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四月

 粉は教室内の窓際の空席に集まり、人の形になった。

「はいはい静粛に。私は今日から二年五組の担任になった新沢えりかです。どーぞよろしく」

 二十代後半ぐらいの彼女はあっさり自己紹介を終え、教卓に置かれていた名簿を手に取った。四十人分の氏名、ふりがな、性別、備考欄がある。

「みんなだいたい地元の知り合いだと思うから、首都から来た人だけ挨拶してちょうだい」

 彼女は備考欄に米印が入っている生徒の名を呼んだ。最後の五番目に指名された時尾渡は他の人にならい、こう言った。

「◯◯大学附属高校から来た時尾渡です。これから一年だけ、鯉泉高校でお世話になります。いろいろ分からないことだらけですが、よろしくお願いします」

 初のクラス会が終わり、入学初日は午前中で下校となった。地元の生徒たちは賑やかに教室を出ていった。特別な五人だけが席に残った。

 時尾を除く男子二人と女子二人は首都の高校で親しかったらしく、ペアで雑談する。

「しっかしド田舎だな」

「なまってて会話が聞き取れなかった」

「新沢先生も首都から寄こされたんだってね」

「まだ若いのに、かわいそう」

 なんの待機時間だろう? 時尾が困惑していると、一人の女子が教室に入ってきた。

「お待たせしました。これからお弁当を取りに行きましょう」

 五人は早乙女蘭という三年生に率いられ玄関にやってきた。職員が外に停まったワゴン車から発泡スチロールの箱を取り出し、玄関の端に並べていく。他の学年や学級からも生徒が集まり、列を作り、箱に入っている弁当を受け取る。

 時尾はどこか一人になれる所で食べようとしたが、早乙女に呼び止められた。

「よかったら一緒にどう?」

 彼らは靴を履き替え校庭に出た。

 敷地内を取り囲むように植えられた桜のほとんどが散り、緑色になっている。しかし早乙女はまだ春を感じられる穴場を知っていた。

 校内で最も高い建物は、首都から来た生徒が住む五階建ての学生寮だ。首都名門の◯◯大学附属高校と鯉泉高校が姉妹校になり、一年間の交換留学制度が設けられた後に建てられた寮は、校舎や体育館と比べると新しさと洒脱さが目立つ。明治・大正時代の洋館に似た寮の裏側は日陰になり、桜がちょうど見頃だ。

 早乙女と時尾は食堂のテラス席に座り、季節の食材をふんだんに使った彩り豊かな弁当を食べる。そよ風に揺れる木の梢から緑の芝生に花びらが舞い落ちる。全校生徒一千人弱の高校の片隅では、時がゆっくり、静かに流れる。

「いいところね」

「そうですね」

「時尾くんはどうして鯉泉に?」

「お、おれは……」

「言いにくければいいの。みんな事情があるんだから」

 早乙女はそう言うと箸を置き、首都よりも青い空を眺め、ほっと一息つく。切れ長の目はやさしい光を帯びる。彼女は、広く丸みを帯びたおでこを時尾に向け、こう言った。

「私はね、直人くんの家から頼まれちゃって」

「直人くん?」

「笹原直人。お金持ちの家の御曹司。お父さんどうしが友達で、私とは幼馴染なの」

「早乙女先輩はその笹原先輩についてきた?」

「そう。直人くんのお父さんは厳しい人で、可愛い子には旅をさせよって言うんだけど、彼を甘やかして育ててきたお母さんが心配して」

「なるほど。となると早乙女先輩もお世話とか大変ですね」

「そうなの。私だって親元を離れて一人暮らしをするのは初めてなのに」

「まぁなんとかなりますよ。お互いに頑張りましょう」

「ありがとう」

 弁当箱を玄関の箱に返却した後、彼らは別れた。時尾は一人で学校の内外を散策することにした。

 寮があることを除けば、鯉泉高校はその他の高校と代わり映えしない。連絡通路でつながるABC棟の校舎、いくつかの部活で共有する校庭と体育館、独立したテニスコート、屋根付きの駐輪場、小さな図書室。寮は校庭を挟み校舎と向き合う。

 入学式初日の午後とあって、校内にはほとんど人の姿がなかった。時尾は校門から外に出て商店街を歩く。

 商店街と言うと寂れている印象があるが、鯉泉高校の通学路になっているため、それなりに活気がある。時尾は肉屋でコロッケを買い食いする男子に声をかけた。

「時尾、だっけか?」

「きみは……」

「南原陽太。下の名前で呼んでくれ」

 陽太はうっすらと赤く染めた髪をかき上げ、人懐っこい笑みを浮かべた。歯がいやに白く眩しい。彼は窓口に顔を突っ込み、「おばちゃん、コロッケやっぱり四個!」と大声で言った。

「お近づきの印に、今日はおれのおごりだ」

 時尾は紙袋に包まれた熱々のコロッケを頬張る。特性のソースは素材の味と香りを引き立て、その酸味で口の中を潤し、ホクホクした芋を飲み込みやすくする。

「メンチカツもおすすめだ」

 陽太が先を歩き、路傍の屋根付きの建物に入った。時尾は湯の香りに驚いた。

「そっか、足湯なんて都会じゃ珍しいよな」

 手ぬぐいを用意していなかったが、時尾もそれに浸かることにした。制服姿で足だけ濡らすとは新鮮な体験だ。残りのコロッケを食べながらじっくり浸かるとだんだん体が温まり、湿り気を帯びた春風がいっそう肌に心地よい。

「なぁ、うちのクラスの女子のことどう思う」

「どうって?」

「首都の女子高生と比べると田舎っぽいんじゃないかって」

「そんなことはない。人それぞれだ」

「だな。実際、色んなタイプがいるし」

「陽太は誰か狙っているのか」

「おれけっこう馬鹿やってきたから、昔からおれを知っている人にはモテないんだよな。だから交換で鯉泉に来た寮生を狙ってて……おっ、渚じゃん。今日は一人か?」

 渚と呼ばれた女子は立ち止まり、すっかりくつろいだ様子の男子二人に目を向ける。よく運動するのか日に焼け、筋肉が引き締まりスラリとした足をしている。短い髪、小顔、大きな目、それに太陽のように明るい笑顔。

「陽太また買い食いしてるの? 寮生まで引きずり込んで」

「時尾です」

「私は日沖渚。よろしくね」

「柚葉は一緒じゃなかったのか」

「私これからセミールでバイトだから遊べなくって」

「部活にバイトに熱心だな」

「あんたも帰宅部なんだからバイトぐらいしなさいよ」

「分かってるって。またな」

 渚は速歩きで商店街を出ていった。

「かわいい子じゃないか」

「らしいな。おれは幼馴染だからよく分かんねえけど、確かに人気あるって話だ」

 足が自然に乾き、二人は靴を履いた。

「さてと、ヒマだから辺りを案内してやるよ」

 商店街を抜けると鯉泉駅がある。電車は一時間に二本のみで、三十分も揺られれば首都と新幹線で直結する地方都市、今宮に移動できるという。

「鯉泉はセミール以外に高校生が買い物できる店がないから、今宮まで行く人もけっこう多いんだ」

「さっきも言ってたけど、セミールって?」

「地元のショッピングセンター。こっからなら自転車かクルマで行ける。今度ほかのクラスメイトも誘って一緒に行こうぜ」

 駅前はコンビニとスーパーが一軒ずつあるだけで閑散としている。陽太によると、電話ボックスの隣にある銀杏の木は樹齢が古く、秋になると金色の葉で歩行者の目を楽しませてくれるらしい。

 彼らが最後にたどり着いたのは学校の裏山の神社だった。近所の小中学生が携帯ゲーム機を持ち寄り、御神木の陰で大騒ぎしながら遊んでいる。陽太は手水舎で手を清め、本殿の賽銭箱に硬貨を投げ入れ、鐘を鳴らした。

「テストで赤点とりませんように。今年中に素敵な彼女ができますように」

 時尾も彼にならい、願い事をする。

「ここは夏祭りの会場になるんだ。外からも人が来るぐらいの盛大な祭りで、立派な花火も上がる。あとは初詣だな。意識の高い女子なんかは振袖で参拝する。神社は季節を感じられるいい場所だ」

「鯉泉での一年を楽しめそうだよ」

「そう言ってもらえると地元民として誇らしいね。おれ、首都に憧れているけど、地元も大好きなんだ」

 川向うの住宅街に住んでいるという陽太は橋を渡った。時尾は駅前のスーパーで当面必要になりそうなものを買い、学校に戻った。

 寮の鐘楼がちょうど五時を打った。ゴーンゴーンと重みのある荘厳な音が校内に響き渡る。時尾は窓付きの大きな扉を押し開き、寮内に入った。

 寮一階中央のラウンジでは、鯉泉に来たばかりの都会っ子たちがソファーや椅子に座り、この町の印象について語り合っている。首都出身の優越感を丸出しにする人がいれば、田舎町のスローで温かな雰囲気に癒やされるという人も。

 時尾は彼らのそばを通り過ぎ、ラウンジ奥の左右にある階段のうち左を上る。男女共用は一階だけで、二階から上は左の男子エリア、右の女子エリアに分かれる。時尾はポケットに入っている鍵の番号を頼りに三一三号室のドアを開く。

 部屋の中はそのまま写真を撮ってホームページに掲載できるぐらいすっきりしている。小綺麗なワンルームで、家具は学習机と椅子、本棚、ベッド、クローゼットのみ。トイレ、シャワー、キッチン、洗濯機は各フロア共用。

 時尾は机にカバンを置き、ベッドに横になり足を組む。ポケットから二つ折りの古い携帯電話が滑り落ちる。カチッと開くと現在の時刻が表示されるばかりで、着信歴やメールの受信はない。アドレス帳の登録数もゼロ。まだ真っ白な青春の一ページ。

 七時前になると廊下が騒がしくなってきた。帰ってきたばかりの人、これから部屋を出る人が自室のドアを開け閉めする。雑談する声と足音が階段に向かう。時尾も廊下に出た。

 夜の食堂。夕食時には寮生のほぼ全員が集う。テラス席がある窓の外は真っ暗で、おしゃれなカフェを広くしたような雰囲気の食堂内が余計に明るく見え、清潔感が際立つ。時尾は入ってすぐの配膳カウンター前に並び、トレイに料理を一つずつのせる。どこに座ろうと右往左往していると、またもや早乙女から声がかかった。

「よかったら隣どうぞ」

 時尾は六人で使うテーブル席に座った。早乙女の他に男子二人と女子一人がいる。時尾は彼女を挟んで座る男子が、さっきの話に出てきた直人だと一目で分かった。

「三年の笹原直人です。よろしく」と彼は言い、時尾に軽く頭を下げた。

 たまたま同じテーブル席に座っていた男女も自己紹介した。

「一年の西村明音です」

「同じく一年の広沢歩です」

 五人でいただきますをしてから食事を始めた。今夜は和食で、春野菜のおひたしが特に美味だ。

「お昼もそうだったけど、食堂の料理はびっくりするぐらい美味しいね」と直人が言った。

「直人くんが食べたことのないものばかりだから」

「笹原先輩って、ひょっとしていいとこのお坊ちゃま?」と明音が聞いた。

「そうみたいだね。鯉泉に来てからは特にそう感じるよ」

 直人は小柄で細く、声が小さい。目は一点の汚れもなく澄み切っている。よく美容室に行くのだろう、長くもなく短くもない髪は巧みにセットされ、色白でやや彫りが浅い彼の顔によく似合っている。ヒゲはまったくなく、その顎は女子のようにすべすべしている。生まれ持っての気品を漂わせる。

「いいなぁ。お金持ちでやさしそうだし、首都ではけっこうモテたんじゃないですか?」

「いや、その、女の子とか興味なくって……」

「あたしもういい子いっぱい知ってるから紹介しますよ」

「ま、まぁまぁ」と早乙女が割って入り、「西村さんと広沢くんは同じクラス?」と話を振る。

「今は違いますが、中学校では一緒でした」と、歩が答えた。

「歩くんも奥手なのよねぇ。二次元のキャラしか興味ないんだっけ」

「ほ、ほっといてよ」

 歩は前髪が長く、メガネもかけているので、うつむくと顔全体に影がかかり暗い印象だ。しかしメガネのズレを直すため顔を上げると、目鼻立ちが整った、それこそアニメに出てくるような美少年であることが分かる。

 彼とは対照的に、明音は髪を茶色く染めたギャル系で、見るからに明るそうだ。誰とでも仲良くできる性格のおかげで友達が多く、来たばかりの鯉泉高校の人間関係や恋愛情報をすでにある程度把握している。彼女は日中に聞いた噂話を紹介し、五人の会話を盛り上げる。

「ところで先輩方は今年受験なのに交換留学なんて大変ですね」と、時尾が聞いた。他の四人は怪訝そうな顔で彼を見る。

「私たちは附属高校なんだから、そのままエスカレーター式に◯◯大学に上がれるに決まってるでしょう」と早乙女が説明した。

「進学先が一つだけで、好きな学部があるとは限らないというデメリットもあるけど」と直人が補足した。

「それもそうか。ははは……」

「時尾先輩って意外と抜けたところがあるんですね」と歩。

「なんか大人びているっていうか、変な余裕を感じさせるっていうか」と明音。

「ぼくが世間知らずだからか、年下って感じがしないなぁ」と直人。

「分かる。安心感があるよね」と早乙女。

 五人でごちそうさまをし、席を立った。食器を返すため返却口に並ぶと、直人が前に立っていた二人の男子から話しかけられた。同じクラスで、もう顔見知りらしい。一人はチャラチャラした感じで、もう一人は口達者な様子。彼らは直人のようなタイプが珍しいのだろう、くだらない質問をして笑いの種にする。早乙女は真面目に答える直人を心配そうに見つめる。

 別れ際、男子二人は直人にフレンドリーにこう言った。

「今度いっしょに遊ぼうよ」

「おれの部屋に来てもいいよ」


 新学期が始まって一週間がたった。

 二週目の昼休み。時尾は初日に親しくなった陽太や、その幼馴染で親友の藤田一真と共に、教室で昼食を取っていた。

「寮生の弁当って豪勢なんだな」と陽太は言い、自分の弁当を見せてくれた。母親の愛情がたっぷり詰まったのり弁。醤油が染み込んだのりと鰹節が食欲をそそる。

「弁当を作ってもらえるだけマシじゃないか。うちは父さんも母さんも時間がないから、購買部で買うんだ」

 一真はそう言うと冷たい惣菜パンにかじりつき、牛乳で飲み下した。

「やっぱ店が忙しいのか?」

「うちは料理も出してるから、その仕込みやら掃除やらで大変なんだ」

「一真は家族経営の温泉の後継ぎなんだ」と陽太が時尾に説明した。

「継ぐもんかあんな店。おれは鯉泉の小さな温泉で一生を終えるつもりはない。若いうちにぜひ首都に出ないと」

 一真は時尾に都会生活について興味津々に質問した。時尾はできるだけ客観的に、無難に答えた。

「吹奏楽部に入りませんか?」

 部員募集中の三年生がビラを配りに来た。希望すれば二年生からでも入部可能だという。

「一真は店の手伝いがあるから無理だろうけど、時尾は部活に入らないのか」

「おれか。どうしようかな」

「なに話してたの?」

 外で食事を終えた渚が一人の女子を連れ、二年五組に戻ってきた。

「おっ、柚葉も一緒か」

 陽太から柚葉と呼ばれた女子は肌が白いメガネっ娘で、渚と並んで立つとオセロを連想させる。活発な渚と違いおしとやかで、長い黒髪が窓から吹き込む春風になびき、野に佇む可憐な花のようだ。

「時尾くんとお話するのは初めてね。青井柚葉です」

「よろしく」

 一真はさっき渡されたビラを渚に見せた。

「そっか。部活の勧誘シーズンだね。時尾くん、よかったら私と陸上やらない?」

「それが極度の運動音痴で。走る前の準備運動で脇腹が痛くなるぐらいだから」

「あっ、私も」と、柚葉がうれしそうに反応した。

「ドッジボールで逃げるの得意だったでしょう」

「そうそう。いつも最後に残るのは私だった。懐かしいなぁ」

「だから反復横跳びだけは平均以上できるんだよね」

「私も私も!」

 時尾と柚葉は初対面ですっかり意気投合した。

「ところで青井さんは何の部活を?」

「柚葉でいいよ。私は何もやってないんだ。一年生の時に美術部に入ろうとしたんだけど、先輩たちの絵が上手すぎて絶望しちゃって」

「気軽に始めたらいいのに。柚葉は真面目に考えすぎるのよ」

「で、時尾は結局どの部活にするんだ?」と一真が聞いた。

「実は新沢先生から英語部に誘われてて」

「新沢って、おまえ熟女が好みか!?」

 時尾は苦笑し、「いや、外国に興味があるんだ」と答えた。

「時尾くん。ちょっといいかしら」

 先週の金曜日。五組担任の新沢えりかはホームルーム後、時尾を職員室に呼び出した。彼は呼び出されたことよりも、職員室の狭さ、乱雑さに驚いた。

 新沢はうず高く積まれた本やファイルなどの間に座り、時尾を立たせたままこう言った。

「実は私、英語部の顧問をやらされることになったんだけど、部員の集まりが悪くてさっ。同じ首都から来たよしみで入部してくれないかしら」

「また始まったか」

 対面の席、書類の山の中から一人の男が立ち上がった。同じく首都から来た数学の風間慎二だ。彼はキザにネクタイを緩め、

「どうせ一年で帰れるんだし、顧問なんか真面目にやる必要ないだろう」と言い放った。

「そりゃあそうだけど」

「与えられた仕事をそつなくこなすだけでいいんだ。おれなんか顧問だって断ったぞ」

「そのしわ寄せが私に来てるんでしょうが」

「そうか。悪かったな」

「首都の先生は責任感がないなんて言われたら恥ずかしいでしょう」

「分かった分かった。じゃあ勧誘を続けてくれたまえ」

 風間は適当に手を振り、書類の陰に姿を消した。新沢は小声で「まったくどいつもこいつも」とつぶやき、目の前に時尾がいたことを思い出す。

「へ、変なとこ見せてごめんね。それでなんだけど……」

「いいですよ」

「えっ?」

「英語部に入部します」

「やっぱりお前、新沢のこと好きじゃんか」

「今どきいい先生だと思うよ」

 昼休みが終わった。五時間目は数学で、風間はチャイムが終わらないうちに五組に来た。

「授業を始める」

 風間の授業は悪くなかった。要点を押さえ、極めて簡潔だ。愛嬌がないのが玉に瑕か。

 彼は時間ぴったりに授業を終わらせ、鐘の音と共に五組を出ていった。

「風間先生、クールでかっこいい」

「首都の先生は洗練されてるよね」

 六時間目のチャイムが鳴ってから二分以上たち、新沢がバタバタと教室に入ってきた。

「ごめんごめん、ちょっと廊下で石川先生に話しかけられて」

 彼女は息を切らしながら板書を始めた。ミミズがのたうち回っているようなアルファベット。教室の各所からクスクスと笑い声が漏れる。

「南原くん。今日習う重要構文を読んでみて」

「えっとなんだ、えー、ミセス・アラサワ……って、先生独身なのに、つまんない見栄を張るなよ」

 一堂大爆笑。一真や柚葉でさえ堪えきれず、涙を流している。

「う、うっさいわねぇ、そこはどうでもいいのっ。続き続き!」

 居眠りする生徒が一人も出ないまま授業が終わった。しかし生徒が覚えたのは英語の知識ではなく、新沢に関する噂話ばかりだった。

「近くの汚い教職員住宅に住んでるんだって」

「付き合っている人もいないらしい」

「最後の二十代を鯉泉で過ごすそうよ」

 時尾、陽太、一真の男三人組は放課後、学校周辺を散策した。陽太と一真は時尾に商店街を案内することで、地元の魅力を再発見した。

「本屋があるんだな」

「アンドー書店だ。ほとんど入ったことないけど」

「文字が落っこちてアノドーになってるな」

 アンティークな戸を引き店内に入ると、古い本に特有の湿っぽい、コルクのような匂いが鼻腔を突く。狭い空間に本棚が並び、数年前の古い漫画雑誌、コミック本、週刊誌などが平積みされている。

「いらっしゃい」

 レジカウンターの奥、畳の部屋で横になりテレビを見ていた店主が億劫そうに出てきた。何かしら買わないと悪い気がしてくる。

「英語の本を探してるんですが」と時尾が聞いた。

「受験対策かい?」

「いえ、趣味みたいなもので、時間つぶしに何か読もうと」

「偉い! だったら小説が良かろう」

 店主は時尾を古書のコーナーに案内した。その間、陽太と一真はキョロキョロし、何かを探す。

「読みやすいのがいいんですが」

「なら映像化されている、物語が面白い作品がいいだろう」

 店主は棚からオススメの本を取り出した。時尾がお金を払う前に、陽太と一真がじゃんけんをし、陽太が負けた。彼は仕方なく前に出て、ダメ元でこう聞いた。

「ちなみにあの、アダルト向けの本ってありますか?」

「なにがアダルト向けだ。日本男児なら堂々とエロ本と呼びなさい。奥のドアの先にある」

「高校生なんですけど、いいんですか」と一真。

「三年生で、十八歳になっとるんじゃったな。構わんよ」

 アンドー書店は外から見ると目立たないが、近くの高校生や高齢者の太客を持つ人気店だった。まさに灯台下暗しで、陽太も一真もこんな店があることを知らなかった。

「まさか裏であんな商売してるとはな」

「他の本とは違って新作揃いだったぜ」

 三人は購入した商品を鞄にしまった。時間は四時前と中途半端だ。

「さっきは冷や汗かかされたから、おまえんちでひとっ風呂浴びさせてくれよ」

「ちっ、仕方ないな」

 一真の家が経営する「ふじた温泉」は、商店街や住宅街から離れた所に広がる田んぼと畑の中にぽつんと立つ。外から見ると周囲に点在する農家の屋敷に似ているが、広い駐車場と「営業中」の立て看板、それからもくもく立ち昇る湯けむりとその匂いで温泉施設だと分かる。

 平日の夕方前とあって駐車場の車は少ない。一真は先を歩き、自動ドアのスイッチを押す。

「いらっしゃいませ」

「ばあちゃん。友達を連れてきたよ」

 玄関右側の窓口に立つ老婆は一真の祖母のようだ。

「陽太くんお久しぶり。そちらは?」

「首都から来た寮生だ」

「田舎の温泉なんてお気に召すかしら。どうぞごゆっくり」

 中は壁、床、天井の全面が木製で、天井には立派な梁が見え開放的だ。裸足で床を踏むと木の滑らかな感触がして心地よい。漫画と自販機が置かれた小さな休憩室には薪ストーブも設置されている。実家や祖父母の家のような、親しみやすくどこか懐かしい雰囲気だ。男子三人は借りた手ぬぐいを肩にぶら下げ、短い廊下を渡り更衣室に入った。

「貸切状態だな」

「五時を過ぎると急に人が増えるんだ」

 彼らは裸になり先に進む。露天風呂のみで、六人分のシャワーがある。地下から汲み上げられた源泉が岩の高いところから掛け流しになっている。明るい西日を浴び、水しぶきと湯けむりに虹がかかり、岩に置かれた植木鉢の季節の花々や、岩を割るように生える松の木に七色の彩りを添える。

 竹垣の内側の小世界はかくも美しく完結していた。

「いつ来ても小綺麗にしているな」

「お客さんのためだ」

 時尾はシャワーでかけ湯をした後、足先から湯に浸かる。とろりとした肌触り。高校生の若くみずみずしい肌がぬめりを帯びる。四十・五度と決して熱くはないが、ゆっくり浸かると体が芯からじわじわ温まり、頭から汗をかき、程よく力が抜ける。

「いやあ極楽極楽」

「いつまで入ってんだよ時尾」と、体を洗い終えた陽太が聞いた。

「寮にはシャワーしかないから、たまにはいいね」

 彼らは着替えて更衣室を出て食堂に入った。右手はテーブル席で、左手は畳の広い座敷席。右手の窓際の席には中学女子が座り、卓上に教科書とノートを広げて勉強中だ。

「佳奈ちゃん久しぶり」

「陽太兄ちゃんこんにちは」

 三人は券売機に近いテーブル席に座った。ゆっくり話を始めようとしたところ、機械で何かを削る音が鳴り響いた。奥の方で一真の母がかき氷を作ってくれている。いちごシロップと練乳をたっぷりかけ、テーブルに運ぶ。

「どうぞ召し上がれ」

「いただきます」

 天然氷などで作った高価なものではないが、風呂上がりの小腹が空く時間帯に食べると、失った水分と熱量を補給でき格段に美味だ。彼らが無言で半分ほど食べたころ、奥から一真の父と母が出てきて、隣のテーブル席に座った。父は新聞を読み、母はテレビをつけドラマを見る。妹はまだ宿題をやっている。あらゆる家庭の日常の一コマだが、それを客の立場で眺めると物珍しく、味わい深い。

 こうして見ると、一真もその妹も父親似であることが分かる。彫刻刀で削ったような角ばった輪郭、鋭い一重まぶた、やや高い鼻、薄い唇が特徴的だ。その他に、一真は父から頑丈そうな顎を、妹は母から細くすっとした眉を譲り受けている。どちらも全体的にきりっとした顔立ちだ。

 時尾は親子の顔を見比べてから、「家族経営っていいね」と言った。

「どうして?」と一真が聞いた。

「嬉しいことも悲しいことも家族みんなで分かち合えて。一人で虚しいなんてことはない」

「いつも一緒だからたまには一人になりたくなるぞ」

「それでも帰る場所がある。だから安心して一人になれるんじゃないかな」

「お前ホームシックになったのか?」と陽太。

「そうかもね。でも、不思議なんだけど、おれにはもう鯉泉が第二の故郷になる気がするんだ」

「鯉泉を気に入ってくれたかしら?」と、隣から一真の母が話しかけてきた。

「はい。首都よりも人が温かく、町全体にも人間味があって。自分と同じ人が生きている。当たり前なんだけどそれを感じられます」

「寂しくなったらいつでも温泉に入りに来ていいよ。ここは体だけではなく心も温める場所だから」と、一真の父が大真面目に言った。

 一真は我慢できずプッと吹き出した。父は照れ笑いし、母はそんな夫を嬉しそうに見つめる。窓辺の妹は顔を上げ、時尾と目が合うと恥ずかしそうに視線をそらし、また宿題に取り掛かる。玄関の自動ドアが開き、祖母が元気に「いらっしゃい」と声を張り上げる。時計の針は五時を回った。今日も近所に住む常連客の憩いの時が訪れようとしている。

「すっかり長居してしまって。どうもお邪魔しました」と、時尾は別れの挨拶をした。

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