一月
大晦日に寮生たちと夜ふかしをし寝不足だった明音は、元日の夜にぐっすり眠ることができた。それだけで彼女は疲れを吹き飛ばし元気を取り戻した。
二日の朝の寮は物音一つしなかった。上から下りてきた彼女は今更ながらラウンジの広さを再認識した。せっかくこれほどのスペースを独り占めできるのだから何かしたい。ふと、休み中の午後に見たメロドラマの一幕を思い出し、一人芝居を始める。主人公になりきり、ヒロインの耳元で愛をささやく。アドリブを入れ、洋画で覚えた簡単なセリフを口にする。
「アイニージュー」
「英語か」
「ひっ!」
窓辺に歩が立っていた。巻かれたカーテンに完全に擬態している。
「いるなら気配ぐらい出してよっ」
「ごめん」
「まだしょげてるの」
「……」
「もういい加減にメソメソするのをやめたら?」
「……」
「すぐにもっといい人が見つかるわよ」
「そんな簡単に見つかるものか。ぼくらは真剣だったんだから」
「時尾先輩からはなんて言われたの?」
「彼女もぼくと同じぐらい苦しんでいる、きっと辛いはずだ。近づいてみて相手が自分の想像と違う人だったからって、それはどちらのせいでもない。あまり自分や相手を責めるなって」
「じゃあ歩くんも彼女も今はじっと痛みに耐えるしかないわね」
「そうさ。だからこうして一人静かな時を送っていたのに」
「私がクサイ芝居と英語でぶち壊しにしたわけね」
「おかげで少しだけ気が晴れたよ」
「ところで時尾先輩は?」
「分からない。そういえば最近見かけないね」
「きっとどこか遊びに行ってるのよ。羨ましいなぁ」
明音は失意の歩を放っておき外に出た。年を越すまで降り続いていた雪はついに止んだが、建物の日陰になりやすい商店街の石畳はまだツルツルで、雪を知らない都会っ子の明音は足取りがおぼつかない。
新年の商店街は完全にシャッター街になった。ところが耳をすませばいつもより賑やかなのが分かる。店の奥からはテレビの音が聞こえる。親戚一同は早くも酒を飲み、駅伝の中継をBGMに大声で話をしている。今日ばかりは酔ってもグチはない。楽しいこと、希望溢れる未来しか思い描けない。お屠蘇気分。正月ボケ。今の明音にとっては興ざめでしかない。
ここ数日はどこに行ってもそんなムードから逃れられない。セミールもそうだ。ちょっと前まではクリスマスで大騒ぎしていたくせに、今は節操なくツリーを置いていたエレベーター前に門松を飾り、ウィンターソングの代わりに春の海を流している。店内のどこにいても、たとえトイレに入っても、亊と尺八の音色から逃れられない。他人の祭り。自分だけ覚めている疎外感。明音は一人でセミールの中を散策しながら、故郷の正月やおせち料理が恋しく、親のありがたみを知った。
三が日が終わり、学校の冬期講習が再開された。まだまだお正月のムードを引きずりながら職員室に入った新沢えりかは、先に来ていた同僚たちがみな厳かな顔をしていることに気づいた。
「み、みんなどうしたんですか?」
「二年生の桜庭多枝さんが交通事故で亡くなりました。たしか英語部でしたよね」と石川が言った。
「あの桜庭さんが……」
急な訃報で頭が混乱した新沢は最初の授業でミスを連発した。生徒たちから笑われたが、彼女は弁解しようとしなかった。今はとにかく仕事に集中しなければ。
昼までにはなんとか調子を取り戻した。彼女は職員室の窓辺に立ち、コンビニで買ったサンドイッチを食べながら、雪が溶けぐちゃぐちゃになったグラウンドを見る。雪と氷で車がスリップ。病院に搬送後、出血多量で死亡。あの向上心が強い少女はもうこの世にいない。自分のせいではないが責任を感じてしまう。
「あけましておめでとう、って言ってる場合じゃないわね」
振り返ると白衣を着た佐伯理沙がいた。実験がなくても学校ではこのスタイルだ。新沢にはその白が今、最もふさわしい色に思えた。
「本当に残念だけど、そのために生徒たちに迷惑をかけるわけにはいかない。できるだけいつも通りでいきましょう」と、新沢は決意を込めて言った。
「それで、今夜の約束はどうする?」
「それも予定通りにしましょう」
退勤後、新沢と理沙はふじた温泉にやってきた。今年の営業初日だからか車が多い。
「ここに入ったことある?」
「小さい頃に家族に連れられて何回か。大人になってからは初めてね」
自動ドアが開くと、藤田家の最年長者である老婆が「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします」と、年齢掛ける何十回も口にしただろう挨拶を唱えた。それは念仏のように、何遍唱えても功徳になるかのようだった。
二人は女湯でちやほやされた。まだまだ遊びたい年頃だろうに正月から仕事を始め、盛り場で消耗するのではなく温泉で疲労回復を図るとは、なかなか殊勝な若手教員だ。それに比べてうちの倅、嫁、孫ときたら……。
「あなたは首都から来たそうだけど、やっぱりすぐ帰っちゃうのかい?」と、中年女性が新沢に聞いた。
「できれば鯉泉に残ろうと思います」
「偉い! 風呂上がりにうちの息子を紹介するよ」
「そっちの先生は?」と、別の女性が理沙に聞いた。
「私は鯉泉出身ですので、県内で転勤することはあってもずっとここにいます」
「それは好都合だ。紹介したい人がいるから、後で連絡先を教えてね」
彼女たちは真っ赤になり風呂から上がった。ストーブに薪を入れていた一真は、風呂上がりでメイクを落としても魅力的な顔の理沙を見てドキッとした。
「せ、先生たち、いらしてたんですね」
「お邪魔してます」と理沙が言った。
「あ、ちょっと待ってください新沢先生」
「どうしたの?」
「二年生の誰かが事故で亡くなったって噂を聞いたんですが」
「別のクラスの、桜庭多枝さんって子」
「ひょっとして英語部の?」
「知ってるの?」
「一度だけここで会ったことがあります。時尾と仲良さそうだったから、あいつ今ごろショックを受けてるだろうな」
「そっか、あの二人は……」
彼女たち以外に食事をしていく人はいなかった。みな温泉で少しでもエネルギーを消費してから、また家で暴飲暴食を続けるのだ。
二人は座敷席に上がり、座布団を使い楽な格好になった。食堂の奥からお雑煮の匂いがする。
「今年はまだお餅を食べてないのよね」
「うちはもう餅に飽きてお米ばかり食べてる」
「しかし地元のお客さんに顔を覚えられちゃったね」
「私ああいうのちょっと苦手なの。おせっかいっていうか、会うたびに男を紹介されると思うと気が滅入るわ」
「私は身内扱いしてもらえて嬉しかった。それに、出会いはないよりあるほうがいいし」
「お待ちどおさま」
五百円とは思えないほどボリュームのあるお雑煮が出た。備え付けの七味唐辛子をかけて、割り箸を取る。出汁が利き、七味とともに餅の甘みと野菜の味わいを引き立てる。
「こっちはサービスです」
一真の母は熱燗まで付けてくれた。
「えっとお気持ちはありがたいのですが、教師という仕事柄その……」
「うちはお正月に食事していってくれるお客さん全員に出しています」
「それならば」
甘口の庶民的な酒だった。
「親戚からいろんな銘酒を飲まされたけど、こういうのが一番飲みやすくて美味しいわ」
「お雑煮にも合うしね」
食べて飲むと、温泉と酒の力で体が温まり、初日の授業の緊張もあってか酔いが回った。
「帰るの嫌になっちゃった」
「私もー。お兄ちゃんに車で迎えに来てもらおうかな」
「もうお酒飲んでるでしょう」
「下戸なの。ちょっと電話してみるね」
もしもし、今ふじた温泉にいるんだけど、うんまだ営業時間だよ、じゃあ待ってるね。
「来るけど、ついでに温泉に入っていくって」
「じゃあもう少し飲みましょうか。おかあさん、熱燗とおつまみ追加!」
正月のテレビ番組を見ながら二本目を飲んでいる途中、駐車場に車が停まった。しばらくすると食堂に三十歳ぐらいの背が高い男が現れた。やや痩せ型で、色白の顔に眼鏡を掛けている。理沙と雰囲気が近いようだ。
重ねた座布団に寄りかかっていた新沢は座り直し、座敷席に上がってきた男性に目を向ける。正月の普段着姿なのにパリッとし、薄いあごひげにも関わらず清潔感がある。
「あなたが新沢先生ですね。妹から話をよく聞いています」
「り、理沙ちゃんにこんな素敵なお兄さんが!?」
新沢は心の中で驚きながら、「今年もよろしくお願いします」と咄嗟に返した。理沙は笑い、「今年からでしょう」と言った。
新沢から話を聞いた後、一真はケータイで時尾に電話をかけた。電源はオフにされていた。次に、一真は同じクラスの仲間たちにメールで連絡した。みんなで明日、寮まで様子を見に行くことになった。
一真、渚、陽太、柚葉の四人は五日の午前十時半に鯉泉駅前に集合した。みんな浮かない顔をしているが、柚葉が最も辛そうだった。
「無理しなくてもいいのよ」と渚が気遣った。
「だいじょうぶ。時尾くんのお見舞いに行くだけだから」
彼らは商店街を歩いた。もう多くの店が営業を始めている。ラーメン店の引き戸には「準備中」という木の板と、「迎春」と書かれた正月の飾りがある。肉屋からは揚げ物の威勢の良い音と香ばしい匂いが漂う。足湯は利用者がいてもいなくても掛け流しになっている。雪はほぼ溶け、石畳が湿り気を帯び、靴底との摩擦で音をたてる。
四人は登校中よりも歩くのが遅く、足取りが重かった。
「おれ、こんな時にかける言葉を知らねえよ」
「私も。元気出してとか軽々しく言えないし」
「無理に慰めようとしなくていいんじゃないかしら。ただ近くで、友達として寄り添うだけで」
「少しでも辛い気持ちを分かち合うしかないな」
ついに校門前にたどり着いた。三年生がいるので門は開いている。彼らはそこを通り、校庭を大きく回り、学生寮に向かう。帰省している寮生たちは冬休みの最終日まで粘るらしく、寮からは物音一つしない。一真が代表し、寮のドアを開いた。
ラウンジは無人だった。さて時尾の部屋をどうやって調べようかと困っていると、上からドタバタと足音が近づいてきた。友達の帰りを待ちわび退屈していた明音だ。
「時尾先輩のお友達ですか。そちらの階段からどうぞ」
彼らは三階に上がり、やはり一真が時尾の部屋のドアをノックした。反応なし。もう一度しっかり叩く。やはり反応なし。
「時尾くん、私たち心配で来たの」と、渚がよく通る声で言った。
奥の方でゴソゴソと音がした。鍵が外れ、ドアが開いた。そこには目の周りだけが赤い、青ざめた、もう何日も髪を洗っていない時尾が立っていた。
「来てくれたんだ。ありがとう。狭いけど中にどうぞ」
多くの言葉を交わす必要はなかった。男たちはベッドに座り、女たちは机に寄りかかり、伏し目がちになった。時々顔を上げると誰かしらと目が合った。そんなやり取りで、一人で十分に苦しみ悲しんだ時尾は友人たちの善意を感じ取った。涙が枯れた彼は力なく微笑むことで彼らの気持ちに応じた。友人たちも今の彼にはそれが精一杯であることが分かっていた。
十二時の鐘が鳴った。条件反射で渚の腹がぐぅと唸り声をあげる。
「こんな時にお前なぁ」
「なによ、お腹はいつだって空くじゃん」
時尾が先に笑った。それから全員で遠慮なく笑った。渚は「よしよしいい子」と言い、自分のお腹をさすった。一真はこの好機を逃さず、「みんなで外で食べないか」と提案した。まだ時尾にためらいが見えるので、陽太は「お前ひどい顔してるぞ。待ってるからまずシャワー浴びてこいよ」と促した。
時尾は各階共用のシャワー室で髪を洗い、ヒゲを剃り、体の垢を擦り落とす。彼の新年がようやく始まろうとしていた。
部屋に戻った彼は仲間たちに、「餅を食べられる店ってないかな」と聞いた。
「商店街の店なら力うどんがあるぞ」
「それに初詣も行っておきたいな。願い事があるんだ」
「食べ終わったら裏山の神社に行きましょう」
やっとムードが盛り上がってきた。彼らは慎みある笑みをたたえ廊下を歩き、階段を下りた。途中で、下から上がってきた歩とすれ違った。五人組は誰一人表情を崩さなかった。歩は時尾に声をかけるどころか、柚葉に平静を装うこともできず、踊り場で呆然と立つしかなかった。
寮を出ると陽太が真っ先に吹き出した。つられて一真、渚も。
「笑うことないだろ」
「そうよそうよ」
「だって……」
「笑うしかないな」
冬休み最終日の午後。寮は戻ってきた寮生全員を収め、その熱気ではち切れんばかりだった。
「笹原先輩なんか大きくなってません?」
「そ、そうかな」
ラウンジで彼を迎えた明音には実際、直人が一回り大きくなったように見えた。
「そういえば実家に帰ってからずっと食欲旺盛だね。成長期が遅れてやってきたのかも」
「ちょっと太ったんじゃない? もっと体重増えてもいいと思うけど」首都で一度も会わず、鯉泉に戻る新幹線だけ一緒だった早乙女蘭が言った。
「時尾くんや広沢くんは元気にしてた?」
「それが……」
明音は冬休み中にあったことをざっと説明した。
「でも二人とも立ち直りかけているみたいです」
「じゃあ今夜は久しぶりにみんなで食事しましょうか」
夜の食堂は満員だった。蘭、直人、歩、時尾、明音の五人は同じテーブルに座り、ふうふう息を吐きながら七草粥をすする。粥は脂っこい食事で疲れた胃腸をじわりと癒やす。あるいは、しばらく食欲がなく動きが鈍かった胃腸の働きを活性化させる。
直人と蘭は首都であったことを報告した。新年は各スポットでイベントが催され、大手百貨店で名物の福袋が売られるなど、鯉泉ではニュースでしか見ることのない首都の賑わいを味わえたという。
「今年は父さんも仕事が休みで、家族で正月を過ごすことができた」
「お父さんやお母さんとは仲直りできましたか?」と明音。
「なんとかね。ただ以前のような関係には戻らず、一定の距離ができた。それは二人がぼくを尊重してくれているからだと思う」
「ご両親には、直人くんがもっともっと大きくなったように見えたのかもね」
五人は再び食事に戻る。話して消化できることと、黙々と消化すべきこと。そのどちらを抱えている人にとっても七草粥は旨かった。
三学期が始まった。冬期講習もあったので、職員たちはゆっくり休んでリフレッシュというわけにはいかなかった。特に新沢えりかや風間慎二のように首都から離れ、家族や親戚と正月を送らなかった者にとっては。
「なんかちっとも新年になった気がしないな」と、風間が職員室で対面の新沢に話しかけた。「一応は初詣に行ったし、餅も食べたけど、なんか違う気がする」
「そうね」
「まぁあと三カ月もしないうちに帰れるからいいんだけど」
「ええ」
彼女も彼と同じく、新年はやや味気なかった。しかしそれはこれまでの人生で何度か経験してきたのと同様、習慣の問題だろう。鯉泉に腰を落ち着け、ここでの正月が基準になれば、疎外感が消えもっと馴染み、心から楽しめるようになるのだろう。
風間慎二はもう彼女の前を通り過ぎた人だった。
新沢は二年五組の教室に入り、「あけましておめでとう」とあいさつした。
「まだお屠蘇気分も抜けないでしょうけど、気持ちを切り替えて、健康に気をつけて生活してください」
「ミセス・アラサワ、いつになく真面目ですね」と陽太が言った。
「悪い?」
「いえべつに」
一年生と二年生は同じことを繰り返す日々に戻っていった。三年生は中旬に共通テストがあるから準備と対策に必死だ。個人にどれほど大きな出来事があっても、世の無関係の人々は何の影響も受けず、自分たちの暮らしの法則に従いひたすら流されていく。
あの人が、あの恋が失われたというのに。
窓辺の席に座る時尾は授業中、外ばかりを見ていた。鈍色の曇り空。降りしきる雪。白雪に覆われる芝生。体育でボールを蹴る生徒たちに踏み荒らされ、雪と泥でぐちゃぐちゃになった校庭を見ると、四月の葉桜を思い出す。あの頃はまだ多枝を知らなかった。彼の人生に彼女は存在しなかった。それまでの人生、これからの人生に何の意義があるのか。
風で窓についた雪が溶け、滴り落ちた。
後の人生を左右する重要な共通テストが終わった。三年生は自由登校となった。
陸上部の部長は毎日学校に通った。去年ダメ元で受けていた今宮大学のAO入試に合格したからだ。彼は部長としての責務を急に思い出し、後輩の練習を見てやることにした。部員たちは雪がない日は外で走り、校庭のコンディションが悪い時は中でトレーニングをした。
地元に残ることになった彼はやはり渚のことが気がかりで、諦めきれなかった。渚は彼の告白を拒んだが、おかげで自分の女としての魅力に目覚めることができ、それについては感謝していた。
彼は他人の目が届かないところで、失礼にならない頻度で彼女に誘いかけた。
「日沖さんって陸上以外のスポーツもできるの?」
「水泳は得意ですね」
「ウィンタースポーツって興味ある? スキーとかスノボとか」
「小さいころ、家族とスキー場に行ったことがあります。楽しかったなぁ」
「良かったら県内のスキー場に行ってみない? 今年はコンディションが最高なんだって」
「スキー場か。いいかも」
「本当?」
「えっと、いえ、なんでもありません」
柚葉はようやく本を読む気になり、また図書室に通うようになった。
彼女は来年の受験をまだ意識していなかった。毎日こつこつ学校の宿題をやり、好きな本を読むだけで、成績優秀な彼女ならば今宮大学に難なく合格するだろう。彼女は明治時代に日本で書かれた小説を読みながら、外で部活に励む渚を見守った。今日も一緒に帰ろうと思いつつ。
ところが予定が変わった。図書室に時尾が入ってきたからだ。
彼は借りるのではなく、自分で持ってきた本を鞄から取り出し、机に置く。柚葉が近寄ると、それは英語の本だった。
「どんな内容の本?」
「それがまだ分からないんだ」
「えっ……」
「彼女の遺品。教室の机の中に入ってたんだって」
時尾は手触りを確かめるかのように表紙を撫で回す。温かく、ざらざらしている。なぜかそれが心地良い。
「一回しか会ったことがないけど、おおらかで、素敵な人だったよね」
「そうだったな」
二人は本の表紙をじっと見つめる。学校で習わないような単語ばかりで意味を読み取れない。二人は黙し、それぞれの思いにふける。遠い校庭から運動部員の掛け声が聞こえる。
「ねえ、ちょっと二人で話せる?」
「いいよ」
二人はやはり連絡通路の外、木の下にあるベンチに腰掛けた。まだまだ日が短く、五時前には真っ暗になる。
柚葉は「歩くんと別れたんだ」と口にした。それはクリスマスのことで、時尾は歩本人からも聞いていた。
「知っているよ」
「その、彼は最近どう?」
「さすがに情緒は安定したけど、あんまり元気ないね。おれも人のこと言えないけど」
「私のこと何か言ってた?」
「いや。ただ、自分が馬鹿だったって」
「それも傷つくな」
「そうだね」
「私から彼を突き放すような形になったの。私も彼も、自分や相手のことがよく分かってなかったし、それなのに私のために彼に同じ大学を受験させるわけにはいかないから。首都に残ったほうが彼の将来のためになる。私はそう自分を納得させたから、もう悔いはない」
「時間はかかっても、歩くんもきっと後できみの選択が正しかったって理解すると思う」
「時尾くんに話してよかった。しっかり気持ちの整理がついた気がする」
「そう言ってもらえるとうれしいよ」
「時尾くんは話したいことないの?」
「……」
「良かったら私、聞くよ」
時尾は長く休んでいたバイトに復帰した。
店長も店員も彼のことを心配していた。彼女と親しかったことを知っているから、「辛かったね」といった短い言葉をかけるだけで、後は何事もなかったかのように接した。レジ打ち中、「お兄ちゃん久しぶりだね」と常連客から声をかけられた時も笑顔で対応できた。
いつも多枝が立っていたレジには新しいバイトが入っている。鯉泉から今宮の高校に通う女子だ。基本的な仕事はもう慣れたようだが、客とのコミュニケーションに苦労している。耳が遠い客、やっぱり割り箸が欲しかった客、店員を相手に無駄話したい客、マニュアル通りの接客を慇懃無礼と感じる客。多枝は誰とでも角を立てず、和やかに接することができた。うちの娘や嫁にほしいと冗談を言う客さえいた。
時尾はレジに立ちながら女子高生の様子を見守った。真面目そうな子だ。肩の力が抜け、もっと地元訛りが出るころには、店からも客からも認められることだろう。心配ない。まだ始まったばかりなのだから。
多枝と同じ職場で働いた思い出に包まれながらぐっすり眠った。翌朝目覚めると遅刻寸前だった。
彼が寮の部屋で大急ぎで支度をする間、二年五組の教室では陽太が一真、柚葉、渚を集めて相談をしようとしていた。
「あのさ、あと二カ月ぐらいで時尾、帰っちまうんだよな」
「そうなのよね。せっかく仲良くなれたのに寂しいわ」
「記念に何かプレゼントでもする? 寄せ書きとか」
「男ってそういうのあんまり喜ばないぞ。それより思い出づくりがいいんじゃないか」
「やっぱみんなでどっか遊びに行きたいよな。できればゆっくり、泊まりで」
「うちの人を説得するの大変だけど、なんとかする」
「じゃあどこに行く? 温泉とか?」
「一真んとこによく入りに行くしやめとこうぜ。修学旅行ともかぶるし」
「実は私ずっと考えてたんだけどさ、スキー場なんかどうかな」と渚が提案した。
「スキー場!?」
「近場なのに新鮮でいいでしょう」
「なるほどな。特別な思い出になりそうだ」
「でも時尾くんって私と同じ絶望的な運動音痴よ。ケガとかしないといいけど」
「おれ一応は経験者だけど、天気が悪かったり、雪のコンディションがよっぽど悪くない限り、初心者用のコースなら安全だぞ」と陽太が得意そうに言った。
「道具はどうするの?」
「ぜんぶレンタルできるから大丈夫だ」
ホームルームのチャイムが鳴り、新沢と時尾が同時に入ってきた。来る途中で何か話していたらしく二人とも笑っている。
「あっ、今のはみんなに内緒ね」
「分かってます」
「おい、なに話してたんだ?」と、時尾の前の席に座る陽太が聞いた。
「なんでもないよ」
昼休み。寒くてどこにも行きたがらず教室で弁当を食べる人が多く、ざわついていた。四人はさっそく時尾に相談した内容を告げる。
「スキーは初めてだな。いいんじゃないか」
「決まりだな。じゃあ行き先を決めようぜ」
その週の土曜日。彼らはセミールのフードコートに集合した。一真はやはりアンドー書店で購入した、県内の冬の観光ガイドブックを持ってきた。
「セミールでも買えるのに」と渚。
「一真はアンドーの常連客なんだよ、なっ」
「うるさい」
彼らは好きなものを飲み食いしながらページをめくった。県内で一番近いのは「スノイデール・スキーリゾート」で、北欧風のコテージを借り切って割り勘にすれば安上がりだ。小さいながら温泉もつくという。
「食事は自分で作るのね」
「てきとーにスナック菓子とかカップ麺でも持ち込むか」
「それじゃあ味気ないわ。コテージにホットプレートがあるみたいだから、みんなで食材を持ち込みましょうよ。お肉とか」
「そうすると荷物が多くなるな。道具はやっぱりレンタルにしよう」
こうして仲間たちでああでもない、こうでもないと計画を立てるのが、旅行以上に楽しいこともある。彼らの思い出づくりは今から始まっていた。
「じゃあ予約は一真に任せるとして、スポーツショップにウェアを見に行こうぜ。寒い日の普段着にも使えるからな」
広々とした店内に入り、自分に合った服を探そうと歩き回っているうちに、時尾と渚が二人きりになった。
「セミールに来ると必ずきみのことを思い出すんだ」
「あら、どうして?」
「初めて来た時、二階で働いてたから」
「実は今日もバイトが入ってるの」
「同じバイトを長く続けるね」
「活気があって、小さい子も多いから」
「保育士になりたいんだっけ」
「ええ。大学で陸上を続けながら資格を取りたいんだけど」
「あれだけ辛い部活に耐えられるんだから、きっとなんとかなるさ」
「あのね」
「どうした?」
「その服、あなたには似合わないと思うの」
「そ、そう?」
「高校生なのに地味すぎるよ、おじさんみたい」
「言われてみれば……」
「大胆にこっちの真っ赤なのにしたら」
「赤か、考えたこともなかったな」
時尾は試着室に入り、そのウェアを着て出てきた。
「きっと似合うと思った」
「本当に?」
「ええ。あなたには赤がいいってずっと思ってたの」
「確かに悪くない。元気がもらえるっていうか、心が燃えてくるっていうか」
「これからはそれでいきましょう」




