五月
世の新入生や新入社員がまだ新しい環境に慣れないうちにゴールデンウィークが訪れた。
入学から一カ月弱で、地元の同級生と休日に遊べるほど親しい関係を築ける人は少数派だ。寮生の多くは暇を持て余していた。
連休二日目の午前。時尾が寮のラウンジのソファーに座り後輩の広沢歩と無駄話をしていると、外から帰ってきた西村明音に声をかけられた。
「二人で何を話してたんですか」
「連休中はどうしようか、なんて」
「セミールって知ってます? あたしまだなんですけど、行ってみません?」
行かない理由もないので、男二人は頷き同意した。三人で駐輪場を出て、前の寮生が残していった中古の自転車に乗る。国道を十五分ほど漕ぎ、踏切を渡ると、通称「セミール通り」に入った。十五年ほど前にセミールができると、周辺に各種ロードサイド店舗が進出し、若者や子育て世代に人気の便利な通りが形成された。
「いろんな店があるんですね」
「どこも駐車場が広いな」
三人はセミールの駐輪場に自転車を停め、店内に入った。三階建ての大き過ぎない丁度よいサイズ。一階は各種飲食店、フードコート、食料品のフロアで、彼らはまずエスカレーターで二階に上がる。
「あっ、一応あるんだ」
明音はカジュアル服の人気店に飛び込んだ。時尾と歩はファッションに興味がないので、十二時過ぎにフードコートで集合することにし、明音と別れた。
「ぼくらはどこに行きましょう」
「ゲーセンで適当に時間を潰してから本屋をぶらつくなんてどう?」
「賛成です」
本屋に向かう途中、彼らは玩具売場を通った。中央には遊具付きのマットスペースがあり、そのすぐ外には玩具の試遊コーナーがある。小さい子供が集まり、長椅子に座る保護者に見守られながら元気いっぱいに遊んでいる。
「ぼくにもあんな時代があったのかなぁ」
「覚えてないのか」
「うちは親の仲が悪くて、ぼくがまだ小さい頃に離婚しました。経済的な理由から父に引き取られたんですが、仕事が忙しく、休みの日も放置されました。ぼくはテレビゲームをするかマンガを読むかアニメを見るかで、外に出て遊ぶことはほとんどありませんでした」
「それも悪くないとは思うけど」
「はい。でもぼくは鯉泉に来て変わった、いや、変わろうと思うんです。同じ暮らしを繰り返してはいけない、何か新しいことを始めないとって」
「あれ、時尾くんじゃない?」
セミールの制服を来た女性従業員。声には聞き覚えがあるが誰だろうと目を凝らすと、日沖渚だと分かった。
「渚か。ここで働いてるんだ」
「ええ。わたし子供が好きだから」
ジュースの自販機の近くで男の子が泣いている。渚はその子に歩み寄り、しゃがんで目線の高さを合わせ、「どうしたの?」と声を掛ける。何を聞いても男の子は頭を振るばかり。渚はその子と手をつなぎサービスカウンターに連れて行った。
「あの人と知り合いですか」
「うん。同じクラスだ」
「仲が良いんですか?」
「そういうのじゃない。ただの友達だ」
「いえ、ぼくはそういう意味じゃなくて……」
渚の声で迷子のアナウンスが入った。学校で話をする時より大人びて聞こえる。時尾は気がかりで様子を見に行く。
保護者が来るのを待つ間、渚はつきっきりでその子の相手をした。椅子に座らせ、男の子が喜びそうな質問をし、話を膨らませていく。親が駆けつける頃には、二人はすっかり仲良しになっていた。
「手慣れたものだな」
「将来は保育士になりたいの」
「きみならきっといい先生になれる。おれには分かるよ」
時尾は彼女に別れを告げ、歩と共に本屋に向かった。歩は「素敵な先輩ですね」と言い、考え込む表情になった。
結局、立ち読みだけで本を買うことはなかった。時尾は明音にケータイで電話をかけ、混雑中のフードコートのテーブル席に彼女を見つけた。彼女は二人が座る椅子に紙袋を置いている。
「ずいぶん買ったね」
「自転車で来たのに、どうやって持ち帰るの?」と歩が聞いた。
「二人とも一つずつお願い」
「やっぱりそうなるか」
明音はパスタを、歩はドーナツを、時尾はうどんを自分たちの席に運んだ。
「寮の外でみんなと食べるのって新鮮ね。いただきます」
時尾は自分のものをあっという間に食べ終えた。
「そんなに急いで食べなくても」と明音が呆れて言った。
「ごめん。悪い癖だね」
歩はドーナツを一欠片ずつちぎり、ゆっくり咀嚼する。二個目に取り掛かる前に彼は紙ナプキンで手を拭き、時尾にこう切り出した。
「さっきの人って、青井先輩のお友達ですよね」
「青井? あぁ、柚葉のことか。それがどうした」
「実はその……」
「あっ、分かった。歩くんはその先輩が気になるんだ」
歩は否定せず、柚葉と初めて会った時のことを話した。
彼は入学したばかりのころ、学級内に友達がいなかった。もともと内気な性格なので、一人で弁当を食べられる場所を探そうと外に出た。体育館の裏側に置かれている平均台は、首都から来た孤独な少年にとって格好の席だった。彼はその日陰で昼食を取りながら憂鬱な顔をしていた。
首都での数少ない友達を思い出しながら、葉桜の上のどこまでも広く高い空を見上げ、弁当に目を下ろす。何度かそうすると、彼は視界の中に常に一人の女子がいて、同じ木の下に立ったまま動かないことに気づいた。目が合うと彼女はびくっとしたが、立ち去らず、むしろ彼の方に近づいてきた。
「こんにちは。附属高校から来た一年生ね」
「は、はい」
その時の会話内容を歩はほとんど覚えていない。ただ彼は聞かれたことに答えるばかりで、彼女には何も尋ねることができなかった。言葉のキャッチボールが成立しなくても、彼女は粘り強く彼に話しかけた。彼はそのことが嬉しかった。自分なんかを気にかけてくれた彼女に感謝を示せなかったことが悔やまれた。
その日以降、彼は校内を歩く時、常に彼女の姿を目で追い求めるようになった。実際に外の通路や廊下ですれ違うこともあった。彼女はいつも渚と一緒だったが、どれほど話に夢中になっていても彼に気が付き、軽く会釈してくれた。彼は彼女が自分を特別視してくれていると思った。それは純粋な彼が恋に落ちる十分な理由だった。
「青井先輩のことを考えると胸が苦しくて、何も手につかなくなるんです。ぼくは今でもあそこで一人お弁当を食べています。また先輩が来てくれることを信じて」
「あぁ、これは重症だわ」
「そこで時尾先輩にお聞きしたいんですが」
「柚葉に付き合っている彼氏はいない。バイトもしていないから間違いないな」
「よ、良かった」
歩は潤んだ目を嬉しそうに細め、二個目のドーナツに取り掛かる。明音はパスタをくるくる巻きながら、「いつ告白するの」と聞いた。歩はドーナツを喉に詰まらせ、咳をした。
「ぼ、ぼくがいきなり告白だなんて。だいいち、ぼくに好意を持ってくれてるかだって……」
「じゃあひとまず、どんなタイプが好きか時尾先輩に探りを入れてもらったら」
「任せてくれ」
それからは聞きもしないのに、歩は柚葉の魅力を一つずつ数え上げ、細かく描写していった。彼がこれほど口達者になるとは。明音はいちいち「きゃあ」「うっそぉ」と大げさにリアクションをし、「青春っていいよね」としきりに頷いた。
三人はフードコートで長いおしゃべりを終えると、紙袋を自転車のカゴに入れ、寮に戻った。
その翌日、時尾は陽太と一真の三人でまたセミールを訪れた。「とりあえずセミール」は鯉泉の人々の口癖で、毎日来ても飽きないほどだった。三人は併設されているシネコンでアクション映画を満喫するなど、夕方までゆっくり時間を潰した。
休日も食堂で夕食が出るため、寮生は午後七時までには戻らなければならない。新年度初の大型連休中も食堂は満員御礼だった。
時尾は壁際の席で食事する早乙女蘭と笹原直人を見つけ、彼らの対面に座った。二人は目と表情で時尾に反応を示し、自分たちの話を続ける。
「今日はどうしてたの」
「ずっと寮にいたけど」
「午前中、ラウンジで松本くんに呼ばれてなかった?」
「あぁうん。部屋に来て遊ばないかって誘われて」
「何して遊んだの」
「テレビゲーム」
「楽しかった?」
「やり方がぜんぜん分からなくて、ついていけなかったよ」
「コントローラーのボタンがどこにあるかも分からないんじゃないですか」と、時尾がようやく口を挟んだ。
「そうなんだ。上を見ては下を見てで。もたもたしているうちに松本くんや渡辺くんにやられちゃった」
「渡辺くんも一緒だったんだ」
「うん。明日は渡辺くんが今宮まで遊びに連れてってくれるんだって」
「早乙女先輩は何をしてましたか」と時尾が聞いた。
「クラスの子とセミール通りの大きな本屋に行ってきた。参考書の品揃えが豊富で、これからよくお世話になりそう」
「へえ。ぼくも今度行ってみますよ」
直人は大急ぎで食べ終えると、食休みもせず席を立った。
「あんまりゲームにハマらないといいんだけど」
「笹原先輩の家ってやっぱり、ゲームとかコント番組とか禁止だったんですか」
「きっとそう。首都でクラスの人とそういう話をしているの見たことないから」
「それじゃあここでの寮生活は刺激が強すぎますね」
「悪い友達から変な影響を受けなければいいんだけど」
早乙女はため息をつき、食堂の出口に目を向けた。外のラウンジからは男子の馬鹿騒ぎが聞こえる。
「何事も経験です。遅かれ早かれレールからちょっと外れる時期は誰にだって来ます。温かく見守りましょう」
「そうね」
連休が終わり、学校が始まった。生徒より重苦しい顔をしているのは教職員の方だった。
まだ鯉泉に来て一カ月ぐらいなのに首都に帰省していた数学の風間慎二は、浮かない顔で職員室に姿を現した。彼は対面の新沢えりかに「早いね」と声をかけた。
「久しぶりの都会生活でリラックスできた?」
「やっぱり帰省するんじゃなかった。こっちに戻って来ると惨めで」
「声が大きいわよ」
「お二人とも、おはようございます」
石川昌彦は地元出身の五十代男性で、主に倫理を担当する教頭だ。黒く染めた七三分け、新学期に新調したスーツ。朝のニュース番組の司会のような風貌だ。
「連休明けは五月病で休んだり弱ったりする生徒が出てきますが、中間試験も近いですし、しっかりケアしてあげましょうね。それから私たち教員も油断しないように。特にお二人は首都から来たお若い先生ですから。去年来た先生など……」
新沢は「ホームルームでよく注意しておきますね」と言い、鞄を持ち出ていった。風間も慌てて「失礼します」と別れを告げた。
「嫌味な野郎だ」と、廊下で新沢の隣に並んだ風間が言った。
「私たちを目の敵にしているみたい」
二人の行く先、廊下の中央にはジャージ姿の教員が立ち、通り過ぎる生徒に目を光らせている。
「おや、また髪が黄色くなってきたな」
「天気がいいから明るく見えるんすよ」
「スカートの丈が短くなったんじゃないか」
「成長期で足が伸びたんです」
「まったくお前らはああ言えばこう言うな」
それは体育と保健を教える小野寺大輔だった。三十五、六と若く、本校OBで元ヤンキーとあり、生徒指導にうってつけの人材と言える。生徒思いで、彼らの気持ちもよく理解でき、時には一緒になり上に校則の見直しを求める。さらには恐妻家というチャームポイントのおかげで、生徒からの人望が最も厚い。部活は陸上部を担当。日沖渚たち部員から「大ちゃん先生」と慕われている。
「二人ともおはよう! 新沢先生、髪型変えた?」
「朝からナンパっすか? 奥さんに言いつけますよ」と、トウモロコシみたいな髪の色の男子が言った。
「うるせえな。気づいたのに黙ってるほうが失礼なんだよ」
彼らの隣を過ぎた後、「……だそうよ」と新沢が風間につぶやいた。
風間は返事をせず二年七組に入る。新沢は五組へ。
「おっ、全員出席ね。優秀優秀」
生徒も教職員も連休初日ですぐに生活のリズムを取り戻した。午前の授業、昼食、午後の授業があっという間に終わり、今日も放課後になった。
「なぁ、またどっかに遊びに行かないか」と、陽太が時尾を誘った。
「ごめん。今日は英語部の活動があるんだ」
「私も陸上の練習があるの。中間テストの前にしっかり鍛えておかないと」と渚。
「部活は休みがあるからまだいいよな。おれの家の手伝いは年中無休だ」と一真。
「じゃあヒマなのは柚葉だけか。商店街の甘味処でお茶でも飲まない?」
「二人きりで? 飲むわけないでしょう」と、柚葉が棒読み気味に答えた。
少し会話すると、五人は解散となった。彼らはクラス内ですでに一グループを形成していた。
英語部の部室は二階の空き教室だった。時尾が来た時にはもう部員全員と顧問が集まっていた。
「遅いわよ」と、顧問の新沢が英語で言った。部活は基本、英語のみで行われる。
部員は十数人。時尾は入部したばかりでまだ全員の顔と名前が一致しないが、個性派揃いであることは分かる。海外のオンラインゲームをプレイしたいオタクな男子、ハーフなのに英語が苦手で残念がられる女子、カタカナ英語に反発することで自我を主張しようとする男子、黄色人種より白人男性に憧れる女子。この中にいると時尾など至って平凡な人間に見える。
午後の日差しがレースのカーテン越しに降り注ぎ、コの字型に置かれたテーブルとホワイトボードを明るく照らす。風と共に日差しが揺れ、部員たちの顔に濃淡の影をつける。時尾はその中に新顔を見つけた。
「こちらは五月に入部した二年生。自己紹介してくれるかしら」
その桜庭多枝という女子は高校生とは思えない流暢な英語で趣味、好きな食べ物、将来の目標を語った。
「海外に留学し、ボランティアをし、見聞を広めたいと思います」
新沢の指導で今日の活動が始まった。部員たちは数組に分かれゲームを楽しんだ。
時尾は男子と単語や語順を学べるカードで遊びながら、本を使ってクイズを出し合う女子を観察する。入部したばかりなのに、桜庭多枝は英語で冗談を言い、他の女子とすっかり仲良くなっている。おおらかで、周りに自ずと人の輪ができる人柄のようだ。ボードゲームをプレイしていた部員たちも興味を惹かれ、クイズに加わった。
部活は五時に終わった。新沢は速歩きで職員室に戻る。彼女は次の中間テストを作る必要があり、なかなか多忙だった。
作業に没頭すると時があっという間に流れ、夜の七時半になった。職員室内ではまだ残って仕事をしている人も少なくない。彼女が遠慮がちに帰る支度を始めると、対面の風間も立ち上がった。
「一緒に帰ろうか」と、彼から誘った。
二人は学校を出て商店街に入った。夜は「鯉泉餃子」を出す居酒屋が開店し、近所の常連客で賑わう。しかし明るいのは店先だけで、街全体は街灯が少なく薄暗く、やや寂れた印象だ。新沢と風間は言葉数少なめに、首都よりも数が多い星々の下を歩く。
「新沢さんは近くに住んでるんだっけ」
「ええ。教職員住宅に。風間くんは今宮のマンションから通っているのよね」
「少しは都会らしい所に住みたくて。鯉泉なんか何もないから」
「そうねえ」
「こんな田舎に一人暮らしで寂しいだろう」
「首都にいたって寂しいわよ」
「たまには今宮で一緒に飲まないか」
新沢と風間は首都の附属高校の頃から同僚だった。彼女は風間がよく、ルックスが良く若い女の同僚をデートに誘うのを見たことがある。彼女には鯉泉に来るまでほとんど声をかけたことがなかった。
「わざわざ今宮に行くの? 気が進まないわ」
「そうか。残念だけど仕方ない」
彼らは駅前の交差点で別れた。新沢は一人で橋を渡り自宅に向かう。川のせせらぎ。カエルの合唱。虫の声。犬の遠吠え。都会では聞くことのない田舎のオーケストラ。海外留学で見聞を広めたい若者。田舎に飛ばされたアラサー女。その気になればいつでも首都に帰れる今宮。穴場を求める旅人さえめったに立ち寄らない鯉泉。その片隅で、明るい夜空を背景に真っ黒にそびえ立つ古ぼけた教職員住宅。
そこが今の新沢の居場所だ。
中間テスト一週間前になり、すべての部活が休みになった。学校全体が厳戒態勢に突入し、全校生徒が対応に追われた。
天気がいいので、時尾、陽太、一真の男子三人は屋上で弁当を食べた。五月の空は吸い込まれるほど青く、透明感があり、思わず外に飛び出したくなる。
「あーあ、なんでこんな季節にテストなんかやるかね。勉強なんかぜんぜんやる気でねーし」と陽太がグチをこぼした。
「お前はいつだってそうだろう」と一真。
「時尾はまさか勉強なんか真面目にやってないよな?」
「ぼちぼちやってるけど」
「裏切り者! おれ一人を赤点にしてもいいのか、それでも友達か?」
「友達を道連れにするのが友達なのかよ」と、一真がまたツッコミを入れた。
「そういうお前は勉強してんのか」
「もちろん。いい成績を取らないと家業を継げって言われるから」
「なぁ時尾、またアンドー書店に行こうぜ。こないだ買ったの飽きちまって」
「おれはそこまで旺盛じゃない」
その日の授業が終わると、時尾は図書室に直行した。寮よりも静かで集中できるからだ。
毎年この時期になると図書室の利用者が増える。読書をする人は少なく、一人もしくは数人で教科書やノートを広げ、紙の上でカリカリとペンを走らせる。
時尾は奥の仕切り付きの机に座り、黙々と楽しそうに勉強をした。充実した時はすぐに流れ、五時のチャイムが鳴った。ノートから目を離し、ほっと一息つくと、右の仕切りの向こうで背筋を伸ばす柚葉と目が合った。
「ずっとそこにいたんだ。気づかなかったわ」
まだ時間が少し早いので二人は勉強を再開する。やがて六時の閉館時間になった。
「時尾くんに折り入って相談があるんだけど」
彼らは連絡通路の外、木の下に設置されたベンチに座った。日が長くなり、空はまだ明るい。柚葉はためらいがちに口を開く。
「実はその、男の人につきまとわれていて」
その言葉を証明するかのように、図書室の方から一人の男子が歩いてきた。小太りの男は連絡通路に立ち、時尾に憎々しげな目を、柚葉に責めるような目を向けてから、すごすごとその場を立ち去った。
「それって今の人のこと?」
「そう。でも他にもいるの」
時尾は改めて柚葉を観察する。なるほど、いつも図書室にいるメガネの美女といった容貌で、小さいがよく通る声も相まって、アニメキャラかその声優のようだ。陽太や一真とは違うタイプの男に刺さるのだろう。
「いつものことなのか」
「ええ。中学のころは男の先生にも目をつけられた」
「ひどいな」
「もう遅いけど、家の近くまで送ってくれる?」
「いいよ」
二人は校門を出た。時尾はなんとなく周囲から視線を感じた。
「商店街に入ると安心できるの。小さいころから良くしてもらっているお店の人がいるから」
営業時間後に軒先の植木鉢に水をやっている八百屋のおじさんは、「柚葉ちゃん、今日は遅いね。そちらは彼氏?」と声をかけた。柚葉は否定するのではなく、「首都から来た人です」と答えた。
「近所の人はみんな知り合いなの。首都では考えられないでしょう」
「逆に言うと、きみにつきまとう人のことも一応は知ってるんだ」
「うん。だからあまり冷たい態度は取れないの」
「中には、ちょっとだけなら付き合ってみてもいいって思える人は?」
「まさか! だって、だって……」
気持ち悪いんだもん。自然と口をついて出た言葉。彼女は率直に本音を語る。
オタクっぽい陰湿な人ばかりで怖い。ある男子などは彼女の誕生日に、自宅前でバラの花束を抱え何時間も粘った。彼女に勝手に惚れ、フラれたと勝手に思い込んだ別の男子は、裏で「清楚系ビッチ」と陰口を叩いた。それを教えてくれた男子は情報提供と引き換えに彼女の手を握ろうとした。とにかく彼女に言い寄る男子にまともな者など一人もいない。
「じゃあ柚葉って、どんな人がタイプなの」
「よく分からない。ただ、少なくとも自分のことより私の気持ちを大切にしてくれる、気遣いができる人がいいかな」
話しているうちに橋の手前にたどり着いた。柚葉は悩み事を打ち明けてすっきりした様子で、珍しくにっこり笑みを浮かべた。
「時尾くんに話したこと、他の人には内緒よ」
彼は急いで寮に戻り、なんとか夕食に間に合った。彼がトレイを持ち列に並んでいると、後ろの方から「やばい、やばい!」と声がした。
「附属高校よりテストの内容が難しいそうよ」と、西村明音が女友達に言った。
「そりゃあそうよ。こっちの生徒は受験があるんだから」
「ねえ、食べ終わったらノート見せて」
「まったくもう。日頃からちゃんと授業を聞いてないからテスト前に焦るのよ」
「サンキュー。今度セミールでアイスおごるね!」
中間テストは一週間で終わった。ついに苦行から解放された生徒たちは土日、セミール通りや今宮で思う存分遊び呆けた。肝心なテストの結果を忘れるために。あるいは、次のテストに向け英気を養うために。
土曜日の午前中、時尾は一人で寮を出た。校庭からは各運動部の男女の掛け声や、球を打ったり蹴ったりする音が聞こえてくる。学校の外周では陸上部が赤と黒のユニフォームを着て走っている。時尾はその中に日沖渚を見つけた。
「時尾くん」
「お疲れ様」
渚たちが駆け抜け、一陣の風が吹いた。躍動する若者。時尾がぼんやりしながら立っていると、部員たちは早くも一周しまた戻り、休憩を取った。
「陸上部に入る気になった?」
「おれには無理だって確信を深めたよ」
渚は白い歯を見せ笑った。彼女は路傍に置いておいたスポーツドリンクを飲み、タオルで汗を拭く。飾り気のない健康的な美が眩しい。
「誰かと遊びにでも行くの?」
時尾は肩に掛けた手ぬぐいを握った。
「温泉で一日中ごろごろしようと思って。これがおれの健康法さ」
「おーい、校庭に戻るぞ」と、陸上部の部長らしき男子が部員たちに呼びかけた。彼女は元気に返事をし、時尾に「また学校でね」と言い、部長の後に続いた。
彼は十一時前にふじた温泉を訪れた。朝風呂の客が引き上げ、館内は嵐が過ぎ去った後のような静けさだ。彼が男子更衣室に入ると、一真が清掃をしている最中だった。
「おっすお疲れ」
「テスト後の最初の休みにうちを選んでくれたなんて光栄だな」
「ゆっくり浸からせてもらうよ」
入湯中の客は時尾だけで、女湯の方からも声は聞こえてこない。彼は掛け流しの源泉で打たせ湯をしつつ、洗い場の整理整頓をする一真を眺める。板についた仕事ぶりで、彼は思わず感嘆する。
「まさに若旦那って感じだな」
「やめてくれよ」
「あんまり家業を嫌わないで、受験や社会人暮らしでしくじった時の滑り止めぐらいに考えればいいんじゃないか」
「なるほどな。ところで時尾は将来、何になりたいんだ」
「お、おれか。そうだな、とにかく日々に感謝して生きていきたいよ」
「なんだそりゃ」
一真は笑い、竹垣沿いに置かれている長椅子に座る。時尾は滝行をする仙人のふりをしながら、一真と学校生活について話し込んだ。
「そろそろお客さんが増えてくるから、またな」
時尾は十二時前に温泉から上がり、食堂で「本日のランチ」を注文した。待つ間、彼は本棚の漫画を選ぶ。窓際では一真の妹が早めの昼食をとっている。
「佳奈ちゃん、だっけ」
「こんにちは」
彼は漫画を取らず、彼女の対面の椅子に座った。
「まかない飯?」
「冷蔵庫の余り物」
「でも旨そうだね」
「はい、美味しいです」
給仕を担当する一真の母がランチを運んできた。今日のおかずは揚げたてのアジフライで、油と魚の身の香ばしい匂いがする。長湯で汗をかいた時尾はソースをドボドボかける。
「えっ、ソース?」と、残り物をのせチンしただけの丼飯を食べる佳奈が思わず口にした。
「おかしいかい?」
「我が家は醤油派なんで」
「お客さんの自由でしょう」と母が口を挟んだ。
ソースが染み込みくたくたになったアジフライはご飯とよく合った。時尾と佳奈は自分の料理を食べながら、時おり顔を上げて相手の顔を見た。何度か目が合ったが、互いに慌ててそらすことはなかった。彼らは視線を交わすだけで親しくなった。
時尾がランチを食べ終え、セルフサービスの熱いお茶を飲むと、風呂上がりの客がどやどや入ってきた。高齢の客は広い座敷席に上がり、ビールやおつまみを注文する。座布団を使い畳の上に寝転がり、大きなテレビで地元の番組を見る。鯉泉出身のお笑い芸人が県内のスポットをめぐり、地元なまりでその魅力を紹介する。テレビの上にはその芸人がふじた温泉に来た時に、経営者夫婦と撮影した記念写真が飾られている。
「賑やかになってきたね」
「みんなゆっくり飲んで、またお風呂入って帰るの」
「ここでは勉強に集中できないんじゃない?」
「慣れてるから大丈夫。それにお昼寝すると静かになるから」
時尾と佳奈は食べ終えた食器を返却口に出した。佳奈は母を手伝い洗い物を始める。時尾は窓際の席に戻り、アンドーの店主から推薦された英語の小説を読む。頭が疲れると、食堂にある一話読み切りの大人向けのギャグ漫画に切り替える。座敷席の客は酒を飲むのをやめ、昼寝前のトイレを済ませる。その間、母と娘は一気に皿洗いを終える。
家の手伝いから戻ってきた佳奈は、「やっと勉強できる」と言い、時尾の向かい側に腰を下ろした。
「英語の本、読めるの?」
「だいたいだけどね」
「すっごーい。宿題教えてよ」
「いいとも」
座敷席の老人たちのいびき、大きな柱時計の秒針。ノートのページをめくり、鉛筆をコツコツとテーブルに打ち付ける音。太陽が雲の奥に姿を隠し、徐々に暗くなる食堂。
「お陰で勉強がはかどったわ。ありがとう」
「どういたしまして。おじいちゃんたちが起きる前にもうひとっ風呂浴びるとするか」
「また来てね。頼りにしているから」
次の月曜日からテストの解答用紙の返却が始まった。時尾と柚葉はトップクラス、一真は上の下、渚は中の下、陽太は赤点ギリギリ。
「お前やっぱ勉強できんだな」と、陽太が感心して時尾に言った。
「しっかり準備したから」
放課後の寮でもテスト結果が話題になっていた。いつもより人が多いラウンジは大騒ぎで、喜びと悲しみの声が同時に聞かれた。時尾は隅の観葉植物のそばに立つ早乙女蘭と笹原直人に気づいた。やや背が高い早乙女が何かを言い、小柄な直人が大人しく話を聞く。彼は「分かったから」とうなずくと、彼女を振り切るようにして左の階段に速歩きで向かった。
「どうしたんですか」
「直人くん、成績あまり良くなかったの」
「赤点でも?」
「ううん。どの教科も平均点以上だったけど、二年生のころよりだいぶ点数が下がって」
「最初はそんなものですよ。ここからどう持ち直すかです」
「そうね。しばらく様子を見守るしかなさそうね」
左の階段の踊り場から「マジかよ!?」「情けねえの」という大げさな声が聞こえてきた。「そんなんじゃないって」と必死に否定するのは直人の声だった。




