表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
7/12

第7話 桜守

「あなたはどうしてそんな目でわたしを見るんですか?」


 桜並木の下で、ミユウ・ルミナスは俺を見上げていた。


 肩に落ちた花びらを指先でつまみ、白い制服の袖からそっと払う。その仕草に見覚えがあるはずなのに、今の彼女の目には俺が映っていない。いや、映ってはいる。ただ、知らない相手を見る距離で、丁寧に、礼儀正しく、俺を確かめている。


「……変な目をしていたなら、すまない」


 喉の奥で引っかかった言葉を、どうにか別の形に変えた。


 本当は、名前を呼びたかった。


 事故前のように、ため息交じりに、少しぶっきらぼうに。けれど、舌先まで出かかった音は唇の裏で止まり、代わりに息だけが薄く漏れた。


 心拍数が上がっている。


 これは生理現象だ。事故現場に居合わせた人間として、記憶を失った知人を前にしているなら当然の反応だ。恋愛感情ではない。交感神経が優位になっているだけで、医学的には説明がつく。


 そう言い聞かせた直後、右手のスマホが指の間から滑りかけた。


「わっ」


 ミユウが小さく声を上げるより早く、俺は胸の前でスマホを挟み込んだ。画面が制服のボタンに当たり、こつん、と間抜けな音がした。


「……問題ない」


「いま、落としそうでしたよね?」


「重力の確認だ」


「え?」


「いや、忘れてくれ」


 ミユウは首をかしげたあと、少しだけ口元をゆるめた。


 事故前なら、そこから俺の袖を引き、容赦なく追及してきたはずだ。けれど今は、それ以上踏み込んでこない。俺の隣ではなく、半歩分空いた場所を選んで歩き出す。


 桜の枝が風に揺れ、花びらが俺たちの間に落ちた。


「さっき読んでいた本に、こういう場面があったんです。桜の下で、主人公が相手の気持ちに気づくんですけど、本人だけは最後まで認めないんです」


「……ずいぶん効率の悪い主人公だな」


「でも、そこがいいんだと思います。本人は真面目に否定しているのに、周りから見ると全部伝わってしまうんです」


 ミユウの横顔が、桜色の光の中でふっと近づいた。歩幅が偶然そろっただけだ。たったそれだけで、胸の奥が一拍遅れて跳ねる。


 心拍数が上がっている。


 これは歩行による軽度の負荷と、外気温の変化によるものだ。恋愛感情ではない。ないはずだ。


「瀬野さん?」


 名前に、指先が止まった。


 瀬野さん。


 事故前にはなかった距離が、丁寧な敬称になって耳に届く。


 俺は足元の花びらを避けようとして、逆に踏み損ねた。靴底が舗装路をこすり、半歩だけ体勢が崩れる。


「大丈夫ですか?」


「桜が多い。視界情報が増えると、足元への注意が分散する」


「瀬野さんって、そういうふうに考える方なんですね」


「……たぶん」


 自分でも、返事が半拍遅れたのが分かった。


 そのとき、手の中のスマホが短く震えた。


 画面に星雲大学の一斉通達メールが表示される。件名を見ただけで、背中に風とは違う冷たさが走った。


『学園近辺で刃物を持った人物が目撃されています。病院棟、全学生、教職員は周囲を確認し、単独行動を避けてください』


 桜の匂いに、消毒液の残り香が混じったような気がした。


「何かありましたか?」


 ミユウの声に、俺は画面を伏せる前に一度周囲を見た。


 桜並木の向こうには病院棟の白い外壁があり、入口には医療スタッフが数人いる。ベンチ、植え込み、非常口へ続く通路。人の流れ。逃げるなら病院棟の自動扉が近い。


「大学からの注意喚起だ。少し早めに戻る」


「はい」


 ミユウは理由を深く聞かず、素直に歩幅を合わせた。


 その素直さが、かえって胸に刺さった。


 病室に戻ると、白い光がカーテン越しに床へ落ちていた。


 消毒液の匂い、ベッド柵に触れた手の冷たさ、心拍を示す電子音。スリッパの底が床に触れるたび、薄い音が病室の端まで滑っていく。


 ミユウはベッドの上に腰を下ろし、膝に置いていた本を両手でそろえた。花瓶の水には、窓から入った光が細く揺れている。


「今日は、桜がよく見えたな」


「はい。綺麗でした」


 その一言で、俺は続きを探せなくなった。


 前なら、ミユウは桜の枝を見上げて笑い、俺の袖を引いた。こっちです、と言って、勝手に歩幅を詰めてきた。


 今はベッドの端と椅子の間に、面会札の紐一本では埋められない距離がある。


「その本、面白いのか」


「はい。まだ少ししか読めていませんけど、主人公が不器用で」


「……そうか」


「瀬野さんに、少し似ているかもしれません」


 椅子の脚が床にこすれた。


 座る位置を変えただけなのに、音が大きく聞こえた。


 俺は、違う、と言いかけた。


 俺はお前にとって、ただの知人じゃなかった。


 そう言いかけて、舌の奥に押し戻す。


「無理に話さなくていい」


 選び直した言葉は、少し乾いていた。


 ミユウは本の角を指でなぞり、視線を窓の外へ逃がした。桜の枝が病室の窓にかかっている。花びらが一枚、ガラスに触れて落ちていった。


「瀬野さんは、毎日来てくださるんですね」


「講義の後に、病院棟へ寄る用事がある」


「用事、ですか」


「……面会も、その一つだ」


 面会札のプラスチックが胸元で揺れ、制服に当たった。かすかな音がして、俺はそれを手で押さえる。


 記憶障害は事故後に起こりうる。今ここで取り乱す意味はない。


 俺はただの知人として振る舞えばいい。今のミユウを刺激しないことが最優先だ。


 頭の中では整っているはずの文が、指先まで降りてこない。


 ドアノブに触れたときも、俺の手はわずかに遅れた。


 講義室に戻ると、蛍光灯の光が白い机の列を均等に照らしていた。紙の匂いと、誰かのペンが走る音。教授の声は耳に届いているのに、教科書の文字が行ごとに浮いて見える。


 ノートの同じ場所を、ペン先が何度もなぞった。


 気づいたときには、そこだけ黒く潰れている。


「瀬野、今日ずっと病院棟の方を見てないか」


 隣の席のクラスメイトが、小声で言った。


「見ていない」


「いや、今も見てたぞ」


「窓の外の採光条件を確認していただけだ」


「採光条件をノートに書く授業だったか?」


 俺はペンを止めた。インクが紙に少し滲む。


 スマホが机の端で震えるたび、指が勝手に動いた。大学の連絡、学食の通知、講義資料の更新。ミユウの病室に関係ないと分かるたび、画面を伏せる。


「通知のたびに反応してるけど、何かあったのか」


「一斉通達が出ている。学園近辺で不審者の目撃情報だ」


「それだけか?」


「それだけだ」


 声は普段どおりに出したつもりだった。


 けれど、机の下でスマホを握る指に力が入り、画面の角が手のひらに食い込んだ。


 講義が終わると、俺は教科書を鞄に入れた。ペンケースのファスナーが途中で引っかかり、もう一度閉め直す。


 廊下へ出ると、床の冷たさが靴底越しに伝わった。


 病院棟へ向かう通路は、講義棟より光が白い。処置室の扉の前を通ると、薬品の匂いがわずかに濃くなる。ナースステーションの奥では、スタッフの声と端末の操作音が重なっていた。


 受付で面会札を受け取る。


 プラスチックの角を指で確かめると、スマホの暗い画面に自分の顔が映った。目元に余計な力が入っている。


 病室の前で、俺は毎回言葉を選ぶ。


 今日は、桜がよく見える。


 その本、面白いのか。


 俺のことは、思い出そうとしなくていい。


 困ったことがあれば、受付でも看護師でも、俺でもいい。


 どれも口に出す直前で形が変わり、結局、ノックの音だけが先に出る。


「どうぞ」


 扉を開けると、ミユウはいつも丁寧に頭を下げた。


「瀬野さん。今日もありがとうございます」


「……ああ」


 瀬野さん、と呼ばれるたび、呼吸の間隔がずれる。


 訂正しない。


 訂正できない。


 今の彼女にとって自然な距離を、俺の都合で壊すわけにはいかない。


 数日が過ぎた。


 講義後に鞄をまとめ、廊下を歩き、受付で面会札を受け取り、病室の前で言葉を選ぶ。その繰り返しの中で、ミユウは俺を避けることはしなかった。


 けれど、近づきもしなかった。


 ある午後、医療スタッフの許可が出て、俺はミユウを星雲大学敷地内の桜並木へ連れていくことになった。


 長く歩かせないよう、車椅子を使う。ハンドルを握る手に力を入れすぎないようにしながら、段差の前で速度を落とした。


「そんなに慎重にしなくても、大丈夫ですよ」


「段差がある」


「今の段差、ほとんどありませんでした」


「ほとんどある」


 ミユウが振り返り、目を丸くしたあと、ほんの少し笑った。


 風が吹き、彼女の肩に桜の花びらが落ちる。


 払おうとして、俺の手は途中で止まった。


 事故前なら、何も考えずに払っていたかもしれない。今は、触れる前に許可が必要だ。


「肩に、花びらが」


「あ、本当ですね」


 ミユウは自分でつまみ、指先に乗せて眺めた。


 その横顔に、短い記憶が重なる。


 袖を引く手。


 桜を見上げる笑顔。


 近すぎる歩幅。


 俺が文句を言う前に、もう隣にいた声。


 車椅子のハンドルを握る指が、わずかに固まった。


 桜並木の中央で、ミユウは花びらを見たまま動きを止めた。何かを探すように、枝の間の空を見上げている。


 俺は、息を止めかけた。


「……何か、思い出したのか」


 言った瞬間、早すぎたと分かった。


 ミユウはゆっくり俺を見上げ、申し訳なさそうに首を振った。


「いえ。ただ、綺麗だと思っただけです」


「そうか」


 期待しかけた自分に気づき、俺は目を逸らした。


 病院棟の入口までの距離を測る。ベンチが二つ、植え込みが一列。自動扉の前に医療スタッフがいる。


 そのとき、遠くから足音が響いた。


 一定ではない。


 舗装路を乱暴に踏みつける音が、桜並木の奥からこちらへ近づいてくる。誰かが息をのむ気配がして、人の流れが一瞬だけ止まった。


 風に混じって、硬いものが擦れる音が鳴る。


 視界の端で、男の手元が光った。


 刃物。


 ミユウの指が、膝の上の布を掴んだ。車椅子の小さな揺れが、俺の手のひらに伝わる。


 俺は、考えるより先に前へ出ていた。


 車椅子と男の間に、自分の身体を置く。


 逃げ道。


 距離。


 男の肩の傾き。


 刃物を握る手の高さ。


 周囲の学生。


 病院棟の入口。


 警備員が駆けつけるまでの時間。


 全部、視界の中で線になった。


「ミユウ、下を向くな」


 声は低く出た。


「俺だけ見てろ」


 男が叫んだ。


 言葉の意味は聞き取れない。聞き取る必要もない。刃物を持った手が、こちらへ向かって乱暴に振り上がる。


 周囲が遅くなった。


 桜の花びらが、男の肩の横を流れる。


 俺は半歩だけ踏み込んだ。


 逃げるためじゃない。


 守るためでも、耐えるためでもない。


 終わらせるためだ。


 刃先が制服の袖をかすめた。


 普通の生地なら裂けていた角度だった。けれど、星雲大学の制服は違う。式典用の見た目をしていても、派手に動いても破れにくい特殊生地が内側に仕込まれている。


 金属が布に弾かれ、乾いた音を立てた。


 男の目が見開かれる。


 その一瞬で十分だった。


 俺は腕を払った。


 力任せではない。


 刃物を持つ手首の勢いを殺し、身体の向きをずらし、男の重心だけを桜の敷き詰められた地面へ落とす。


 白い花びらが跳ねた。


 男の肩が舗装路に沈む。刃物が手から離れ、桜の根元まで滑った。


 金属音が鳴るより早く、俺は足先でそれを遠ざけた。


 警備員が走ってくる。


 医療スタッフの声が重なる。


 誰かが短く悲鳴を上げ、誰かが「下がって!」と叫ぶ。


 俺は男の動きを封じたまま、視線だけでミユウを確認した。


 車椅子は動いていない。


 彼女は両手を胸元で握り、俺を見ている。


 その目に、知らない相手を見る距離はもうなかった。


 俺は息を吐いた。


「病院棟入口、桜並木側。不審者確保。刃物は離れた。周囲を下げてください」


 自分の声が、やけに冷静に聞こえた。


 警備員が男を押さえ、スタッフが刃物の位置を確認する。学生たちが病院棟側へ誘導されていく。ざわめきが桜並木を満たし、踏まれた花びらが靴底に貼りついていた。


 終わった。


 そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。


「……っ」


 息が一拍、抜けた。


 俺は胸元を押さえた。


 制服の内側で、心臓が乱暴に跳ねている。さっきの踏み込みで、身体に余計な負荷をかけた。分かっていた。分かっていて、無視した。


 膝が落ちる。


 桜の花びらが、視界の下で揺れた。


「瀬野さん……?」


 ミユウの声が震えた。


 俺は片膝をついたまま、どうにか顔を上げる。平気な顔を作ろうとした。いつものように、何も問題ないと言えば済むはずだった。


 だが、指先が胸元の布を掴んだまま離れない。


「……だ、大丈夫。計算内だ」


 声がかすれた。


 まったく計算内ではなかった。


 制服は破れていない。


 刃物も届いていない。


 男はもう押さえられている。


 それでも、身体は隠しきれないほど正直に震えていた。


 ミユウが車椅子の上で身を乗り出す。膝の上に残っていた桜の花びらが、床へ落ちた。


「瀬野さん!」

ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら是非評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ