第2話 距離
医学部棟の自動ドアが開いた瞬間、消毒液とコピー用紙と朝の冷えた空気が混ざった匂いが、俺の白いシャツの襟元へ入り込んだ。
隣に立つミユウ・ルミナスは、肩から落ちかけた鞄を両手で直し、銀色の髪を光の中で揺らしながら、吹き抜けの天井を見上げていた。
「ここが医学部棟ですか?」
近い。
声が、思ったより近い。
俺は案内用に開いていたスマホの画面を一度伏せ、喉に引っかかった息を飲み下してから、廊下の奥を指した。
「ああ。講義室、実習室、研究室が入ってる。迷うと面倒だから、最初に動線を覚えろ」
「動線、ですか?」
「どこから入って、どこへ抜けるかだ。建物は覚え方を間違えると、同じ場所を三回回る」
ミユウは俺の袖を指先で軽くつまみ、廊下の床に貼られた青いラインを覗き込んだ。袖越しに細い力が伝わり、俺は一歩だけ横へずれようとして、壁に近づきすぎた。
「この青い線についていけばいいんですね」
「そうだ。赤は実習室方面、黄色は事務、緑は外来連携用の通路。勝手に赤へ行くな」
「どうしてですか?」
「器具がある。触るな。転ぶな。驚くな」
「三つも注意されました」
「必要だから言った」
俺は歩き出し、ミユウの足音が半歩遅れてついてくるのを耳で測った。床は磨かれていて、靴底が小さく鳴るたび、廊下の奥のガラス窓に白い光が揺れる。
角を曲がる前に振り返ると、ミユウは掲示板の前で足を止め、実習予定表に顔を寄せていた。
「瀬野くん、この表、びっしりですね」
「医学部だからな」
「全部覚えるんですか?」
「覚える。忘れたら困る」
「瀬野くんは、もう覚えているんですか?」
「だいたい」
「だいたい、の顔じゃないです」
俺は視線を掲示板から外し、スマホの画面を点灯させた。地図アプリではなく、大学の構内案内を表示しているだけなのに、指先が一度、関係のない通知を開きかける。
「行くぞ。ここで止まると、次の見学が詰まる」
「はい、主席案内人さん」
「その呼び方はやめろ」
「では、瀬野先生?」
「もっとやめろ」
ミユウの笑い声が、白い壁に小さく跳ねた。俺は階段へ向かいながら、段差の手前で速度を落とし、彼女が横に並ぶのを待ってから一段目に足を乗せた。
踊り場の窓から中庭の緑が見え、細い枝が風で揺れている。ミユウは手すりに触れず、俺の斜め後ろを上がってきた。
「階段も広いんですね」
「朝は人が増える。流れが詰まらないようにしてある」
「瀬野くん、さっきから少しだけ歩くの遅くしてくれていますよね」
靴底が段の角で止まった。
俺は何も踏み外していないのに、足裏だけが一瞬、床から浮いたようになった。
「気のせいだ」
「でも、曲がる前にも確認してくれました」
「案内役が見失ったら面倒だろ」
「ふふ。面倒、なんですね」
「それ以外に理由はない」
手すりの金属が指先に冷たく、俺は握ってもいないのに、その温度だけを拾った。
医学部棟を出ると、外の光が一段強くなり、白い舗装路の照り返しが目に刺さった。建物の影を選んで歩くと、ミユウの髪に落ちる日差しが途切れ、銀の線が淡く沈む。
図書館は医学部棟の向かいにあり、大きなガラス扉の向こうで、閲覧席の机が整列していた。入館ゲートに学生証をかざすと、電子音が短く鳴る。
「ここは普通科の学生も使える。資料は多いが、棚の番号を見ろ。闇雲に歩くと戻れない」
ミユウは自分の学生証を両手で持ち、俺がやった通りにかざした。ゲートが開いた途端、彼女は一歩で俺の隣に寄り、声を落として囁く。
「本の匂いがします」
「図書館だからな」
「瀬野くんは、よく来るんですか?」
「講義の前後は来る。家だと資料が足りない」
「どの席に座るんですか?」
「奥。窓側。コンセントがある」
「案内してください」
俺は返事の代わりに歩き出した。床はさっきより柔らかく、足音が吸い込まれる。高い棚の隙間を抜けるたび、古い紙と新しいインクの匂いが鼻をかすめた。
医学書の棚の前で止まると、ミユウは背表紙を見上げ、指で文字を追いかけた。
「難しそうな本ばかりですね」
「難しい」
「瀬野くんでも?」
「難しいものは難しい。ただ、逃げたら余計に難しくなる」
「なるほど」
「なぜ笑う」
「ぶっきらぼうなのに、言うことがまっすぐだからです」
俺は一冊抜きかけた参考書を戻し、背表紙の位置を揃えた。紙の角が指に当たり、乾いた痛みが残る。
「普通科の資料は向こうだ。語学、文学、経済、芸術。留学生向けの案内もある」
「イタリア語の本もありますか?」
「ある。二階の奥だ」
「では、今度一緒に探してくれますか?」
「司書に聞け」
「瀬野くんに聞きたいです」
横から覗き込まれ、ミユウの髪が俺の腕に触れた。細い髪が布をなぞっただけなのに、手首の脈が勝手に速くなる。
医学生たるもの、外的刺激にいちいち反応するべきではない。接触面積は極めて小さい。問題ない。現象としては布と毛髪の接触であり、そこに追加の意味を付与する必要はない。
「……時間が合えばな」
「約束ですね」
「条件付きだ」
「はい。条件付きの約束です」
俺は返却台の横を通り、出口へ向かった。ゲートの電子音が背中側で鳴ると、ミユウが小走りで追いついてきたため、俺は扉を押したまま、彼女が外へ出るまで手を離さなかった。
「ありがとうございます」
「後ろに人がいたら危ない」
「今はいませんでした」
「風で閉まる」
「風、そんなに強くありません」
「油断するな」
彼女は扉越しの光の中で俺を見上げ、何か言いかけてから、鞄の肩紐を直した。
食堂へ向かう道は、昼前の熱を吸ったタイルがわずかに温かく、植え込みの土から水の匂いが上がっていた。入口に近づくにつれ、揚げ物の油、出汁、焼けたパンの匂いが重なり、腹の奥が先に反応した。
食堂の自動ドアが開くと、券売機のボタンが色とりどりに光っていた。
「ここが食堂。昼は混む。列の流れを見てから並べ」
「おすすめはありますか?」
「栄養を考えるなら定食」
「瀬野くんは何を食べますか?」
「日替わり。早いから」
「早さで選ぶんですか?」
「昼休みは短い」
「味は?」
「二の次だ」
ミユウは券売機の前に立ち、メニュー写真を一つずつ見比べた。俺は彼女の後ろに立つ位置を少しずらし、通路をふさがない角度に変える。
「これ、星雲ランチって書いてあります」
「量が多い」
「瀬野くんでも多いですか?」
「午後に眠くなる」
「では私はやめておきます」
「初日から無理をするな」
言った直後、ミユウの視線が俺の横顔に刺さった。
「今の、優しいですね」
「一般的な注意だ」
「瀬野くんの一般的な注意は、少し優しいです」
「分類がおかしい」
「では、瀬野くん分類では何ですか?」
「危機管理」
「食堂で?」
「食堂でもだ」
券売機の小銭投入口が金属音を立て、誰かが遠くで椅子を引いた。俺は水の置き場、返却口、混む時間帯、空きやすい席を順に示した。
ミユウは一つ聞くたび、俺の指先の向こうを見て、また俺を見る。
「一番空いている席はどこですか?」
「窓側の端。ただし昼はすぐ埋まる」
「瀬野くんは誰かと食べるんですか?」
「一人が多い」
「では、今日は?」
「今日は案内中だ」
「案内が終わったら?」
「……屋上で弁当を食べる予定だ」
「私もお弁当です」
ミユウは鞄を軽く叩いた。布越しに弁当箱の硬い角が浮き、俺はそこへ目を落としてから、すぐ券売機の画面へ戻した。
「なら食堂は見るだけでいい。次に行く」
「はい。あ、瀬野くん」
「なんだ」
「お箸、忘れていませんか?」
「入ってる」
「確認しました?」
「朝、入れた」
「では大丈夫ですね」
なぜ俺は箸の有無を一瞬疑った。
医学生たるもの、持ち物管理は基本だ。箸一本で判断力を乱すなど論外であり、そもそも今の会話には乱れる要素がない。
中庭へ出ると、建物の熱が背中から離れ、草と花壇の匂いが足元から広がった。石畳の道は丸く曲がり、中央の噴水から細い水音が上がっている。
ミユウは噴水の縁へ近づき、水面を覗き込んだ。風が髪を持ち上げ、彼女は片手で押さえながら振り返る。
「ここ、きれいですね」
「昼は人が多い。移動の近道にもなる」
「瀬野くんは近道として見るんですね」
「通学路は効率が重要だ」
「私は、ここで少し空を見るのもいいと思います」
「講義に遅れる」
「五分前に出れば間に合います」
「三分前では遅い」
「五分です」
「階段で詰まる可能性がある」
ミユウが噴水から離れ、俺の隣に並んだ。肩が近く、制服の布が触れる手前で揺れる。
「瀬野くんは、全部先に考えるんですね」
「考えないと遅れる」
「私が迷ったら?」
「連絡しろ」
「電話ですか?」
「メッセージでいい。場所の写真を送れ。現在地を確認する」
「すぐ来てくれますか?」
「距離による」
「近かったら?」
「行く」
「遠かったら?」
「案内を送る」
「本当に遠かったら?」
「……迎えに行く」
噴水の水が風に押され、細かい粒が手の甲に当たった。冷たさで指が動き、俺はスマホを取り出して構内マップをミユウに送った。
「これを保存しておけ。迷う前に見る」
「ありがとうございます。瀬野くんの連絡先も、保存しておきますね」
「大学用だ。私用ではない」
「はい、大学用の瀬野くん」
「妙な区切り方をするな」
ミユウは画面を操作し、俺の名前の横に何かを入力した。覗くつもりはなかったが、距離が近いため見えた。『頼れる案内係』。
「消せ」
「どうしてですか?」
「肩書きが違う」
「では、主席案内係?」
「悪化している」
「瀬野くん」
「なんだ」
「歩幅、ありがとうございます」
風が止まったわけでもないのに、耳の後ろだけ熱が残った。俺は中庭の出口へ向き直り、講義棟へ歩き出した。
講義棟は医学部棟より空気が軽く、廊下に貼られた掲示物の色も多かった。普通科の学生が使う建物らしく、教室の扉には語学、歴史、情報、芸術の文字が並んでいる。
「ここが講義棟。君の授業は主にこの辺りだ」
ミユウは教室の窓から中を覗き、机の列を目で追った。
「普通科は、医学部と少し雰囲気が違いますね」
「専門が違うからな」
「瀬野くんは、ここで授業を受けることは?」
「共通科目ならある」
「その時は会えますか?」
「時間割による」
「会えたら、声をかけてもいいですか?」
「講義前なら短く」
「講義後は?」
「移動がある」
「では、移動しながら」
「廊下で前を見ろ」
ミユウは小さく頷き、教室の入口に貼られた避難経路図へ顔を寄せた。
「これも見ておいた方がいいですか?」
「当然だ。入口、出口、非常階段。初日に確認する」
「瀬野くん、さっきから本当に全部見ていますね」
「見ていないと困る」
「私の足元も見ていました」
「段差があった」
「段差、低かったです」
「低くても引っかかる」
「瀬野くんは、私が転ばないか見てくれているんですね」
廊下の窓から入った光が、床のワックスに反射した。俺はその光を見すぎたせいで、視線を戻すタイミングを一つ失った。
「案内役として、最低限だ」
「最低限が多いです」
「君が質問しすぎるからだ」
「質問したら、答えてくれるんですね」
「必要な範囲でな」
講義棟の端まで歩き、屋上へ続く階段の前で止まった。非常扉の向こうから、乾いた風の音が細く漏れている。
「最後に屋上。弁当を食べるなら、今日はここでいい」
「屋上に入れるんですか?」
「昼休みだけ開く。柵に近づくな。風が強い日は使うな。物を置く時は飛ばされない場所に置け」
「はい。危機管理ですね」
「そうだ」
「瀬野くん分類ですね」
「その分類を定着させるな」
扉を開けると、風が正面からぶつかり、額の髪が乱れた。屋上の床は日差しを吸って温かく、端のベンチにはまだ誰の荷物もない。
俺は柵から離れた場所を選び、ミユウが座る前にベンチの表面へ手を置いた。熱すぎない。濡れてもいない。問題ない。
「ここでいい」
「瀬野くん、今、座る場所を確認しました?」
「習慣だ」
「私のためではなく?」
「誰が座っても同じだ」
「では、今日は私が座ります」
ミユウが隣に腰を下ろす。近い。ベンチは広いはずなのに、肩と肩の間に弁当箱一つ分もない。
俺は弁当を開き、箸を取り出した。入っていた。当たり前だ。確認する必要はなかった。なのに、箸袋を破る音が少し大きくなった。
「瀬野くんのお弁当、きれいですね」
「詰めただけだ」
「自分で作ったんですか?」
「朝、時間があった」
「すごいです」
「卵を焼いて、米を詰めただけだ」
「それを、きれいに入れられるのがすごいです」
ミユウが自分の弁当箱を開け、俺の方へ傾けて見せた。彩りのいい野菜と丸いパン、薄く切られた肉料理が並び、ほのかにオリーブオイルの匂いがした。
「これは母に教わったものです。イタリアにいた時によく食べました」
「昼に重くないのか」
「見た目より軽いです。食べてみますか?」
「いや、いい」
「ひと口だけ」
「自分の分がある」
「交換です。瀬野くんの卵焼きも、ひと口ください」
箸の先が卵焼きの手前で止まった。
医学生たるもの、食事中の手指運動を乱してはいけない。箸は物体を挟む道具であり、精神状態を外部に公開する計測器ではない。
「……好きにしろ」
「ありがとうございます」
ミユウは顔を近づけ、俺の弁当を覗き込んだ。銀の髪が頬の横を流れ、昼の光を受けた一本が俺の箸の上に重なりそうになる。
「どれが瀬野くんのおすすめですか?」
「卵」
「やっぱり」
「見れば分かるだろ」
「瀬野くんが一番丁寧に詰めた顔をしていました」
「顔で詰めていない」
「でも、出ています」
「何がだ」
「大事に作った感じです」
俺は卵焼きを一切れ取り、彼女の弁当箱の蓋に置いた。箸先が蓋に触れて、小さな音を立てる。
ミユウは代わりに小さな肉料理を差し出した。
「どうぞ」
「自分で取る」
「落とすといけないので」
「落とさない」
「では、受け取ってください」
彼女の箸が近づき、俺の弁当の上で止まった。手を出せばいいだけなのに、俺の指は箸を握ったまま固まる。
風が首筋を抜けた。耳が熱い。喉の奥が狭い。視線は肉料理を見るべきなのに、ミユウの指先に吸われる。
「瀬野くん?」
「……置け」
「はい」
蓋の上に置かれた肉料理を口へ運ぶと、香草と塩気が舌に広がった。知らない味なのに、強すぎず、噛むたびに油がほどける。
「どうですか?」
「悪くない」
「瀬野くんの悪くない、いただきました」
「評価としては十分だ」
「卵焼き、おいしいです」
「甘いだろ」
「少し。やさしい味です」
「砂糖の量の問題だ」
「砂糖だけでは、こうなりません」
俺は米を口へ入れ、必要以上に噛んだ。箸が次の具へ行くまでの距離を間違え、空の場所を一度つまむ。
ミユウの視線がそこに落ちた。
「瀬野くん」
「なんだ」
「今、何もないところをつまみました」
「米粒だ」
「ありませんでした」
「見間違いだ」
「耳も赤いです」
「風のせいだ」
「風は反対から吹いています」
「日差しだ」
「日差しは前からです」
「体温調節だ」
「医学生らしい言い方です」
俺は弁当箱を持つ手に力を入れた。プラスチックの角が指の腹へ食い込み、冷めた米の重みが手首に乗る。
医学生たるもの、観察される側に回った時こそ平常を保つべきだ。表情筋、呼吸、発声、視線移動、箸の角度。それらを統合して、何事もなかったように処理する。できる。できるはずだ。
「……午後の講義に遅れるぞ」
「まだ時間、あります」
「早めに戻る」
「瀬野くん」
「今度はなんだ」
ミユウは弁当箱の蓋を閉じ、膝の上で両手を重ねた。風で乱れた髪を耳にかける仕草が、やけに近く見えた。
「今日、ずっと見てくれていました」
「案内だからな」
「段差の前で遅くなって、曲がる前に振り返って、扉を押さえて、ベンチの温度も見てくれました」
「偶然だ」
「偶然が多いです」
「君が危なっかしいだけだ」
「それも、優しさです」
声を返そうとして、喉の奥で詰まった。屋上の風が弁当袋をこすり、薄い布が指に当たる。
ミユウが少しだけ顔を寄せた。
「瀬野くん」
「……近い」
「はい」
「離れろ」
「少しだけです」
「少しの基準がおかしい」
「全部出ています」
箸が、弁当箱の縁に当たった。
乾いた音が指の骨まで響いた。
「顔も、耳も、視線も、箸も。あと、優しいところも」
屋上の床から上がる熱が、膝に触れていた。
今回もお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら、評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。




