第7話 桜守
「あなたはどうしてそんな目でわたしを見るんですか?」
桜並木の下で、ミユウ・ルミナスは俺を見上げていた。
肩に落ちた花びらを指先でつまみ、白い制服の袖からそっと払う。その仕草に見覚えがあるはずなのに、今の彼女の目には俺が映っていない。いや、映ってはいる。ただ、知らない相手を見る距離で、丁寧に、礼儀正しく、俺を確かめている。
「……変な目をしていたなら、すまない」
喉の奥で引っかかった言葉を、どうにか別の形に変えた。
本当は、名前を呼びたかった。
事故前のように、ため息交じりに、少しぶっきらぼうに。けれど、舌先まで出かかった音は唇の裏で止まり、代わりに息だけが薄く漏れた。
心拍数が上がっている。
これは生理現象だ。事故現場に居合わせた人間として、記憶を失った知人を前にしているなら当然の反応だ。恋愛感情ではない。交感神経が優位になっているだけで、医学的には説明がつく。
そう言い聞かせた直後、右手のスマホが指の間から滑りかけた。
「わっ」
ミユウが小さく声を上げるより早く、俺は胸の前でスマホを挟み込んだ。画面が制服のボタンに当たり、こつん、と間抜けな音がした。
「……問題ない」
「いま、落としそうでしたよね?」
「重力の確認だ」
「え?」
「いや、忘れてくれ」
ミユウは首をかしげたあと、少しだけ口元をゆるめた。
事故前なら、そこから俺の袖を引き、容赦なく追及してきたはずだ。けれど今は、それ以上踏み込んでこない。俺の隣ではなく、半歩分空いた場所を選んで歩き出す。
桜の枝が風に揺れ、花びらが俺たちの間に落ちた。
「さっき読んでいた本に、こういう場面があったんです。桜の下で、主人公が相手の気持ちに気づくんですけど、本人だけは最後まで認めないんです」
「……ずいぶん効率の悪い主人公だな」
「でも、そこがいいんだと思います。本人は真面目に否定しているのに、周りから見ると全部伝わってしまうんです」
ミユウの横顔が、桜色の光の中でふっと近づいた。歩幅が偶然そろっただけだ。たったそれだけで、胸の奥が一拍遅れて跳ねる。
心拍数が上がっている。
これは歩行による軽度の負荷と、外気温の変化によるものだ。恋愛感情ではない。ないはずだ。
「瀬野さん?」
名前に、指先が止まった。
瀬野さん。
事故前にはなかった距離が、丁寧な敬称になって耳に届く。
俺は足元の花びらを避けようとして、逆に踏み損ねた。靴底が舗装路をこすり、半歩だけ体勢が崩れる。
「大丈夫ですか?」
「桜が多い。視界情報が増えると、足元への注意が分散する」
「瀬野さんって、そういうふうに考える方なんですね」
「……たぶん」
自分でも、返事が半拍遅れたのが分かった。
そのとき、手の中のスマホが短く震えた。
画面に星雲大学の一斉通達メールが表示される。件名を見ただけで、背中に風とは違う冷たさが走った。
『学園近辺で刃物を持った人物が目撃されています。病院棟、全学生、教職員は周囲を確認し、単独行動を避けてください』
桜の匂いに、消毒液の残り香が混じったような気がした。
「何かありましたか?」
ミユウの声に、俺は画面を伏せる前に一度周囲を見た。
桜並木の向こうには病院棟の白い外壁があり、入口には医療スタッフが数人いる。ベンチ、植え込み、非常口へ続く通路。人の流れ。逃げるなら病院棟の自動扉が近い。
「大学からの注意喚起だ。少し早めに戻る」
「はい」
ミユウは理由を深く聞かず、素直に歩幅を合わせた。
その素直さが、かえって胸に刺さった。
病室に戻ると、白い光がカーテン越しに床へ落ちていた。
消毒液の匂い、ベッド柵に触れた手の冷たさ、心拍を示す電子音。スリッパの底が床に触れるたび、薄い音が病室の端まで滑っていく。
ミユウはベッドの上に腰を下ろし、膝に置いていた本を両手でそろえた。花瓶の水には、窓から入った光が細く揺れている。
「今日は、桜がよく見えたな」
「はい。綺麗でした」
その一言で、俺は続きを探せなくなった。
前なら、ミユウは桜の枝を見上げて笑い、俺の袖を引いた。こっちです、と言って、勝手に歩幅を詰めてきた。
今はベッドの端と椅子の間に、面会札の紐一本では埋められない距離がある。
「その本、面白いのか」
「はい。まだ少ししか読めていませんけど、主人公が不器用で」
「……そうか」
「瀬野さんに、少し似ているかもしれません」
椅子の脚が床にこすれた。
座る位置を変えただけなのに、音が大きく聞こえた。
俺は、違う、と言いかけた。
俺はお前にとって、ただの知人じゃなかった。
そう言いかけて、舌の奥に押し戻す。
「無理に話さなくていい」
選び直した言葉は、少し乾いていた。
ミユウは本の角を指でなぞり、視線を窓の外へ逃がした。桜の枝が病室の窓にかかっている。花びらが一枚、ガラスに触れて落ちていった。
「瀬野さんは、毎日来てくださるんですね」
「講義の後に、病院棟へ寄る用事がある」
「用事、ですか」
「……面会も、その一つだ」
面会札のプラスチックが胸元で揺れ、制服に当たった。かすかな音がして、俺はそれを手で押さえる。
記憶障害は事故後に起こりうる。今ここで取り乱す意味はない。
俺はただの知人として振る舞えばいい。今のミユウを刺激しないことが最優先だ。
頭の中では整っているはずの文が、指先まで降りてこない。
ドアノブに触れたときも、俺の手はわずかに遅れた。
講義室に戻ると、蛍光灯の光が白い机の列を均等に照らしていた。紙の匂いと、誰かのペンが走る音。教授の声は耳に届いているのに、教科書の文字が行ごとに浮いて見える。
ノートの同じ場所を、ペン先が何度もなぞった。
気づいたときには、そこだけ黒く潰れている。
「瀬野、今日ずっと病院棟の方を見てないか」
隣の席のクラスメイトが、小声で言った。
「見ていない」
「いや、今も見てたぞ」
「窓の外の採光条件を確認していただけだ」
「採光条件をノートに書く授業だったか?」
俺はペンを止めた。インクが紙に少し滲む。
スマホが机の端で震えるたび、指が勝手に動いた。大学の連絡、学食の通知、講義資料の更新。ミユウの病室に関係ないと分かるたび、画面を伏せる。
「通知のたびに反応してるけど、何かあったのか」
「一斉通達が出ている。学園近辺で不審者の目撃情報だ」
「それだけか?」
「それだけだ」
声は普段どおりに出したつもりだった。
けれど、机の下でスマホを握る指に力が入り、画面の角が手のひらに食い込んだ。
講義が終わると、俺は教科書を鞄に入れた。ペンケースのファスナーが途中で引っかかり、もう一度閉め直す。
廊下へ出ると、床の冷たさが靴底越しに伝わった。
病院棟へ向かう通路は、講義棟より光が白い。処置室の扉の前を通ると、薬品の匂いがわずかに濃くなる。ナースステーションの奥では、スタッフの声と端末の操作音が重なっていた。
受付で面会札を受け取る。
プラスチックの角を指で確かめると、スマホの暗い画面に自分の顔が映った。目元に余計な力が入っている。
病室の前で、俺は毎回言葉を選ぶ。
今日は、桜がよく見える。
その本、面白いのか。
俺のことは、思い出そうとしなくていい。
困ったことがあれば、受付でも看護師でも、俺でもいい。
どれも口に出す直前で形が変わり、結局、ノックの音だけが先に出る。
「どうぞ」
扉を開けると、ミユウはいつも丁寧に頭を下げた。
「瀬野さん。今日もありがとうございます」
「……ああ」
瀬野さん、と呼ばれるたび、呼吸の間隔がずれる。
訂正しない。
訂正できない。
今の彼女にとって自然な距離を、俺の都合で壊すわけにはいかない。
数日が過ぎた。
講義後に鞄をまとめ、廊下を歩き、受付で面会札を受け取り、病室の前で言葉を選ぶ。その繰り返しの中で、ミユウは俺を避けることはしなかった。
けれど、近づきもしなかった。
ある午後、医療スタッフの許可が出て、俺はミユウを星雲大学敷地内の桜並木へ連れていくことになった。
長く歩かせないよう、車椅子を使う。ハンドルを握る手に力を入れすぎないようにしながら、段差の前で速度を落とした。
「そんなに慎重にしなくても、大丈夫ですよ」
「段差がある」
「今の段差、ほとんどありませんでした」
「ほとんどある」
ミユウが振り返り、目を丸くしたあと、ほんの少し笑った。
風が吹き、彼女の肩に桜の花びらが落ちる。
払おうとして、俺の手は途中で止まった。
事故前なら、何も考えずに払っていたかもしれない。今は、触れる前に許可が必要だ。
「肩に、花びらが」
「あ、本当ですね」
ミユウは自分でつまみ、指先に乗せて眺めた。
その横顔に、短い記憶が重なる。
袖を引く手。
桜を見上げる笑顔。
近すぎる歩幅。
俺が文句を言う前に、もう隣にいた声。
車椅子のハンドルを握る指が、わずかに固まった。
桜並木の中央で、ミユウは花びらを見たまま動きを止めた。何かを探すように、枝の間の空を見上げている。
俺は、息を止めかけた。
「……何か、思い出したのか」
言った瞬間、早すぎたと分かった。
ミユウはゆっくり俺を見上げ、申し訳なさそうに首を振った。
「いえ。ただ、綺麗だと思っただけです」
「そうか」
期待しかけた自分に気づき、俺は目を逸らした。
病院棟の入口までの距離を測る。ベンチが二つ、植え込みが一列。自動扉の前に医療スタッフがいる。
そのとき、遠くから足音が響いた。
一定ではない。
舗装路を乱暴に踏みつける音が、桜並木の奥からこちらへ近づいてくる。誰かが息をのむ気配がして、人の流れが一瞬だけ止まった。
風に混じって、硬いものが擦れる音が鳴る。
視界の端で、男の手元が光った。
刃物。
ミユウの指が、膝の上の布を掴んだ。車椅子の小さな揺れが、俺の手のひらに伝わる。
俺は、考えるより先に前へ出ていた。
車椅子と男の間に、自分の身体を置く。
逃げ道。
距離。
男の肩の傾き。
刃物を握る手の高さ。
周囲の学生。
病院棟の入口。
警備員が駆けつけるまでの時間。
全部、視界の中で線になった。
「ミユウ、下を向くな」
声は低く出た。
「俺だけ見てろ」
男が叫んだ。
言葉の意味は聞き取れない。聞き取る必要もない。刃物を持った手が、こちらへ向かって乱暴に振り上がる。
周囲が遅くなった。
桜の花びらが、男の肩の横を流れる。
俺は半歩だけ踏み込んだ。
逃げるためじゃない。
守るためでも、耐えるためでもない。
終わらせるためだ。
刃先が制服の袖をかすめた。
普通の生地なら裂けていた角度だった。けれど、星雲大学の制服は違う。式典用の見た目をしていても、派手に動いても破れにくい特殊生地が内側に仕込まれている。
金属が布に弾かれ、乾いた音を立てた。
男の目が見開かれる。
その一瞬で十分だった。
俺は腕を払った。
力任せではない。
刃物を持つ手首の勢いを殺し、身体の向きをずらし、男の重心だけを桜の敷き詰められた地面へ落とす。
白い花びらが跳ねた。
男の肩が舗装路に沈む。刃物が手から離れ、桜の根元まで滑った。
金属音が鳴るより早く、俺は足先でそれを遠ざけた。
警備員が走ってくる。
医療スタッフの声が重なる。
誰かが短く悲鳴を上げ、誰かが「下がって!」と叫ぶ。
俺は男の動きを封じたまま、視線だけでミユウを確認した。
車椅子は動いていない。
彼女は両手を胸元で握り、俺を見ている。
その目に、知らない相手を見る距離はもうなかった。
俺は息を吐いた。
「病院棟入口、桜並木側。不審者確保。刃物は離れた。周囲を下げてください」
自分の声が、やけに冷静に聞こえた。
警備員が男を押さえ、スタッフが刃物の位置を確認する。学生たちが病院棟側へ誘導されていく。ざわめきが桜並木を満たし、踏まれた花びらが靴底に貼りついていた。
終わった。
そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。
「……っ」
息が一拍、抜けた。
俺は胸元を押さえた。
制服の内側で、心臓が乱暴に跳ねている。さっきの踏み込みで、身体に余計な負荷をかけた。分かっていた。分かっていて、無視した。
膝が落ちる。
桜の花びらが、視界の下で揺れた。
「瀬野さん……?」
ミユウの声が震えた。
俺は片膝をついたまま、どうにか顔を上げる。平気な顔を作ろうとした。いつものように、何も問題ないと言えば済むはずだった。
だが、指先が胸元の布を掴んだまま離れない。
「……だ、大丈夫。計算内だ」
声がかすれた。
まったく計算内ではなかった。
制服は破れていない。
刃物も届いていない。
男はもう押さえられている。
それでも、身体は隠しきれないほど正直に震えていた。
ミユウが車椅子の上で身を乗り出す。膝の上に残っていた桜の花びらが、床へ落ちた。
「瀬野さん!」
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