1 修行者立入地
【現在のステータス】
桜 LV 4(戦士)
E : 兵士の剣/ 風紋の胸あて/うろこの盾
【現在の場所】ブルーメンの町
馬車は、ブルーメンの町からクヴェル村へ続く街道を進んだ。
やがて、街道の脇に小さな祠が見えてくる。風雨を避けるような屋根の下には、生命の神ヴィータの少女の姿をかたどった石像が置かれていた。
桜は御者の男に声をかけた。
「ここで降ります」
「そうでしたね。迷いの森へ行かれるのですね」
「うん。ありがとう」
桜が馬車を降りると、御者は少し心配そうに南へ続く細い道を見た。
「それじゃあ、気をつけて」
「はい」
馬車は再び街道を進み、やがて桜の視界から消えていった。
――これからクヴェル村から引き返してくる旅人でも迎えにいくのだろうか。
残された桜は、南へ伸びる道に目を向ける。
さっきまで走っていた街道とは違い、こちらはずいぶんと細い。道の両側には草原が広がり、朝の風を受けた草が一面に揺れている。
その先には、森があった。
「じゃあ、行こうか」
「うむ。いよいよじゃな」
桜はルフェルンを肩のあたりに浮かべたまま、細い道を歩き始めた。
草原をしばらく進むと、道は少しずつ下り始めた。
やがて、小さな小川が現れる。
その上には、古びた木の橋が一本架かっていた。
橋を渡った先には、さきほどまで遠くに見えていた森が、もう目の前まで迫っていた。
クヴェル村を取り囲む森も深い森だったが、この先に広がる森は、それ以上に奥深く、そして暗い。
桜は、迷いの森について聞いた話を思い出した。
この森は、単に木々が生い茂っているだけではない。場所によって大きな高低差があり、道は複雑に入り組み、深い崖や細い狭間もあるという。入り込む者の行く手を遮るだけでなく、来た道へ戻ることさえ難しくなる――そんな話だった。
もちろん、それを聞いていたから、そう見えているだけなのかもしれない。
けれど、実際に目の当たりにしてみると、まだ森へ入ってもいないというのに、その話が決して大げさなものではないことだけは、疑いようもなく思えた。
桜が森の入口に立つと、そこに古びた木の看板が立っていた。
そこには、簡素な文字でこう記されている。
――修行者立入地。
桜は看板を見上げ、それから森へ目を向けた。。
この先には険しい森が広がっていて、昔から修行僧たちが心身を鍛えるために、よくこの森を利用していたらしい。
ふいに、ルフェルンが呟く。
「……迷いの森じゃないのか」
「あくまで通り名なの」
「なんとも俗物っぽい名前じゃのう。迷いの森のほうがよかった」
桜は少しだけ首をかしげた。
「修行者」という響きには、俗っぽさがないだろう
――もし楓花が相手なら、きっともう少しからかいながら切り返していただろう。
そんなことを考えて、桜は小さく笑った。
――そして、迷いの森へ入っていく。
ブナやナラの大きな木が立ち並び、その間には白い幹のシラカバも混じっている。木々は密集しており、森の奥へ目を向けても、その先がどこまで続いているのか分からない。
地面も平らではない。緩やかな斜面や浅い窪地がところどころにあり、木の根が地面から大きくせり出している場所もある。
道も、やはり一本ではなかった。
まっすぐ進んでいたと思えば木々の間で道が曲がり、少し先には別の細道が現れる。どれも似たような景色に見えるため、戻ろうと思ったときには、自分がどこから来たのか分からなくなってしまいそうだった。
地図を読むのには自信がある桜だったが、こうも入り組んでいては、さすがに自分の位置や方向を見失いそうになる。しかも、何よりも、ここは地図に描かれていない場所らしい。
「これは本当に迷うぞ。道が曲がったり、行き止まりになったり」
ルフェルンが、森を見回しながら言った。
「そういえば、洞窟もこんな感じだった」
桜も周囲を見渡した。
「あのときは四人だったので、心強かったけど……」
桜の脳裏に、楓花の姿が浮かんだ。
洞窟では、いくつか分かれ道が現れるたび、楓花が壁際へ小さな布切れを結びつけていた。引き返すときの目印にしていたのだ。学生なりの工夫だったが、こういう場所では楓花は頼りになった。
「楓花は……」
桜が小さく呟く。
「にしても、なんで楓花は、こんなところに行ったのか」
当然の疑問だった。
もちろん、眼鏡をかけた黒髪の女性という情報だけで、それが楓花だとは限らない。そんなことは桜自身も百も承知している。
それでも、目撃された時間や場所、それに老夫婦が衛兵に話した内容を考えれば、その女性が楓花ではないとも言い切れない。
むしろ今は、そのわずかな手がかりに賭けてみたい。
「老夫婦が衛兵に話したことが正しければ、街道沿いへ行かず、自分で迷いの森へ向かったということじゃろう」
ルフェルンが言った。
「ひょっとして、楓花って、修行僧?」
「こういうときに、そういう冗談は言わないで」
桜は苦笑した。
「ワシ、楓花のこと、そんなに知らないぞ。一昨日からじゃし、そもそも話もしておらん」
「あ……」
桜は思い出した。
一昨日、ルフェルンはまだ小さな光の玉のような姿をしていた。楓花と話をする機会など、なかったのだ。
「そうだったね」
桜は少し笑った。
「でも、楓花なら、こういうところを調べに来てもおかしくない気もするけど」
「さてな」
ルフェルンは、それ以上は何も言わなかった。
楓花が三人と合流するつもりなら、クヴェル村へ戻ろうとするのが自然だろう。だが、そうしなかったのは、なぜなのか。
けれど、その疑問は桜自身もすでに抱いていた。今さらルフェルンから持ち出されたところで、同じことを考えさせるだけだ。
ルフェルンが本当にそう考えていたのか、それも表情からは読み取れない。
妖精は、桜の肩のあたりをふわふわと漂っていた。
一人の少女と一人の妖精は、さらに森の奥へ進んでいった。
しばらくすると、頭上から枝の折れる音がした。
桜が足を止める。
「……今、何か聞こえなかった?」
「うむ」
ルフェルンが顔を上げる。
「上じゃ」
桜も木々の間を見上げた。
枝から枝へ、何かが素早く動いている。
一匹ではない。
何匹もの猿のような魔物が、木々の上からこちらをうかがっていた。
「猿……?」
その直後、一匹が枝の上から何かを投げてきた。
桜はとっさに、背中のうろこの盾を前へ出す。
甲高い音を立てて、それが盾にぶつかった。
――盾の扱いは、学校で習った程度のものだった。それでも、とっさのことだったのに、身体が自然に動いた。
桜は、自分のことながら少し驚いた。
そして、腰の兵士の剣へ手をかける。
熟練の戦士であれば、瞬時に敵の種類と数を見極め、その位置まで正確に把握して、状況に応じた間合いを取ることができただろう。あるいは、それ以前に、すでにその気配を察知していたかもしれない。
だが、残念ながら、そこまでの技量は学生の桜にはまだ備わっていなかった。
木の上では、魔物たちが騒いでいる。
動物とは明らかに様相が違う。その姿を見れば、これがただの猿ではなく、魔物であることは桜にも分かった。
その中から、ひときわ大きな個体がゆっくりと姿を現した。
ほかの猿とは比べものにならないほど大きい。大柄な人間よりも、さらに一回り大きい。
猿にも大型のものはいるが、それとは明らかに違う異形だった。
目は血走り、口からは鋭い牙がむき出しになっている。
太い腕を枝にかけ、桜を見下ろしている。
「……あれ、大きいね」
桜は、平静を装うようにつぶやいた。
それは余裕のあらわれではない。そうすることで、迫りくる恐怖から自分を落ち着かせようとしているのだった。
「うむ。親玉じゃろうな」
ルフェルンも、それに応じる。
――この猿の化け物は、巨森猿と呼ばれる。
その魔物は、低い唸り声を森に響かせた。
そして、太い枝を蹴る。
巨体が、桜の目の前へ落ちてきた。
地面が震え、落ち葉が舞い上がる。
桜は兵士の剣を抜いた。
「ルフェルンは、下がってて」
――冷静に考えれば、そもそも妖精のルフェルンに、猿の攻撃が通じるのかどうかも分からない。
「分かっておる。ワシには何もできぬからな」
――だが、ルフェルンは、いやに素直に応じてみせた。
「うん。じゃあ、応援よろしく」
「任せておけ」
巨森猿が、腕を振り上げた。
桜は剣を構えた。
こうした力任せの敵に対しては、相手の力を真正面から受けるのではなく、刃を添わせ、その勢いを横へ逃がす――これが学校で学んだ基本である。
けれど、目の前にいるのは模擬戦の相手ではない。
それでも、地下の古代遺跡で石巨人の攻撃をかわし続けた経験が、桜の中では小さな自信になっていた。
振り下ろされた太い腕に、桜は剣を添わせる。
真正面から受けず、その勢いを横へ逃がした。
――うまくいった。
だが、腕をかすめる風圧だけで、桜の身体がわずかによろめいた。
巨森猿のほうは大きくよろめいていた。しかし、異様なほど身体が柔軟で、すぐに体勢を立て直す。
今度は反対の腕が迫ってくる。
桜はうろこの盾で受け、そのまま後ろへ押し込まれた。
「桜、右じゃ!」
「分かってる!」
ルフェルンの声に、桜は身体をひねる。
巨森猿の腕が、すぐ横を通り過ぎた。
桜は一歩踏み込み、兵士の剣を振る。
だが、浅い。
巨森猿は倒れない。
「まだ……!」
桜は息を整える暇もなく、再び剣を構えた。
力では敵わない。
だから、真正面から受けない。
相手の動きを見て、流す。
それだけを繰り返す。
何度目かの攻撃を受け流したとき、巨森猿の動きがわずかに鈍った。
「……今!」
桜は踏み込んだ。
剣を滑らせるようにして巨森猿の腕をかわし、そのまま懐へ入り込む。
そして、兵士の剣を振り抜いた。
巨森猿は大きくよろめき、その巨体を地面へ倒した。
桜は荒い息をつきながら、その姿を見つめる。
巨森猿は苦悶に満ちた表情を浮かべ、大きな腕で懐のあたりを押さえていた。
――やがて、巨森猿の身体が黒い煤のようなものとなって崩れ始めた。
煤は風に流されるように舞い上がり、巨森猿の身体は少しずつ消えていく。
あとには、何も残らなかった。
木の上にいた数匹の猿たちは、忌々しそうに桜を見下ろしている。
けれど、親玉が倒されたことで戦う気をなくしたらしい。
猿たちは次々と枝を飛び移り、森の奥へと逃げていった。
「……終わったね」
桜は剣を下ろし、ようやく息を吐いた。
「うむ。よくやったぞ」
「ありがとう」
桜は小さく笑った。
「応援しかしてないけどね」
「それも立派な役目じゃ」
「ふふっ。そういうことにしておこうか」
桜はもう一度、森の奥へ目を向けた。




