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第3話 贈物

駅前のガラス屋根を抜けた瞬間、昼の光が白いタイルを跳ね返し、スマホの画面に指を置いていた俺の目に、星雲市の通りがまっすぐ差し込んできた。


 電車の金属音が背中の方で遠ざかり、横断歩道の電子音と、パン屋から流れてくるバターの匂いが混ざるなか、ミユウ・ルミナスは俺の制服の袖を二本の指でつまみ、街灯に吊られた花飾りを見上げていた。


「龍夜さん、あの道の先には何がありますか?」


 顔が近い。


 俺は画面を消し、喉の奥に引っかかった息を咳で押し戻しながら、駅前通りの向こうに並ぶビルを顎で示した。


「商店街と市役所と、映画館だ。観光地じゃない」


「でも、初めて見る場所です。わたしには観光地です」


「基準が甘い」


「甘くてもいいです。日本に来て、龍夜さんに案内してもらっているんですから」


 ミユウが笑って一歩踏み出すと、長い銀髪が肩の後ろで揺れ、陽射しを拾った毛先が細い糸みたいに光った。俺は一瞬だけ視線をそこに取られ、次の信号の色を確認するふりで首を戻した。


 問題ない。


 街案内だ。


 帰国子女が日本の街に興味を持ち、同じ大学の知人が道を教える。ただそれだけの、特筆すべき事象ではない。医学部主席の脳を使うほどでもない。


 なのに、袖口をつままれている左腕だけ、妙に熱がこもる。


「龍夜さん、あれは何ですか?」


 ミユウが駅前広場の隅にある自動販売機を指した。青、赤、緑の缶がガラス越しに整列し、足元では排気の温かい風が低く唸っている。


「自販機」


「外にあるのに、飲み物が買えるんですか?」


「買える。日本では珍しくない」


「すごいです。イタリアにもありますけど、こんなにたくさん並んでいるのは初めて見ました」


「買うのか」


「はい。龍夜さんのおすすめがいいです」


 そう言いながら、ミユウは俺の横にぴたりと並び、自販機の前に顔を寄せた。甘い花の匂いが微かに混ざり、俺は財布を出す手の角度を間違えて、学生証まで一緒に引っ張り出した。


「……水でいい」


「えっ、日本に来た記念の一本が水ですか?」


「水分補給は基本だ」


「龍夜さんらしいです」


「褒めてないだろ」


「褒めています。真面目で、少し不器用なところも」


 親指が硬貨投入口の縁で止まった。


 不器用。


 その単語が缶コーヒーの黒いラベルに反射して、俺の耳の奥を軽く叩いた。俺は小銭を入れ、無難な緑茶を選び、落ちてきたペットボトルを取り出してミユウに渡した。


「日本らしいものがいいなら、これだ」


「ありがとうございます」


 ミユウは両手で受け取り、キャップを開けようとして少しだけ眉を寄せた。俺は反射で手を伸ばし、彼女の指先に触れる寸前で止まったが、ミユウはそのままボトルをこちらに差し出した。


「お願いしてもいいですか?」


「……貸せ」


 キャップをひねるだけの動作に、なぜ心拍数が一段上がるのか。原因は不明。水分不足、睡眠不足、もしくは駅前の照り返し。俺は緑茶を開け、差し戻す時に指が触れない角度を選んだのに、ミユウの小指が俺の爪先をかすめた。


「冷たいです」


「冷蔵されてるからな」


「龍夜さんの手も、少し冷たいです」


「気のせいだ」


「そうですか?」


 覗き込まれた。


 瞳の色を正面から見る距離になり、俺はペットボトルのラベルに書かれた成分表示へ視線を落とした。茶葉、ビタミンC、内容量五百ミリリットル。極めて有用な情報だ。今読む必要はない。


 ミユウはひと口飲み、頬の内側で味を確かめるように口を閉じてから、駅前通りへ目を向けた。


「少し苦いです。でも、後からすっきりします」


「甘い飲み物ばかりよりいい」


「龍夜さんは、いつもそうやって体のことを考えているんですか?」


「医学生だからな」


「街案内でも?」


「街案内でもだ」


「では、歩きすぎたら休憩を入れてくれますか?」


「必要なら入れる」


「必要じゃなくても、龍夜さんと少し座ってみたいです」


 俺は返事の代わりに信号を見た。


 青に変わった歩行者用のランプが、横断歩道の白線を薄く照らしていた。人の流れに合わせて歩き出すと、ミユウは緑茶を胸の前で抱え、俺の半歩後ろからついてきた。


 駅前を離れると、道路の幅が少し狭くなり、アーケードの下から古い菓子店の砂糖の匂いが流れてきた。シャッターの隙間に貼られた祭りのポスター、店先に吊られた風鈴、ドラッグストアの明るすぎる照明。ミユウは一つ見るたび足を止め、俺の袖を引き、質問を重ねた。


「龍夜さん、あのお店は?」


「和菓子屋」


「わがし」


「餅とか、饅頭とかを売ってる」


「おもち……日本のお正月に食べるものですか?」


「正月以外にも食べる。ただ、喉に詰まらせる事故もある」


「龍夜さん、食べ物の話でも医療につながるんですね」


「事実だ」


「でも、心配してくれている感じがします」


「一般論だ」


 ミユウは楽しそうに目を細め、ショーウィンドウに並ぶ丸い菓子を眺めた。俺はその横顔を見ないように、店先の木枠の傷を数えた。古いニスの匂い、紙袋がこすれる音、遠くから響くバスのブレーキ音。何もおかしなことはない。


 一般論。


 袖を引かれて歩幅を緩めるのも、横断歩道で車道側に立つのも、段差の前で一拍置くのも、全部ただの一般論だ。


「龍夜さんは、この街に詳しいんですね」


「大学の近くだからな。必要な場所くらいは覚える」


「必要な場所、ですか?」


「病院、駅、薬局、本屋、スーパー」


「遊ぶ場所は?」


「……映画館」


「行ったことありますか?」


「前を通ったことはある」


「それは、行ったことに入りません」


「分類の問題だ」


「では、いつか一緒に行きましょう」


 ミユウはそう言って、俺の顔を下から覗き込んだ。


 呼吸が浅くなったのを、俺は鼻で短く吐いてごまかした。映画館。暗い場所。隣の席。ポップコーンの匂い。肘掛けの距離。不要な想像が脳内に勝手に展開され、俺は医学書の索引を思い浮かべて上書きしようとした。


 頸動脈。鎖骨下動脈。上腕動脈。


 だめだ。肘掛けから離れない。


「……予定が合えばな」


「はい。約束です」


「確定ではない」


「でも、龍夜さんは断りませんでした」


「言葉尻を取るな」


「取っていません。大事にしまっています」


 ミユウは胸の前で両手を重ね、見えない何かを包むようにした。俺はその仕草を見て、返答に使える単語を三つほど失った。


 星雲市の中心通りに出ると、車の音が増え、ビルのガラスに雲が細かく割れて映った。歩道には街路樹の影が揺れ、コーヒースタンドから豆の焦げた香りが流れ、ミユウの銀髪に木漏れ日が細かく落ちた。


「あっ」


 ミユウが急に足を止めた。


 俺も一歩先で止まり、振り返る。彼女の視線の先には、黒い石材とガラスでできた高級ジュエリーショップがあった。入口の両脇には細い金属の装飾が伸び、ショーウィンドウの中でネックレスが光を受けていた。


「龍夜さん、あのお店……入ってもいいですか?」


「見るだけならな」


「見るだけ、ですか?」


「高い」


「はい。高そうです」


「わかってるなら、なぜ目を輝かせる」


「綺麗だからです」


 ミユウは緑茶のボトルを鞄にしまい、両手を胸元で合わせた。ガラス越しの光が瞳に映り、そこに小さな星みたいな点がいくつも揺れた。


 光物が好き。


 今朝、本人がそんなことを言っていた気がする。俺は忘れていた。いや、正確には記憶領域の隅に入れていた。不要情報として削除するには、彼女の声が少し鮮明すぎた。


「五分だけだ」


「ありがとうございます」


「買わないからな」


「見るだけでも嬉しいです」


「その言い方は信用できない」


「ふふ、龍夜さんは慎重ですね」


 自動ドアが開くと、外の車の音が一枚薄い膜で遮られ、店内の空気が肌に触れた。冷房の風は首筋にひやりと落ち、床の大理石は靴音を軽く返した。ショーケースの中には、指輪やピアスやネックレスが種類ごとに並び、白いライトが宝石の角を拾っていた。


 ミユウは声の大きさを自然に落とし、俺の隣に寄った。


「すごいです。光が、水の中みたいに揺れています」


「照明の角度だ」


「龍夜さん、夢を壊すのが上手ですね」


「事実を言っただけだ」


「でも、そういうところも面白いです」


「面白がるな」


 ショーケースに映った俺の耳が、なぜか少し赤い。照明のせいだ。店内の光は暖色寄りで、肌の色を変える。医学的にも説明できる。血流の増加ではない。たぶん。


 ミユウは一つのネックレスの前で足を止めた。


 細い銀色のチェーンに、小さな雫の形をした石がついていた。透明に近い淡い青が、ライトを受けるたび胸元ほどの高さで瞬いている。値札はケースの手前に置かれ、数字は俺の一か月分のバイト代を容赦なく削る形をしていた。


「龍夜さん、これ……」


「高い」


「まだ何も言っていません」


「顔が言ってる」


「そんなにわかりやすいですか?」


「かなり」


 ミユウは少しだけ頬を指で押さえ、ショーケースを覗き込んだ。距離が近くなり、彼女の肩が俺の腕に触れた。冷房で冷えた布越しに、かすかな体温が伝わる。


 俺は半歩下がろうとして、背後の展示台にぶつかりかけた。


「危ないです」


 ミユウの手が俺の袖をつかんだ。


「……わかってる」


「今、わかっていない動きでした」


「展示台の位置を確認しただけだ」


「背中でですか?」


「視野外の確認だ」


「龍夜さん、本当に面白いです」


 笑うな。


 いや、笑ってもいい。別に俺には関係ない。関係ないはずなのに、ショーケースの反射でミユウの口元がゆるむたび、指先が値札の数字を二度見する。


「日本に来た記念に、こういうものを一つ持てたら素敵ですね」


「記念品なら駅の土産物屋でいいだろ。キーホルダーなら千円で買える」


「キーホルダーも可愛いです。でも、これは見るたびに今日のことを思い出せそうです」


「今日のこと?」


「龍夜さんが、駅前からここまで案内してくれて、緑茶を選んでくれて、道の車道側を歩いてくれたことです」


「ただの街案内だ」


「ただ、ではないです」


 ミユウはショーケースから顔を上げ、俺をまっすぐ見た。大理石の床が光を返し、彼女の髪の下で小さなイヤリングが揺れた。


「龍夜さんは、ぶっきらぼうですけど、わたしが歩きやすい速さにしてくれます」


「歩幅の差を計算しただけだ」


「段差の前で止まってくれます」


「転倒リスクを避けただけだ」


「車が来る方に立ってくれます」


「交通量が多いからだ」


「ほら、全部優しい理由です」


 俺は口を閉じた。


 反論はある。理屈もある。安全管理、同行者への配慮、都市歩行における危険予測。そういう言葉で整列させれば、胸の奥で妙に暴れるものも、白衣のポケットに押し込められる。


 だが今は白衣を着ていない。


 制服の胸ポケットには、学生証とスマホしか入っていなかった。


「……欲しいのか」


 声が少し低くなった。


 ミユウは瞬きをしてから、雫のネックレスを見た。


「欲しいです。でも、高いので、今日は見るだけで大丈夫です」


「大丈夫という言葉は便利に使うな」


「龍夜さんも、よく使います」


「俺は必要な時だけだ」


「本当ですか?」


「……少なくとも、今はそういう話じゃない」


 俺はスマホを取り出し、ショーケース横の購入用端末に表示された商品番号を確認した。画面に数字を入れると、確認画面に価格が出る。バイト代。教科書代。昼食代。しばらく学食の定食を諦めれば、帳尻は合う。いや、合わない。合うようにする。


 ミユウが隣で目を丸くした。


「龍夜さん?」


「日本に来た記念なんだろ」


「でも、こんな高いものは」


「後で返せと言うつもりはない」


「そうではなくて」


「俺が買うと決めた」


 決めた、という言葉を出した瞬間、財布の中身が悲鳴を上げた気がした。俺は聞こえないふりをしてスマホ決済を選び、指紋認証に親指を乗せた。


 画面が一度失敗を表示した。


 指先に汗。


 俺は親指を制服の脇で拭き、もう一度乗せた。


 決済完了の文字が出た時、喉の奥が乾いた。


「龍夜さん、あの、本当に……」


「受け取れ」


「でも」


「似合うと思っただけだ」


 言ってから、俺は視線を端末に固定した。


 何を言っている。


 似合う。なぜそんな主観的で、検証困難で、医学部の講義では一生使わない表現を選んだ。今の発言は撤回不能だ。カルテなら修正線を引けるが、会話には引けない。


 店の受け取り口から小さな紙袋が出てきた。白い箱に淡い金色のリボンがかかり、紙袋の持ち手は滑らかな紐だった。俺はそれを取ってミユウに差し出した。


 ミユウは両手で受け取り、指先でリボンに触れた。


「ありがとうございます、龍夜さん」


「礼は一回でいい」


「一回では足りません」


「足りる」


「大切にします」


「……好きにしろ」


 ミユウは紙袋を胸元に抱え、雫の石が入った箱を見つめていた。店内の冷房で指先が少し白くなっているのに、その手つきだけは丁寧で、リボンの端を潰さないように持っていた。


 俺は自分のスマホを見た。


 決済通知。


 数字。


 バイト代。


 視界が一瞬だけ遠くなったが、俺は画面を伏せてポケットに押し込んだ。今後一か月の昼食は、栄養バランスを崩さない範囲で最小限に再構成する必要がある。タンパク質は卵で補える。炭水化物は米。野菜は安い日にまとめ買い。問題ない。問題ないが、財布は助からない。


「龍夜さん」


「なんだ」


「今、少しだけ顔が怖いです」


「金額を記憶していただけだ」


「やっぱり、無理をさせてしまいましたか?」


「無理ではない。計算だ」


「計算でこんな素敵なものを買ってくれるんですか?」


「……今日は例外だ」


「では、例外の日として覚えます」


 ミユウは紙袋を大事そうに持ち直し、店の外へ向かった。自動ドアが開くと、冷房で冷えた肌に外の熱が一気に貼りつき、車の走行音と人の足音が戻ってきた。


 俺は彼女の半歩後ろに出て、歩道の端に寄りすぎないよう声をかける。


「ミユウ、そっちは車道に近い」


「はい」


「紙袋ばかり見るな」


「はい。でも、嬉しくて」


「前を見ろ」


「はい。龍夜さんも見ますか?」


 ミユウが振り返り、紙袋の中の箱を少しだけ持ち上げた。リボンが陽射しを拾い、白い箱の角が光った。


「歩きながら開けるな」


「開けません。見せたかっただけです」


「俺はもう見た」


「買ってくれた人にも、もう一度見てほしくて」


「……後で見ればいい」


「では、後で一緒に見てください」


 後で。


 その言葉が、夏の空気の中で妙に輪郭を持った。俺は返事をしないまま、横断歩道の手前で足を止めた。信号は赤。車道には配送トラックやタクシーが流れ、アスファルトから上がる熱が靴底を通して伝わってくる。


 ミユウは紙袋を両手で持ち、隣に並んだ。肩が触れる距離だった。


「日本の信号の音、可愛いですね」


「地域によって違う」


「龍夜さんは、本当に何でも知っています」


「何でもは知らない」


「では、龍夜さんが知らないことを、これから一緒に見つけたいです」


「なぜ俺とだ」


「龍夜さんと歩くと、同じ街でもたくさんのことに気づけるからです」


 信号が青に変わった。


 電子音が鳴り、白線の向こうで人の流れが動き出す。俺は右を確認し、左を見て、もう一度右を見た。癖だ。医療とは関係ない。だが事故は、確認を一回減らした場所から入り込む。


「渡るぞ」


「はい」


 ミユウはうなずき、紙袋を揺らさないよう歩き始めた。


 半分ほど渡ったところで、彼女のスマホが鞄の中で震えた。短い通知音。ミユウは反射で鞄に目を落とし、紙袋の持ち手を片手に移した。


「見るな」


「すぐ戻します」


「横断中だ」


「はい、すみま――」


 左から、低いエンジン音が膨らんだ。


 青信号のはずの車線に、白いトラックの影が斜めに滑り込んでくる。フロントガラスが陽射しを反射し、車体の角が横断歩道の白線を踏んだ。ブレーキの音が遅れて耳を裂き、排気の熱とゴムの匂いが一気に近づいた。


 ミユウは紙袋を抱えたまま、まだ気づいていない。


 俺の足が先に動いた。


「ミユウ!」


 伸ばした指先が、彼女の袖をつかんだ。

今回もお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら、評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

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