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第5話 欠落

 青信号の光が、大学前の横断歩道に薄く広がっていた。


 講義棟から流れてきた学生たちの足音に混じって、車道を走るトラックの重い音が耳の端を通り過ぎる。排気ガスの匂いが風に混じり、俺は歩道の白線の手前で、横に並んだミユウを見た。


 彼女はいつものように近かった。


 近すぎる、と言えば、たぶん少しだけ頬をふくらませる。袖を引くな、と言えば、反省した顔をして三秒後にはまた引く。そういうやり取りが、もう俺の中で面倒な日常として分類されかけていた。


 そのミユウの指が、俺の制服の袖をつまんだ。


「龍夜さん、あの……少しだけ、聞いてほしいことが――」


 声が、ブレーキ音に裂かれた。


 白い車体が視界の端で膨れ上がった。タイヤがアスファルトを削る音が横断歩道の上を走り、鼻の奥に焦げたゴムの匂いが突き刺さる。


 俺はミユウの手首をつかもうとした。


 指先は、袖のしわだけをつかんだ。


 鈍い衝突音が、信号機の電子音を押し潰した。


 ミユウの身体が横断歩道の白線の上で跳ね、銀色の髪が光をほどくように広がった。彼女のスマホが手から滑り落ち、歩道の縁に当たって画面を砕く。割れたガラスに赤へ変わった信号が映り、通知音だけが一度、場違いなほど軽く鳴った。


 俺の足は一瞬、地面に貼りついた。


 次の瞬間には、膝がアスファルトにぶつかっていた。痛みはあったはずなのに、皮膚のどこに当たったのか分からない。喉の奥が固まり、呼吸だけが浅く引っかかる。


「ミユウ」


 名前を呼んだ声が、自分のものに聞こえなかった。


 周囲がざわめく。誰かが悲鳴を上げ、誰かが車道へ出ようとし、トラックのドアが乱暴に開く音がした。俺はミユウの肩に伸ばしかけた手を止める。


 動かすな。


 今の俺にできることと、してはいけないことを間違えるな。


 医学部生だ。医師じゃない。習った知識を振りかざすな。けれど、何もしない理由にするな。


「救急車を呼んでください! 星雲大学正門前、横断歩道でトラックと歩行者の事故です!」


 声を張った途端、喉の内側が焼けた。


 近くの学生がスマホを取り出す。別の通行人がミユウへ手を伸ばしかけたのを見て、俺は顔だけ向けた。


「動かさないでください。車道に出る人は後続車に注意して。誰か、周りを空けてください」


 命令口調になった。普段なら言い方を選ぶところだ。今は、選んでいる間に何かがこぼれ落ちる気がした。


 ミユウの顔の横に手をつき、俺は口元へ頬を近づける。薄い呼吸が触れた。胸の上下は小さい。小さすぎて、数え間違えたくなった。


「ミユウ。聞こえるか。俺だ。瀬野龍夜だ」


 まつげがわずかに震えた。返事ではない。けれど、俺はその震えに縋りつくみたいに、もう一度名前を呼んだ。


「ミユウ、目を開けろ。開けなくてもいい、聞こえているなら……」


 言葉が途中で折れた。


 聞こえているなら、何だ。


 返事をしろ、と言える状態じゃない。動け、と言えるはずもない。俺は、彼女に何を求めている。俺を安心させるための反応を、事故に遭った彼女から欲しがっているのか。


 奥歯を噛んだ。口の中に鉄の味が広がる。


 サイレンが近づいてきた。遠くからではなく、胸の内側から鳴っているみたいだった。


 救急車が横断歩道の手前で止まり、救急隊員が担架を下ろす。白い手袋、金属の車輪、素早い足音。現場が一気に別の空気へ切り替わった。


「状況を」


「十八歳女性。ミユウ・ルミナス。星雲大学普通科の学生です。青信号で横断歩道へ出る直前、トラックと接触しました。衝突後、路面に倒れています。呼びかけへの反応は弱いです。呼吸はあります。こちらでは大きく動かしていません」


 言葉は出た。


 出たのに、指先はまともに動かなかった。膝の上で握った手が、布ごと震えている。救急隊員が短くうなずき、ミユウの状態を確認していく。俺は邪魔にならない位置まで下がったつもりで、半歩しか動けていなかった。


「同乗できますか」


「できます」


 即答した声だけが、妙に硬かった。


 担架へ移されるとき、ミユウの手がシーツの端からこぼれた。さっきまで俺の袖を引いていた指だった。俺はその指を見たまま、何も言えなかった。


 救急車の中は狭かった。


 扉が閉まると、外のざわめきが厚い壁の向こうへ押しやられ、消毒液の匂いと機械の小さな音が鼻と耳に残った。車体が動き出す。タイヤが路面を拾うたび、座席の硬さが背中に食い込んだ。


「持病や服薬は分かりますか」


「……分かりません」


 返事の遅れが、自分の喉に刺さった。


 分からない。


 彼女がイタリアから戻ってきたことは知っている。距離が近いことも、袖を引く癖も、俺を見ると少しだけ目を輝かせることも知っている。なのに、こういう時に必要なことを、俺はほとんど知らない。


 ミユウの手が担架の端で揺れた。


 救急隊員に確認して、俺はそっと指先へ触れた。冷たかった。講義室の机よりも、冬の金属の手すりよりも、体温から遠い感触だった。


「ミユウ。もうすぐ病院棟だ」


 返事はない。


 俺はその手を握りしめたくなって、できなかった。強く握ったら壊してしまう気がした。弱く触れるだけでは、どこにも届かない気がした。


 星雲大学病院棟の搬入口で救急車が止まる。


 扉が開いた瞬間、白い光が車内へ流れ込んだ。担架の車輪が金属音を立て、床へ降ろされる。俺も続いて降りようとして、足が段差に引っかかった。救急隊員の腕が肩を支えたが、礼を言う声がうまく出ない。


 搬入口から処置室へ向かう廊下は、蛍光灯の光でまっすぐ伸びていた。車輪の音が床を叩く。消毒液の匂いが濃くなる。白い扉が開き、ミユウがその向こうへ運ばれていく。


 俺は止められた。


 当然だ。


 ここから先は、今の俺の場所じゃない。


 閉まる扉の隙間から、ミユウの銀色の髪が一筋だけ見えた。すぐに扉が閉じ、その髪も、手も、顔も、全部白い壁の向こうへ消えた。


 講義室に戻っても、黒板の文字は線にしか見えなかった。


 教授の声は聞こえている。ページ番号も、重要な語句も、耳には入る。けれど、ペン先はノートの同じ場所で止まり、インクが小さく滲んでいく。


 窓の外には病院棟が見えた。


 見ないようにしても、視線は勝手にそちらへ行く。白い外壁。並んだ窓。どこかの階にミユウがいる。そう考えた瞬間、スマホが震えてもいないのに、俺の右手は机の端へ伸びた。


 画面は暗い。


 通知はない。


 当然だ。容体がスマホに表示されるわけがない。個人情報という概念を忘れるな、瀬野龍夜。


 俺は画面を伏せた。


 三十秒後、また表に返した。


「主席」


 隣から呼ばれ、俺はペンを落としかけた。床へ転がる前に拾ったが、指先が滑ってキャップだけが机の下へ落ちた。


 クラスメイトが、俺のノートとスマホを交互に見る。


「そんなにあの帰国子女さんが気になるのか」


「違う」


 答えが早すぎた。


 早すぎて、否定ではなく白状に近かった。


「事故を目撃した人間として、容体を気にするのは当然だ。医学部生なら、なおさらだ」


「へえ」


「へえ、じゃない。これは恋ではない。事故現場に居合わせた人間としての通常反応だ。生理的にも説明がつく。交感神経が過剰に――」


「そこまで言ってる時点で、だいぶ気にしてるだろ」


 俺は口を閉じた。


 反論はある。山ほどある。恋という言葉で片づけるのは浅い。人間の反応はもっと複雑で、責任感、目撃体験、知人への心配、医学部生としての観察意識が絡み合っている。


 だから、恋ではない。


 恋ではないはずなのに、彼女が俺の袖を引いた感触だけが、講義中のどの単語よりも鮮明に残っている。


 ペン先がノートに触れたまま止まる。


 俺は余白に書きかけた文字を慌てて塗りつぶした。そこには、講義内容ではなく、ミユウの名前の頭文字だけが書かれていた。


 自習室でも同じだった。


 医学書を開き、蛍光ペンを持ち、今日の範囲を三行読み進める。四行目で、病院棟の面会時間が頭に浮かぶ。五行目で、横断歩道の衝突音が蘇る。六行目で、さっき読んだ三行が消える。


 問題ない。


 平気だ。


 俺は星雲大学医学部一年の学年主席で、個人的な動揺を講義や自習へ持ち込むような人間ではない。


 そう自分に言い聞かせながら、俺は同じページを七回読んだ。


 八回目で、諦めて本を閉じた。


 数日後の午後、講義が終わるなり、俺は鞄に教科書を詰めた。角がファスナーに引っかかり、普段なら一度で閉まるはずの鞄を、二度も三度も開け直す。


 スマホには、病院棟の面会案内が表示されていた。


 画面の文字を確認しすぎて、もう暗記している。それでも俺は、面会可能時間と階数をもう一度見た。確認のためだ。緊張ではない。確認は大事だ。そういうことにしておく。


 大学棟から病院棟へ続く渡り廊下に入ると、空気の匂いが変わった。


 外の風に混じっていた土や植え込みの匂いが薄れ、消毒液の匂いが廊下の奥から流れてくる。床は硬く、靴底から冷たさが上がってきた。窓ガラスに映る俺の顔は、試験前よりも余裕がなかった。


 受付で名前を告げると、面会札が渡された。


 透明なケースに入った札が胸元で揺れる。プラスチックの角が指に当たった。受付の奥で電話が鳴り、処置室の扉が開くたびに、金属の器具が触れ合う音が混じった。


 エレベーターの中で、俺はスマホを開いた。


『体調はどうだ』


 違う。硬い。


『事故のことは気にするな』


 それは俺が言うことじゃない。


『無理に話さなくていい』


 なら、何のために来た。


『袖を引くなら、退院してからにしろ』


 打った瞬間、親指が止まった。


 馬鹿か、俺は。


 こんな文面を送れる状態かどうかも分からない相手に、何を書いている。消そうとして、画面の上で指が滑った。文字が残ったまま、エレベーターが目的の階に着く。


 慌てて削除した。


 扉が開く。白い廊下が伸びていた。


 病室へ向かう足音が、自分のものだけ大きく聞こえる。処置室の前を通ると、扉の隙間から消毒液の匂いが濃く流れた。俺は胸元の面会札を指で押さえた。揺れる音が邪魔だった。


 病室の前で足が止まる。


 扉の横にある番号を確認する。間違いない。ここだ。


 会えば、いつものように少し困った顔で笑うかもしれない。


 龍夜さん、と呼ぶかもしれない。


 すみません、また迷惑をかけてしまいました、と言って、布団の上から俺の袖を探すかもしれない。


 その時は、何と言う。


 体調はどうだ。


 事故のことは気にするな。


 無理に話さなくていい。


 どれも違う気がして、俺は扉の前でスマホを握り直した。画面は暗い。黒い画面に映った俺の目は、講義室で見たどの参考書より読みにくかった。


 俺は息を整えようとして、失敗した。


 指を曲げ、病室の扉を二度叩く。


「ミユウ。入るぞ」


 少し間があった。


 中から、かすかな声がした。言葉までは聞き取れない。けれど拒む響きではなかった。


 扉を開ける。


 窓際のベッドに、ミユウがいた。


 白いシーツの上で、銀色の髪が肩に流れている。頬の色は薄く、腕には点滴の管が伸びていた。事故直前に俺の袖を引いた指は、布団の上に置かれたまま、力なく丸まっている。


 俺はベッドの横まで歩いた。


 足音を小さくしたつもりでも、床が硬く鳴った。洗い立てのシーツの匂いと消毒液の匂いが混ざる。窓から入る光が、彼女の髪の上で白くほどけていた。


「……起きていたのか」


 声が少し掠れた。


 ミユウが、ゆっくりと俺の方を向いた。


 瞳は開いている。焦点も合っている。俺の姿を、ちゃんと見ている。


 なのに、いつもの近さがない。


 俺の袖へ伸びる指もない。名前を呼ぶ前に少しだけ息を弾ませる癖もない。怒られると分かっていながら隣へ詰めてくる、あの遠慮のなさが、どこにもない。


 彼女は俺を見ていた。


 俺を、初めて見る誰かとして。


 細い首が、わずかに傾いた。


「あなた、どちら様ですか?」

今回もお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたらぜひ評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

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