二月
新年というと初日の出があり晴れた印象がある。一月はその印象が残るためなんとなく心も晴れるが、終わりの見えない寒さに苦しめられる二月の心情は冬空のように暗く、重い。
またもや電車の雪による運転見合わせに巻き込まれた風間慎二はバスに乗り換え、タイヤのチェーンが道に食い込む音を聞きながら窓外を見る。首都の終着駅周辺のような低いビル群、そこに帰ってきたのではなく到着した人々の緊張の面持ち。そこを離れさらに田舎の鯉泉に赴く自分。バスが駅前通りを離れ、橋を渡り、有名チェーン店の看板が並ぶ国道に入る。早くも営業中のファミレスの店長は雪かきに追われている。あの人はいつまで雪かきをするのだろう。ここでずっと暮らし、今年のような異常気象が当たり前になれば、死ぬまで続けるしかないのだろうか。
ふと、彼は佐伯理沙から聞いた話を思い出した。新沢えりかが首都に戻らず鯉泉に残るつもりで、申請も通ったらしい。彼はカー用品店を眺めながら首を傾げる。自分と違う人間、そこに好奇心を覚える。新沢や理沙に少しだけ心を惹かれたのは、首都では珍しいタイプの人間だからか。しかし彼に田舎の暮らしは耐えられない。まめに草むしりをするぐらいならば満員電車に毎日揺られるほうがマシだ。
それでも得られるものがあると信じるから。
雪が降っても遅刻はしない。小野寺のような先輩教員を見習っているわけでも、石川などにガミガミ言われるからでもない。生徒が悪天候でも定時に教室で待っている。その信頼に応えるのがプロとしての責務だからだ。
風間の生徒からの評判は良かった。寮生たちは、首都に戻っても彼の授業を続けて受けられることを喜んだ。
時尾と同様、寮生の多くは鯉泉で作った友達との別れに備え始めた。いつも寮生だけで固まっている人たちもバラバラになり、地元の友人と過ごす時間を増やした。明音はどこからも引っ張りだこだし、歩にだって同じクラスに仲の良い男子がいる。
直人と蘭だけは常に二人きりだ。恋人同士というより、幼い頃から仲良くしているいとこ同士に見える。周りでどんな風が吹き、状況がどう変わろうと、彼らが二人でいることは変わらない。
鯉泉での一年限りの暮らしも、本当にあと少しで終わってしまうのだ。
二月の第二土曜日は曇り空だった。雨の心配をしなくていい、それだけが冬の利点かもしれない。
鯉泉駅前には、スキーウェアを着た高校生五人が集まった。時尾は赤、柚葉は緑、一真は青、陽太は黄、渚は橙と、アニメキャラのようにカラーがはっきり分かれた。みんな大きなバックパックを背負い、両手は自由だ。
彼らは電車で今宮駅に移動し、そこからスキー場に直行するバスに乗る。ウィンタースポーツの本格的なブームは前世紀中に終了したが、今でもバブルを引きずっている中高齢者、子供と雪遊びをし思い出を作りたい親、いつの時代も新鮮な体験を求める若者で、車内はほぼ満席だった。
バスはゆっくり発車し、駅周辺の都会を離れ、田舎道に入る。看板には「運転免許センターまであと十二キロ」とある。そのだだっ広い施設を過ぎ、しばらくなだらかな道を走り続けると、正面に雪山が見えてきた。電光掲示板には「ここからチェーン規制」と表示されている。バスが後傾し、山道をゆっくり曲がる。陽太と時尾の後列から「うっぷ」という声が聞こえる。渚だ。
「お前バスに酔うのか。意外とやわだな」
「いいから黙っててよ」
「酔い止めを持ってきたから飲むといい」
「さすがリーダー」と、渚の隣の柚葉が言った。
「リーダーか。いいなそれ」と、一真が柚葉の後ろから言った。
酔い止めは効き、彼らは無事にコテージ前で下車した。林の中にカラフルな家が点在し、単調になりがちな雪景色にアクセントをつけている。時尾たちのコテージは茶色いログハウスだった。
「あら素敵!」
吹き抜けで二階とつながるリビングは開放的で、天窓から外の光が降り注ぎ、日中は電気をつけなくても明るい。リビングの隣のスペースには大きく清潔なベッドが三つある。
「女子は二階ね」と渚が言い、柚葉の手を引き階段を上がった。三角屋根の下、踊り場とも呼べるこじんまりとした部屋には落ち着いた色の絨毯が敷かれ、その上にやはりベッドが二つ、ちょこんと置かれている。
「モデルハウスに来たみたい」
「荷物を置いたらゲレンデに出よう」と、一真が二階に呼びかけた。
コテージのエリアから徒歩で十分ほど歩道を登り終えると急に視界が開けた。山の斜面に引かれた白いコースを背景に、平らに整備された大型駐車場、レストハウス、ゴンドラ発着場、レンタル所などが並ぶ。風が吹き、粉雪が混じる。到着したばかりのスキー客が行き交い、鯉泉の商店街よりも賑やかなほどだ。寒いのに人の熱気を感じる不思議な感覚。
「まさに別天地だな」と時尾がため息を漏らした。
陽太はレストハウスを見ながら全員に、「なぁ、腹減ったか」と聞いた。
「私はぜんぜん」と渚。柚葉と一真もうなずく。
「陽太は?」と時尾が聞く。
「おれもバスに揺られて食欲が失せちまった。まず滑ってから考えようぜ」
レンタル所でスキー用具一式を借り、スタッフに初心者向けのコースを教えてもらい、そこに向かうゴンドラに乗る。全面がガラス張りで四方の景色を一望できる。
足元のキッズエリアでは着ぶくれした子供たちが雪合戦やそり滑りを楽しんでいる。空気をいれるドーム型の遊具もあり、見ているだけでワクワクする。大人は子供のために大きな雪だるまやかまくらを作っている。上手も下手もない平和な場。大人も子供も等しく笑っている。
コースの外には森が広がる。朝晩の吹雪で枝が凍てつき、遠くからは一面に氷の霧が漂っているように見える。
「雪の女王が冷たい息を吐いて凍らせたみたい」と柚葉が言った。
さらに目を遠くに転じると雪をかぶった山が連なる。峰が雲に覆われ、高さが計り知れない。そこから風が吹き下ろし、ゴンドラの窓に雪を叩きつける。地に足がついていない五人はやや不安になる。
彼らはゴンドラを降り、初心者コースのてっぺんに立った。斜面は緩やかだというが、あんなに大きかったレストハウスが小さくなり、時尾と柚葉の足がすくむ。
「心配ないって。みんな滑ってるんだから」
陽太がそう励ました通り、高校生や大学生ぐらいの若者たちがあちこちで滑り、転び、笑い声が上がる。ここならば落ち着いて、周りに気兼ねなく練習できそうだ。
まずは雪の上で立ったままスキー板を履く。これだけでも柚葉と時尾はふらつき、転倒しそうになる。
「おいおい、ポールを使えよ」
次に経験者の陽太が歩き方を教える。渚と一真は飲み込みが早い。時尾と柚葉は紐で拘束されたカニのようにぎこちない動きだ。
「しばらく二人で練習しててくれ」
陽太はそう言い残し、ゆっくり少しだけ滑った。一真と渚も見様見真似で滑り、八の字を作りブレーキをかけた。
「意外と簡単じゃん」
「もっと長い距離を滑ってみましょうよ」
「その前に時尾たちの様子を……おい、お前ら大丈夫か?」
二人とも横倒しになり、じたばたするだけで立ち上がれない。ひっくり返った亀より哀れだ。
「だ、誰か助けて」
渚と一真は先に行った。陽太は残り、立ち上がり方を見せてやる。
「ほら、簡単だろ」
「はぁ……」
二人はぽかんとする。陽太のやり方を真似るために最初にすべきことが分からない。
「お前ら勉強はできんのに、運動になるとなんで頭が回らないんだよ?」
「どうしてだろうね」
「私にそう聞かれても」
仕方なく陽太が頭を回し、動きではなく言葉で説明を試みる。柚葉と時尾は倒れながら真剣に耳を傾ける。三人は理論と行動の間に立ちはだかる高い壁を意識する。
「お前らはあれだ、しばらくそのへんに座って見学してろ」
「はーい」
欲求不満がたまっていた陽太は風のように滑り、試しながら下りる渚や一真と並んだ。柚葉はその様子を眺め、「楽しいんだろうなぁ」とつぶやいた。
「おれたちの場合は憶測でしかないよね。運動、できたことないから」
「そうそう。宇宙遊泳とかと同じレベル。完全に無縁ね」
「体育の授業を思い出す」
「もう、やめてよ」
「でもこうやって省かれるのが一番楽なんだよな」
「変に気を使われて、チームに入れられるよりずっといいよね」
「柚葉がいてくれて良かった」
「こっちも同じ気持ち。このまま運動音痴トークを続けましょう」
陽太たちがまたゴンドラで上がってきた。初めてのスキーで伸びしろばかり。渚は眩しい笑みを浮かべ、隅っこの方で小さくなっている柚葉に声を掛ける。
「ほら一緒に滑ろうよ」
「ひっ、来た!」
「おれたちはもう少しここで見学してるよ」
冬の雪山に夕方はない。空の灰色が濃くなるのを意識する前に、ナイターの夜間照明が一斉に点灯する。間もなくスキー場の外が真っ暗になる。
時尾と柚葉の肩にうっすらと雪が積もる。
「笠地蔵ってどんな話だっけ」
「おれはマッチ売りの少女を思い出してた」
「お前たちまだそこに座ってたのか!?」
二人は仕方なくスキー板を外し、徒歩で下りる。人類だからさすがに二足歩行ぐらいはできる。
「明日はキッズたちとそり滑りでもするか」
「賛成」
五人はレンタル用具を返却し、コテージに戻った。出る時にエアコンをオンにしていたので中は暖かかい。
「実家でもないのにホッとするね」
「木造だからか、うちの温泉に似ているな」
彼らは分厚く重いウェアを脱いだ。渚と一真はやはり緊張していたようで、体がこわばっている。
「これは明日の筋肉痛確定だわ」と渚が言った。
「筋肉痛が明日来るってどうして分かるのかしら?」
「おれたちなんて筋肉痛になる前にへばるのにね」
「お前らいつまで続けるんだ?」
彼らはバックパックから物を取り出し、リビングの大きなテーブルに並べていった。渚は肉、柚葉は野菜、時尾はさがらやで買ったおにぎりと野菜サラダとジュース、陽太はカップ麺とカップ焼きそばとスナック菓子、一真はトランプとボードゲーム。
「米に肉に野菜に汁物。けっこうバランスよくなったわね」
「まさに阿吽の呼吸だな。しかし一真がそんなもの持ってくるとは思わなかったぜ」
「昔たまの休みに家族で遊んだやつだ。佳奈がこぼした醤油の跡があるけど」
とりあえず野菜を食べやすい大きさに切らなければ。五人で並んで立つとキッチンは狭い。
「男子はあっち行ってて。私たちに任せてちょうだい」
渚はそう請け合ったが手つきが危なっかしい。玉ねぎを皮もむかず直接切ろうとし、まな板の上から転がり落とすほどだった。代わりに柚葉が包丁を握る。
「家庭科で習ったとおりやれば……」
怪我はしないだろうが、丁寧すぎていつ切り終わるか分からない。後ろで様子を見ていた一真がたまらず飛び出し、包丁を預かり、手本を見せる。
「あら上手」
「たまに調理も手伝うからな」
一真は野菜を切り終え、大皿に盛り付け、テーブルに並べていった。五人全員で着席した。
「とりあえず乾杯しましょう。リーダー、あいさつをお願い」
柚葉にそう促された時尾は備え付けのコップにオレンジジュースを注ぎ、みんなの前に掲げた。
「えー、今日はおれのためにありがとう。あの、その……いろいろあったけどお疲れ!」
「乾杯!」
時尾が代表し、ホットプレートの電源をオンにし、先に野菜を焼く。その間に四人で食器や食べる物を並べる。肉もじゅうじゅう焼け、部屋中に幸せな匂いが充満する。時尾は焼けた順にみんなに取り分ける。
「もっと肉くれよ」
「野菜を先に食べるんだ」
「私ピーマンいらない」
「栄養が偏ると大きくなれないぞ」
「そんなこと言って自分ばっか牛肉いっぱい取って」
「おれは後でもやしを食べるからいいんだ」
手っ取り早く、各自で好きなものを箸で取って食べるようになった。
「こうしてみんなで夜に食事するのって久しぶり」
「前回は一真くんの家で食べたわね、期末テスト前に。帰ったらまた期末テストがある」
「嫌なこと思い出させるなよ。さぁ肉肉!」
油が多く焦げてしまった豚肉、隅の方に置きっぱなしでカピカピの輸入牛肉、他の肉の味を吸った鶏肉。水分を失いトウモロコシの毛のようになったもやし、分厚く切って中まで火が通っていないニンジン、同じくその形状から生焼けになりがちなピーマン。さがらややセミールから調達した食材ばかりだが、何を食べてもいつもより美味しく感じられる。
「そろそろ米が食べたいな」
時尾が電子レンジでおにぎりを温め、全員に配る。
「ケンカになるからぜんぶ塩むすびにした。実はうちのヒット商品だ」
「肉があるから具はいらないな」
「おにぎりだとご飯をいくらでも食べられちゃうのよね」
「お前はいつだってそうだろ」
「それでもぜんぜん太らないんだから羨ましいわ」
「おれたちは運動して痩せるスタートラインにさえ立てないよな」
「また始まった」
電気ポットとやかんで湯を沸かし、締めにカップ麺を食べる。肉と野菜が焦げた匂いにケミカルな磯の香りが混じる。
「なんでシーフード味しかないの」
「セミールでシーフードだけ安売りしてたんだ」
「肉には合わないが、これはこれで旨いな」
腹ごなしに後片付けを始める。やはり一真が手際よく、一人で皿洗いを担当する。
「私たち先にお風呂入ってくるね」
「えっ、それでいいのか」
「どういう意味よ?」
「いや、べつに」
男たちは大真面目な顔で片付けを続ける。女たちは脱衣所に入り、ドアに鍵をかけ、浴室に進む。女たちの歓声。男たちはいやらしい笑みを浮かべる。
「こういうの間接、なんって言うんだろう」
「分からん。とにかく刺激が強いな」
「男ではおれが一番風呂だ」
「抜け駆けはずるいぞ」
彼らはテーブルを綺麗に磨いて椅子に座り、女たちが出てくるのを今か今かと待ちわびる。
「あぁいい湯だった」
「おっしゃあ!」
三人で脱衣所に殺到し、さっさと素っ裸になり、浴室に突入する。普通の家庭やホテルにあるユニットバス。湯は抜いてある。
「これ、蛇口をひねると温泉が出てくるタイプだ」
「期待外れだったな」
それでもスキーでかいた汗を流し、焼肉の匂いを取ることはできた。彼らは温泉の仄かな香りを帯びながらリビングに戻った。
「しょうがない。一真がボードゲームを持ってきたから付き合うか」
「けっこうノリノリに見えるけど」
全員パジャマ姿でなんだかおかしい。
「クマちゃんかわいい。陽太くんってそういうの好きなんだ」
「おれじゃなくておふくろの趣味だ」
「渚は意外と女の子っぽいんだな。フリルまでついてるぞ」
「意外とは余計よ」
「ってか、時尾はなんでバスローブなんだよ」
「なんかクローゼットに一着だけ入ってたから」
「ずるい!」
ルーレットが回り、ゲームが始まった。どう遊んでも必ずどんでん返しがあるので、仲の良い友達同士で盛り上がらないわけがない。シラフで酔えるのは若者の特権だ。
「なんで借金してまで愛で地球を救わなきゃいけねえんだよ!?」
「特許を取得して五千円ゲット。安い特許だ」
「逆上がりができず一回休みってどういうこと?」
「私だってテストで赤点を取り補習のため一回休みよ」
「おれはマラソン大会でビリになって罰金五千円だ。運動音痴は重罪らしいね」
架空の人生を一回送ると、彼らは小腹が空いていることに気づいた。スナックやチョコを食べジュースを飲み一息つく。
「波乱万丈の一生だったわね」
「しかしおれらももうすぐ三年生か。ゲームより実際の人生を心配しないとな」
五人とも押し黙る。気まずいわけでも、言いにくいことがあるわけでもない。真面目な話に適した雰囲気を再設定しているだけだ。
頭上の照明が細かく瞬く。最初に口を開いたのは一真だった。
「おれ、いろいろ悩んでるんだけど、たぶん継ぐ。家の仕事」
「あんなに嫌がってたのに意外だな」
「海や修学旅行から戻ってくると、やっぱり鯉泉が好きなんだなって感じた。本当のことを言えば今も実家が少し恋しいぐらいだ」
「おっきいお風呂もあるしね」
「そう。それは常連客にとっても同じことだ。他にもっといい場所があるのに通い、頼りにしてくれる。そんな人たちのために働き続けるのも有意義なんじゃないかって」
「外で自分の力を試してみたいんじゃなかった?」
「学校の外という意味では同じことだ。今までは手伝いだったけど、卒業後は仕事としてやる。いつかはおれが責任者になる。今までの経営を維持できるか、常連客にも新しいお客さんにも満足してもらえるか。それも大きなチャレンジだ」
「これからも実家に帰ればふじた温泉に入れる。一真のおかげね」
「ところでさっき海って言ってたけどなんの話?」
「あぁ、あのことか。もう話してもいいだろ、時尾と一真?」
男三人だけで海にナンパに行き失敗したこと、海で担任の新沢や化学の佐伯に会ったこと。
「あの日から一真は理沙ちゃんのファンになったんだ」
「り、理沙ちゃん……」
「ま、マジ!?」
むっつり押し黙り、こくりとうなずく一真。
「ひょっとしてお前、さっさと社会人になって理沙ちゃんと結婚したいから、家を出るのやめにしたんじゃねえの」
「そ、それもあるがだな……」
次は渚の番になった。スポーツ推薦で他県の大学に進み保育士になるという目標に疑問が出てきたという。
「まず、必ず推薦をもらえるなんて保証はどこにもないし、仮にもらえても、その学校に保育士の資格を取得できる学部があるとは限らないのよね」
「確かにな」
「それに陸上だって将来いつまで続けるか分からない。走って稼げるものでもないし、すっぱり辞めちゃって真面目に勉強したほうがいいのかも。陸上を推薦をもらうための道具にするなんて、本気で選手や保育士を目指している人に失礼でしょ」
「それもそうね」
「けど勉強は嫌いなんだ。テスト前とか本当にテンション下がるし」
「分かる。机に向かおうとするだけで便所に行きたくなるんだよな」
「お父さんもお母さんも勉強苦手だったそうだから、きっと遺伝なのね」
「そんなことないわ。もちろん個人差はあるけど、毎日コツコツ勉強すれば、時間はかかっても必ず身につくはず。渚は勉強が苦手って決めつけてるから嫌いになるのよ」
「勉強で分からないなら、運動で例えたら分かりやすいかしら。柚葉も時尾くんも今日、スキーがぜんぜん身につかなかったよね。私の勉強もあんな感じ。まさにスタートラインにさえ立てないの」
「うっ……」
ずっと話を聞くだけだった時尾が唇を舐め、顔を上げ、渚にこう言った。
「確かに決めつけってのは当たっているかもしれない。おれは運動音痴だからって、適当なところで諦めてヘラヘラしていたな。どうだろう、明日おれにスキーを教えてくれないか。それで立って、少し滑れるぐらい上達したら、渚もテストとか関係なしに普段から勉強するって約束してくれ」
「私の個人レッスンは厳しいわよ」
「おれも勉強を基礎から叩き込んでやるよ」
「なんか暑っ苦しくなってきたな……」
柚葉は学力が高く、今宮大学なら余裕で行けそうだが、進路よりも男との交際について悩んでいた。
「あーあ、どっかにいい男いないかしら」
「柚葉ってそんなキャラだったっけ?」
「次こそは私に合う人をしっかり見極めないと。私より大人っぽい、頼れる男の人を」
「目の前にいるじゃない」
渚にそう言われ、柚葉は男たちに目を向ける。
「まさか陽太くんのこと? だってクマだよ?」
「クマは関係ないだろ」と、一真がツッコミを入れた。
「そうじゃなくて時尾くんよ」
「リーダーが!? あぁ本当だ、ぜんぶ当てはまるかも」
「残念だけどこいつは一真以上に年増好みだ。新沢とも仲良さそうだしな」
「確かにおれは年上のほうがいいな」
「どうして?」
「本質的に甘えん坊なんだろうな。年上なら人生経験豊富で、賢くて、おれをやさしく正しい方向に導いてくれる。自分勝手なことをしても大目に見てくれる、そんな気がする。虫のいい話だけど」
「お前はぜんっぜん分かってない。普段はクールで大人っぽいのに、二人っきりになると急に女らしくなって、年下みたいにかわいく甘えてくる。そういうギャップが燃えるんだよ」
「……一真くんの好みは置いといて、あの桜庭さんはそんな人だったの?」
渚、陽太、一真がハッと息を呑む。時尾は「うーん」と唸り、「確かにそうだったかも」と答える。
「とにかく、柚葉はもう狙いが絞れたんだから、後はいい人に巡り合うのを待つしかないな。こればっかりは縁だから」
「さて次は陽太だな」
「お、おれ? なんもないぞ」
「進学するか就職するかぐらいはあるでしょ」
「それさえ決まってない。健康で毎日楽しく生きていければいいか、ぐらいで。あっ、それとおれも恋人がほしい。美人で金持ちでやさしくて、おれの言うことを何でも聞いてくれるような」
「就職すると一気に交際範囲が狭くなるから、やっぱり大学に行っておいたほうがいいんじゃないか」と時尾が提案した。
「なるほどそうか。おれが高卒で就職する職場にそんな箱入り娘がいるわけないからな。じゃあ少しでも偏差値が高い大学に通えるよう今から勉強すっか。渚、おれも時尾のレッスンに混ぜてくれよ」
「嫌よ。せっかく時尾くんと二人きりになれると思ったのに」
「えっ」
「あっ」
「コホン。えぇと、最後はおれだな。将来の目標か……」
「時尾ってあんまり自分の話したことないよな」
「先のことはなるべく考えたくなかったんだ。みんなと別れるのが前提だから」
「そう。だから私たちも聞かなかったのよね」
「首都に帰った後か。なんかもう、昔の生活が遠い存在になり、以前に戻れない感じがする」
「心の中に鯉泉という故郷ができたからよ」
「どんな人生を歩むことになろうとも、おれはずっと鯉泉と、そこで共に過ごした仲間たちとの思い出を胸に生きていく」
「なんか時尾って大物になりそうだよな」
「私たちのリーダーだもんね」
「はは、そんなことないんだけどな……」
「鯉泉にはいつ戻ってくるんだ?」
「ちょっと気が早いわよ」
「ゴールデンウィークはどう? 新幹線使えばすぐだし」
「夏休みも帰ってこいよ。みんなまだ鯉泉にいるんだから、今度は五人で海に行こうぜ」
ジュースを飲み一息つく。掛け時計の針が時を刻む音がする。真面目な話をしていたらもう翌日になっていた。陽太は手元にあるリモコンを使いテレビをつける。クラシックの名曲とともに欧州の歴史ある街並みをひたすら映す、深夜らしい眠気を誘う番組だ。時尾は海外に行きたいと言っていた桜庭多枝を思い出す。ゆっくり回るシーリングファンを見上げながら、誰も知らない世界の片隅で密かに活躍していたかもしれない彼女の未来を思い描く。
「せっかく持ってきたからトランプをやらないか」と一真が言った。
「賛成」
ババ抜きにした。みんな眠気を抑えるので必死だ。目がぼやけ、すべてのカードがペアに見える。
「おい、みんなどうした? 寝たらもう明日になっちまう、今のうちにもっと盛り上がろうぜ!」
陽太はそう言いながら立ち上がり、顔を横に大きく振った。それで余計に目が回り、強い睡魔に襲われた。柚葉、一真、渚は力なく「うん」と応じるも、カードを持つだけで必死だ。先に札を伏せたのは時尾だった。
「疲れたんだから、みんな無理せず寝よう」
「でも、でも……」
「おれたちはまだ若い。心配はいらない、明日は必ず今日より良くなる。明日のためにしっかり休むのも今日やるべき大切なことだ。怖くない、おれたちは日々成長しているんだから。安心して目をつぶろう」
ガタ、ゴト。渚と柚葉が立ち上がり、「おやすみ」と言い、二階に退散する。一真と陽太も「じゃあおれも」と続き、一階のベッドに上がる。時尾は電気を消し、リモコンでテレビの音を低くし、改めて着席する。テレビ画面の光を浴び、彼の顔の色が白、緑、青と変化する。日差しが揺らめく海の底のように。魚が連なり海を泳ぐ。澄み切った柔らかな光をきらきらと放ちながら。
「ありがとう、みんな」




