十二月
消化試合のような十一月後半が終わり、今年最後の月を迎えた。
ふじた温泉は先月末から休業中だった。一真の父がインフルエンザにかかったからだ。少し早いが、父を除く一家で店の大掃除を行った。普段なかなか手が届かないところまで綺麗になり清々しかった。父も最初は高熱にうなされたが、後は痰が出るだけで心配なかった。
店の食堂で食事中、父は「おれのせいでお客さんに迷惑をかけた」と言った。
「大げさだろ。みんな自宅に風呂があるんだし」
「お前、いつも来てるお客さんに注意してるか」
「うん、まぁ。年寄りが多いようだね。お昼ごろに来たり、夕方に来たり」
「それから飲んでいく人も。どうしてうちを選ぶと思う?」
「温泉や料理が好きだからでしょう」と妹の佳奈が言った。
「それもあるだろうが、本当の理由はもっと消極的だと思う」
「あぁなんか分かる。こないだ常連のお客さんたちが、今日も来たのかいって、お互いにきまり悪そうに言ってたっけ」
「たぶん自宅に居場所がないのよ。家族に遠慮して」と祖母が言った。
「どういうこと?」と佳奈。
「家の浴槽って小さいのよ。それに家族全員で入るわけ。私やお父さんの後に入るの嫌でしょう」
「あ、そっか。それは確かに嫌かも」
「それに土日の昼に家にいれば、お嫁さんは丁寧にご飯を作らなければならない。それが悪いから外に出る。行き先は少ない。うちならば安いし、長居しても迷惑がられない」と父。
「それなのに一週間も休んで本当に申し訳ないわ」と母。
父は順調に回復し、次の土曜日から営業再開する予定だ。その前に一真はまた級友たちと勉強会を開きたかった。
「そうかい。じゃあ久しぶりに薪ストーブで料理でもしようかしら」
金曜日の放課後。いつもの面々がふじた温泉を訪れた。自動ドアを開くと、ナラの木が焼ける香ばしい匂いと、一真の祖母のいつも変わらない「いらっしゃい」という元気のいい声が押し寄せた。
「お邪魔します」
「おぉ、燃えてる燃えてる」
木を燃やす。人間の文明はそこから始まったはずなのに、進歩しすぎて、逆に疎遠な営みになってしまった。しかしさすがに懐かしい。人間の制御下で安全に燃える木を見ると心が和むものだ。
一真の母がアルミホイルで包んださつま芋を灰受けに入れた。
「楽しみにしていてね」
五組の五人と佳奈が食堂に集った。彼らは木が燃え爆ぜる音を聞きながら勉強した。前回の勉強会の経験があるので、彼らは効率よく、休憩を挟まず、集中して取り組むことができた。ストーブから徐々に漂う食欲をそそる匂いにも妨げられず。
「あー、やっと終わった!」
「そういえばなんかいい匂いするな」
「見に行きましょう」
ストーブの上ではビーフシチューが入った鍋がコトコト音をたてていた。一真は耐熱手袋をはめて蓋を開け、お玉で大きくかき混ぜる。
「薪ストーブっていいわね。私も大人になったらほしいなぁ」と柚葉が言った。
「薪はいろいろと大変なんだ。うちはお客さんが店まで原木を持ってきてくれるからいいけど、それでもチェーンソーで玉切りし、斧で割って薪棚に収納して乾燥させ、またそこからストーブの近くまで運ぶっていう手間がある」
「それってぜんぶ一真がやってるの?」と渚。
「頭を使わない力仕事だからな。正直めんどくさいけど、お客さんが喜んでくれるんだ。冬なのに裸足でも快適だ、ヒートショックの心配がないから安心だって言ってもらえるから、やらないわけにはいかないよ」
「まさにご馳走だな」と時尾。
彼らが温泉に入っている間、一真の母はピザを何枚も作った。炉内を熾火にし、五徳を置き、スキレットを使いピザを入れる。彼らが上がり、水を飲み一息つくころには、ちょうど一枚目が焼き上がる。
「どんどん焼くからじゃんじゃん食べてね」
ピザは専門店で食べるのと同じぐらい美味しかった。薄手の生地がサクサクし、木の香りがほのかに混じる。その上にたっぷりのった野菜と肉の具は溶けたチーズとオリーブオイルに包まれジューシーだ。彼らは六等分したピザをぺろりと平らげ、次の分が焼き上がるまでビーフシチューを食べた。
厚切りの肉は箸で裂けるほど柔らかく、舌の上でシチューとともにとろける。ニンジンとブロッコリーは味がよく染み込み、噛むと素材そのものの旨味が溢れ出す。
「佳奈は小さいころ野菜が苦手で。冬になると母さんがよく作ってくれたんだ」
「私たち藤田家の冬の定番料理ね」
ピザを何枚も食べ、最後にデザートを食べる。アルミホイルを剥がすと、中から黄金色の芋が出てきた。
「ホクホクしないでねっとりするのね」
「口の中の水分が持ってかれないから、こっちのほうが食べやすいな」
「それに普通の焼き芋より格段に甘い。ゆっくり加熱したおかげだろうな」
子供が喜ぶものばかりを食べクリスマス会のような気分になった。彼らは途中まで食器の片付けを手伝ってから、腹ごなしに話をする。
「それで、陸上部の先輩にはどう返事したの?」と柚葉。
「結局断ったの。部長の真剣さに応える自信がなくて。だからクリスマスはヒマになっちゃった」
「あのぉ、良かったらおれとどうっすか?」と陽太。
「あんたと二人っきりで? 正気?」
「いや、実はおれも佳奈も予定がないから、陽太を遊びに誘ったんだ。渚も一緒にどうかと思って」と一真。
「なんだそういうことか。最初っからそう言いなさいよ陽太」
「お前がドキッとするかと思ってな」
「するかっ」
「柚葉は歩くんとデートか」と時尾が聞いた。
「ええ。約束してる」
「なんかテンション低くない?」と渚。
「そんなことないけど……時尾くん、歩くん私のこと何か言ってなかった?」
「いや、何も聞いてないよ」
「そう、そうだよね。とっ、ところで時尾くんは彼女とどうするの?」
「彼女? 誰のことだ」
「しらばっくれるなよ。夏祭りの時に連れてきたあの子、桜庭多枝だっけ?」と一真。
「彼女とかじゃないって」
「本当に? まだ何もやってないのか?」と陽太。
「ただの仲の良い友人だ」
「ただの友人……」と柚葉。
「向こうはそう思ってないかもよ。かわいそうに」と渚。
「そんなことないって。おれたちイブもクリスマスもバイトに入る予定だし」
「マジで!?」
期末試験が始まり、ふじた温泉も営業を再開した。
テストのため一真は早めに帰宅した。駐車場は満車で、薪ストーブの煙突から黒い煙がもくもく上がっている。一真の頭の中から残りのテストのことなど吹っ飛んだ。
「早く手伝わないと」
消えかけていたストーブに細い薪を入れる。店の裏の自宅に回り、動きやすいジャージに着替える。袖と裾をまくり更衣室に入る。そこでは湯から上がったばかりの客が藤椅子に座り談笑していた。
「いやあ、久しぶりに手足を伸ばして湯に浸かって生き返ったよ」
「ここに来ないとどうも何か物足りなくてね」
「そういえば小島さんがまだ来てないな」
「さっきもうタクシーで来て、またタクシー呼んで帰ったよ。一週間休んだだけで歩けなくなったんだって」
「温泉に通うのが介護予防になってたんだな」
一真はいつも以上に丁寧に仕事をした。
ふじた温泉の常連客がまた居場所を取り戻したころ、テストも終了した。唯一心配だった陽太の英語も悪くなかった。
「リスニングほぼ満点じゃん!」と渚が感心して言った。
「バイトで滑舌悪い人とか声小さい人を相手にしてるとさ、聞き取れた単語で相手の言いたいことを推測できるようになるんだ。それを応用できたのかな」
「陽太くんって実は頭いいのかも」と柚葉。
テスト結果が出るとすぐ冬休みだ。天皇誕生日がまだ十二月二十三日だったので、学校はクリスマス前から休みに入る。
二学期最後の授業が終わると直ちに寮内が騒然とした。多くの寮生はクリスマスを首都の家族や友人と過ごすため、前日までに整理しておいた荷物を運び、続々と寮から出ていった。商店街の石畳から、キャスターがゴロゴロ転がる音が周囲に響き渡った。
直人と蘭も冬休み前日に帰省した。寮に残ったのは歩のように鯉泉で恋人を作った人、明音のように付き合いが多い人、あるいは金銭的な理由で帰れずバイトをする人ぐらいだった。彼らは人生で初めて異郷で年を越そうとしていた。
急にがらんとした食堂で、時尾は明音や歩と食事をした。明音は明日からの冬休みを充実させようと必死だ。
「クリスマスは友達と今宮に行って、その後はセミールでお買い物をして映画を見ればいいけど、大晦日とお正月はどうしようかしら?」
「あっ、そうだ。さがらやは年末年始に休業になるから、食料は早めに買い込んでおいてね」
「分かりました。注意します」
「歩くんは彼女の家にご挨拶に行くからだいじょうぶじゃないの?」
「まさか。年越しはふつう家族水入らずでしょう」
「それもそっか。じゃあ三人で年越しそばでも作ろっか」
「ごめん。たぶんおれ用事があるから」と時尾。
「大晦日に?」
「たぶんだけどね」
受験生と教職員に冬休みはない。彼らはいつものように高校に通い、受験対策をした。
「私たちも休みを返上して一緒に戦うから頑張るのよ!」
新沢は三年生に発破をかけた。虚しくはない。幸せな将来をつかもうとする教え子をサポートできるのだから。しかし寂しさは否定できない。どんなに有意義な仕事をしても、生徒や保護者から感謝されても、結局は一人なのだから。
彼女は風間からの誘いを断った。三十代になって初のクリスマスをどう過ごすべきか。
とりあえず仕事がある。彼女はイブも教室で授業をした。田舎町の片隅にはクリスマスソングも届かなかった。生徒たちこそ哀れと思うが、あまり慰めにならなかった。
午後の授業が終わり職員室に戻った。教職員たちもさすがにそわそわしている。まだ小さい子供がいる小野寺大輔は車にプレゼントを隠してあり、子供が寝静まってから枕元に置く予定だ。理沙は家族で恒例のパーティーを開き、高いシャンパンを開けるという。石川は娘から説得され、孫のためにサンタに扮することになった。
「まだ還暦前なのに、赤いちゃんちゃんこを着せられるみたいで嫌になるな」と言いながらも、こんなイベントで頼りにされるのがやぶさかでない様子だ。
新沢の対面に座る風間は済ました顔で同僚の話を聞いている。彼は平気なのだろうか。男はやはり違うのだろうか。
彼女は五時過ぎに校門を出た。空はもう真っ暗で、街灯が瞬いている。部活が休みのため校庭も体育館周辺も闇に包まれている。学生寮でさえ電気はまばらだ。彼女はクリスマスとは無縁の商店街を歩いた。足湯の煙を眺め、次に空を見上げた。目の下が一瞬、ひやりとした。勘違いではない。鯉泉の平野部では珍しい雪が降ってきたのだ。
「私への皮肉かしら」
雪は積もり、田んぼと畑が先に真っ白になった。空の雲と地上の雪に挟まれた空間が静かになる。新沢は鼻がツンとした。大粒の雪が彼女の髪を白く染めた。彼女は光を求めるようにして駅前のスーパーに入った。
さがらやは相変わらず営業中だった。利用客が少ないのは、特別な日を特別に過ごそうとする人が多いからだろう。
店の雰囲気はいつもと変わらない。店の片隅になんとなくクリスマスツリーが置かれているだけで、いつもの店オリジナルのテーマ曲が流れている。客だけでなく店員も少ない。主力の主婦が休むからだ。
新沢はカゴを持ち、一人用の惣菜や翌日分の弁当を探す。ところが一応はクリスマスとあって、家族用のケーキ、チキン、オードブルなどが幅を利かせ、通常の商品が減っている。店内をぐるっと回ってもカゴの中は空っぽのまま。今夜はカップラーメン、明日の昼は惣菜パンを覚悟する。
「お酒だけ買っておこう」
レジでは時尾と桜庭が向かい合うようにして立ち、何やら楽しそうに会話している。新沢は時尾がいる近い方のレジを選んだ。
「冬休みなのにお勤めご苦労さまです」
「あなたこそ」
時尾は二本の缶チューハイのバーコードを読み取り、小さめのレジ袋に入れた。
「今夜は冷えますね」
「そうね。雪が降ってきたわ」
「バイトがなければ一真のところに行くんですが」
「あぁそう言えば実家が温泉なんだっけ。今日も営業してるの」
「大晦日と三が日以外は年中無休です」
「ここから近い?」
「少し歩きますが首都の人なら慣れているでしょう。外に出たら、だいたいあっちの方を見てください。畑の中で明るいので分かりやすいですよ」
新沢はいったん帰宅し、着替えとタオルを用意してから再び外に出た。さっきより雪が増え、新沢の長いまつげに引っかかり、視界を奪う。今夜は首都よりも明るい月、多い星も姿を隠している。田舎のホワイトクリスマスはロマンとは無縁。無人の歩道を一人行き、泥を含む湿った足跡で雪景色を汚すだけ。
体が芯まで凍りつきそうになったころ、彼女はようやく温泉の店先に立った。六時半という丁度いい時間帯なのに車がほとんど停まっていない。本当にやっているのだろうかと不安になるが、自動ドアはためらうことなく大きく開き、店内に溜まっていた暖かい空気を吐き出した。
「いらっしゃい」
店のどこかから聞こえるパチパチという音。彼女はそれに誘われるようにして休憩室にたどり着いた。ストーブの中で薪が盛んに燃えている。床が温かく、冷え切った足の裏や指先に血流が戻る。客用のソファーには一真が座り、店の漫画を読んでいる。
「せ、先生……」
「こんばんは」
「お一人ですか」
「そうよ。何か問題でも?」
「いえ、べつに。女湯はあちらになります」
新沢は更衣室で裸になり、無人の露天風呂に進む。雪の夜空を背景に、奥に大きな岩が置かれた温泉の水面から湯けむりが勢いよく立ち昇る。岩の隙間から生える松の木の雪が溶け、時折どさりとまとまって落ちる。湯けむりが届かない岩の頂部には湿り気を帯びた雪がうず高く積もる。小さな山のようだ。
彼女は湯に浸かり、手足をゆったり伸ばす。冬の空気で冷え、乾燥していた肌が湿り気を取り戻す。水温は決して高くないが、すぐに頭から汗が吹き出す。全身がほぐれ脱力する。久しぶりの感覚。湯に全身を浸すのは修学旅行ぶり。今日は三十になり初めて入る温泉。これからは頻繁に通うことだろう。
「こんなイブも悪くないわね」
「湯加減はどうですか」
「うわっ! びっくりした」
急に男湯の方からクラスの男子の声が聞こえたのだから無理もない。彼女は反射的に両腕で胸を隠す。
「話しておきたいことがあるんですが」
「ここで?」
「前回の面談の件についてちょっと……」
新沢は温泉に行き、一真の両親を説得すると約束したのだった。
「あぁ進学についてね。上がったらさっそくご両親とお話をしましょうか」
「それをちょっと待ってほしいんです。まだおれの気持ちが決まらなくて」
「だったら急いで無理に決めることないわ」
「ありがとうございます。それではごゆっくりどうぞ」
風呂でどっさり汗を流すと、新沢の腹がぐぅと鳴った。家に帰ってカップラーメンでは味気ない。せっかくだから何か食べていこうか。
「いらっしゃいませ」と、食堂の片隅に立っていた女性が言った。一真の母だろう。
「今日は食堂も営業中ですか?」
「はい。券売機をご利用ください」
新沢は唐揚げ定食のボタンを押し、一真の母に食券を渡した。彼女はそれをカウンターに置き、「からてい一つ!」と厨房の中に声をかけた。
定食はすぐに完成した。できたての唐揚げの油がまだじゅうじゅう音を立てている。
「値段の割にボリュームがあって、味もいいですね」と、彼女は一真の母にお礼を言った。
「おかげさまで。お客さんはうちを利用するのは初めてですか?」
そこで新沢は自己紹介をした。
「あら一真の担任の先生!? 若くてきれいな人だからぜんぜん気づかなかった」
本当は若くない、珍しいだけ。それでも彼女は嬉しかった。イブにこんな素晴らしい穴場が見つかるとは。
「首都からお越しでは寂しいでしょう。うちは四日から営業ですが、お雑煮を作りますのでぜひ食べに来てください」
きっと来るだろう。正月のアットホームな雰囲気に浸り、鯉泉の正月を肌で実感するため。実家を出てから食べていなかった雑煮を食べるため。一月四日の冬期講習が終わった後に、必ず。
翌日のクリスマスも雪だった。
時尾はスーパーで買っておいたサンドイッチを食べ終え、八時過ぎに無人のラウンジに下り、テレビで県内の天気予報を見る。鯉泉だけでなく、今季最強寒波とやらの影響で今宮のほうでも降り、交通の一部が麻痺しているという。今宮駅を出た会社員は慣れない雪で足を滑らせ、ある男子高校生は尻餅をつき笑っている。
寮の中はやけに静かだ。昨夜は何の予定もない寮生たちがラウンジでパーティーを開き、まだ飾り付けが残っている。参加者はつい数時間前まで起きていたので、今ごろは自分の部屋でぐっすり眠っていることだろう。
時尾はラウンジで英語の本を読んだ。いつもより集中でき、読みやすい。雪はしんしんと降り、掛け時計の針はカチカチと時を刻む。久しぶりに本から目を上げるともう十二時前だ。
「さて、そろそろ出勤か」
彼は商店街の石畳の端を歩く。温泉水が水路を流れるので、そこだけ雪が溶けているからだ。ほのかな硫黄の匂い。苔に覆われ鈍く光る水路。人気のない雪の商店街は年の瀬を感じさせる。
店で弁当を買い、客用の電子レンジで温めてから、裏の事務所に入る。
「今日も早いね」と、若い店長から声をかけられた。
「寮にいても店にいても変わらないので」
「クリスマスなのにありがとう」
「店長こそ。彼女を作る時間もなさそうですね」
「そうなんだよ。これから大晦日、正月、節分、ひな祭りとイベントが続き、お客さんのためにセールとかもやるわけだけど、私にとっては世の中で起きているすべてが他人事だね」
ピンポンパンポーン。店長、一番レジまで来てください。
時尾はふやけて柔らかくなった唐揚げをかじる。弁当を食べ終える前に桜庭多枝も出勤した。
「今日も一緒か。よろしく」
「こちらこそ」
雪の午後。寮のラウンジと同じく、時がゆっくり流れる。年を取った常連客は雪による転倒を恐れ、鯉泉から出ない人はスタッドレスタイヤに履き替えるのを面倒がり、外出を控えている。この分では、今宮方面から会社員が戻る夕方まで客が来そうにない。
「今のうちに雪かきをやっちゃおうか」と、店長が時尾と多枝に言った。
三人で物置からプラスチック製のスコップを取り出し、雪かきをする。店の入口から駐車場の出口まで。店に近い駐車位置を重点的に。けっこうな重労働で、体が温まり、肌がむず痒くなる。
駐車場に平等に積もっていた雪を動かし、隅の方に山を作る。三人だけでも作業に没頭すれば確かな成果がある。
「よし、もういいだろう」
店長は二人に缶コーヒーを奢ってくれた。レジはパートの女性たちに任せ、三人で事務所で休憩する。
「しかしきみらはこれまで雇った高校生とは違うね」と、店長が感心して言った。
「どんなところがですか?」と多枝。
「一昨年も雪が降ったんだけどね、どうせお客さん来ないのに雪かきなんて意味あるんですか、って言われちゃって」
「意味はあるでしょう。お客さんや近所の人はそういうところを見てますからね」と時尾。
「そうそう! そういう考え方が大げさに言うと経営者視点ってやつ。きみは分かってるね」
「お客さんが少ないからこそ有意義だと思います。私だったら、自分のために駐車場をこんなにきれいにしてくれたのかって感激しますよ」と多枝。
「その通り。お客さんが定着し、地域密着型の店として頼りにしてくれる。それが私の生きがいなんだ」
休憩が終わり、再びレジに立つ。雪かきの間に一気に時が流れてもう四時だ。雪が小降りになってきたからか、店内に買い物客の姿が増えてきた。雪かきをした駐車場にも車が入っている。経営者ではない時尾や多枝でさえ嬉しくなってきた。
閉店時間の八時になった。多くの店員が足早に帰る中、時尾は多枝が女子更衣室から出てくるのを事務所で待つ。彼女は電車の時刻に余裕があるので最後に出てきた。
「時尾くん?」
「一緒に帰ろうと思って」
店長が慌てて店内から戻り、「二人にプレゼント」と言った。クリーム、イチゴ、板チョコ、サンタの砂糖菓子で彩られた六号ケーキが入った二つの箱。どちらにも半額のシールが貼られている。
「メリークリスマス」
高校生二人はまだ明るいさがらやを背にし駅に向かう。
「店長はみんなのサンタみたいだな」
「おかげで少しはクリスマス気分に浸れそうね」
「あのさ、大晦日は予定ある?」
「特に何もないはず。大掃除を早めに終わらせれば」
「一緒に今宮まで年越しにいかないか。食事して、神社で初詣して、朝の電車で戻って来る」
「楽しそうね。子供のころ夜ふかししたのを思い出すわ」
「ちょっと急だけど」
「ぜんぜんだいじょうぶよ。時尾くんに誘ってもらって嬉しいわ」
「おれもだ。今夜はサプライズが多いな」
「私が断ると思ったの?」
「ちょっとハードなスケジュールだから。寒いし」
「きっと寒くなんかない」
ゆっくり立ち話したいところだが、そろそろ電車が到着する。今から今宮方面に行く人よりも帰って来る人の方が多く、おしゃれな格好をした若者たちがぞろぞろ出てきた。
「じゃあ大晦日の六時に、ここで」
「ええ」
多枝を乗せた電車が見えなくなると、時尾は両手で箱を大事に抱え学校に戻った。真っ白な校庭、真っ白な校舎。吐く息まで白い。
寮のラウンジは宴たけなわだった。食堂で特別に作ってくれたチキン、ピザ、グラタン、スープに、セミールから買ってきたお菓子やジュース。少ない寮生たちはだらしない格好でソファーに座り、ぐだぐだ話をし、時間を潰している。時尾が玄関のドアを開き、外の冷たい空気を入れると、大声で友達と話していた明音がケーキに気づいてこう言った。
「時尾先輩、気が利きますね!」
「いや、これはその……」
さがらやのケーキは食欲旺盛な寮生の腹に収められた。時尾は騒がしいラウンジを渡り、階段を上がり、自室に入りコートを脱ぐ。再び一階に下りると、そこは奇妙なほど静まり返っていた。
「うっ、くくっ……」
寮生たちによって踏み固められた玄関マットが溶けた雪で湿っている。その上でうつむき加減に立ち尽くしているのは広沢歩だ。
「歩くん、どうしたんだ?」
「せ、先輩」
歩は時尾を見るとついに嗚咽を漏らした。続いて「ひっく、ひっく」としゃくりあげる声がラウンジで間欠的に響いた。せっかくのクリスマスムードがぶち壊しに。時尾は「とにかく上で話を聞こう」と言い、歩を自室に連れて行った。
歩と柚葉は激しく口論し、別れたのだった。
街の静けさにはいくつか種類がある。年の瀬のそれは明らかに異質だ。
人々は新年への期待で胸が踊るのに厳めしい顔を作る。浮き立つ心を露わにするのがはしたないかのように。大人も子供も先生に叱られたみたいに一応は神妙にしているが、もう次にどんな悪さをしてやろうかとわくわくしている。表面的な厳かさと、それを内側から破らんとする生きる喜びのせめぎ合いが、街の空に心地よい静かな緊張を生む。
約束通り、時尾と多枝は六時に駅前で会った。「やぁ」と軽く挨拶しただけで駅舎に入り、切符を買い、今宮行きの電車が来るホームに立つ。今日も雪。一昨日は雪による倒木で上下線とも一時運休となった。時尾はそんなニュースを思い出しながら、電車が心なしか普段よりゆっくり停車するのを見る。車内の席は中途半端に空いている。時尾と多枝は離れた席に座った。
電車は三十分後に今宮に着いた。時尾と多枝は別々に降り、人の流れによって改札口から吐き出された後、ついに売店の前で二人きりになった。
「これからどうする?」と多枝が聞いた。
「夕飯の予約は八時だから、まだ時間があるな。ちょっと駅ビルの中をうろつかないか」
「賛成」
彼らは地下一階の食品フロアに下りた。さすがにこれから帰省するという人は少なく、どのお土産屋も客がまばらだ。しかも大晦日とあって多くの店が営業時間を七時までに短縮している。客だけでなく店員までがそわそわし、ちらちらと時計に目を向ける。
「そういえば、こうして二人で出かけるのも初めてだな」
「本当に。もう一緒にいろんなところに行った気分になってたけど」
「たぶんきみとは波長が合うと思うんだ」
「私もそう思う。自然体でいきましょう」
エレベーターで二階に上がり、本屋に立ち寄る。アンドー書店とは違い、売れ筋の新刊が目白押しで、奥に入れば専門書も充実している。多枝は海外文学の単行本のコーナーで足を止めた。
「どんな小説を読むの」
「SF、ミステリー、ファンタジー、純文学。外国のものならなんでも」
「日本の小説は読まない?」
「あんまり興味を持てないのよね。同じ国の同世代の人が書くものなんて」
「きみって反逆的って言われないか」
「言われないけど、いきなりどうして?」
「この国の常識や価値観に背を向けようとするのが、海外に目が向く潜在的な理由なんじゃないかって」
「あぁなるほど。読書に日常以上の体験を求めるって、そういうことなのか」
多枝は学校で見せることのない、屈託ない笑みを浮かべた。
「親や学校に楯突いたり、暴走族になったり、店で万引きをする代わりに、私は外国の本を読んで社会に反抗してるんだ」
「おれなんかまさにそうだから。受験と関係ない英語の本を読むのも。真っ向勝負したくないんだよな。どうせなら我流で頭良くなりたい」
「落ち着いて見えるけど捻くれ者なのね」
「きみこそ」
「あなたになら認めても怖くないわ」
本好きはいくらでも本屋で時間を潰せるもので、そろそろ八時だ。二人は駅ビルから外に出た。
今宮駅前の地面は、人々に踏まれつつ溶けては固まった雪と氷で凸凹になり、少し気を抜くと捻挫しそうなほどだ。夜の冷たい風がビルの間から駅前に吹き付け、まともに目を開けていられない。後ろを歩く多枝は思わず時尾の腕にしがみつく。
「場所はまだなの?」
「もう少しだ」
駅前の表通りを三百メートルほど歩き、左に折れた所にその店はあった。そば処時桜。
「なんとなく名前で選んだんだ」
「私たちにぴったりね」
ガラッ。いらっしゃい。
「予約していた時尾です」
「好きなところに座ってちょうだい」
彼らの他に客は一人もいなかった。店主も妻もテレビで紅白歌合戦を視聴している。夫はカウンターに立ち、妻はカウンター席に座り、歌手の歌に耳を傾け、その佇まいを目に焼き付ける。時尾と多枝はポットに入っているサービスのそば茶を注ぎ、三卓しかない座敷席に上がった。茶はまろやかで甘みがあり、心安らぐ味だった。
「この歌が終わったら注文を聞くからちょっと待っててねぇ」と、妻がテレビを見ながら言った。
「どうぞお構いなく」と多枝が答えた。
次はベテランの男性歌手が登場し、店主は「待ってました!」と囃し立てた。昭和に流行った演歌で、こぶしが「うぉんうぉん」と利き、除夜の鐘の残響のようだ。
「石川先生みたい」
「今ごろ家で熱唱してるかもな」
やっと夫婦が興味のない歌手になった。時尾と多枝は年越しそばを注文した。若い女性歌手が熱唱する間に、店主は「あらよっと」と適当にそばを作り終えた。
海老天、かまぼこ、卵と、鍋焼きうどんのようなそばだった。どれもおめでたい具ばかり。二人はそばをすすりながらテレビを見た。
「なんだか親戚の家に来たみたい」
司会が長話をしヒマになった店主もカウンター席に座り、二人に「高校生かい?」と話しかけた。時尾は「はい」と答える。店主は「ふうむ」と唸り、妻が代わりにこう聞いた。
「家には居づらい事情でもあるの?」
「いえ、そういうわけじゃありません」と多枝が頭を振った。時尾はそれに頷きながら、「実はこう見えてデートなんです」と答えた。
「今宮八幡宮まで初詣に行こうと思って」と多枝が続けて言った。
「あんれまあ」
妻は目を丸くし、夫と顔を見合わせ、にっこり笑った。
「うちを選んでくれたなんて嬉しいねえ」
食べ終えてもまだ九時過ぎだった。歌合戦は前半が終了した。店主はその間にそそくさと暖簾を下ろし、妻は空になった食器を厨房に運ぶ。
「外はまた雪だぜ。どこも行くとこなんてないんだからゆっくりしていきな」
「ではお言葉に甘えて」
彼らは番組が終了するまで店でぬくぬくと過ごした。夫婦は若い二人に「良いお年を」と言い、外に送り出した。
店主が気を利かせたのも無理はない。街灯に照らされる雪はいっそう大きく密になり、一心不乱に地面に舞い降りる。気温も低いので明日には積もり、初詣客を悩ませることになりそうだ。
駅前では毎年、盛大なカウントダウンイベントが催されるが、時尾たちはそこではなく駅西公園に向かう。昼であれば子供連れや付近の会社員で賑わう公園は無人で、がらんとしている。小さな子供が一人乗りする動物の遊具は雪をかぶり丸い。時尾はブランコの雪を手で払い、座って漕ぎ、足で雪の地面に直線を描いた。粉雪が高く舞い上がり、多枝の赤くなった鼻や頬にかかる。
「よくもやったわね」
彼女は雪を抱え、ブランコで行き来する時尾にかける。時尾の目の前に白い壁が現れては消える。目、鼻、口が塞がれ息苦しい。彼は漕ぐのをやめ、減速するのを待ってから、壁に向かい飛びかかる。壁の先には多枝がいた。
多枝は抱きとめられず、後退しながら尻餅をついた。時尾は多枝の後頭部を抱えながら地面に倒れ、彼女の上に覆いかぶさる。雪を浴びた男の顔と、雪に半分埋もれた女の顔が近づく。唇が重なりそうになった瞬間、除夜の鐘が鳴る。
「あけましておめでとう」と、多枝が先に言った。時尾も「おめでとう」と返すと、彼女を起こし、手を引いて立たせる。
「さっきは乱暴なことをしてごめん」
「いえ、いいの」
二人は公園を出ても手を放さなかった。お互いに手袋をしていても相手の温もりを感じられる。背が高く歩幅が広い時尾が先を歩き、多枝がその後に続く。今宮八幡宮はここから駅を挟んで反対側にある。駅の中を通ってもいいのだが、彼らは遠回りし橋を渡ることにした。
「こうして手を握るのは修学旅行ぶりね」
「そうだな」
「またこんな時が来ることを信じていた」
「おれもだ」
鐘は鳴り続ける。音で八幡宮の方角がおぼろげに分かる。その上空だけうっすらと明るくなっている。今ごろは彼らのように夜ふかしした人たちが集まり、新年の祈願をしていることだろう。
「ねぇ、何をお願いするの」
「今この時が永遠になりますようにって」
「ずっと忘れない思い出にってことね」
「そう。きみの願いは? やっぱり海外留学か」
「ええ。でも反抗に飽きて長い旅を終えたら、また鯉泉に戻ってきたい。母校を訪ね、後輩たちや、首都から来た寮生たちを見て、懐かしい気分に浸りたい」
それはいいな、と時尾は思う。きっと楽しいことだろう。
長い橋を歩くと、人のにぎわいが風に乗り聞こえてきた。今宮の八幡宮は安産子宝の祈願で知られ、その御利益があるお守りをもらおうと地元の人のみならず近県から遠征する人も多い。遠くにある運動公園の駐車場からはシャトルバスも運行する。そのバスがエンジン音を響かせつつ、ちょうど彼らの後ろから近づき、追い越した。車内はハレの日の服装の人々ですし詰め状態だ。
「振袖の人もいる」
「本当だ。やっぱり女の人ってあれに憧れるのか」
「そうね。なかなか着る機会がないから」
時尾も多枝も普段着だった。互いに、相手の服をこれまで何度も見ている。
彼らは橋を渡った先にある交差点の左側で立ち止まった。この時間帯であれば信号は黄色く点滅するはずなのだが、今日は初詣の影響で普通に動いている。歩行者も車もないが二人は律儀に信号を待つ。
さっきとは別のバスが八幡宮方面の右から戻り、赤信号で待機する。ほどなくして歩行者の信号が青になった。時尾は右手で多枝の左手を握り、向かい側に渡る横断歩道に足を踏み入れる。ふと、彼は空を掴む。空っぽの手袋。まぶしいヘッドライト。自分を突き飛ばした後、その強い反動で道路に倒れる多枝。急ブレーキの音。凍った道の上で空回りするタイヤ。よろめきつつ飛んでいく車。赤い血しぶきで汚れる白い道。
「多枝ちゃん、お願いだから頑張ってくれ。おれはきみを愛している、もうきみなしでは生きられないのに、おれなんかをかばって一人で先に行かないでくれ……」




