六月
梅雨を前にして衣替えが行われた。男子は黒の学生服から白のワイシャツへ、女子はグレーのブレザーから白と紺のセーラー服へ。曇り空で暗くどんよりした校内がぱっと明るくなり、体感温度が下がった。
ある日の休み時間。時尾は前の席の陽太から「夏休みは予定あるのか」と聞かれた。
「いや、特にないな」
「そろそろバイト始めないか? カネがないとどこにも遊びに行けないぞ」
「なんの話だ」席が離れている一真が会話に加わった。
「お前んちアルバイト募集してない?」
「忙しいけど、家族だけでなんとかやっている」
「どっかに時給が良くて楽なバイトないかなぁ」
「近くなら駅前のコンビニかスーパーってところか」
「どっちも客に知り合いが多すぎて嫌なんだよ」
「だったらセミール通りにでも行くんだな」
「おれはべつにスーパーとかでも構わないけど」と、時尾が言った。
「しかし急にバイトなんてどうした? お前らしくもない」と、一真が陽太に聞いた。
「いやだっておれたちもう高校二年だろ、来年は受験だろ、夏休みに遊べるのは今年だけだ。海にでも行って、かわいい子をナンパして、男として一皮むけないと」
「確かに。おれも今のうちに遊んでおきたいな。学校、家業、会社のどれかに縛られる前に」
「二人ともいい心がけだな。おれもバイト頑張るから、おれたちで最高の夏の思い出を作ろう」
彼らは黒板の前で談笑する渚と柚葉を見ながら、「男だけの秘密だぞ」と誓った。
午後の授業が終わると、時尾はさっそく駅前を訪れた。
地元スーパー「さがらや」は建物が古いが、豊富な品ぞろえ、新鮮な生鮮食品の安売り、アットホームな接客で近隣住民に愛されている。駅に無料駐車場がないため、さがらやの広い駐車場に車を停め今宮方面に遠征する人や、今宮の学校から帰って来る子を待つ親にとっては便利だ。店も彼らのニーズに合わせ午前七時に駐車場を開放する。性善説に基づく、持ちつ持たれつの関係が成り立っている。
時尾は寒いぐらい冷房が効いた店内に入り、ピンポン玉を置けば転がりそうな床を歩いてレジに近づき、中年女性に「アルバイトを探しているんですが」と聞いた。
「てんちょー、ちょっと来てくださぁい」
駆けつけたのはレジの女性より若い、三十代前半ぐらいの男性だった。彼は時尾を連れて店の裏に回り、狭い事務所に入った。二人はギシギシと音を立てるパイプ椅子に座って向き合った。
「バイトの経験は?」
「あり、ありません」
「その制服は鯉泉高校の生徒だね。地元なまりがないみたいだけど」
「寮生です」
「あぁそれで。鯉泉の生活はどう?」
五分ほどよもやま話をすると、店長は採用を決めた。
「じゃあこの履歴書に書けるところだけ記入しておいて」
「証明写真は……」
「なくてもいいや」
店長はまた誰かに呼ばれ出ていった。入れ違いで、夕方五時から働く店員が事務所に姿を現した。一人だけ若い女子高生が目立つ。
「えっと、確か時尾くんだよね」
「桜庭さん。ここで働いてたんだ」
「うん。時尾くんは面接に来たの?」
「もう採用だって」
「私の時と同じだ。これからよろしくね」
桜庭多枝は他の同僚とともに慌ただしく更衣室に移動した。時尾は用紙に記入しながら、彼女が年長者の話に巧みに相槌を打つ声を聞いた。
「書き終わったね、よしよし。早速だけど明日から来てもらえるかな」と、戻ってきた店長が言った。
時尾はついでに買い物をすることにした。カートをガタガタ押し、ジュース、スナック菓子、ティッシュ、文房具などをカゴに入れる。店内は仕事を終え、保育園や幼稚園から子供を引き取ったばかりの親が多い。作業服姿の父親や、会社員風の若い母親らが食材を選ぶ間、子供はお菓子のコーナーに群がる。どこも一緒だ。
彼はバイト中の多枝に声をかけようとしたが、彼女のレジの前だけ長い列ができていた。そこと向かい合う隣のレジを利用すると、店員から話しかけられた。
「多枝ちゃんの同級生なんだって?」
「はい」
「いい子だから逃すんじゃないよ」
「は、はぁ……」
振り返ると、おばあさんが細かいお釣りを出すのに困っている。桜庭多枝は粘り強く、「あと十円です。それは五円なので、あと五円です。はいちょうどですね」と対応した。後ろの客が焦れて怒り出しそうなものだが、並んでいるのはいずれも時間がかかりそうな、心得顔の高齢者ばかりだ。
「で、バイトどうだった?」
「今日からさがらやで働くことになった」
「お前どういう行動力してんだよ!? しょうがねえ、おれも覚悟を決めて探しに行くか」
最初の一週間は多枝がサポートしてくれることになった。彼女は時尾の飲み込みの早さに感心した。
「きみの教え方が上手だから」
店は九時で閉店となった。時尾と多枝は一緒に店の裏を出て、駅の小さな緑地に置かれているベンチに座った。夜の駅は寂しく、蛾が照明や街灯に群がるばかりだ。
「英語の発音きれいだね。どこで習ったの」
「子供のころに英会話教室に通ってて」
「この近くにあったっけ?」
「土日に今宮のほうで。小学校でやめちゃったけどね」
そう言うと彼女は夜空を見上げた。月のような丸顔。老若男女を問わず好印象を与える飾り気のない笑み。その口から溢れ出る前向きな言葉。
「わたし大学生になったらやりたいこといっぱいあるの。勉強も、運動も、バイトも、遊びも。ぜんぶ楽しもうとしたら時間がいくらあっても足りないわ。だから今のうちにできることをやっておきたいの」
「おれもこの一年の交換留学中に経験したいことが山ほどある。高校二年の生活を楽しみ、鯉泉のことをよく知りたいんだ」
「一緒にがんばろうね」
「きみには負けないぞ」
多枝は時尾に手を伸ばした。相手を異性と過度に意識しない鷹揚な態度で。彼はその信頼に応えるため、細く白く滑らかな手を包むように、しっかり握った。
今宮方面行きの電車到着五分前になった。
「隣町から電車で通っているの。私も鯉泉は詳しくないから、時間のある時に一緒に遊びましょう」
時尾は電車が遠ざかり、完全に音が聞こえなくなるまで駅前に立ち、それから踵を返して学校に戻った。
十時前。彼は寮の食堂で作り置きしてもらった料理を温め、一人で食べた。まるで見えない友達と食べているかのように、時に笑みを浮かべつつ。
曇りと小雨と時々晴れが交互に訪れるはっきりしない天気に惑わされた気象庁も、ついに思い切って梅雨入りを発表した。その決断を嘲笑うかのように、発表翌日は快晴となったが、その後はおおむね雨が続いた。風が吹かず湿度ばかり高い日が続き、全国の不快指数が高まった。
外から通う生徒は傘の下の狭い空間に身を縮め、足元の水たまりや車からの水はねに注意しながら、窮屈そうな顔で登校した。寮生の一部、特に男子は傘を差す手間を嫌い、寮からダッシュで校舎に入った。
校内のあらゆる壁が大汗をかいた。床が湿り気を帯び、歩くと靴がキュッキュッと鳴る。窓が多い廊下はまだしも、教室に入ると人の熱気が加わりもわっとし、ここまで歩いてきた生徒たちの頭から汗が吹き出る。
「せっかく髪型セットしてきたのに」
「倫理の石川って、いつも髪型ビシッと決めてるよね」
「あれヅラなんだよ。知らなかった?」
一時間目のチャイムと共に、石川昌彦が二年五組に入ってきた。
「それでは授業を始める」
石川は西洋の哲学や宗教について講義した。朝から眠くなる授業だ。十分もたたないのに生徒の半数近くが船を漕いでいる。石川は長いチョークをへし折り、
「まったく五組はこれだから。上の担任がしっかりしないと下の生徒もたるむようだな」と苦言を呈した。
「新沢先生がどうしたんですか」と、ある女子が聞いた。
「教員だというのに派手な色の服を着て。聖職者としての自覚がないのか。だいたい最近の都会の若者は……」
授業の残りは現代日本人のアイデンティティになった。彼が知った顔で若者のことをあれこれ論じると、完全に眠っていた生徒まで目を覚まし非難の声を上げるほどだった。
一真は授業後、「まったくいちいち憎たらしい野郎だ」と忌々しそうに言った。
「お前なんか家の手伝いをして、地元の人のために働いているから、石川先生あたりからは気に入られそうだけどな」と時尾が聞いた。
「だからムカつくんだ。石川なんかに認められる、つまらない人生なんかまっぴらごめんだ」
雨なので体育は保健の授業になった。男女共修の保健はセンシティブで、気まずくなりがちだが、担当の小野寺大輔は自分の若い頃の話をすることで必要な知識を巧みに伝えた。性の目覚めと葛藤、初体験と避妊、結婚と出産、現在の夫婦生活。
「先生って今も奥さんと、その、やってるんですか」と、陽太が思い切って聞いた。小野寺は当たり前だとばかりに大きくうなずく。どよめく女子。
「愛とは口先だけでなく責任ある行動で示すものだ。それが一時の恋と永遠の愛の違いだ。テストに出すからよく覚えておくように」
四時間目終了のチャイムが鳴った。生徒たちは雨で行き場がないので、教室で弁当箱を開く。さまざまなおかずの匂いが狭い室内でミックスする。それは職員室も同じだった。
風間は椅子から立ち上がり、新沢を見下ろして、こう言った。
「今日もスーパーで買っておいた弁当か」
「いちいちチェックしないでよ」
「梅雨時だし、食中毒になっても知らないぞ」
「はいはい」
化学を教える二十代後半の佐伯理沙は、隣の席の小野寺に話しかけた。
「おや、小野寺先生は今日も愛妻弁当ですか」
「うん」
「お米に唐揚げに焼きそばと、すごいボリュームですね」
「生徒指導なんだから、生徒に負けないぐらい食べろって。どんな理屈なんだろうね」
石川は自分の席で一人、業者が届けてくれた弁当を食べている。子供がまだ学生だったころは妻が彼の分まで一緒に作ってくれたが、今は彼の方から作らないよう頼んでいる。夫なんかのために時間を費やすのは無駄。きみはもう自由に、好きなように生きてくれ。
今日も六時間目の授業が終わった。新沢えりかは職員室に戻り、雑務に取り掛かった。期末テストまで時間があり、雨で休みになる部活も多いので、職員室内は気の抜けた雰囲気だった。
新沢が立ち上がり、大きな水たまりができている校庭を眺めていると、隣に理沙が立った。
「新沢先生ですね」
「佐伯先生」
二人は今までほとんど会話らしい会話をしたことがなかった。歳が近い独身の同性で、意識というか警戒していたからだろう。しかし二人は今、それがまったく不要であることに気づいた。
「えりかちゃんって呼んでもいい?」
「もちろんよ理沙ちゃん」
理沙はメガネをかけ、髪をポニーテールにし、形の良いおでこを出している。知的で落ち着いた印象で、ややそそっかしい新沢とは相互補完できそうだ。
「へえ、首都の大学を卒業したんだ」
「うん。あっちに四年間いたんだけど、やっぱり私には合わない、鯉泉に戻りたいって思ったの」
「私も長くいたら鯉泉の人間になるかも」
「そうかもね。こっちのほうが生活がスローで、人間らしいと思わない?」
「確かに」
「それに首都は人が多いけど、本当に私のことを知り、気にかけてくれる人はほとんどいない。大成功でもしないと誰からも注目されない。なんだか虚しくなっちゃった」
「分かる気がする。あっちではどこまで行っても自己完結できないのよね」
「競争で神経がすり減るばかり。心がちっとも豊かにならない」
「そうそう」
理沙は卓球部の顧問で、そろそろ体育館まで部員の様子を見に行く時間だ。彼女は新沢に「お話できて嬉しかった」と言い、職員室を出ていった。
新沢はいつもより早めに退勤した。教職員住宅に戻る前に駅前のスーパー、さがらやに寄る。古い店で、外から見ると心なしか傾いて見える。駐車場は穴だらけ。それなのに客は少なくない。その理由は新沢にも分かる。弁当や惣菜の量が値段の割には多く、しかもまずまず美味しいからだ。
彼女は店内を歩き、買うものをカゴに入れる。プライバシーが気になるので英語部の桜庭多枝がいないレジに並ぶ。そのレジに立つ若い男は、研修中の札をつけている割には素早くバーコードを読み取り、年寄りの客に合わせて大きな声で接客している。聞き覚えのある声だ。
「新沢先生」
「時尾くん」
「仕事帰りですか」
「ええ」
ピッ、ピッ、半額です、ピッ、半額、半額です……。
「いっ、いちいち読み上げないでよ」
「割引を忘れないようにするためのマニュアルです」
「おっす、ヒマだから様子見に来たぞ」
セミール通りまでバイトを探しに行ってた陽太だった。彼はレジの前に立ち赤面している担任に気づいた。
「半額のメンチカツとコーンサラダ、それに缶チューハイ。一人酒は体に悪いらしいっすよ」
「ほっときなさいよ」
「半額の鮭弁って、もしかして明日の昼飯!?」
「ケチで悪かったわね」
「学校の先生は忙しいのに安月給で働いてくれるんだから、あんまり迷惑かけるなよって、よく親父に言われるんす」
「なんで教え子に同情されてんの私?」
新沢は大急ぎで商品をレジ袋に入れ、スーパーを出た。陽太はレジ打ちを続ける時尾に、「おれもバイト見つかったんだ」と言った。
「へえ、どこで?」
「ハンバーガー屋。時給はフツーだけど、かわいい女子高生や女子大生が多かったからさ」
「それはいいモチベーションになる。がんばれよ」
時尾と違い、寮生の多くはあまり活動的ではなかった。一年はあっという間に過ぎ、また首都に帰るのだから、部活やバイトにまで手を広げる動機はあまりない。そのためどうしても寮生どうしで固まりがちだった。
さがらやから戻った時尾は、今日も一人食堂で夕飯を食べた。献立は毎日変わるので飽きることはない。健全な心身に健康的な食事。労働を終え疲れた体に滋養が染み渡る。酒など飲む必要はない。
「時尾くん」
笹原直人は時尾の隣に座った。話したいことがあるらしいが、もじもじしている。
「こんな遅くに何かありましたか」
「いやその、実は次の土曜日は蘭の誕生日なんだ」
「早乙女先輩の? 親元を離れて初の誕生日か。寂しそうですね」
「そうなんだ。それでささやかなんだけど、ぼくらでパーティーなんか開いてあげたらどうかと思って」
「いいですね。他に誰か声をかけましたか」
「明音ちゃんと歩くんに。彼女、寮には他にそれほど親しい人がいないし、それにサプライズでやりたいから少人数がいいかと思って」
「おれに協力できることはありますか」
「時尾くんはスーパーで働いているんだろう。ケーキを予約しておいてくれるかな。それから当日は手料理を振る舞うから食材を調達してほしい」
土曜日は梅雨の中休みで晴れだった。寮生たちは共用の洗濯機をフル稼働させ、溜まっていた洗濯物を狭いベランダに干した。
直人は午前中、食堂で五人分の夕食をキャンセルしてから、蘭を誘い外出した。夕方まで時間を稼ぐ計画だ。時尾、明音、歩は昼前にラウンジに集合した。
「どこか近くでお昼ごはんを食べてからスーパーに行こう」と時尾が提案した。
彼ら三人は商店街を歩いた。久しぶりに晴れたからか、石畳の上を歩く人が普段より多い。足湯があるスペースの周辺では青、紫、白のアジサイが咲き競い、殺風景になりがちな梅雨時の街を美しく彩る。温泉水が流れる水路からは湯気と硫黄のほのかな匂いが立ち昇り、首都を離れた寮生たちの旅情をかきたてる。
「なんか修学旅行みたい」と西村明音が楽しそうに言った。
「よく見ると鯉泉にもいろんな名物があるんですね」
広沢歩はそう言うと、街の飲食店を指さした。ある居酒屋は魚の形をした「鯉泉餃子」を出し、地元の情報誌で話題になっている。時尾がもう食べたことのある肉屋の窓からは揚げたてのコロッケの香りが漂い、列に並ぶ近所の常連客の鼻腔をくすぐり、食欲をそそる。地元のカップルは甘味処の軒先の縁台に座り、あんみつを食べながら休日のひとときを涼しげに過ごす。黒猫はブロック塀の上を歩き街を巡回する。かわいがってくれそうな人を見つけると道に飛び降り、その足元にすり寄り猫なで声を出す。
三人はラーメン店に入った。やや狭いテーブル席に座り、当店オススメという「鯉泉ラーメン」を頼む。正面の引き戸から日が差し込むだけで店内は薄暗いが、それがかえって落ち着いて良い。
「近くに住んでいるのにぜんぜん入ったことがなかったなあ」と歩が言った。
「そんなものよ。私の実家の近くに有名なお寺があるけど、ほとんど行ったことないもん」
「しかし先輩たちは今ごろ何してるんだろう」と時尾。
「あの二人ってどうなってるんですか?」
「ただの幼馴染には見えませんけど」
「さぁどうだろうね。ところで明音ちゃんはこっちで気になる子はいないの?」
「どうせすぐ首都に帰っちゃうから、ちょっと遊んでやろうかっていう軽い男しか寄ってきませんよ」
「軽い男? そうか、そう思われるのか」
「あー、歩くんはべつね……」
ちょうど注文した料理が届いた。普通の煮干し醤油ラーメンで、鯉の出汁や魚肉が入っているわけではない。
明音と歩はレンゲを使い、スープが飛び散らないよう麺をすする。時尾は少しだけコショウを振る。
「ところで時尾先輩、あの後、聞いてもらえましたか」と、歩が言った。
「なんのことだっけ」
「ほら、歩くんが好きな人のことですよ」
「そういえばこないだ柚葉と二人で話をしたな」
「二人きりで!? ぼくに抜け駆けでずるいですよ」
「たまたま一緒になっただけさ。その時にちょっと話したんだけど、どうも柚葉、かなりモテるらしい」
「そりゃあそうでしょうね」
三人は冷めないうちに麺をすする。名前負けしているが意外と病みつきになる味だ。ところが歩は最後にスープを一口飲んだだけでレンゲを置いた。
「それで、どんなタイプが好きだって言ってました?」と、明音が時尾に話を振った。
「自分の気持ちを押しつけるのではなく、彼女の気持ちを大事にしてくれる人がいいって」
「それってどういうことですか」と歩が聞いた。
「一途で不気味な男に迫られて怖がっていた。ガツガツするのではなく、適度な距離感が大切かもしれない」
「となると、自然に会えるチャンスを増やしてかないとね」
「彼女けっこう図書室に来るぞ。勉強や読書をするふりをして、彼女とばったり出会ってみるといい」
「やってみます」
ラーメンで腹を満たした彼らは商店街を出て、駅前のさがらやに入った。最も客が少ない時間帯で、冷蔵庫の音が耳につき、レジにただ突っ立っていると眠くなりそうだ。しかしパートのおばちゃんたちはレジ越しに会話を楽しんでいた。
「誕生日パーティーって、なに作るんだっけ?」と明音。
「洋食だろうね。ピザとか、パスタとか、グラタンとか」と歩。
「二人とも料理は?」
「ぜーんぜん」
「家庭科で包丁を握ったぐらいです」
「仕方ないな」
時尾はカートを押し、冷凍ポテト、鶏もも肉、唐揚げの素、サラダ用の野菜、カレーの具材、カレールーなどを買い物カゴに入れる。
「誰が作っても失敗しない料理のオンパレードだ」
時尾たちはレジで会計を済ませると、ケーキを受け取るためサービスカウンターに寄った。そこには桜庭多枝が立っていた。
「あれ、バイトは平日だけじゃなかった?」
「松永さんが急に体調不良になって。ケーキなんてどうしたの?」
「寮の先輩が誕生日で、みんなで祝うことになったんだ」
「いいなぁ。寮の生活って憧れちゃうな。みんな距離が近くて仲良くなりやすいでしょう」
「最初は不安もあったけど慣れてきた。なかなかいいものだよ」
「あのぅ時尾先輩。私たち先に帰ってますんで」
「失礼します。お二人ともごゆっくり」
そう言うと、明音と歩は変な笑みを浮かべその場を立ち去った。
「二人とも寮の後輩?」
「うん。一緒の寮でなければたぶん付き合うことのなかったタイプだ」
「羨ましいわ。私もホームステイじゃなくて学生寮がある大学に留学しよっと」
多枝はそう言うと、店の裏までケーキを取りに行った。待つ間、時尾は店内を観察する。サッカー台の近くにはイートインスペースがあり、近所の高齢者が無料のお茶を飲み休憩している。そこで話をし、時間を潰した後、食べ物でも買って帰宅するのだろう。あるいは涼しくなるのを待ち、ふじた温泉にひとっ風呂浴びに行くのだろう。時尾はもう、彼ら利用客の半分以上の顔を知っていた。
「お待たせ。保冷剤どうする?」
「いちおう入れておいて」
時尾は、さがらやの臙脂色のエプロンが多枝によく似合うことに初めて気づいた。
「いつもなら土日はどう過ごしてるんだ?」
「家で勉強するぐらいかなぁ。私は隣町から通っているから、学校の友達とは家が遠くて、あんまり一緒に遊びに行かないのよね。あなたは?」
「特に予定を立てなくても、寮に住んでいると何かしら起こる。ぜんぜん退屈はしないよ。ほら、今日だって」
「例えばさ、暇な日に寮に遊びに行っても迷惑じゃないかな」
「もちろん大歓迎だよ。いつでも連絡してくれ。あっ、まだ電話番号とメアドを交換してなかったな」
二人はケータイを取り出し、しばらく操作した。
「おれからもたまに遊びに誘うよ。隣町からでも自転車ならセミールも遠くないだろう」
「ありがとう。じゃあパーティー楽しんできてね」
時尾はケーキを大事に抱え、商店街を歩いた。久々に顔を出した太陽がやけに眩しかった。
寮の一階のキッチンでは、歩と明音が買ってきた食材を調理台に並べ終え、時尾が来るのを待っていた。
「まずはカレーを作ろう」
二人の後輩は野菜の皮をむく。時尾は冷蔵庫を整理し、ケーキを入れるスペースを作る。
「野菜を切り終わりましたけど、次はどうするんですか」と明音が聞いた。
「カレールーの箱を見てごらん。その通りにやるだけだ」
「料理って意外と簡単ですね」と歩が言った。
彼らが野菜を炒めているうちに、時尾は鶏肉の下ごしらえをし、後でポテトと一緒に揚げるだけにしておく。生野菜で適当にサラダを作り、ラップをし冷蔵庫に入れる。実にシンプルだ。
明音と歩は仲良く肩を並べて煮汁のアク取りをする。どちらも真剣そのものだ。カレールーをどぼんと入れ、底が焦げつかないよう何度もかき混ぜる。
「もういいだろう。後は夜まで寝かせよう」
「みんなで作るとけっこう楽しかったです。また作りましょう」と明音が言った。
時間はまだ三時半。時尾は窓から休日の校内を眺める。自主練中の野球部員が球をジャストミートで捉えると、「カキーン」という小気味よい音が響き、人や他の物音に遮られることなく秒速約三四〇メートルで時尾の耳に届いた。鯉泉高校の野球部は弱く、いつも地方予選で敗退するという。暑い日も汗を逃し、現状を変えようと懸命になる部員の姿。
「早乙女先輩たち、いつ帰ってくるか分かりますか?」と、歩が時尾に聞いた。
「分からない。ちょっと笹原先輩にメールしてみよう」
日が傾き始め、キッチンが急に暗くなった。窓の表面にこびりつくカビが目立つ。メールは十分後ぐらいに返ってきた。
「たぶん六時以降になるって。ひとまず解散だな」
時尾は自室のベッドに横たわり、英語の本を読んだ。その間も校庭から金属バットの打球音が絶えず伝わってきた。音は窓から部屋の中に飛び込み、壁に思い切りぶつかり反響した。時尾は負けじと、英語の行間から意味を読み取るため集中した。
三人は六時に再びキッチンに集まった。外で遊んでいた寮生が戻り騒がしくなってきた。一階の食堂では夕飯の調理が始まり、二階まで匂いが漂ってきた。今日は彼ら以外にキッチンの利用者はいなかった。
「せっかくだからここをパーティーの会場にしましょう」と明音が言った。
彼女はセミールの百円ショップで買っておいたアイテムでキッチンを飾り付けた。こういうところは女子の方が気が利くものだ。彼女は電気を消し、男子二人にクラッカーを一つずつ渡した。
「ドアの両側に隠れて、先輩たちが入ってきたらいきなり鳴らしてください」
「七人の侍みたいだな」
「???」
「いや、なんでもない」
緊張は十分も続かず、すぐにダレてきた。
「六時過ぎって、いつでしょう」と歩があくびをしながら聞いた。
「さぁ? もう一回メールしようか」
「まさか二人とも外泊なんてしませんよね」と、明音がどこか嬉しそうに言った。
「それはない、はずだ」
各フロアの寮生が階段を下りる。もう七時前だ。誰かのお腹がグーッと鳴る。
「ちょっと歩くん」
「ぼくじゃないよ」
「あっ、メール来た。もう校内に入ったって。一階のキッチンにいるって伝えておくよ」
三人は再び気を引き締め、耳を澄ます。誰かが玄関をくぐり、階段を上がり、キッチンのドアを引く。
パンッ!
「ハッピーバースデー!」
サプライズは成功だった。早乙女蘭は両手から荷物を落とし、その手で顔を覆った。直人はケーキのロウソクの火を吹き消すよう優しく促す。涙が溢れ、蘭の目に映る火が激しく揺れた。
「本当にうれしい。みんなありがとうね」
時尾はカレーを温め直しながら鶏肉とポテトを揚げる。蘭はキッチンのささやかな飾りつけに注目し、出来栄えを褒めた。
「歩くんも明音ちゃんもカレーに初挑戦したんです」と時尾は言い、テーブルに並べていった。明音は得意そうに笑い、「心して食べてくださいよ」と言った。
料理はどれを食べても美味しかった。上手にできたとからというよりは、特別な日に気の置けない友と食べるから。食堂で食べ終えた寮生まで匂いにつられて様子を見に来るほどだった。
「一年生から三年生まで仲良くて羨ましいな」と、そのうちの一人が言った。
明音は包丁でケーキを切った。蘭には板チョコがのっている部分。他の人には平等に。
「イチゴがたくさん入っていておいしい!」と蘭が言った。
「さがらやオリジナルです。次もぜひご利用ください」
満腹になった五人は、ティーバッグの紅茶を飲みながら話をした。
「今日はどこに遊びに行ったんですか?」と歩が聞いた。
「今宮まで。いやあ、パーティーのことを隠すのに苦労したよ」
「珍しく直人くんがショッピングや映画に付き合ってくれって言うから、それが誕生日のお祝いなのかと思っちゃった」
「実際そうなのかもしれませんよ」と、明音がにやけて言った。直人も蘭も顔を赤くした。
後片付けは全員でやった。時尾が油を固まらせ、歩がカレー鍋や食器を洗い、直人が乾拭きをする。明音と蘭は飾りつけを取り外す。五人で協力するとあっという間に終わった。
「こんなに楽しい誕生日は初めて」と蘭が言った。
「みんなで楽しめて本当によかった」と直人。
「やばっ! うっかりして記念写真撮るの忘れちゃった」と明音は言い、バッグからデジカメを取り出した。時尾はそれを受け取り、「今からでも遅くない。この五人で撮ろう」と言った。
時尾はタイマー機能を設定し、カメラをテーブルに置いてから、白い壁を背に並ぶ四人の中に加わった。彼だけが前のめりの変な姿勢になった。
「これでいい、これでいいよ」と彼は満足した。




