いたいんだよな」
「バイトの調子はどう?」と時尾が聞いた。
「仕事はだいたい覚えたんだけど、なんかもうかわいい子は付き合ってるみたいで、いまいちつまんねえんだよな」
「お金をもらえて、社会勉強にもなって、やりがいがあるじゃないか」
「おれなんかほとんどタダ働きで、仕事を覚えるほど社会から遠ざかるんだからな」
「まぁそう納得しとくよ。バイト先で彼女を作れないんだから、やっぱ海に行くしかねえな!」
「海の前に期末テストがあるが」と、一真が嫌なことを思い出させた。
「やべえ忘れてた。赤点なんて取ったら思いっきり楽しめないな」
テストに危機感を抱くのは陽太だけではなかった。昼食を終え教室に戻ると、渚と柚葉もそれを話題にしていた。
「授業、部活、バイトだけでも忙しいのに、テスト対策もやれだなんて無理があるわ」
「渚は頑張り屋だから。私は勉強だけしてればいいから楽なほうね」
「大ちゃん先生から、赤点取ったら部活停止だって言われて。しかも連帯責任で全員が」
「厳しいのね。みんながみんな文武両道なわけじゃないのに」
「おっ、もしかして渚もやべえのか」と、陽太がにやにやしながら声をかけた。
「なんで嬉しそうなのよ。あんたなんかと一緒にしないでちょうだい」
「気が強い女はモテないぞ」
「大きなお世話」
近所に住み、幼稚園から幼馴染の二人はよく喧嘩をするが、大事になることはない。なんとも微笑ましい光景だ。
「バイト帰りは疲れてやる気出ねえし、休みの日ぐらいは遊びたいし」
「それは同感。どんなに時間があっても、やりたくないことはやりたくないのよね」
「いっそのこと、勉強を遊びみたいにしてはどうだ」と時尾が言った。
「どういうこと?」柚葉が目を丸くする。
「休日に一真の店で勉強会を開くんだよ」
「それいいかも。環境を変えれば少しはやる気が出るかしら」と渚。
「勉強に疲れたら温泉でさっぱりして、また勉強をして……か」と陽太。
「一日じっくりやれば対策できそうね。ただ、店の邪魔にならなければいいんだけど」と柚葉。
「問題ない。妹の佳奈に勉強を教えてやることにすれば親も大喜びだ」
彼らは手帳を取り出しスケジュールを確認した。テスト前最後の土曜日はバイトも部活もなく全員集合できる。
「おれたちの合宿、だな」と時尾が言った。
その日は朝から雨だった。商店街はしとしと降る雨音に包まれひっそりしている。大きなカタツムリがアジサイの根元から姿を現し、濡れた石畳の道をのろのろ渡るだけで、他に生き物の気配はない。こんな天気、こんな時間にも関わらず人が集まるのは「ふじた温泉」だけだ。
朝風呂を習慣としている常連客はそこに車で通い、いつもの顔ぶれで賑やかに湯に浸かり、九時前には出ていく。四人の高校生は彼らと入れ違いで自動ドアを通った。
「おじゃましまーす」
「あら渚ちゃん久しぶり」と、窓口に立つ一真の祖母が大きな声であいさつした。
四人は木の床の廊下を素足で渡り、真っ直ぐ食堂に入った。一真と佳奈の兄妹がすでに勉強の準備をして待ち構えていた。
「今日はよろしくね」と、一真の母が一堂に声をかけた。
六人は大きなテーブルが置かれた窓際の席に座った。時尾は、「まずどれからやろうか」と聞いた。
「数学!」
「右に同じ」
陽太も渚も数学が特に苦手で、数の組み合わせを見ると脳が思考停止する性質だった。数学が得意な一真と柚葉が二人につき、時尾は佳奈の勉強を見てやる。中学二年生にしては難しい内容だ。
「こんなの勉強して、本当に将来役に立つのかしら」
「大きくなったら何になるかなんてまだ分からないだろう。だからなんでも出来ておいて損はないよ」
「学校の先生みたいなこと言ってら」と、聞き耳を立てていた陽太が言った。
窓の外で降りしきる雨が集中力を高める背景音になり、疑問点が一つずつ解消されていく。気づくともう十時だった。
「そろそろ別の教科に移らないと時間が足りないわ」と柚葉が注意した。
「次は気分を切り替えて文系にしよう。英作文はどうだ」と一真。
教科書の各チャプターのまとめを参考に英文を書く。陽太は主語を必ず「ミセス・アラサワ」にした。
「なんかおれが書いた文章が新沢の声で脳内再生されるんだけど」
「それがテスト中も再生されるぐらい頭に叩き込むんだ」と時尾が言った。
左脳と右脳を交互に使い少し疲れた六人は、ここで湯に浸かり休憩することにした。時間はまだ十一時前で、他に利用客はいなかった。
手伝いの日でもないのに、一真は散らかっている洗面台や洗い場を見るに見かね、裸のまま整理を始める。時尾も陽太も気が咎め、見様見真似で桶やボディーソープなどを所定の位置に戻す。
「職業病だな」
「まったくだ」
男三人は湯の各所に散らばり、両手両足を大きく伸ばす。全身から力が抜け、血がのぼりぼうっとする。その倦怠感は顔と頭から吹き出る汗に凝縮され、共に流れる。何も置かれていない部屋のように頭が空っぽになる。また知識を詰め込む余地が生まれる。
「さっき覚えた英文をもう忘れちまった」
「忘れても身についているはずだ」
「柚葉って着痩せするタイプなんだね」
「ちょっと渚、声大きいから」
「渚お姉ちゃん足が長いね」
「佳奈ちゃんだっていいスタイルよ」
男風呂の湯の表面を、ゴクリと唾を飲む音が走る。
「せっかく胸が大きいのに目立たない服ばかり着て」
「だって恥ずかしいから」
「羨ましいなぁ。私ぜんぜん大きくならないの」
「まだ中学二年生でしょう。成長するのはこれからよ……って、私が言っても説得力ないか」
「渚は陸上で絞れているだけでしょう。私なんか運動しないから太って困るわ」
女子たちは湯から上がり、シャワーを使い出した。思わず長湯をしてしまった男たちは顔がゆでダコのように真っ赤になっている。三人は岩に寄りかかり半身浴をしながら話をする。
「お前ら、あの二人ならどっちがタイプだ」と陽太が先制攻撃を仕掛けた。一真はその手に乗らず、「お前はどうなんだ」と聞き返す。陽太もむしろ聞いてほしかったようで、
「おれは断然柚葉だな。やっぱ女子は大人しく、やさしそうなほうがいい」と答えた。
彼が思い切って言ってしまったので、残りの二人も黙っているわけにはいかなくなった。
「おれはどっちかっていうと渚だな」と一真が言った。
「どうして?」
「実は巨乳がちょっと苦手なんだ。渚ぐらいのがちょうどいい」
「なるほどな。しかし柚葉って清純そうなイメージなのに意外と大きいんだな。ギャップがたまらないぜ」
二人は時尾にじろりと目を向けた。
「渚にも柚葉にもそれぞれのいいところがある。優劣つけがたいし、だいたいおれなんかに選ぶ権利はない」
「かっこつけてねえでどっちか言えよ」
「そうだ。あくまでお前の主観でだ」
「おれなら渚かな。活発な子に惹かれるよ」
「やっぱりな」
湯浴みと青春のおしゃべりでいい気分転換になった。彼らは服を着て再び食堂に集合した。洗い立てでまだ濡れている女子の髪からはいい匂いがする。寝ている間にたまっていた汚れが取れ、男子も女子もいつもよりさっぱりした顔になった。
「ずいぶんお行儀よく入ってたんじゃない? ぜんぜん声がしなかったけど」と渚が言った。
「そ、そっちこそ静かだったな」と陽太。
駐車場に続々と車が入り、玄関の自動ドアがひっきりなしに開く。これから客が増えて忙しくなりそうだ。
食堂の調理場ではすでに一真の父と母が料理を始めていた。今日は勉強会のため特別に昼食をこしらえてくれるそうだ。
「お待ちどおさま」
一枚の大皿に盛られた大量の唐揚げと、キュウリ、トマト、ブロッコリー、レタスのサラダ。皿の端には六切れのレモンと山盛りのマヨネーズ。さらにお碗にてんこ盛りのご飯。薄味でパリパリ食べられるお新香。滋養たっぷりのみそ汁。
「友達が来るって言ったんだから、もうちょっとマシなの用意してくれよ」
時尾は一真を向いて頭を振り、「いやいや、これは見事なご馳走だ」と言った。
実際に時尾、渚、陽太、柚葉の四人は箸が進んだ。店で出る唐揚げはなぜか旨い。レモンを絞ると肉の甘味が引き立つ。サラダはマヨネーズなしでいけるぐらい新鮮だ。塩こんぶと鷹の目の輪切りが入っている白菜のお新香でご飯が進む。具沢山のみそ汁は味が濃く、風呂上がりの体にありがたい。
一真と佳奈は四人の食べっぷりに感心した。
「毎日こんな美味しいものを食べられるなんて本当に羨ましいわね」と渚が言った。
「うちは休みの日もお金を渡されて自分で買うから味気ないの」と柚葉。
「休日に学校の友達と食べるだけで一味違うよな」と陽太。
彼らは大量の料理をぺろりと平らげた。お茶を飲んでいると、風呂上がりの客が食堂に入ってきた。
「さて、眠くなる前にもうひと頑張りしよう」と一真が言った。
五人は化学と物理を、佳奈は理科を。座敷席で食べていた客の半分は帰り、残りの半分は休憩する。皿を洗う大きな音、それを圧するさらに大きなテレビの音。それらはいつしか止み、客たちの昼寝の時間、一真の両親の遅い食事の時間になった。
静かになるとかえって勉強がしにくくなった。高齢者のいびきの音も眠気を誘う。
「これはたまらん。三十分ほど眠ろう」と時尾が言った。
「さんせーい」
彼らはテーブルにうつ伏せになるか、椅子の背もたれに寄りかかって目をつぶった。開けた窓から入る風でレースのカーテンが大きく揺れ、彼らの髪や頬をそっと撫でる。
催眠術が解けたかのように、六人は三十分後に同時に目を覚ました。
「次は古文と漢文だ」
「私は漢字を覚えるね」
頭がすっきりし、勉強が捗った。難解な古文もすらすら読めた。漢文はハートで理解できた。漢字は書けば書くほど身についた。外は雨がようやく上がり、雲間から弱々しい光が漏れた。小鳥がさえずり出し、まるで新しい朝を迎えたかのようだ。
仮眠後の集中力は四時過ぎで切れた。彼らは最後にもう一度温泉に入ることにした。高齢の客が何人もいるので、さっきのように自由に話ができなかった。
「一真くんは今日はお休みか」と、彼を知る常連客が話しかけてきた。
「休みというか、クラスメイトと勉強会です」
「ほう、感心だな。大人になると学ぶ時間がなくなる。上司に叱られて仕事を覚えるんだ。だから今のうちにいっぱい友達と勉強しておくんだよ」
湯に浸かっている他の客も「そうだそうだ」と頷き、さまざまな経験を語る。一真と陽太は大人社会の厳しい話を聞いていると、テストなど嫌なことがあっても、まだ学生の方が幸せだと感じる。それに年寄りのシワだらけの顔、たるんだ肌、禿げた頭などを見ていると、自分たちの方が若く魅力的だと感じる。これからどんな人生を歩むとしても、自分がこんな平凡な大人になるとは想像できない。
「よし。上がってラストスパートをかけようぜ」と一真が言った。
六人は食堂の席に戻った。高校生は日本史と地理を、中学生は社会科を。暗記中心なので、自然とぶつぶつ口に出して読んでしまう。それは誦経のように窓から夕焼け空に染み渡った。カラスが鳴き、寺の鐘が響く。入湯客は家に帰る。早めの晩酌を始める時間だ。
「よし。このへんで終わりにしよう」と、時尾が宣言した。みんなで筆記用具や本をしまう。一真の母は機械でかき氷を作る。
「おれはレモン」
「私はブルーハワイ」
時尾たちも遠慮せず注文する。
「おれは抹茶で」
「メロン味でお願いします」
「私はイチゴ」
「おれも佳奈ちゃんと同じブルーハワイで」
勉強後のご褒美のかき氷はまた一段と旨かった。男子は変色した舌を出し合った。女子も面白がり、遠慮がちに舌先を出した。急いで食べた陽太と渚は頭がキーンとなり顔をしかめた。佳奈は二人の顔を見て、腹を抱えて笑った。
「また勉強会を開こうね」と柚葉が言った。
夏休み一週間前にテスト結果が発表された。合宿が功を奏したのか、渚も陽太も赤点を一つも取らなかった。彼らは安心して夏休みを迎えられそうだった。
共にテストという試練を乗り越えた五人は放課後、セミールのフードコートでささやかな打ち上げを行った。ソフトドリンクで乾杯し、夏休みの過ごし方について話し合った。
「今年が人生で最後の、遊びに集中できる夏休みになるかもしれない」と、時尾が重々しく言った。
「来年は受験があるからね」と柚葉が顔を曇らせる。
「就職したら仕事漬けになるからな」と一真が続けた。
「そんなつまんない顔すんなよ。悪いことより楽しいことを考えるんだ」
「そうよそうよ。せっかくこの五人で仲良くなれたんだから、休み中も時間を見つけて集まりましょう」
「前に陽太から聞いたけど、鯉泉で大きな夏祭りがあるんだって?」
「そうだ。鯉泉が一年で唯一、大混雑する日だ。通常は八月の第四土曜日に開催される。まさに夏の最後の思い出だな」と一真。
「鯉泉の人って、わざわざお祭りに行かないんだよね。家の二階とかからよく見えるから」と柚葉。
「県外から旅館に泊まりに来る人もいる。私が小さいころ、いとこたちがよく泊まり込みで遊びに来たっけ」と渚。
「近くでやってるのに一度も現場に行ったことがないのも残念だから、今年はみんな揃って行こうぜ」と陽太。
「もちろん浴衣着用な」と時尾。
「じゃあこの後、二階の浴衣を見に行きましょう」と柚葉。
時尾は鯉泉駅前で四人と別れた後、自転車を漕ぎ一人で学校に戻った。
寮内はいつもより騒々しかった。ラウンジに集まった寮生たちは、テストの結果について話をしていた。田舎は誘惑がなく勉強に集中できるというのはほんの一部で、虫の鳴き声に邪魔された、ホームシックで塞ぎがちだった、田舎のゆるくスローな空気のせいで競争心がなくなったなどで、点数が下がったという人のほうが多かった。
最も心配なのは笹原直人だ。彼はこれまで付き合ったことのないタイプの男子二人と親しくなり、その影響をもろに受けた。テスト前なのに彼らと対戦ゲームに熱中した。彼らからいかがわしい本を借り、たまに勉強をしてもそわそわした。ろくに準備もできないうちにテストを迎えた。点数は平均点をやや下回った。
さすがにショックだったのか、彼は食堂でおとなしく早乙女蘭の説教を聞いた。時尾は彼らの対面に無言で座り、遠くに目を向ける。夜の虫が入ってくるのでテラス席は閉鎖中だ。窓には虫が衝突した跡が点々としている。
「こんな成績じゃ、親に合わせる顔がないよ」と、直人が蚊の鳴くような声で弱音を吐いた。
「終わったことだから仕方ないわ。ここで何があったのか正直に伝えるのよ」
「そうするしかなさそうだね。今から気が滅入るな」
「先輩たちは実家に帰るんですか」と時尾が聞いた。
「ええ。さすがに休みが長すぎるから」
「両親も久しぶりにぼくに会いたいっていうし」
「実家での予定は?」
「向こうの友達と遊ぶの。首都での流行に疎くなっていないか心配ね」
「ぼくはずっと勉強だろうな。予備校の夏期講習に行かされるかも。はぁ、本当に帰りたくない」
「明音ちゃんも歩くんも帰らないそうです。鯉泉でヒマしそうって、今から心配してますよ」
長い長い夏休みになった。校内が不気味なほど静かになった。セミが延々と鳴き、校庭の陽炎が延々と揺らめく。太陽が嫌がらせのようにゆっくり昇り、地上をジリジリと焼き、またゆっくり西に没しつつ最後の光で寝苦しい夜を約束する。楽しく充実したことがなければ、時間は一年のどの時よりも漫然と流れた。
新沢えりかはゆううつだった。◯◯大学附属高校の多くの教員は年次休暇を持て余し、比較的忙しくない夏休みに集中的に休みを取るのだが、エスカレーター式ではない鯉泉高校では三年生を対象に夏期講座を実施する。もちろん教員も休めず、授業をし、生徒に付き合わなければならない。
「ああ、マジで嫌になる」
生徒の前ではクールな顔をしている風間慎二だが、職員室に戻るなり悪態をついた。鯉泉高校は当時の他の学校と同様、まだ教室にエアコンを導入していなかった。冷房があり涼しいのは職員室だが、そこの居心地だって決してよくはない。
「このぐらいの暑さで音を上げるとは、首都の若い先生は繊細なんですね」と、倫理の石川昌彦が嫌味を言った。自分は夏に担当する授業がないので、暇そうに新聞を眺めている。彼こそ休めばいいのに、それで立派に出勤した気なのだからタチが悪い。
風間は自分の席に座り、向かい側の新沢に話しかける。
「いつもなら海外旅行でもするのに、鯉泉みたいな片田舎の、蒸し風呂のような教室で授業するなんて、ぜんぜん割に合わないな」
「そうねえ。生徒たちも暑くて苦しそうだし、いっそのこと自宅で自習にしたほうが効率よさそうなのに」
五分ほど休むと、風間も新沢も次の教室に向かった。午後の校庭からは陸上部顧問、小野寺大輔が吹く笛の音が聞こえてくる。
「休憩休憩! 木陰に避難だ!」
「こんな日に部活なんてどうかしてるわ」と、新沢は呆れてつぶやいた。
定時で帰れるのが唯一ありがたいことだった。午後五時のチャイムが鳴ると、職員室の教員たちは帰り支度をした。新沢は風間から、
「一緒に帰らないか」と誘われた。
「ごめん。ちょっとやること残っているから」
彼女は意図的に風間を避けた。異性として興味がないわけではないが、彼とペアになることで他の同僚と親しくなるチャンスを失いたくなかった。
教員の多くは車で学校と自宅の間を行き来する。電車を使うのは風間だけ。徒歩で通えるのは新沢と化学の佐伯理沙だった。
「えりかちゃん、まだ残ってたの」
「理沙ちゃんこそ」
佐伯は卓球部に顔を出してきたところだった。体育館は直射日光を避けられるが、風通しが悪く熱がこもるので、熱中症対策が大変だという。
「私なんか球が三つぐらいに見えたわ」
二人は揃って校門を出た。外はまだ昼のように明るく、太陽がカンカン照りだ。商店街の石畳には熱気がこもり、淡い陽炎を帯び、じっと見ていると目がくらむ。
「あぁ、近いはずの家に帰るだけでも一苦労だわ」
「ちょっと甘味処に寄っていかない?」と佐伯が誘った。
その店は足湯の隣にある。夏だというのに地元の高齢者が集まり、素足を湯に浸しながら話をしている。
「うちは嫁や孫がエアコンを入れて寒いから」
「夏の冷え性対策にはやっぱりこれよね」
「私の代わりに部活を見てくれたらいいのに」と、佐伯が小声で言った。
彼女たちは紫色の暖簾をくぐり、格子戸を引き、甘味処に入った。商店街の多くの店と同じく、中は急に入ると頭がぼうっとするほど薄暗く、目が慣れるまで時間がかかる。
「いらっしゃい。理沙ちゃん久しぶり。そちらは?」
「首都から来た先生で、同僚です」
「首都から!? なんにもないところだけどゆっくりしてってね」
二人は外の様子を一望できる窓際に座った。さっきまで体育館で楽器を鳴らしていた吹奏楽部の部員たちが街を歩く。下校中はさすがに晴れやかな顔だ。夏バテなどどこ吹く風で、肉屋で買った熱いコロッケをぱくぱく頬張っている。
「こんな季節にコロッケだなんて」と、新沢が呆れて言った。
「私も昔はよく買い食いしたなぁ。みんなでたまに食べると美味しいのよね」
新沢は冷たい水菓子。佐伯はミニサイズの抹茶パフェ。
「失礼だけど、理沙ちゃんっていくつ?」
「先月二十七になっちゃった。えりかちゃんは?」
「二十九。もうすぐ三十になるけど」
「三個上だったんだ。先輩って呼んでいい?」
「やめてよ学生じゃないんだし。大人になったら三個差なんて誤差よ」
新沢は菓子切を使い水饅頭を口に運ぶ。すぅっとした甘み、こしあんの滑らかな舌触り、程よい弾力がありぷつりと噛み切れる皮。首都でもなかなか見ないクオリティの高さだ。
「近くにこんな穴場があったなんて」
「穴場なんてとんでもない。時間によっては並ぶこともあるんだから」
佐伯はパフェをあっという間に平らげた。甘いものを食べた幸福感、汗が引いた後の気だるさで、まったく動く気がしない。
「えりかちゃんはよく風間先生とお話してるけど、付き合ってるの?」
「まさか。私ああいう人は好みじゃないの」
「じゃあどんな人がタイプ?」
「そうねえ。実直で、信頼できる、思いやりのある人がいいかな」
「なんか恋人より結婚相手って感じね」
「そうよ。どうせもうおばさんだし」
「ちょっと待ってよ。今どき二十代ならまだまだ若者よ。それにえりかちゃん美人だし」
「私が? 冗談でしょう」
「ううん。同じ女の私から見てもとっても魅力的よ」
「理沙ちゃんだって。知的なお姉さんって感じで、男子から人気あるそうね」
「からかわれているだけよ。私って甘いから」
「やさしいのよ。見ていて分かるわ」
二人ともお茶を一口すすった。夏らしく薄味で、ほのかな甘味があり、舌の上にさらりと広がる。外はようやく夕方らしくなり、石畳がオレンジ色に輝いている。八百屋のおじさんがホースで打ち水をすると、細く濃く鮮明な虹ができた。
「えりかちゃんは夏休みに予定ある?」
「ぜんぜん。ただ首都には帰らない。交通費も馬鹿にならないし」
「そう。だったら休みの日に一緒に遊びにいきましょう」
「いいね。どこか面白いところあるの?」
「ちょっと遠いけど海なんてどうかしら。いちおう私、免許持ってるから」
「海に? でも私もう……」
「それ以上言わないで。学校の先生だって、まだ若いんだからたまには羽目を外したっていいでしょう」
「海か……青春ね」
「そうよ。私たちの夏の思い出を作りましょう」
夏休みの前半戦。時尾は八月に楽しい予定が目白押しなので、七月は落ち着いて勉強とバイトに励むつもりだった。
月末に一回、英語部の活動があった。時尾は寮の涼しい食堂で昼食を取り、人が少なく静かなラウンジで休憩した後、蒸し暑い校舎に移動した。
部員の集まりは悪かった。いつもの半数ぐらいだろうか。男子は時尾だけだ。しかも顧問の新沢が授業で遅れてくるので、窓を全開にしても空気が動かない二階の空き教室内には、消化試合のような弛緩した雰囲気が漂っていた。
「遅れてすみませんでした」と、桜庭多枝が謝りながら教室に入ってきた。
「まだ先生来てないからだいじょうぶよ」
多枝が来ると、静かにしていた女子が活気づき、争うようにして彼女に話しかけた。夏休みの一週目にあったこと。ちょっと離れていただけなのに学校の友達が恋しくなったこと。今後の予定について。
「私? たぶん勉強して、バイトして、たまに息抜きしてって感じじゃないかしら」
「だったら私たちとセミールにでも遊びに行こうよ。洋画見て、ドーナツ食べて、英語の本を買って」
「英語を第二言語とする鯉泉国にショートステイって感じかしら」と多枝が言った。
それで本気になった英語部の女子たちは、熱心に夏季短期留学の計画を立てた。英語の環境にどっぷり浸るにはどうすべきか。友達同士では英語を使う。今宮駅に行き英語で外国人観光客と交流を試みる。外国人に人気のシェアハウスでバイトをする。一人でいる時も洋楽や洋画を鑑賞する。工夫次第で英語力はいかようにも磨くことができる。
時尾は彼女たちの会話を聞きながら微笑ましく思った。英語、外国、新しい世界、未知の自分。一からのやり直し。
多枝は女子たちと話すばかりで、時尾には目もくれなかった。彼女たちが次の土曜にセミールに、日曜に今宮に行くことを決めると、ようやく顧問の新沢が顔を出した。
「ちょっと休み中に、五組の生徒に問題があって」
「誰に、何があったんですか」と時尾が聞いた。
「三上さんが昨夜、今宮で警察に補導されたそうなの」
三上とは首都から来た寮生で、常日頃から鯉泉はシケていると不満をこぼしていた。親とは関係が悪く夏休みも寮に留まっているが、退屈し、男遊びがしたくなった。今宮でナンパされ、無理にラブホテルに連れて行かれそうになり、途中で警察に見つかったということだ。
「その子いま学校に来ているんですか」と多枝が聞いた。
「職員室にいるけど、どうして?」
「ちょっと話をさせてください」
新沢は出ていく前に部活の解散を宣言した。多枝がいなくなり、つまらなくなった女子は早々に帰宅した。時尾はせっかく校舎まで来たので図書室で過ごすことにした。
図書室は冷房が効き快適だった。休み中で利用者が少なく、エアコンの独特な音が響き、眠気を誘う。時尾はなんとなく手にした推理小説を読む。出だしから引き込まれ、時間を忘れてページを捲る。ふと、自分を呼ぶ声を聞き、振り返る。
「ここにいたんだ」と多枝が言った。
「話はもういいのか」
「ええ」
「これからバイト?」
「うん。あなたもでしょう」
「時間が中途半端に余ったな」
「あの、良かったらこれから寮を案内してくれない」
「いいよ」
二人は玄関を出て、校庭を大きく迂回しながら寮を目指す。今日は運動部が休みらしく、校庭にレーキの跡がついている。
「三上さんはどんな様子だった?」
「しょんぼりしてた。もう危ない真似はしないと思うけど、心配だからたまに声をかけないと」
「親切なんだな」
「他人事とは思えなくて、放っておけないの」
涼しい寮に入ると自然にくしゃみが出た。多枝は「わぁ」と感嘆を漏らし、開放的なラウンジを眺める。革張りのソファー、大きな古めかしい掛け時計、洒落た私服の寮生たち。
「学校の中にこんな異世界があったなんて」
時尾は一階の施設を紹介した。寮生全員を収容できる食堂、品数豊富な自動販売機、こまめに清掃されているトイレ、パーティーなどのイベントで重宝するキッチン、卓球を楽しめる運動部屋。
「ふうん、私たちの学費はここに消えていたのね」
「そう言われると心苦しいよ」
「せっかくだから遊んでいきましょう」
ドアを開くと、締め切っていた部屋から熱気がむっと溢れ出した。時尾はドアの隣にあるリモコンで冷房をオンにする。冷たい風が頭上から降り注ぐ。まだ息苦しいから、ドアは開けっ放しにする。
二人とも卓球は少しだけ経験があった。ラリーが続き、空洞の球が一定のリズムでカツカツと音を発する。しばらくは無言だったが、感覚を取り戻すと話をする余裕が生まれた。
「鯉泉では夏祭りがあるそうだね」
「ええ。実は私もまだ一度も行ったことがないんだけど」
「意外だな。もったいないよ」
「それもそうね。今年は思い切って行ってみようかしら」
「クラスの友達と遊びに行く約束をしてたんだけど、その時にきみと二人で会えないかな。一緒に花火を見てみたい」
多枝はラケットで球を捉えそこね、空振りした。球は卓球台から飛び出し、バウンドしながら窓の方に転がっていく。多枝はそれを取りに行くのではなく時尾を見ながら立ち尽くしている。
「誘ってもらえるなんて本当にうれしい。ありがとう」
彼女は照れ笑いを隠すように背を向け、球を追った。時尾の背後、ドアの外の廊下を、上の階から下りてきた歩が一人で通り過ぎていった。




