三月
先月下旬に行われた期末テストの成績が出た。誰も赤点を取らず、無事進級が決定した。クラス替えは行われず、来年も同じ担任と面々で学ぶことになった。
首都から来た寮生や教員が入れ替わるだけで。
「げえ、ミセス・アラサワ帰らないのかよ!?」と、ホームルーム中に陽太が叫んだ。
「なにがげえよ、嬉しくなさそうね」
「いやだって鯉泉なんかでモタモタしてたらいつまでも結婚できませんよ」
「余計なお世話よ。それに鯉泉にだって出会いがあるんだから」
「私もう知ってます。この前、彼氏さんとセミールでデートしてましたよね」と、修学旅行で世話になった女子が言った。
うっそぉ、やだぁ、信じらんない! 教室内はにわかにどよめき出した。
「それで、お相手は誰なんですか? どうやって出会ったんですか?」と一真が聞いた。
「それについては藤田くんに感謝ね、だって……」
キンコンカンコン。もっと話したそうだったが、新沢は一時間目の授業がある教室に向かった。セミールで見たという女子の周りに人だかりができた。
「どんな人だった?」
「けっこうイケメンでお似合いだったよ」
「お前ショックだろ」と、陽太が肘で時尾を突いた。
「べ、べつに」
今月上旬の土曜日に、三年生の卒業式が行われた。受験が終わった人もまだ結果が出てない人も体育館に集まり、普段めったに見かけない校長のありがたい言葉に耳を傾けながら、長いようで短かった三年間の暮らしを振り返る。涙もろい女子から泣き始め、徐々に女子全体に伝染する。男子はほぼ泣かない。退屈な話を聞く代わりにこれからの楽しいキャンパスライフを思い描き、間もなく始まる一人暮らしにわくわくする。
式が終わり、各自の教室へ。担任から直に一人ずつ卒業証書が手渡される。担任は一言だけ助言を添える。四十人分が終わるまでの時間がいやに短く感じられる。最後に担任が「これからの人生、がんばって」と締めくくると、卒業式全体が唐突に終了する。これからどうするか。級友たちが最後に腹を探り合う。陽気な女子が、これからセミールに行こうと提案する。賑やかなグループが真っ先に教室を出る。一人も欠けてはならないとされてきたクラスがあっけなく解散となる。残った生徒もグループごとに外に出る。どのクラスでも最後に残るのは寮生だった。
「さぁ、私たちの家に戻ろう」
寮ではささやかなお別れ会が催された。食堂は卒業生を送り出すためいつもより豪華な昼食を用意した。春のちらし寿司、鯛の塩焼き、ローストビーフが入った彩り豊かなサラダ、上品であっさりした味のお吸い物、イチゴの小さなケーキ。
時尾、明音、歩はテラス席で直人と蘭を迎えた。
「ここで食事をするのもこれで最後になるのか」
「先輩たち、午後にもう帰っちゃうんですね」
「ええ、新幹線で。本当にあっという間の一年だったわ」
蘭は芝生の奥に並ぶ桜の木を見上げる。まだつぼみにもならないが、初春のうららかな日を浴びる梢が少しだけ薄桃色を帯びているように見える。
「時尾くんと初めて食事したのもここだったわね」
「学校に来て初めてやさしくしてくれた人だったから、今でも早乙女先輩を見ると心が和みます」
「ありがとう。そう言ってもらえてうれしいわ」
「先輩たちだけでなく、ぼくらもすぐ帰っちゃうんですよね」
「なんだか夢みたいだったなぁ、寮でのこの一年は」
「蘭の誕生日パーティーが一番の思い出だな」
「考えてみれば、同じ建物で朝晩を共にし、同じ釜の飯を食う間柄でないと成り立たないイベントでしたね」
「だから私にとっても特別な誕生日になった。これからどんなふうに祝おうとも、ここでのパーティーの記憶は上書きされない」
「ねえ、これからみんなで今宮駅まで先輩たちを送らない?」
「いいね」
「賛成」
「でも悪いよ」
「いいんです。寮で寂しくしているより、駅で送った後に三人で遊ぶほうが気が晴れますし」
「先輩たち箸が進んでませんが、口に合いませんでしたか?」
「逆だよ。今日ほど食堂の料理が美味しく感じられたことはない」
「ありがたい、本当にありがたい味がするわ」
一口ずつ噛みしめる。料理と思い出からにじみ出る味を。
ついに食べ終えると、直人と蘭はキャリーケースを持ち、今日中に帰ってしまう三年生が集まるラウンジに下りてきた。直人は一時期仲が良かった松本と渡辺という男子と立ち話をした。彼らも成績悪化に恐れをなし、去年のうちにゲームを引退したという。
「それにリアルな世界で自分のレベルアップに励むほうが達成感があるからな」
「大学では何かサークルに参加してみるつもりだ。寮で密な人間関係に慣れたから、急に一人きりになったら寂しそうだし」
「首都でも連絡を取り合おう。鯉泉の同じ寮で暮らした仲間としか話せないこともあるだろうからね」
三年生と、彼らを送る後輩たちが一団となり鯉泉駅に入った。二両編成の電車は彼らでパンクしそうになった。
今宮駅につき、在来線から新幹線へ乗り換える。先輩たちと後輩たちは改札口で別れた。
「行っちゃったね」
「うん」
「私たちもすぐここから首都に向かうんだね」
「うん」
「寮に戻っても、もうあの五人組で過ごすことはないんだ」
「うん」
「私、怖い」
明音の目から涙が溢れ出した。歩も涙を二粒こぼした。同じように改札口周辺に立ち尽くす寮生たち。多くの乗客が出ては入る、潮の満ち引きのように。寮生たちもそれに伴い一人また一人と減る。時尾は動けなくなった歩と明音の肩を抱き寄せ、励ました。
「元気を出せ。これで終わりじゃないだろう。おれたちの人生はまだまだ続くし、素敵な出会いだってきっとある。いつかまた五人で一緒になったとき、胸を張って報告できるよう充実した日々を送ろう」
「……泣いたら小腹が空いてきました。スイーツでも食べに行きません?」
「きみは立ち直りが早いな」
二十日からの春休みまで、寮生たちの最後の日常生活が続く。時尾はこの貴重な時間を活用しようとした。陽太はバイトを、渚は部活を、一真は家の手伝いを、柚葉は勉強を休み、時尾と過ごせる日々の時間を増やした。放課後はみんなで集まり、商店街で買い食いし、セミールのゲームセンターで遊んだ。家族に断りを入れ、夜はふじた温泉で食事をした。彼らは片時たりとも離れたくなかった。
しかし毎日全員で集まれたわけではない。誰にだって自分の生活があるのだから。時尾は放課後、三日に一日ぐらいの割合で一人になった。そんな時、彼の隣には常に多枝の影が寄り添っていた。
鯉泉を離れる前に彼女との思い出の地を巡りたかった。彼は二月中に終了した英語部の部室だった空き教室に入り、そこでの彼女の姿を思い浮かべた。彼女の声と笑顔がカーテンの隙間から彼の頬に降り注ぐ。あんなに向上心が強く、未来への希望で満ち溢れていた彼女だったのに。
次に時尾が訪れたのは神社だ。彼は手水で手を清め、御神木の木陰に立つ。今日は小学生の姿がなく至って静かだ。夏の日、クラスメイトと行った花火大会。彼はわざと仲間たちから離れ、多枝と二人きりになり、人気のない夜の校庭に移動した。彼はまだ熱い砂利の感覚を覚えている。光に照らされ鮮やかに色づく多枝の深く穏やかな目も。あの日、多枝と見上げた夜空に浮かぶ見えない星は何万年も昔に太陽から放たれた光を反射し、また何万年も後にこの鯉泉にそれを届けるのだろう。
彼らが共に過ごした記憶と共に。
時尾はさがらやで飲み物と花を買ってから電車に乗り、今宮駅で降りた。駅を出てしばらく歩き、橋の手前の交差点で足を止める。事故の後ここを訪れるのは初めてだ。横断歩道が青になった。彼は道を渡らず、秩序正しく行き交う人と車の流れを眺める。午後の喧騒、温もりある西日、長く伸びる影。彼は信号機の下でしゃがみ、献花し、目をつぶり黙想した。
また鯉泉に戻ってきた。今まで何度も繰り返してきた電車での移動さえも名残惜しい。彼は駅前を離れ、暗くなりゆく田んぼと畑の間を歩く。沈もうとする夕日が雲を赤く燃やし、山を淡い黄色に染める。うっすらと明るくなった山頂付近の斜面には紫色の塊が見える。桜だ。今年は雪が多くても暖冬で、下旬にもなれば平野部でも満開の桜を楽しめるという。ここを去るに当たり一つでも楽しみがあることはありがたかった。
今日ももちろん最後にふじた温泉へ。それは時尾にとっての良き温泉の基準。良き温泉とは暮らしの悦び、心の余裕、癒やしのひととき。これからどこに行っても、湯に浸かりさえすれば、仲間たちの笑い声や心地よい倦怠感に包まれながら、若かりし頃の自分をしみじみと振り返ることができる。
だから長生きも決して悪いことではない。
春休み前最後の登校日の金曜日には修了式と離任式が行われた。離任式が他の学校より早いのは、首都から来る教員が有給休暇を使い、早ければ春休み開始と同時に帰ってしまうこともあるからだ。
風間慎二も休みを溜め込んでいた。彼は他の県内で異動する教員たちと体育館で登壇し、生徒、保護者、同僚への謝意を伝えた。風間は、自分に花束を渡す生徒代表が泣いていることに気づいた。彼は彼女の顔と名前を覚えていた。
「中嶋、志望校には合格したか?」
「おかげさまで。夏休み中も冬休み中も、風間先生が真剣に授業をしてくれるので、安心して入試に挑むことができました。首都から来る先生は冷たいなんて言う人もいますが、風間先生は違いました。本当にありがとうございました」
風間は初めて田舎の学校も悪くないと思えた。素直な生徒の言葉に胸がじんとし、「おれも歳を取ったな」と感じた。彼も彼なりに鯉泉で何かを得たのだった。
式が終わり、教員たちは職員室に戻った。風間は整理しスペースができた机の上に花束を置いた。
「それ、どうするの?」
「どうしようか」
風間はダリアの向こうに新沢を見た。
「まさかきみに贈るわけにもいかないしな」
「なにそれ」
「まぁ荷物も少ないし持ち帰れるだろう。家の花瓶に挿すまで枯れなければいいが」
「大ちゃん行かないで」
小野寺大輔を慕う生徒たちが集まり、泣いている。県内から車で一時間以上かけて鯉泉高校に通勤していた彼だが、今回の異動で勤務先が自宅から近くなったらしい。
「そう泣くな。たまには会いに来るからさ」
「小野寺先生、すごい人気だな」
「生徒思いだからね。小野寺先生がいなくなったら、この学校も荒れちゃうのかしら」
「きみが生徒指導をやればいい」
「冗談じゃないわ。私みたいな小娘じゃ舐められるわよ」
「小娘って歳でもないだろう」
五つか六つしか違わない小野寺を眺めながら、二人とも苦笑いする。
「いつまで鯉泉に残るつもりなんだ」
「満足し、納得できるまでは」
「……佐伯先生のお兄さんと付き合っているそうだな」
「気になるの?」
「ああ。いい人なのか」
「ええとっても。無口だけど実直で、働き者で、教養もあって。でもね、彼氏ができる前からここに残ることは決めてたのよ」
「分かっている。きみは自分で考えられる人だ」
「あら、意外と高評価なのね」
「はっきり言ってきみの考えは理解できない。それでも自分の考えを持っているきみのことを一応は尊重する」
「私からすれば、首都での競争に立ち向かおうとするあなたのほうが立派だわ」
「結局おれたちはタイプが違う人間だ」
「そういうこと」
「そうでなければおれはもっと熱心にきみを追っていたかもしれない」
「私なんかよりいい人が見つかるわよ。あなたならね」
その日の午後から寮生の帰郷が始まった。彼らは一年間お世話になった寮の職員や友達にあいさつし、首都での生活に戻っていった。歩と明音は月曜日に帰る予定だった。二日間は完全に休みにし、鯉泉とそこで暮らす人々に別れを告げたかった。
土日の寮は常に物音がした。寮生たちは部屋のドアを開けっ放しにし、重い荷物を一階のラウンジに運び出した。彼らは作業をしながら廊下で立ち話をした。新幹線の時間が刻一刻と迫っているのにできるだけ粘ろうとした。首都でもまた会える、それは分かっている。ただ、首都の仲間とのよりを戻すことで、異郷で出会った仲間と培った親密な関係が失われるのを恐れた。
なにより、またあっさりと首都の生活に順応し、鯉泉で送った貴い時をあっさり忘れてしまうであろう自分が怖かった。
春休みは食堂も休みになった。いつもの習慣で夜、無人の食堂に下りてきた時尾は、もうここはあなたたちの居場所ではないのだという、寮側からの無言の圧力を感じ取った。それは親鳥が巣立ち前のヒナにわざと厳しくするようなものだった。後ろ髪引かれることなく、次の新しい段階に進めるように。
「あらやっぱりやってないかぁ」
「夜ご飯どうしようか」
耳慣れた声。振り返るまでもなく、そこに明音と歩がいることは分かっていた。
「また自分たちで作ればいいじゃないか」と時尾が言った。
「早乙女先輩のパーティーの日みたい」
「今からさがらやまで買い出しに行きましょう」
田舎の片隅の小さなスーパー。人々の退勤時間が過ぎ、余った惣菜や弁当がいくつかある。時尾たちは半額になった商品と自分たちの姿を重ね合わせる。春休みが終わる頃にはまた首都から新しい人がやってくる。自分たちは入れ替わりで捨てられる。虚しいがそれは現実だ。
「作ってある物じゃあ味気ないわね」
「夜の時間は長いんだ。ゆっくり料理をしよう」
「今日は何を作ります?」
時尾はカートを押し、春野菜、がんもどき、鳥のもも肉、出汁の素、パックご飯を買い物カゴに入れる。
「煮物は誰が作っても失敗しないからね」
三人は寮の一階のキッチンに立ち、野菜と肉を切り、適当に鍋に放り込み、火にかけた。後は弱火で煮込むだけでいい。グツグツ。線香花火を眺めるよう。
「みんな行っちゃったね」
「そうだな」
「先輩は最後まで残るんですよね」
「そのつもりだ」
「辛くないですか」
「それはもちろん。ただ、最後まで見届けたい気分なんだ。映画のスタッフロールみたいにね」
一日目の煮物はあっさりとし、野菜の新鮮な食感を楽しめた。二日目は寝かせたぶん柔らかくなり、味がもっと染み込んだ。
「私は昨日のほうが好きだな。タケノコがもっとシャキシャキしてたし」
「ぼくも。実はニンジンが苦手で、今日のほうが味が強いようです」
「おれは断然二日目だな。これからはきみたちもこっちのほうを好きになるはずだよ」
月曜日の午前中。時尾は歩と明音を送るためまた電車に乗り、今宮の改札口に立った。三月は別れの季節。回数を重ねると別れも無感覚、無感動になるから不思議だ。気が抜けた炭酸水のように。三人は大した話もせず、ちらちらと時計を見るばかりだった。
時尾のポケットに入った携帯電話が振動する。画面には「青井柚葉」と表示されている。
「時尾くん今どこ?」
「今宮駅だけど」
「歩くん、いる?」
時尾は無言で歩に電話を押しつける。歩はためらいつつも手に取り、「もしもし」と小声で言う。
「ごめん。もう帰るからケータイを解約したんだ……」
時尾と明音はわざと離れた所に移動し、歩を見る。彼は「うん、うん」と何度もうなずく。その声は徐々に大きく、力強くなる。
「もうすぐ時間」
「まだ大丈夫さ」
月曜日から空室になった部屋に清掃業者が入り、徹底的なクリーニングを行った。元の住人の痕跡、個性が払拭され、四月に新しい寮生を迎える準備が着々と整っていった。
コンコン。
時尾は金曜日の朝、自室のドアを開けた。廊下には掃除用具を持った中年女性二人が立っていた。
「あっ、この部屋まだ人がいたんだ」
「ごめんなさいね」
時尾はそのまま廊下に出た。各部屋の表札の紙が取り外されている。知り合いの寮生の部屋がすべてもぬけの殻に。
胸が苦しく、彼は外に出た。
一人でセミールへ。春休み公開の新作映画を見た後、フードコートで食事をする。辺りは子供を連れた若い主婦や中高生が多い。みんな楽しそうで笑顔だ。若いのに一人でうどんをすするのは彼だけ。
五組の仲間たちには来週帰ると告げてあった。そこで陽太が中心になり花見を計画してくれた。彼らは土曜か日曜か、どちらか天気のいい日に学校の裏山の公園に行く予定だった。
「食べ物や飲み物はおれたちで用意する。お前は何も心配しなくていいからな」
花見に向けた準備があるのだろう。時尾は今日、彼らから放っておかれた。寂しいが、彼らの気配りがありがたい。これからも決して一人じゃない。
土曜は生憎の雨だったが、日曜は朝からすっきり晴れた。時尾は誰もいないラウンジでテレビを見ながら菓子パンを食べ、牛乳を飲んだ。休みの朝は子供向けのテレビ番組が多く、CMでさえ玩具、ゲーム、お菓子など、見ているだけで楽しくなる内容ばかりだ。気持ちが高揚した彼は自室に戻り、熱いシャワーを浴びた。約束の時間にはまだ早いが外に出た。サプライズをぶち壊しにしないよう商店街などの近所をゆっくり散歩してから、裏山に向かった。
神社ではなく山頂付近の公園に向かう遊歩道。聞いた話では地元の小学生はだいたい、初の遠足でここを歩くという。なるほどよく整備され歩きやすい。春の陽気が心地よく、遠足気分になってきた。
時尾が路傍に腰を下ろして休憩していると、上から老婆が下りてきて「こんにちは」と声をかけてきた。彼もあいさつを返す。老婆は路傍にある大きな木の陰でしゃがみ、フキノトウを摘む。
「天ぷらですか」
「ええ。若い子には分かりにくい味でしょうけど」
「いやぁ好物ですよ」
老婆が見えなくなると、時尾は立ち上がり坂道を上り続けた。中学校の野球少年たちが彼を追い越し、山頂からまた戻り、神社の方に走っていった。石段で足腰を鍛えるのだろう。
「おれもランニングぐらいしないとな」
公園に到着した。かつては鯉泉城があったらしいが、今や兵どもが夢の跡で、広場に雑草が生い茂っている。石碑には、明治時代にここを訪れた文豪や詩人が詠んだ歌が刻まれている。時尾がそれを読んでいると、背後から「おーい」という声が聞こえた。陽太だ。
「こんなとこに突っ立ってどうした?」
「これ、教科書でも見た名前だぞ」
「本当だ。こんなシケたとこにきて腰を抜かしただろうな。まぁいいや、あっちでみんな待ってるぞ」
麓の景色を一望できる東屋では、一真、渚、柚葉が待っていた。スキーの時と違い、みんなコートを脱ぎ、涼し気な格好をしている。
「ここに来る前、一真の家の厨房を借りて、三人でお弁当を作ってきたの」と、渚が照れくささそうに言った。
「ほとんどおれ一人で作ったんだけど」一真がぼそりとつぶやいた。
「女子だって頑張って手伝ったのよ」と柚葉。
陽太が、二月にも使った大きめのバックパックから紙コップと飲み物と重箱を取り出した。陽太と一真はサイダーを、女子はカルピスを、時尾はお茶を。今日は陽太が乾杯の音頭を取る。
「時尾が、時尾が行っちまうなんて寂しいけどよ……」
わななく声。全員がハッとする。こんな陽太は初めてだ。
「……ぷっ、くはは、ダメだ! おれが乾杯なんておかしくってしょうがない。一真、代われよ」
「えっ、じゃあ、えっと、時尾の健康と成功を祈って、乾杯」
泡立つサイダーは山の湧水、ぬるいカルピスは花の蜜、薄めの緑茶は春の若草の味がした。一真が重箱の包みを解き、最上段の蓋を開ける。時尾ではなく女子が驚きの声を上げる。
「きれい」
「センスある盛り付けでしょ」
「だからやったのおれだって……」
「うまそうだ、いただきます」
箸を割る乾いた音が青空に染み渡る。東屋の隣の桜は八分咲きで、空と雲の色をいっそう濃く見せる。
「おまえ唐揚げばっか食うなよ」
「重い荷物を背負って山登りして疲れたんだよ」
「卵焼きは私が作ったから時尾くん食べて」
「おにぎりは本当に私が握ったのよ」
「どれも美味しいよ。陽太もお疲れ様」
「時尾は本当にやさしいな。お前がいなくなった後、おれどうなるんだろ」
「私たちがいじめるとでも?」
「すでに怖いんですが」
五人で大笑いしても声はそれほど響かない。ここは広く、静かで、他に人もいないからだ。
「一年前は時尾がいなくても普通に暮らせてたのに、今では時尾がいない生活なんてありえないな」
「本当に。今では私たちに欠かせないリーダーだからね」
「おれも一真もリーダーって柄じゃないしな」
「時尾くんは知らないかもしれないけど、私たちって前はそこまで仲良くなかったのよ」
「そうそう。四人で集まることなんてなかったよな。おれと陽太、渚と柚葉って感じで」
「時尾が加わってくれたから、柚葉とも普通に話せるようになったぜ」
「私も一真くんと話せるようになった。ずっと友達になりたかったんだけど、一真くん無口だから」
「むっつりスケベだもんな」
「うるさい」
「私も陽太や一真は幼馴染だから別だけど、男子とまともに話なんてしたことなかったのよね。それなのに時尾くんとは自然に接することができた。どうしてかしら」
「それって告白か?」
「うるさいっ」
「真面目な話、本当にそうだよな。なんというか、時尾だけは昔からおれたちのことを知っていたみたいな」
「もう同じような人に出会うことは二度とないでしょうね」
「それはこっちも一緒だ。きみらはもうおれにとってかけがえのない存在だよ」
太陽が天頂を過ぎ西に傾く。桜の木から東屋に木漏れ日が降り注ぐ。花びらがいっそう白く、淡い色合いになり、遠くの連山に残る雪と共に輝く。
時尾は東屋から出て両手を広げ、みずみずしく若葉の香りがする空気を胸いっぱい吸い込む。
「実はみんなに伝えておきたいことがあるんだ」
「どうしたの? 急にかしこまって」
「まずは感謝の気持ちだ。まさか高校でこんな気の置けない仲間たちと巡り会えるとは思わなかった。おれみたいな冴えない男にもやさしく接してくれてありがとう」
「なに言ってるの。時尾くんぐらい魅力的な人はいないわ」
「そうよ。大人っぽくて、おおらかで余裕があって、いつも冷静で」
「頭いいのにお高く止まらないのがいいよな。男同士で普通に話も通じるし」
「むしろいろいろ世話になったこっちから感謝したいぐらいだ」
今や五人は全員、東屋の外に出ていた。時尾は桜の木の幹に寄りかかって座る。樹皮はひんやりと冷たく湿り、ややふやけている。他の四人も彼にならい、座りやすい所に腰を下ろし、風に吹かれながら空を見上げる。梢は揺れつつ、たわわに咲く花で雲をくすぐる。雲はそれを避けるように速く動く。
しばらく黙っていた時尾が口を開く。
「それから今まで黙っていて申し訳ないんだけど、みんなとは今日で、一応は永遠のお別れとなる」
「え……」
「どういうことだ」
「もう戻ってこれないの?」
「休みがあるじゃんか。なんだよ水臭いぞ」
「ゴールデンウィークも夏休みも戻ってこれない。おれにはもう時間が残されていないんだ」
「必死に受験勉強するってこと?」
「首都でやりたいことがあるの?」
「海外留学とか?」
「分かった。首都にはおれたちなんかよりもっといい友達がいるんだ」
時尾はゆっくりと、大きく首を横に振る。太陽の角度が変わり、木陰の紫色が濃くなる。
「きみたちはおれの人生で一番大切な親友だ。だからたとえ体が離れ離れになったとしてもおれたちの心は一つ。おれはみんなとの思い出を宝物にして、暮らしや仕事で辛いことがあったとしても、その温もりを頼りにして生きていくよ」
「そんな、一方的にお別れなんて言わないでよ、私たちの気持ちも考えてよ」
「渚……」
あのいつも元気で勝ち気な渚が両手を握り、肩を震わせている。
「私たちがどんなに時尾くんのことを大切に想っているか、考えてくれないの?」
一真は真剣な面持ちでうなずく。
「そうだ。渚だけじゃない。おれだってその、男が男に惚れたってやつだ。お前のことを尊敬してるし、知り合えたことを誇りに思っているのに」
柚葉が続ける。
「時尾くんを中心に、みんなの間で絆ができたはずなのに、それなのに……」
陽太が珍しく声を荒げる。
「そんな大切なことをこれまでずっと黙っていて、しかもその理由も教えてくれないなんて、人をおちょくるのもいい加減にしろよ」
殴りかからんばかりの陽太を制したのは、時尾の涙だった。彼はすぐに泣き止み、涙を拭い、最後にこう言った。
「みんなの気持ちは痛いほどよく分かっていた。その気持ちに今まで正面から応じることはできなかった。でもおれももう抑えきれないから言わせてもらう。おれはきみたちみんなのことを心から愛しているよ」
時尾の体が淡い光を放ちつつ崩れ、輝く粉となり、強風とともに舞い上がり、空に吸い込まれる。大きく揺れる木。
またつぼみが開き、花が咲いた。




