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第4話 決意

 掴んだ、と思った。


 指先に、ミユウのスーツの裾が触れた気がした。白い布の端が風に煽られ、俺の手の中へ滑り込んできたように見えた。だから俺は、腕に力を込めた。引き寄せる準備までしていた。


 けれど、掌は閉じただけだった。


 手の中にあったのは、布ではなく、熱い排気を含んだ風だった。爪が自分の皮膚に食い込み、汗で湿った掌が空を握り潰す。指の腹には、何の重さも残っていない。


「危ないぞ! 前見て歩け!」


 運転席から飛んだ怒鳴り声が、道路を震わせるエンジン音に呑まれた。


 大型トラックは、俺たちの前を轟音と一緒に抜けていった。車体の下から巻き上がった砂ぼこりが喉に入り、焦げたゴムの匂いが鼻の奥を焼く。信号機の電子音が、やけに遠くで鳴っていた。


 俺は伸ばした腕を戻せなかった。


 ミユウは、横断歩道の手前に倒れていた。


 銀色の髪がアスファルトの上に広がり、細い肩が制服の布に埋もれるように傾いている。さっきまで俺の袖を引いていた指は、道路の白線のそばに落ちていた。歩幅を合わせろと言うみたいに、いつも平気で隣に入ってきた距離。その距離が、今は一歩でも届かない。


「……ミユウ」


 名前を呼んだ声は、自分のものに聞こえなかった。


 耳の奥で、別の音が割れた。


 前世の空が、視界の裏側に滲む。黒く焼けた石畳。崩れた塔。腕の中で軽くなっていく彼女の体。叫んだはずの名前。返ってこなかった呼吸。指の間から抜けていった温度。


 あのときも、俺は間に合わなかった。


 今も。


 こんな近くにいるのに。


 俺は膝から崩れるようにアスファルトへ落ち、熱を持った路面が制服越しに食い込んだ。掌をついた瞬間、小石が皮膚に刺さる。それでも目だけはミユウから離せなかった。


「また、失うのか」


 掠れた声が落ちた。


 言った瞬間、喉の奥が焼けるように狭くなった。違う。まだ決まっていない。呼吸を見ろ。意識を確認しろ。周囲を見ろ。通報しろ。順番を間違えるな。お前は医学部の学生だろう。首席だろう。なら、今やるべきことをやれ。


 そう頭の中で並べたのに、指先はミユウに触れる手前で止まった。


 動かすな。


 下手に動かすな。


 知識だけは、やけに冷たく正しかった。


「ミユウ。聞こえるか」


 返事はない。


 彼女の顔に近づきすぎないよう顎を引き、口元に指を寄せる。息はある。細い。浅い。けれど、ある。


 その事実を掴んだ瞬間、膝から力が抜けかけた。駄目だ。ここで崩れるな。お前が倒れてどうする。患者を増やすな。医学部一年が救急現場で自分まで回収されるなど、笑い話にもならない。いや、後で笑えるならまだいい。今は笑えない。


「平気だ。問題ない。息はある。場所は星雲大学の正門前。病院棟まで近い。俺がやることは決まっている」


 自分に言い聞かせながらスマホを取り出した。


 だが、ポケットの縁に指が引っかかり、スマホが一度、掌から滑り落ちそうになる。画面を起こすと、顔認証が失敗した。映った自分の顔が、別人みたいにこわばっている。


「おい、今だけは俺を認識しろ」


 低く呟き、指紋でロックを開ける。


 緊急通報。星雲大学病院棟の救急受付。言うべき内容を短く切り出す。事故の場所、女子学生、意識なし、呼吸あり、頭部を動かしていない、至急搬送が必要。声は出ている。喉は削れている。だが、情報は伝わる。


 それだけだ。


 俺にできるのは、それだけだった。


 電話を切った後も、スマホを握る指が緩まなかった。画面に汗が滲み、親指が震えて通知欄を開きそうになる。そんなものを見るな。見るべきはミユウだ。道路だ。周囲だ。自分の都合ではなく、彼女の状態だ。


 それなのに、視界の端で、彼女のリボンが風に揺れるだけで、胸の内側が乱暴に掴まれる。


 直前まで、ミユウは俺の横にいた。


『龍夜くん、今日の帰り、少しだけ寄り道しませんか?』


 そう言って、スマホの画面を覗き込んできた。近い、と言う前に、彼女の髪が俺の袖に触れた。俺が一歩下がると、彼女は当然のように一歩詰めた。距離感という概念をイタリアに置いてきたのかと、本気で問いただそうとしていた。


 その袖を、今度は俺が掴めなかった。


「ミユウ、動くな。聞こえていなくてもいい。動くな」


 返事のない相手に言うと、唇の裏が乾いて歯に貼りついた。


 病院棟の方から、車輪の音が近づいてきた。


 ストレッチャーがタイルとアスファルトの境目を越え、金属の軋む音を立てる。白い服の人影がミユウのそばに膝をつき、俺は状態を伝えた。言葉は出る。順序も崩れない。自分でも腹が立つほど、頭だけは動いた。


 けれど、ミユウの体を支える手の中に、俺の手は入れない。


 彼女を板の上へ移すため、複数の手が慎重に動く。首元を支え、体の向きを整え、白いシーツが彼女の制服を覆う。俺は一歩下がった。さらに半歩下がった。


 邪魔になるから。


 今の俺は、邪魔になるから。


 その判断が正しいほど、奥歯がきしんだ。


 ストレッチャーが動き出す。


 俺は横についた。足がもつれそうになりながらも、車輪の速度に合わせる。正門前のアスファルトから、病院棟へ続くタイルへ。外の空気には排気と砂ぼこりが混じり、入口が近づくにつれて消毒液の匂いが濃くなる。


 自動ドアが開いた。


 ガラスに、俺の姿が映った。


 膝は汚れ、手の甲には擦り傷があり、前髪は額に張りついている。星雲大学医学部一年、学年主席。試験の答案なら、誰より早く正解を書ける。授業なら、教授の質問に詰まらず答えられる。


 だが、ガラスに映る俺は、ストレッチャーの横で、ただ歩いているだけだった。


 何もしていない。


 何も、救っていない。


 病院棟の廊下に入ると、足音の響き方が変わった。靴底が磨かれた床を叩き、天井の白い照明が一定の間隔で流れていく。壁の案内表示が視界を横切る。救急外来。検査室。処置室。


 全部、知っている場所だ。


 知っているだけの場所だ。


「処置室へ」


 短い声が飛び、ストレッチャーが扉の前で角度を変えた。


 俺もついていこうとして、そこで止められた。言葉はなかった。ただ、動線から外されただけだ。それで十分だった。ここから先に、今の俺の立つ場所はない。


 白い扉が開く。


 ミユウが運び込まれる。


 シーツの端から、銀色の髪が一筋こぼれた。俺は反射的に手を伸ばしかけたが、その前に扉が閉まった。


 乾いた音が廊下に残った。


 俺の掌は、また空を掴んでいた。


 処置室の扉には、小さな窓がついている。そこに映った俺の顔は、さっきのガラスよりひどかった。目だけが扉の向こうを追って、他の部分が置き去りになっている。


 ポケットの中でスマホが震えた。


 取り出すと、ミユウとのトーク画面が開いたままだった。事故の前、彼女が覗き込んできたまま閉じられなかった画面。


『龍夜くん、今日の帰り、少しだけ寄り道しませんか?』


 明るい吹き出しの下に、俺の返信が残っている。


『五分だけだ』


 五分。


 たった五分を渋った。


 寄り道くらい、好きにさせればよかった。顔を寄せてくるなとか、袖を引くなとか、歩幅を考えろとか、そういう小言を並べる前に、隣にいる時間をちゃんと見ていればよかった。


 画面が暗くなる。


 黒い板に映った俺の指は、アスファルトの汚れで黒ずんでいた。爪の間に砂が入り、擦り傷の縁が赤くなっている。そこだけが、事故が現実だったと証明している。


「平気だ。問題ない」


 口にした瞬間、喉が引きつった。


 問題しかない。


 知識はあるのに、扉を開けられない。呼吸があると分かるのに、その先に手を出せない。前世で守れなかった彼女を、現世でも同じ手で取り落とした。世界が変わっても、制服が変わっても、俺の掌だけが変わっていない。


 届かない手のままだ。


 それが、許せなかった。


 処置室の向こうで、金属の器具が触れ合う音がした。短い指示が重なり、足音が動く。俺は扉の取っ手に手を伸ばしかけ、途中で止めた。


 触っても開かない。


 開けてはいけない。


 俺は患者の家族でも、医師でもない。医学生だ。しかも一年。知識を詰め込んだだけの、白衣にも責任にも届いていない半端者だ。


 その現実が、冷たい床から靴底を通って上がってくる。


 俺は壁に背を預けず、膝も曲げず、処置室の前に立った。崩れたら、そこで負ける気がした。いや、勝ち負けの話ではない。今この瞬間に勝手な根性論を持ち込むな、瀬野龍夜。患者はミユウだ。主役面をするな。だが、これだけは決めろ。


 お前は、何になる。


 前世の俺は剣を握っていた。


 誰より前に立てば守れると思った。強ければ奪われないと思った。だが、腕の中から体温は抜けた。剣では戻せなかった。叫んでも、祈っても、世界は答えなかった。


 現世の俺は、教科書を握っている。


 それだけでは足りない。


 知識を点数で終わらせるな。正解を答案用紙に閉じ込めるな。人の体に触れ、人の命を預かり、その重さに耐えられる手にしろ。扉の外で爪を立てるだけの自分を、今日で終わらせろ。


 俺はスマホを握り直した。


 暗い画面に、ミユウの最後のメッセージがもう一度浮かぶ。寄り道しませんか、という、いつもの近さ。俺の日常へ何のためらいもなく入ってくる、あの声。


 返事は送らない。


 今、送る言葉では足りない。


「ミユウ」


 名前を呼ぶと、喉の奥が擦れた。


「俺は医師になる」


 扉の向こうから返事はない。


 それでも、言葉は床に落ちなかった。胸の奥に沈み、そこから骨の内側を叩いた。


「試験で勝つためじゃない。首席でいるためでもない。お前がまた俺の前で倒れたとき、扉の外に立っているだけの男で終わらないために、俺は医師になる」


 言い切った後、息が熱く喉を通った。


 俺は汚れた掌を見下ろした。爪の間に詰まった黒い砂を親指で擦る。擦っても、一度では落ちない。皮膚が赤くなり、傷口に熱が集まる。


 それでも俺は、こびりついた砂が少しずつ剥がれるまで、指先を止めなかった。


 この手を、作り替える。


 冷えた廊下の床を踏みしめ、俺は掌に残ったざらつきを逃がさないよう、強く握り込んだ。

ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら、ぜひ評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

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