4 人面樹
【現在のステータス】
桜 LV 5(戦士)
E : 兵士の剣/ 風紋の胸あて/うろこの盾
【現在の場所】ブルーメンの町
一方の桜――。
桜は迷いの森のなか、楓花が自分が迷わないよう木につけてくれた目印を追いながら、さらに奥へと進んでいた。
森を縫う細い道は曲がりくねりながら、少しずつ下へ、下へと続いている。
進むほど木々は密になり、太い幹や枝が道の上まで覆いかぶさってきた。湿った落ち葉の下からは木の根がところどころ盛り上がり、足元にも気を配らなければならない。
しばらく進んだところで、桜はふと足を止めた。
前方の地面が、妙に盛り上がっている。
「気をつけるのじゃ」
肩の高さに浮かぶ少女の妖精――ルフェルンが、そこを指さした。
桜が目を向けると、落ち葉の下から何かが蠢いている。
やがて土を押し分けるように白い根がいくつも這い出し、その中央から、丸く膨らんだものが持ち上がってきた。
植物の根と人の顔を無理に組み合わせたような姿だった。
白い胴体から何本もの根が伸び、先端には小さな手足までついている。顔には目と口があり、土にまみれた赤ん坊のようにも見えた。
だが、その口が大きく開いた瞬間、そんな印象は消えた。
――キィィィィィィッ!
森を震わせるような叫び声が響き渡る。
桜はとっさに身を引き、両腕で耳を覆った。その判断がよかった。
まともに聞けば、耳の奥まで突き刺さるような声に身体の自由を奪われかねない。
――叫び根。
実物を見るのは初めてだったが、学校で聞いた名前と目の前の姿が結びついた。
叫び声が途切れる。
その瞬間、叫び根が跳ねるように襲いかかってきた。
桜は横へ身体を流し、勢いを殺さぬまま剣を振り抜く。
白い根が一本、宙を舞ったが、叫び根は怯むことなく、残った根を次々と伸ばしてきた。
桜はうろこの盾を差し出した。
根が盾の表面を打ち、乾いた音を立てて弾かれる。
盾を使うのは、もともと得意だったわけではない。けれど、この森へ入ってから魔物と戦ったことで、身体のほうが少しずつ使い方を覚えていた。
真正面から受け止めるのではなく、盾の角度を変えて攻撃の勢いを逃がす。
そのわずかな隙に踏み込み、根元へ刃を通した。
今度は深く入った。
叫び根は地面を掻くように身を震わせ、それから力を失ったように動かなくなった。
桜は剣を下ろさず、周囲へ目を走らせた。
静かだった。
ついさっきまで森を震わせていた叫び声が嘘のように、聞こえるのは木々の葉擦れだけである。
「……桜も、うまくなったのう」
ルフェルンが、少し得意そうに言った。
「盾の使い方も、前よりずっと様になっておる。じゃが――」
そこまで言うと、ルフェルンは口を閉ざした。
赤い瞳が、桜の前方を見つめている。
桜もそちらへ目を向けた。
大きな木が一本、立っていた。
いや――そう見えていただけだった。
その木は、周囲の木々とは何かが違っている。
幹が――ゆっくりと動いた。
太い根が地面を押し上げ、枝がゆっくりと広がっていく。木そのものが身体を起こすように立ち上がると、桜の前に巨大な影が落ちた。
――人面樹。
さきほどの叫び根とは比べものにならない大きさだった。人の倍ほどの高さしかないとはいえ、桜にとっては十分すぎるほどの怪物である。
樹皮には幾筋もの深い皺が刻まれ、それが人の顔のように浮かび上がっていた。
赤く吊り上がった目、大きく裂けた口、その奥に並ぶ尖った牙――人の顔というより、怪物が人間の表情を真似ているように見える。
桜が無意識に一歩下がった。
その瞬間、太い枝が振り下ろされた。
桜は地面を蹴って横へ跳ぶ。直後、枝が地面を叩きつけ、轟音とともに土が跳ね上がった。さっきまで立っていた場所が大きくえぐれている。
着地した桜へ、今度は長い枝が横から伸びてきた。
避けきれない。
とっさに身をひねったものの、枝の先が胸をまともに打った。
風紋の胸当てが鈍い音を立てる。
衝撃に身体は揺らいだが、痛みは思ったほどではなかった。丈夫な胸当てが、枝の一撃を受け止めてくれたらしい。
桜は息をつく間もなく横へ回り込み、幹へ斬りつけた。
硬い樹皮が削れ、浅い傷が残る。
それだけだった。
やはり、真正面からでは勝てない。
そう判断して距離を取る。だが、背後から別の枝が薙いできた。桜は身を低くしてかわし、そのまま地面を蹴って再び間合いへ入る。
幹へ斬り込もうとしたところで、数本の枝が一斉に動いた。
まるで本体を守る腕のように重なり、刃の行く手を阻む。
「……どこを斬ればいいの」
桜自身、まだ実戦経験は多くない。目の前の敵に弱点があることは分かっても、それがどこなのかまでは見抜けない。
迷った一瞬を、人面樹は逃さなかった。
枝が折れ曲がるようにして迫ってくる。
桜はうろこの盾を前へ出した。
枝が激突し、盾が大きく鳴る。鈍い衝撃が腕へ伝わり、そのまま身体ごと後ろへ押し流されたが、桜は足を踏ん張って耐えた。
これが皮の盾のような粗末な盾だったなら、今の一撃だけで手放していたかもしれない。
けれど、盾に感心している暇はなかった。
足元の地面が盛り上がった。
次の瞬間、太い根が地中から突き出してくる。
桜はとっさに飛び越え、そのまま人面樹|の脇へ抜けた。そこへ別の枝が追いすがり、肩口をかすめる。
風紋の胸当てが、またしても衝撃を受け止めた。
桜はよろめきながらも足を踏み直す。
少しずつ、人面樹の動きが見えてきた。
枝の振り方には癖がある。
大きく振りかぶったあとは右へ薙ぐことが多く、根を伸ばすときには、ほんのわずかに幹が沈む。
それが分かれば、避けられる。
桜は次の攻撃を待った。
右の枝が上がる。
左へ跳ぶ。
――そのはずだった。
枝が途中で軌道を変えた。
別の枝が、逃げた先へ回り込んでくる。
「――!」
桜はうろこの盾を差し出した。
受けきれない。
盾が激しく鳴り、身体が弾き飛ばされる。
背中が木の幹へ叩きつけられ、肺から息が抜けた。
それでも桜は立ち上がろうとした。
その足へ、地面から伸びた根が絡みつく。
剣を振って一本を断ち切る。
だが、切った根の陰から別の根が伸びてきた。
ようやく振りほどいたときには、人面樹はすぐ目の前まで迫っていた。
桜は後ろを見る。
背中には生い茂る木。
左右には根。
前には、巨大な樹木の化け物。
逃げ道がない。
どうやら、人面樹も桜の動きに慣れてきたらしい。
先ほどまでは避けられた攻撃が、今は逃げ道を先回りするように襲ってくる。
桜が右へ動けば枝が待ち、左へ回れば根が伸びる。
自分だけが相手を見ているのではない。
相手もまた、自分を見ている。
桜は息を整えようとした。
けれど、肩が痛い。
握った兵士の剣にも、少しずつ力が入らなくなっている。
それでも剣を下ろすわけにはいかなかった。
人面樹の枝がゆっくりと持ち上がる。
桜は盾を構えた。
これを受けるしかない。
そう覚悟した、そのときだった。
「――桜!」
聞き覚えのある声がした。
そう思った次の瞬間、人面樹の背後から一人の少女が飛び込んできた。
左側へ回り込むと、ほとんど間を置かず、その幹に浮かんだ顔の左目へ短剣を突き立てる。
ルミナスナイフ――鍔には女神の髪を模した神聖な彫刻が施された、クヴェル村のギュンターおじさんからもらった楓花の短剣だ。
不意を突かれたことを理解するより早く、人面樹が身をよじった。
左目から、樹液とも血ともつかない液体が流れ落ちる。
巨木の顔に苦悶の表情が浮かび、枝が狂ったように振り回された。
桜は、その樹木の化け物から目を離した。
いや――目の前に現れた少女から、目を離せなかった。
黒髪を低い位置でまとめ、眼鏡の奥からこちらを見つめる琥珀色の瞳。
間違えるはずがない。
「……楓花」
楓花は一度だけ桜を見ると、すぐに人面樹へ視線を戻した。
「そこの根っこです」
桜が見る。
先ほど盾で枝を受けたときに崩れた土から、太い根の一部が露出している。トレントが身体を動かすたび、その根へ大きく力がかかっていた。
「……あれ?」
桜にも、その意味が分かった。
楓花はそれ以上説明しない。
桜は剣を握り直し、駆け出した。
人面樹が枝を振り上げる。
だが、左目を貫かれたためか、その動きには狂いがあった。振り下ろされた枝は桜を捉えきれず、地面を叩く。
その隙を逃さず、桜は根元へ滑り込んだ。
剣を振り下ろす。
刃が露出した根へ深く食い込んだ。
人面樹の巨体が大きく揺れる。
桜は踏み込んだ足を崩さず、剣を引き抜くと、同じ場所へもう一度、力いっぱい叩き込んだ。
太い根が裂けた。
支えを失った巨体が大きく傾き、枝が空を掻きむしるように暴れ回る。
桜はとっさにうろこの盾を掲げた。
枝が盾を打ち鳴らす。
それでも踏みとどまった。
そして次の瞬間、人面樹は大きな地響きを立てて地面へ倒れ込んだ。
舞い上がった土煙が、木々の間へゆっくりと溶けていく。
桜はしばらく剣を握ったまま動かなかった。
やがて、張り詰めていた力が少しずつ抜けていく。
「……助かったぁ」
思わず漏れた声に、楓花が歩み寄ってきた。
「怪我は?」
「肩を少し。でも、大丈夫」
楓花は桜の肩を確かめ、それから風紋の胸当てへ目を移した。続いて、桜が手にしているうろこの盾を見る。
「……それ」
「え?」
「風紋の胸当てですね。軽そうなのに、ずいぶんしっかり作ってあります」
楓花の目が盾へ移る。
「それに、うろこの盾。大時計塔の大通りにあった店のものでは?」
桜は一瞬、言葉を失った。
「……そっち?」
こんなところで、そこを見るのか。
思わず笑ってしまう。
「でも、あげないよ」
皮肉のつもりだったが、声にはもう、さっきまでの緊張が残っていなかった。
はじまりの神殿での出来事から、楓花、カメリア、ひまわりと離れて一人になってから、ずっと胸の奥に張りつめていたものが、ようやくほどけていく。
たった二日しか経っていないが、それは日数の問題ではない。
「……楓花、見つかってよかった」
「はい」
楓花は、いつものように短く答えた。
森の奥には、まだ道が続いている。
けれど今は、もう一人ではなかった。




