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第9話 覚悟

 退院したばかりのミユウの歩幅は、思っていたよりも小さかった。


 星雲市の駅前通りは、昼下がりの光に薄く照らされていた。冬の終わりを待つ空気はまだ冷たく、歩道脇の植え込みには、昨日降った雨の名残が小さく光っている。車の音、信号の電子音、遠くの店先から流れてくる音楽。病室の白い壁に囲まれていた時間が長かったせいか、街の雑音がやけに生々しく耳に刺さった。


 ミユウは俺の隣を歩いていた。


 白いコートの袖から覗く指先が、風に当たるたび少し丸まる。長い銀色の髪は、歩くたびに肩の上で静かに揺れた。事故の前の彼女なら、この通りを見て、何かしら楽しそうに話したのかもしれない。店の看板を読んで、妙なところで感心して、俺が返事に困るほどまっすぐ笑ったのかもしれない。


 けれど、今のミユウは、目に入るものをひとつずつ確かめるように見ていた。


「ここ、賑やかですね」


「ああ。大学からも近い」


「前の私は、ここに来たことがあるんでしょうか」


 その問いに、足がわずかに鈍った。


 ある、と言えばいいだけだった。事故の前、何度か一緒に通った。くだらないことで言い合いもした。彼女がコンビニの新作菓子を見つけて、なぜか俺に感想を求めてきたこともある。


 それなのに、喉の奥で言葉が引っかかった。


「……ある」


 やっと出た声は、自分でも嫌になるほど硬かった。


 ミユウは俺を見上げる。知らない相手に気を遣うような、けれど完全には距離を置かない目だった。


「そうなんですね」


 彼女はそれ以上、追及しなかった。


 その優しさが、かえって痛かった。


 俺はミユウを忘れたことなどない。忘れられるわけがない。異世界で失った時間も、現代に戻ってからの再会も、病室で交わした言葉も、全部この胸の奥に残っている。なのに、彼女の中からだけ、俺が抜け落ちている。


 名前を呼ばれても、彼女はまだ俺を思い出さない。


 それでも退院の日、ミユウは俺に言った。


 少しだけ外を歩いてみたいです、と。


 だから俺はここにいる。


 医学生としての理屈なら、無理はさせるべきじゃない。人混みも避けるべきだ。疲れたらすぐ戻れる距離にした方がいい。頭の中では、いくらでも慎重な判断が並ぶ。


 けれど、病室の窓辺で外を見ていた彼女の横顔を思い出すと、その全部を盾にして閉じ込める気にはなれなかった。


 生きているなら、外の空気を吸う権利がある。


 記憶を失っていても、彼女は彼女だ。


「疲れたら言え」


「はい」


 ミユウは小さく頷いたあと、少しだけ笑った。


「瀬野さんは、いつもそう言いますね」


「いつも?」


「病院でも、何度も。無理するな、とか、座れ、とか、寒くないか、とか」


 胸の奥が、変なふうに詰まった。


 彼女は覚えていない。俺と過ごした時間も、俺に向けていた笑顔も、俺の名前を呼ぶ声の温度も。


 けれど、事故のあとに積み重ねた日々だけは、ほんの少しずつ彼女の中に残り始めている。


 それは昔の俺を取り戻すことではない。


 今の俺が、今の彼女のそばに立つことだった。


「うるさかったか」


「いいえ」


 ミユウは前を向いたまま、首を横に振る。


「少し、安心します」


 その一言だけで、さっきまで冷えていた指先に血が戻った気がした。


 駅前の広場を抜けると、通りの先に小さな噴水が見えた。水は止まっていたが、周囲のベンチには買い物帰りの人や、スマホを見ている学生らしき姿がある。俺たちは人の流れから少し外れ、並木の影に沿って歩いた。


 襲撃事件から、まだそれほど日が経っていない。


 刃物を持った男が現れた瞬間の空気を、俺の体は忘れていなかった。怒号。乱れた足音。ミユウの息が止まる気配。俺の腕の中で震えた肩。


 あの時、俺は考えるより先に動いた。


 理屈ではない。


 彼女に危害が届くと思った瞬間、体が勝手に前へ出た。


 今でも、それが間違いだったとは思わない。


 誰かを救う人間になるために医学を学んでいる。命を守るために知識を積み上げている。けれど、大切な人の前に危険が迫った時、教科書を開く余裕などない。


 守る。


 その一つだけが、胸の奥で燃えていた。


「瀬野さん」


 ミユウの声に、我に返る。


 彼女は噴水の近くで足を止めていた。


「今日は、少しだけ……外が怖くないです」


「そうか」


「はい。病室にいた時は、外に出たらまた何か起きるんじゃないかって思っていました。でも、こうして歩いていると、普通の人たちが普通に歩いていて、少し不思議です」


 普通。


 その言葉が、今はひどく遠いものに思えた。


 俺たちにとって、普通の日常はいつも壊れる。異世界でも、現代でも、守りたいものほど簡単に傷つく。だからこそ、取り戻した小さな時間を馬鹿にしたくなかった。


「普通に戻ればいい」


「戻れるでしょうか」


「戻す」


 ミユウが目を瞬かせた。


 しまった、と思った時にはもう遅い。言い方が強すぎた。けれど、取り繕う気にもなれなかった。


「おまえが忘れていても、歩けなくなったわけじゃない。笑えなくなったわけでもない。怖いなら、俺が隣にいる。少しずつでいい。戻すんだ」


 ミユウは何も言わなかった。


 風が、彼女の髪を頬にかける。俺は反射的に手を伸ばしかけて、途中で止めた。今の彼女にとって、俺はまだ親しい相手ではない。勝手に触れるべきじゃない。


 そのわずかなためらいに気づいたのか、ミユウは自分で髪を耳にかけた。


「瀬野さんは、不器用ですね」


「悪かったな」


「でも、嫌じゃないです」


 その言葉に、胸の奥が一瞬だけ熱くなった。


 恋心なんて、もっと綺麗で、もっと余裕のあるものだと思っていた。誰かを好きになるというのは、笑って、手を繋いで、相手の言葉ひとつで浮かれるようなものだと、どこか他人事のように考えていた。


 実際は違った。


 怖い。


 失いたくない。


 守りたい。


 触れたいのに、壊したくない。


 たった一人の存在に、自分の心臓を握られているみたいだった。


 こんな感情を、俺は知らなかった。


 知らないまま医者になろうとしていた。


 命を救うと偉そうに決めておきながら、自分の胸ひとつ制御できない。ミユウが笑えば息が詰まり、怯えれば怒りで視界が狭くなる。冷静だと周りに思われている俺の中身は、彼女のことになると、こんなにも頼りない。


 それでも、逃げる気はなかった。


「少し休むか」


「はい」


 俺たちは噴水横のベンチに座った。


 ミユウは両手を膝の上で揃え、街を眺めている。横顔はまだ少し青白いが、病室にいた時より目に光があった。退院してよかった。外に連れ出してよかった。そう思えた。


 その時だった。


 背後の方で、靴音が止まった。


 ひとつではない。


 複数の足音。


 俺の首筋が、先に反応した。


「ミユウ」


「はい?」


「俺の後ろに」


 理由を説明するより早く立ち上がる。ミユウが戸惑いながらも腰を浮かせた瞬間、視界の端で黒いレンズが光った。


 カメラ。


 スマホではない。取材用の機材だ。


 次に見えたのは、肩からバッグを下げた女だった。長いコートに、整えられた髪。年齢は三十代前半くらい。笑っているのに、目だけが笑っていない。彼女の後ろには、記者らしき男が二人、少し離れて立っていた。ひとりはカメラを構え、もうひとりは録音機のようなものを手にしている。


 俺はミユウの前へ出た。


 体が、勝手に角度を作る。


 彼女を視線から隠す位置。レンズの直線上に、俺の肩が入る位置。


「あら、やっぱり」


 女は楽しそうに目を細めた。


「退院したって聞いたから、少し歩いてみたの。運がいいわ」


「誰だ」


「冬美梨花。雑誌編集者よ。新聞社の人間も少し協力してくれているけれど、今日は私が代表」


 差し出された名刺を、俺は見なかった。


 名刺より先に、カメラを見た。レンズの奥にいる誰かに、ミユウの顔を渡す気はなかった。


「取材なら断る」


「あら、まだ何も聞いていないのに?」


「聞く必要がない」


 冬美梨花は、唇だけで笑った。


「瀬野龍夜くん。星雲大学医学部一年、学年主席。若くして将来有望な医師の卵。噂以上にきつい目をするのね」


 名前を知られている。


 大学も、学部も、成績も。


 胃の奥に冷たいものが落ちた。


 俺の情報を調べている。偶然声をかけたわけじゃない。退院の情報まで掴んで、ここに来た。つまり、ミユウのことも調べている。


「ミユウさん」


 冬美の視線が、俺の肩越しに伸びる。


 背後でミユウの息が小さく揺れた。


「事故のあと、記憶を失っているそうね。自分の名前以外、ほとんど覚えていない。でも、あなたには特別な力がある。あの日、私は見たの」


「やめろ」


 声が低くなった。


 冬美は止まらない。


「傷ついた人に触れた瞬間、信じられないことが起きた。あれは偶然じゃない。医療でも奇跡でも片づけられない。世間が知れば、あなたは一夜で――」


「やめろと言った」


 俺の声に、通行人が何人か振り返った。


 カメラを持った男が、一歩前に出る。レンズがミユウを探すように傾いた。


 その瞬間、頭の奥で何かが切れた。


「ミユウに触るな!」


 広場の空気が止まった。


 俺はミユウの前に立ちはだかった。肩を広げ、背中で彼女を隠す。拳が勝手に握られていた。殴るためではない。自分を押さえつけるためだ。


 今ここで感情に任せれば、ミユウがさらに怖がる。


 けれど、引く気はなかった。


「カメラを下げろ。録音も切れ。本人の同意もなく、病み上がりの人間を囲むな」


「正義感が強いのね」


「正義じゃない」


 冬美の目を睨み返す。


「俺が、嫌なんだ」


 言ってから、自分でも驚いた。


 けれど、その言葉が一番正しかった。


 世間のためとか、倫理とか、医学生としてとか、そんな綺麗な言葉で包む気はない。


 ミユウが見世物にされるのが嫌だった。


 記憶を失って不安定な彼女に、知らない大人たちが群がるのが嫌だった。


 彼女の力だけを切り取って、都合のいい奇跡として消費されるのが嫌だった。


「ミユウは記事の材料じゃない。名前も、顔も、過去も、力も、おまえたちに差し出すものじゃない」


 背後で、ミユウが俺のコートの裾を掴んだ。


 ほんのわずかな力だった。


 けれど、その指先の震えだけで、胸の底から怒りがせり上がる。


 冬美はそんな俺を、値踏みするように見ていた。怯えも驚きもない。むしろ、期待していた反応を引き出せたと言わんばかりの顔だった。


「いいわね、その目」


「何がだ」


「本気で守る人間の目よ。若いのに、綺麗事だけじゃない。彼女の前に立つ覚悟はありそうね」


「取材をやめろ」


「やめてもいいわ」


 あまりにもあっさりした返事に、逆に警戒が強くなる。


 冬美は片手を上げ、後ろの記者たちに合図した。カメラがわずかに下がる。録音機を持っていた男も、冬美の顔色を窺うように動きを止めた。


「ただし、条件がある」


「条件?」


「あなた、彼女を守りたいんでしょう」


 冬美は一歩だけ近づいた。


 俺はミユウを背にしたまま動かない。距離はまだある。それでも、彼女の声が近くなっただけで、神経が張り詰めた。


「ミユウ・ルミナス。記憶喪失の帰国子女。事故の被害者。そして、説明のつかない癒しの力を持つ少女。これだけ揃っていたら、世間は放っておかないわ。私が記事にしなくても、別の誰かが嗅ぎつける。病院、大学、警察、ネット、週刊誌。どこから漏れてもおかしくない」


「だから何だ」


「隠すだけでは守れないということよ」


 冬美の声は柔らかかった。


 柔らかいからこそ、刃物のように聞こえた。


「彼女をただ庇うだけなら、今日のあなたは立派だった。でも明日も、明後日も、来月も同じことができる? 大学に通いながら、医学を学びながら、彼女につきまといますか? 全員を追い払いますか? カメラを向ける人間、噂を流す人間、力を利用しようとする人間、その全部から」


 言い返そうとして、言葉が詰まった。


 できる、と叫ぶのは簡単だった。


 けれど、冬美の言っていることが全部間違いではないことも分かった。


 俺は医者になるために学んでいる。いつか多くの命を救うために、今の時間を削っている。その道を捨てれば、救えたはずの命を救えなくなるかもしれない。


 でも、ミユウを見捨ててまで進む道に、何の意味がある。


 どちらかではない。


 どちらも守る。


 そう決めたはずだ。


 それなのに、冬美の言葉は俺の足元を正確に抉ってきた。


「あなたは賢い。だから分かるはずよ。守るという言葉は、耳触りがいい。でも本当に守るには、代償がいる」


 ミユウの指が、コートの裾をもう一度掴んだ。


「瀬野さん……」


 小さな声だった。


 俺は振り返らなかった。振り返れば、彼女の不安な顔を見てしまう。見れば、冷静さが崩れる。


「大丈夫だ」


 それだけ言った。


 本当は、何も大丈夫じゃない。


 退院して、やっと外を歩けた。ほんの少し笑えた。日常を取り戻せるかもしれないと思った。


 その矢先に、世界はまたミユウを奪おうとしている。


 奇跡だとか、特別な力だとか、そんな言葉で彼女を囲い込み、彼女自身を置き去りにしようとしている。


 ふざけるな。


 彼女は力じゃない。


 記事でもない。


 俺の前で、怖いと言いながらも外を歩こうとした十八歳の女の子だ。


 名前以外の記憶を失っても、誰かを信じようとしている。知らない街を見て、知らない俺の隣で、それでも少しだけ笑おうとしている。


 それを奪わせるわけにはいかない。


「冬美梨花」


 俺は初めて、その名前を口にした。


「おまえが何を知っているのかは知らない。だが、ミユウを利用するなら許さない」


「怖いわね」


「脅しじゃない。事実だ」


「医者を目指す人間の言葉とは思えない」


「医者を目指しているから言っている」


 俺は冬美を睨んだ。


「人は見世物じゃない。病気も、事故も、傷も、記憶喪失も、誰かが消費するためにあるんじゃない。本人が立ち上がる前に、他人が物語にして売るな」


 冬美の表情から、ほんの少し笑みが消えた。


 後ろの記者たちも黙っている。周囲の通行人は遠巻きにこちらを見ていたが、誰も近づいてこない。広場のざわめきだけが薄い膜のように残っている。


 冬美はしばらく俺を見つめていた。


 そして、ゆっくりと息を吐いた。


「なるほど。思ったより面白いわ」


「面白がるな」


「無理よ。だって、あなたは彼女の秘密を隠すために、怒りも人生も前に出せる人間みたいだから」


 嫌な予感がした。


 冬美はバッグから一枚の封筒を取り出した。俺に渡すわけでもなく、指先で軽く挟んで見せる。中身は分からない。ただ、白い封筒の端がやけに鮮明に見えた。


「そこまで言うなら、彼女のために自分の人生を売る覚悟はあるかしら」


 風が止まった気がした。


 俺は冬美を見据えたまま、低く問い返した。


「どういうことだ」

ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたらぜひ評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

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