第8話 心音
「瀬野さん!」
病院棟へ続く渡り廊下の入口で、その声が白い床を裂いた。
俺はミユウを背中に庇ったまま、男が握っていた銀色の光だけを見ていた。医療スタッフの悲鳴、警備員の靴音、誰かが椅子を倒す乾いた音。騒音のすべてが遠のいて、胸の奥だけが妙に熱かった。
男は警備員に腕を押さえられ、一度は床へ膝をついた。刃物が弾かれ、金属音が渡り廊下に跳ねる。終わった、と周囲の空気が緩んだ、その一瞬。
男は獣みたいに身を捩り、押さえていた腕を振りほどいた。
「逃がすな!」
警備員の声が飛ぶ。俺も足を出しかけた。だが、胸に焼けるような痛みが走り、視界が白く欠けた。
遅れて、自分が傷ついていると分かった。
制服の胸元に湿りが広がっている。派手に動いても破れにくい特殊生地を使っているはずの制服が、そこだけ不自然に重い。傷の深さ、呼吸の浅さ、出血量。頭は勝手に手順を並べようとするのに、膝が床の冷たさを拾い損ねた。
浅い。呼吸が浅い。胸部の創傷なら、まず圧迫を――。
喉が動かない。
「瀬野さん!」
ミユウが駆け寄ってきた。
俺を覚えていないはずの彼女が、ベッドの上で遠慮がちに「瀬野さん」と呼んでいた彼女が、その距離を踏み壊すみたいに走ってきた。
「来るな」
そう言うつもりだった。
声になる前に、白い指先が俺の胸元へ触れた。
「わたし……これ、知っています」
ミユウの手のひらが、制服越しに熱を帯びる。
派手な光ではなかった。けれど、確かにそこに力があった。胸の奥を噛み続けていた痛みが、輪郭を失っていく。浅く引っかかっていた呼吸が、少しずつ肺の奥まで届く。流れていた熱が止まり、傷口の嫌な感覚が、内側から押し戻されるように消えていった。
俺は息を飲んだ。
「……今のは」
この世界に戻ってから、俺はずっと人間の理屈の中に立とうとしていた。医学部の講義、病院棟の匂い、電子カルテ、白衣、救急対応。命を救うなら、人間の手順で救うべきだと、自分に言い聞かせていた。
なのに。
今、俺の胸に触れている彼女の手は、俺の知る医学のどこにもない答えを出していた。
痛みが引く。呼吸が戻る。膝に力が入る。
あり得ない。
そう思った直後、もっと厄介な感情が喉元まで込み上げた。
知っている。
俺は、この力を知っている。
「ミユウ……お前」
名前がこぼれた。
彼女は自分の手を見下ろし、真っ青な顔で首を振った。
「分かりません。分からないのに、瀬野さんが痛そうで……手が、勝手に」
その声が震えていた。
俺は胸元を押さえた。傷はほとんど閉じている。だが、治された感触だけが残っている。痛みよりも鋭く、心臓の奥を掴んで離さなかった。
「……悪い」
「どうして謝るんですか」
「驚いた。人間らしく、普通に驚いた」
言ってから、自分でもひどい返しだと思った。
けれどミユウは、泣きそうな顔のまま、ほんの少しだけ眉を下げた。
「瀬野さんでも、驚くんですね」
「驚く。今のは、かなり」
その時、渡り廊下の端で怒号が上がった。
警備員たちが入口へ走っていく。取り押さえられたはずの男は、人の混乱に紛れ、病院棟の外へ逃げ出していた。制止の声が遠ざかり、ガラス扉の向こうで誰かが通報している。
俺はミユウの前に立ち直した。
胸の傷は癒えた。だが、腹の底に沈んだ怒りは消えていなかった。
俺の目の前で彼女を怯えさせた。
それだけで、もう十分だった。
病室に戻ると、白い光がカーテン越しに揺れていた。消毒液の匂い、ベッド柵の冷たい反射、一定間隔で耳に落ちる電子音。ミユウはベッドの端に腰を下ろしたまま、まだ自分の手を見つめていた。
「瀬野さん、先ほどの……わたし、何をしたんでしょうか」
「俺の傷を癒した」
隠すつもりはなかった。
なかったことにして、彼女の不安だけを薄めるような真似はできない。
「普通ならあり得ない。医学的にも説明がつかない。けど、俺は確かに治った」
「怖く、ありませんか」
「怖いのは、お前の力じゃない」
俺は椅子を引いた。近づきすぎないように一つ分だけ距離を置き、けれど扉と窓を同時に視界に入れられる位置に座る。
「お前が、自分の力に怯えていることの方が怖い」
ミユウの肩が小さく揺れた。
その瞬間、病室のテレビが臨時ニュースに切り替わった。画面の上に赤い速報の帯が走る。
『速報です。星雲大学病院棟付近で刃物を持った人物が一時取り押さえられましたが、その後逃走しました。現在、男は星雲市内へ逃げ込んだとみられ、警察が行方を追っています。付近の方は不要な外出を避け、不審な人物を見かけても近づかず――』
ミユウの指が、シーツを掴んだ。
さっきまで癒しの力を使っていた手が、今はただの女の子の手みたいに震えている。
「まだ……外にいるんですか」
「ああ」
「また、来るかもしれないんですか」
嘘をつけば楽だった。
来ない。もう大丈夫。警察が捕まえる。そう言ってしまえば、この場だけは穏やかにできる。
けれど、そんな薄い安心で彼女を包むくらいなら、俺は嫌われた方がいい。
「可能性はある」
ミユウの顔から色が引いた。
俺は立ち上がり、彼女の正面に立った。怖がらせるためじゃない。逃げ道を塞ぐためでもない。ただ、彼女が視線を迷わせた時、最初に俺が見えるように。
「でも、お前には近づけさせない」
「瀬野さん……」
「大丈夫だ。俺が守る」
言葉は、驚くほど迷わず出た。
知人としての配慮ではなかった。病院棟で見舞いに来ている学生としての義務でもなかった。記憶を失った彼女に踏み込みすぎないように、何度も距離を測ってきた理屈が、その一言で全部壊れた。
ミユウは、俺を覚えていない。
それでも、俺は覚えている。
あの世界で彼女がどんな声で笑ったか。どんな顔で俺の名を呼んだか。守れなかった瞬間の、自分の手の空っぽさまで、嫌になるほど覚えている。
もう二度と、同じものを見たくない。
ミユウは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
その呼び方は、まだ他人行儀だった。
俺はそれを受け止めた。今の彼女に、いきなり過去を押しつける権利はない。けれど、守ると決めることだけは、俺の側の問題だった。
講義室に戻っても、机の上の教科書は紙の塊にしか見えなかった。
蛍光灯の白い光がノートに落ち、ペン先が同じ場所を何度もなぞる。窓の外には星雲大学病院棟が見えた。スマホが震えるたびに画面を見る。関係のない通知だと分かっても、伏せることができない。
大学からの一斉通達が何度も届いた。
『学園近辺で刃物を持った人物が逃走中です。病院棟、全学生、教職員は周囲を確認し、単独行動を避けてください』
文字は読める。意味も分かる。
だが、頭の中にはミユウの手の熱だけが残っていた。
癒しの力。
記憶を失っても、彼女の奥に残っていたもの。
俺を見て、叫んだ声。
瀬野さん。
龍夜ではなかった。
それでも、あの声は俺を呼んだ。
講義後、俺は荷物をまとめる手順を一つずつ確かめた。教科書、ノート、ペン、スマホ。廊下に出ると、床の冷たさが靴底を通って足裏に残った。
病院棟の受付では、ボールペンの音が紙の上を走り、面会札のプラスチックが掌に軽く当たった。病室前で足が止まる。ドアノブに触れた指先が少し汗ばんでいた。
「どうぞ」
中から聞こえた声に、俺は一呼吸置いて扉を開けた。
ミユウはベッドの上で背筋を伸ばし、昨日よりも少し薄い色の本を読んでいた。けれど本のページは進んでいない。指先が同じ角を何度も撫でている。
「こんにちは、瀬野さん」
「……ああ」
返事が短くなった分だけ、俺は椅子を引く音を小さくした。
「何か、困ったことはあるか」
その一度きりの確認に、ミユウは少し考え、紙コップを両手で包んだ。
「夜、廊下の足音が多いと、目が覚めます。でも、看護師さんが声をかけてくださるので」
「困ったことがあれば、受付でも看護師でも、俺でもいい」
言ってから、近すぎたかと思った。
けれどミユウは紙コップの縁を見つめたまま、小さく頷いた。
「瀬野さんは」
「俺?」
「怖くないんですか。あの人が、まだ捕まっていないこと」
俺は窓の外へ視線を向けた。
怖くないわけがない。刃物を持った人間が、星雲市内に逃げている。理屈だけなら、警察と警備に任せるべきだ。学生ができることなど限られている。
だが、心の底では別の答えが出ていた。
俺は、あの男が怖いんじゃない。
ミユウを失うことが怖い。
「怖い」
ミユウが顔を上げた。
「でも、怖いから逃げるのと、怖いから守るのは違う」
「……瀬野さんらしいですね」
「俺を知らないのに、そういうことは言うんだな」
「あ」
ミユウは困ったように目を伏せた。
「すみません。どうしてそう思ったのか、自分でも分かりません」
「謝ることじゃない」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
癒されたはずの傷ではない。もっと面倒で、もっと治しにくい場所だった。
三日目、病院棟の独特な匂いが、入口をくぐる前から鼻に残るようになっていた。
医療スタッフの許可を得て、ミユウは病院棟内の待合スペースまで出ることになった。車椅子は使わず、歩ける範囲でゆっくり歩く。廊下の曲がり角で人の流れが重なるたび、俺の足は彼女より半歩前に出かけた。
出すぎるな。
そう思って歩幅を戻すと、スリッパの音が俺の靴音の少し後ろについた。窓から入る風がカーテンの端を揺らし、ミユウの銀色の髪が頬にかかる。
「ここから、外がよく見えるんですね」
ミユウが窓の前で立ち止まった。
病院棟の中庭が見え、植え込みの葉が風で揺れている。彼女の横顔が光を受け、俺は一瞬、何かを思い出したのかと期待しかけた。
その期待を見られたくなくて、俺は窓に映る自分の顔へ目を移した。
「眩しければ、少し離れる」
「いえ。……知らない場所なのに、変な感じがしただけです」
龍夜、と呼ぶ声は戻らない。
俺は返事の代わりに、近くのベンチとの距離を測った。
その後、待合室のテレビがまた速報を流した。
『星雲市内で逃走中の刃物を持った不審者について、警察は周辺の警戒を強めています。男は星雲大学病院棟付近から逃走したとみられ、現在も確保には至っていません』
待合スペースの空気が、音を立てずに変わった。
受付のざわめきが低く広がり、椅子の金属部分に蛍光灯の光が反射する。ミユウの膝の上の手が動いた。指先が互いを探るように絡まり、呼吸が浅くなっていく。視線はテレビと入口の間を揺れ、唇が何かを言いかけた形のまま止まった。
俺は言葉を探した。
今の彼女にとって、俺はただの知人に近い存在だ。踏み込みすぎれば、その距離を壊す。怯えているからといって、勝手に抱き寄せていいわけじゃない。
けれど、頭が選び終える前に、身体が動いていた。
俺は椅子一つ分の距離を詰め、彼女の視線の先に立った。抱きしめる代わりに、テレビと入口を遮るように立つ。逃げ道は塞がない。触れもしない。ただ、彼女が顔を上げた時、そこに俺がいるようにした。
「ミユウ」
名前を呼んだ瞬間、彼女の肩が揺れた。
俺を覚えていない目が、俺を見上げる。
痛いほど他人行儀で、痛いほど頼りない目だった。
「怖いなら、俺を見てろ」
「……瀬野さん」
「入口じゃない。テレビでもない。あの男のことでもない。俺を見てろ」
言葉が強くなりすぎた。
けれど、もう引っ込めなかった。
「お前を傷つけるものを、俺は許さない」
ミユウの指先から、少しだけ力が抜けた。
俺は声を落とした。
「大丈夫だ、俺が守る」
告白のような響きにはしたくなかった。ただ、言葉を選び損ねた沈黙の底から、それだけが零れた。
ミユウは記憶を取り戻していない。
俺のことを、まだ「瀬野さん」と呼ぶ。
彼女の腕が俺の背中へ回ることもない。昔みたいに袖を引くことも、龍夜と呼んで笑うこともない。
それでも、待合室の白い光の下で、ミユウはゆっくり息を吸った。
「……はい」
小さな返事だった。
けれど、その一音で十分だった。
責任感じゃない。過去への埋め合わせでもない。ただの配慮でも、知人としての義務でもない。
俺は、この人を守りたいと思っている。
その名前が恋だと気づいた時、ミユウの記憶は戻らず、世界は何一つ都合よく変わらなかった。
それでも俺は、彼女の前に立っていた。
今度こそ、失わないために。
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