第6話 視線
「あなた、どちら様ですか?」
ミユウの声は、白い病室の光に薄く溶けた。
俺は一瞬、その言葉を脳のどこかで別の意味に変換しようとした。冗談だ。寝起きで頭がぼんやりしているだけだ。事故の直後で、相手を確認するために形式的に聞いただけだ。
そう処理しようとしたのに、喉の奥が細く詰まり、指先から体温が抜けた。耳の内側で心拍を示す電子音がやけに大きく響き、視線はミユウの瞳ではなく、彼女がつかんでいる布団の端に落ちた。
足元のスリッパの底が、床に小さく擦れる。
「……瀬野龍夜だ」
名乗った声は、普段より半音ほど上擦っていた。
ミユウは枕に背を預けたまま、長い銀髪を肩の前に流し、丁寧に瞬きをした。消毒液の匂いが薄く漂う病室で、彼女の指は布団の端をきゅっとつかんだまま離れない。
「瀬野、龍夜さん……ですか」
「ああ」
「すみません。私、失礼なことを言ってしまいましたか?」
事故の前なら、彼女は俺の名前を呼ぶ前に、もっと近くへ身を乗り出していた。こちらの袖を引き、困ったように笑って、それから俺の反応を待たずに次の言葉を重ねていた。
今のミユウは違った。
ベッド柵の向こう側で、知らない人間を見る目をしている。礼儀正しく、乱れてはいない。けれど、俺と彼女の間には、病室の床一枚分では測れない距離があった。
医療スタッフがベッドの横に立ち、やわらかい声で確認を続けた。
「お名前は言えますか」
「ミユウ・ルミナスです」
「ここがどこかは分かりますか」
ミユウは視線を天井へ向け、カーテンが空調で揺れるのを見たあと、ゆっくり首を横に振った。
「病院、だとは思います。でも、どうしてここにいるのかは……」
「星雲大学に来た理由は覚えていますか」
「星雲大学……」
その言葉を口の中で確かめるように繰り返したミユウは、眉をわずかに寄せた。俺は一歩前へ出そうになり、靴底が床を押す直前で止めた。
説明したい。
おまえはイタリアから帰ってきた。星雲大学普通科に転校してきた。俺と出会って、桜を見て、病院棟に来て、事故に巻き込まれて――。
舌の上まで出かけた言葉を、奥歯で止める。
記憶障害は事故後に起こりうる。本人の前で周囲が強く思い出させようとすれば、負担になる可能性がある。今ここで俺が取り乱しても、医学部生として役に立つことは一つもない。
俺はただの知人として振る舞えばいい。
ただの知人。
その単語を内心で三回繰り返したところで、スマホを握る手に力が入りすぎて、ケースがぎしりと鳴った。
「イタリアから帰ってきた前後のことは?」
「……分かりません。私、イタリアにいたんですか?」
ミユウの声に、電子音が一定の間隔で重なる。
俺は息を吸い、吐く時間をいつもより長く取った。心拍数が上がっている。これは生理現象だ。恋愛感情ではない。事故現場に居合わせた人間として当然の反応だ。瀬野龍夜、医学部一年主席として、ここは冷静に――。
スマホが手の中で滑り、俺は慌てて両手で受け止めた。
医療スタッフの視線が一瞬だけこちらに向いた。
「すみません」
小さく頭を下げ、俺はベッドからさらに一歩下がった。ドアの近くまで移動すると、ノブに触れた指先が金属の冷たさを拾い、ようやく自分が入口側に逃げたことに気づいた。
ミユウは俺を見ていた。
俺を知らない目で。
「瀬野さんは、私の知り合いなんですか?」
呼び方を選ぶための沈黙が、病室の白い光の中で伸びた。
「……ああ。少し、話したことがある」
「そう、なんですね」
ミユウは丁寧にうなずいた。それ以上、こちらへ踏み込んでこなかった。
俺はその距離に合わせるしかなかった。
◇
講義室の蛍光灯はいつもより白く、机に広げた紙から乾いた匂いがした。
俺はノートを取っているはずだった。教授の声も聞こえている。ペン先は紙の上を動いている。だが、行が途中から斜めにずれ、同じ単語の上を黒い線で何度もなぞっていた。
教科書の文字が、目の表面を滑っていく。
窓の外には、星雲大学病院棟が見えた。ガラス張りの渡り廊下の奥、白い外壁が午後の光を受けている。俺は視線をノートに戻し、三秒後にはまた窓を見ていた。
スマホが机の上で震えた。
指が反射で伸びる。画面を点ける。学部連絡の通知。関係ない。俺は画面を伏せ、伏せたスマホの黒い背面に自分の指先が映っているのを見て、ペンを持ち直した。
「首席さんよ」
隣の席から声が飛んできた。
「そんなにあの帰国子女さんが気になるのか」
俺はノートの端を指で押さえた。紙が少しよれる。
「事故後の経過確認として、知人が気にするのは自然だ」
「へえ」
「医学的にも、外傷後の記憶の混乱は珍しくない。だから俺は、必要な範囲で情報を確認しているだけだ」
「へえ」
同じ返事を二回されると、妙に腹が立つ。俺はペン先をノートに置き直したが、芯が同じ場所に引っかかって、小さな黒い点が増えた。
「それで、さっきからスマホ何回見た?」
「回数に意味はない」
「顔に出てるぞ」
「出ていない」
「声も出てる」
「出ていない」
言い返した瞬間、スマホがまた震えた。
俺の手は、返事より早く画面を拾っていた。今度は購買部の入荷通知だった。
隣のクラスメイトが、息だけで笑う。
俺は何も言わずにスマホを伏せた。蛍光灯の光が画面の縁で細く反射し、紙の匂いとインクの濃さだけが妙に鮮明だった。
◇
講義が終わると、俺は教科書を閉じ、ノートの角をそろえて鞄に入れた。普段なら一動作で済むはずの荷物整理に、今日は指が引っかかる。ペンケースのファスナーを閉め忘れ、慌てて戻す。スマホをポケットへ入れたあと、また取り出して画面を確認し、何も来ていないことを見てから再びしまう。
廊下へ出ると、大学棟の空気は紙と人の熱を含んでいて、病院棟へ続く渡り廊下に近づくほど消毒液の匂いが強くなった。
床は磨かれていて、スリッパではなく靴底でも冷たさが伝わる。処置室の扉の前を通ると、中から器具の触れ合う小さな音が聞こえ、ナースステーションの前では書類をめくる気配と電子音が重なっていた。
受付で面会札を受け取る。
薄いプラスチックの札は、指の腹に硬く当たった。首から下げると、胸の前で軽く揺れる。その札に印字された文字を見下ろすたび、自分が病室の外側の人間だと突きつけられる。
エレベーターの扉が閉まる直前、ステンレスの壁に映った俺の顔が見えた。
眉間に力が入っている。目つきも悪い。これでは見舞いではなく尋問だ。
俺は口角を少し上げてみた。
不自然だった。
すぐにやめた。
病室の前に立つと、蛍光灯の光がドアの小窓に反射し、俺の影が細く伸びた。ノックする前に、言葉を選ぶ。
体調はどうだ。
硬い。
俺のことは無理に思い出さなくていい。
重い。
何か困っていることはあるか。
医療面接みたいだ。
俺は額に手を当てかけ、面会札が胸元でこつんと鳴った。見舞いに来ただけだ。問診ではない。恋人面でもない。そもそも今の俺は、彼女にとって瀬野さんであって、龍夜ではない。
ノックを二回。
「どうぞ」
入ると、ミユウはベッドの上で上体を起こし、膝の上に置いた本を閉じた。窓際のカーテンが揺れ、桜色の光が白いシーツに薄く落ちている。
「こんにちは、瀬野さん」
「……ああ。体調はどうだ」
結局、一番硬い言葉が出た。
「昨日よりは、歩く練習ができました。病院の方が、少しずつでいいと」
「そうか」
沈黙が置かれる。
事故前のミユウなら、この沈黙を平気で飛び越えてきた。俺の顔をのぞき込み、何を考えているのかと聞き、こちらが答える前に勝手に答えを探していた。
今のミユウは、俺が次に話すのを待っている。礼儀正しく、距離を保ったまま。
俺はベッド柵の近くに立つのをやめ、椅子を少し離して腰を下ろした。金属の脚が床に触れ、短い音が鳴る。
「無理に思い出そうとしなくていい」
言ってから、喉の奥が硬くなった。
「はい。ありがとうございます」
ミユウはそう言って、丁寧に頭を下げた。
礼を言われるようなことではないのに、俺は頷くことしかできなかった。
◇
それから数日、俺は講義後に病院棟へ通った。
荷物をまとめ、廊下を歩き、受付で面会札を受け取り、ナースステーションの前を過ぎ、病室の前で一度止まる。毎回同じ手順なのに、ドアの前に立つたび言葉は作り直しになった。
今日は何を話す。
桜がまだ咲いている。
外の空気は少し冷たい。
歩く練習の話を聞く。
俺のことは聞かれたら最低限だけ答える。
面会札の角を指でなぞりながら、俺は自分に細かく命令を出した。距離を詰めすぎるな。目を見すぎるな。過去の話を押しつけるな。瀬野龍夜、患者ではない相手にも配慮しろ。いや、そもそも相手を患者としてだけ見るな。見舞いだ。見舞いとは何だ。医学書には載っていない。
頭の中で真面目すぎる説教が一周したところで、スマホの黒い画面に映る自分の顔がまた硬くなっているのに気づいた。
少し息を吐いてから、ノックした。
その日、医療スタッフの許可が下り、ミユウは星雲大学の敷地内を短い時間だけ歩けることになった。念のため車椅子も用意されたが、ミユウは病室の入口で手すりに指を添え、自分の足でゆっくり立った。
「無理はしなくていい」
言った直後、俺は言葉を足しそうになって止めた。
無理をするな。段差に気をつけろ。風がある。足元を見るな、逆に姿勢が崩れる。言いたいことが多すぎる。
「はい。少しだけ、歩いてみたいです」
ミユウはそう答えた。俺は横に立ち、近すぎない距離を測る。腕を出せば支えられるが、触れなければ彼女の領域を侵さない。そんな中途半端な位置を保ったまま、病院棟の自動ドアをくぐった。
外の光が目に刺さり、風が白衣ではない制服の袖を揺らした。
桜並木は、大学棟と病院棟の間に続いている。花びらは少し散り始めていて、舗装された道の端に薄く積もっていた。ミユウの肩に一枚、淡い花びらが落ちる。
俺の手が反射で伸びかけた。
取っていいのか。
いや、近い。
花びら一枚で動揺するな、瀬野龍夜。
手を引っ込めると、ミユウがこちらを見た。
「どうかしましたか」
「いや。花びらがついている」
「あ……」
ミユウは自分の肩を見て、指先でそっと花びらを取った。その仕草が、記憶の中の彼女と重なる。
事故の前、桜を見上げたミユウが、俺の袖を引いた。少し前へ出すぎた俺を引き止めて、見てください、と笑った。花びらが髪に乗っているのに気づかず、こちらの反応だけを待っていた。
風が吹き、今のミユウの銀髪が頬の横で揺れる。
記憶はそこで途切れた。目の前にいる彼女は、俺の袖を引かない。隣を歩く距離も、手が触れないだけの幅をきちんと残している。
道の小さな段差に差しかかり、俺は足元を見た。
「ここ、少し上がる」
「はい」
ミユウは慎重に足を運んだ。俺は肩に触れそうになった手を握り込み、制服の袖の中に隠した。過保護になりすぎるな。見守れ。必要なときだけ支えろ。頭では分かっているのに、風が吹くたび、足音が乱れるたび、胸の奥で電子音みたいなものが鳴る。
桜並木の中央で、ミユウが立ち止まった。
彼女はゆっくり顔を上げ、枝の間からこぼれる光を見た。薄い花びらがひとつ、彼女の前を通り過ぎていく。
「ここ……」
俺は息を止めた。
覚えているのか。
期待が先に立ち、俺の視線はミユウの横顔に貼りついた。彼女の睫毛が光を受けて細く影を落とし、唇が何かを探すように少し開く。
次の瞬間、自分の足元へ目を逸らした。
勝手に期待するな。
彼女は今、桜を見ているだけだ。俺を思い出す義務などない。俺が欲しい反応を、彼女に求めるな。
「綺麗ですね」
ミユウはそれだけを言った。
「……ああ」
「瀬野さんは、前にもここへ来たことがありますか」
その呼び方が、小さな棘みたいに引っかかった。
龍夜。
そう呼ばれていた時間は、確かにあった。距離が近くて、少し困って、でも突き放しきれなかった時間があった。
俺は訂正しなかった。
「ある。何度か」
「私も、来たことがあるんでしょうか」
ミユウは花びらを手のひらに乗せ、少し首を傾げた。
俺は答えを選んだ。全部は言わない。思い出させるための言葉にしない。今の彼女が受け取れる形だけを残す。
「たぶん、ある」
「たぶん?」
「俺の記憶では、ある」
ミユウは俺を見た。
その目に、ほんの少しだけ先ほどまでとは違う色が混じった気がした。距離はある。名前も呼び方も戻らない。それでも、彼女は俺から目を逸らさずにいた。
「瀬野さんは、変な言い方をするんですね」
「よく言われる」
「そうなんですか」
ミユウの口元が、ほんのわずかにやわらいだ。
俺は何か言いかけた。
前にも、そうやって笑っていた。
おまえは俺の袖を引いた。
俺は、おまえに――。
そこまで浮かんだ言葉を、喉の奥で止めた。風が吹き、桜の花びらが俺たちの間を抜けていく。病院棟へ戻る時間が近づき、面会札のプラスチックが胸元で冷たく揺れた。
ミユウは桜から俺へ視線を戻し、丁寧な声のまま、少しだけ踏み込むように言った。
「瀬野さんは、どうして私のことをそんな目で見るんですか?」
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