2 眼鏡の女性
【現在のステータス】
桜 LV 5(戦士)
E : 兵士の剣/ 風紋の胸あて/うろこの盾
【現在の場所】迷いの森
迷いの森――。
桜は、なんとか巨森猿を倒すことができた。
ようやく、森の静けさが戻ってきた。
桜の胸の奥では、まだ鼓動が速く、指先にも戦いの緊張が残っている。
考えてみれば、剣を持っていたとはいえ、たった十五歳の少女が一人で巨体の猿の魔物を倒したのだ。これは、なかなかできることではない。
もし教師が見ていたなら、この筋のいい教え子の成長ぶりに、満足げにうなずいたことだろう。
桜自身には、まだそこまでの自覚はないのかもしれない。
けれど、洞窟での魔物や石巨人との戦いを経て、桜は少しずつ、戦士としての力を身につけていた。
その先も、樹木が屋根や壁のように覆いかぶさり、道幅も曲がりくねりながら、次第に狭くなっている。木々に遮られて、まったく先が見えない。
なるほど、「迷いの森」と呼ばれるのも無理はなかった。
もっとも、これほど深い森の中とはいえ、修行僧たちは、この森を通ってきているはずだ。人の手がまったく入っていないわけではない。
ただ、「この先は行き止まり」などという親切な標識が立っているわけでもない。いくつもの道が木々の間を縫うように伸び、その先がどこへ続いているのかは、実際に歩いた者でなければ分からないような有様だった。
――本当に、楓花はこんなところに来たのかな。
――ひょっとして楓花は、以前にも、この森に入ったことがあるのだろうか。
そんなことを考えながら、桜が森の奥へ目を向けていた、そのときだった。
「……あ」
少し先の木の根元で、何かが淡く光っている。
桜が近づいてみると、苔の間に小さな欠片が落ちていた。石のようにも見えるが、普通の石とは違う。半透明の表面には木の年輪を思わせる模様が浮かび、その内側で、ごく淡い緑色の光が揺らめいている。
「なんだろう、これ」
桜が拾い上げると、妖精のルフェルンがすぐそばまで飛んできた。
「木の精霊のかけらじゃ」
小さな女の子の姿をしているというのに、その口から出てくるのは、どこか古めかしい言葉だった。しかも、こういうことを知っているのがよほど嬉しいのか、少しばかり自慢げである。
「へぇ……」
桜は掌の上で欠片を眺めた。
「物知りだね。まるでカメリアみたい」
そう言ってから、桜は少し考え、
「あ、そうか。ルフェルンは妖精だものね」
「……」
ルフェルンは、なんともいえない顔をした。
「なんじゃ、その言い草は」
「だって、精霊のことなら詳しいんでしょう?」
「まあ、それもそうじゃが……。ほかのことも、もちろん詳しいぞ」
「じゃあ、カメリアみたい」
「一緒にするでない」
「ふふっ」
桜が楽しそうに笑うので、ルフェルンは小さくため息をついた。
「ああ、あの銀髪の……」
「カメリア?」
「そうじゃ。そのカメリアの姉は苦手じゃ」
「リゼットさんのこと?」
「うむ」
ルフェルンが答えると、桜は少し意外そうな顔をした。
そういえば、リゼットには妖精のルフェルンが見えていた。
なぜなのかは、桜にも分からない。
ただ、自分しか見えていないと思っていた妖精が、リゼットにははっきりと見えていたようだ。彼女の話では、妹のカメリアにも見えるらしい。
「なんで苦手なの?」
「……さてな」
「そこは教えてくれないんだ」
「教えたくないことくらい、ワシにもある」
「そっか」
桜はそれ以上は聞かなかった。
手の中の欠片へ目を戻す。
「これ、錬金工房とかで素材として使えるの?」
「うむ。精霊のかけらは、そういう使い方もできる」
「じゃあ、持って帰ろうかな」
「おぬしは、意外にちゃっかりしておるの」
「だって、きれいだし。何かに使えるなら、もったいないでしょ。飾り物にもなるし」
桜は欠片を大切に袋へしまった。
今のところ、それ以上の意味はない。
桜にとっては、珍しい素材を一つ拾った。それだけのことだった。
森をさらに進むと、道は次第に下り坂になっていった。
さっきまでは気づかなかったが、こうして歩いてみると、この森はずいぶんと高低差がある。木々の間を縫うように続く道は、緩やかな坂になったかと思えば急に折れ、またしばらくすると、さらに低い場所へ向かって下っていく。
「ずいぶん下ってきたね」
桜が足を止めて振り返った。
木々の向こうに、さっきまで歩いていた場所はもう見えない。窪地に近づいているのか、湿気も次第に濃くなり、森の険しさも一段と増している。
「なんだか、また魔物が出てきそうじゃのう」
「ふーん。ルフェルンがそういうと、本当に出てきそうね」
「もし蜘蛛の化け物とか現れたら、どうするの?」
「……」
ルフェルンの表情が、見るからに曇った。
「そうなんだ。ひょっとして、蜘蛛とかムカデとか苦手なんだ」
桜は少し楽しそうに言いながら、また歩き出した。
――もっとも、桜が得意というわけでもないだろうが。
しばらくすると、視界が開けて、木々の間に小さな建物が見えた。
「……あれ、あんなところに小屋がある?」
近づいてみると、それは森の中にぽつんと建つ、古びた木造の小屋だった。立派なものではない。修行者が一晩休むために使うだけの、ごく簡素な小屋らしい。
入口の脇には小さな水場があり、その前で一人の女性が水を汲んでいた。
金色の髪を肩のあたりまで伸ばし、眼鏡をかけている。
桜は思わず足を止めた。
――黒髪で、眼鏡。
衛兵から聞いた話が、頭をよぎった。
もしかしたら、と思った。
けれど、目の前にいる女性の髪は黒ではない。どう見ても金色だ。
「あ……」
桜の胸に生まれかけた期待が、すっとしぼんだ。
――この人だったんだ。
衛兵から聞いた話に出てきた老夫婦が見たという「黒髪で眼鏡の女性」は、この人のことだったのだろう。
もっとも、女性の姿を一目見たときから、楓花ではないことは分かっていた。それでも、一瞬だけ期待してしまったのだ。
「こんにちは」
女性が桜に気づき、穏やかに声をかけてきた。
年齢は三十代後半くらいだろう。
「こんにちは」
桜も笑顔を返したものの、ほんの少しだけ気落ちしていた。
ところが、女性は水桶を持ち上げながら、ふと思い出したように言った。
「もしかして、あの子を探しているの?」
「……え?」
桜は思わず聞き返した。
「あの子って?」
「昨日、ここへ来た女の子です。黒い髪で、眼鏡をかけた……あなたと同じくらいの年頃の子でした」
桜の目が大きく開いた。
「黒い髪で、眼鏡?」
「ええ」
「その子……」
桜は一歩、女性へ近づいた。
「楓花っていう名前じゃなかった?」
女性は少し驚いた顔をした。
「えーと、そうです。たしかに、フーカさんと名乗っていました」
「……!」
胸の奥が、ぱっと明るくなる。
やっぱり、楓花だった。
ブルーメンの衛兵から聞いた話は、間違っていなかったのだ。
あのとき聞いた「黒髪で眼鏡の女性」という曖昧な情報を、桜は何度も頭の中で考え直していた。確証があったわけではない。それでも、ほかに手がかりがなかったからこそ、わずかな可能性に賭けてここまで来た。
その判断は、間違っていなかった。
「……よかった」
桜の口から、小さな声がこぼれた。
「フーカさんをご存じなんですね」
「うん。友達なの」
桜は笑った。
さっきまでの疲れが、少しだけ遠のいたような気がした。
けれど、女性の表情にはまだ心配そうな色が残っている。
「実は……お願いがあるんです」
「お願い?」
「今朝、楓花さんが一人で森の奥へ行きました」
「え!」
桜は思わず声を上げた。
女性の話によれば、昨日、父親と二人で徒歩でクヴェル村へ向かっていたところを、楓花に助けられたのだという。
――二人は、街道沿いにあった小さな祠のあたりで、追い剥ぎの男に襲われ、大切な妻の形見を奪われていた。そこに楓花が現れたので、追い剥ぎは慌てて、そのままこの森へ逃げ込んだ。楓花はそれを追い、二人も続いて森へ入った。
だが、森の中で追い剥ぎを見失い、日が暮れたため、三人はこの小屋で一夜を明かした。
年老いた父親も、これ以上は動けない。この暗さでは、この森で迷ってしまう。そう判断したのだという。
そして今朝。
父親は昨日の疲れが残って歩けず、娘も付き添わなければならないため、楓花だけが一人でおいはぎを探しに出たという。
「この先へ行ったんですか?」
「ええ。あの子は、『大丈夫、心配ない』と言ってくれてはいたんですけれど……」
女性は不安そうに森の奥を見る。
見ず知らずの自分たちのために、ここまでしてくれた楓花には感謝している。それでも、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
女性は楓花に、一緒に戻りましょうと伝えた。
けれど楓花は、
「でも、大切なものなんですよね」
そう言って、そのまま森の奥へ入り、再び追い剥ぎを追っていったのだという。
楓花がいる。
この森のどこかに。
それが分かっただけで、胸の奥にあった重苦しさが、少し軽くなった。
「ありがとう」
桜は女性に頭を下げた。
「私も探します」
「でも……」
「大丈夫」
桜は笑った。
「友達だから」
女性はしばらく桜の顔を見つめ、それから小さくうなずいた。
桜は森へ向き直った。
――さて。
この森で楓花を探す。
その目的が明確に決まったところまではいい。
問題は、どうやって探すかだった。
森は広い。道も多い。しかも、どの道も似たような木々に囲まれている。適当に歩けば、楓花どころか自分が迷ってしまう。
「……どうしよう」
桜が森を見回していると、ふと、何かが目に入った。
木の枝に、小さな布切れが結びつけられている。
「……あ」
見覚えがあった。
一昨日、洞窟の中で、分かれ道が現れるたびに楓花がつけていたものと同じようなものだった。
「そうだった……」
桜は思わず笑った。
楓花は、ちゃんと道を残していた。
しかも、その布切れは、あえて分かりづらい場所に結びつけられている。追い剥ぎに気づかれないようにしたのだろう。いかにも楓花らしい用心深さだった。
「これを追っていけばいいんだ!」
「ほう。ようやく気づいたか」
妖精のルフェルンが肩のあたりで得意そうに笑う。
「言ってくれてもよかったのに」
「自分で気づいたほうが嬉しかろう?」
本当に最初からルフェルンが気づいていたのか――怪しいものだが。
「……まあ、そうかも」
桜は布切れを見つめ、それから森の奥へ視線を向けた。
「待っててね、楓花」
桜は目印を追い始めた。
一つ、また一つ。
木の枝や幹に残された小さな布を見つけるたび、その道を選んでいく。
そして道は、少しずつ、確実に下へ向かっていた。
坂は次第に急になり、浅い沢が道を横切るようになる。森の上から差し込んでいた光も少なくなり、周囲の木々は高く、密になっていった。
桜は何度か振り返った。
もう、さっきの小屋は見えない。
けれど、この目印を頼りにすれば、少なくとも戻るべき道は分かる。おそらく、小屋から森の出口までの道も分かるのだろう。
楓花が残した、小さな布切れ。
それを追うようにして、桜はさらに森の奥へ、そして深く、下へと進んでいった。




