第1話 再会
このお話は、なろう原作版「勇者目指します」のスピンオフとなっております。医療ヒューマンドラマですが、事前の専門的医療知識がなくてもお読みいただけますので、楽しんでくださると嬉しいです。
俺は瀬野龍夜――出席票の隅に印字された自分の名前を親指で押さえ、少し乱れた黒髪が額にかかるのも直さないまま、俺は大講堂の長机に医学書を開いていた。
星雲大学の大講堂は、普通科と医学科の生徒で埋まり、制服の布が擦れる音、スマホを伏せる音、椅子の脚が床を引っかく音が幾重にも重なって、ページの薄い紙まで震わせている。
講堂前方のスクリーンには「編入生紹介」の文字が映り、後ろの席では誰かが「今時転校ってあるんだ」と声を弾ませ、その一言に何人もが身を乗り出した気配が、背中越しにどっと寄せてきた。
俺はその波から目を外し、心臓の構造図に視線を落とした。
左手でページの端を押さえ、右手のシャープペンで僧帽弁の位置に小さく線を引き、欄外に短く数字を書き込む。
医学部一年の講義で使うには重すぎる本だと周囲に何度も言われたが、厚みのある紙の抵抗と、インクのわずかな匂いと、指の腹に触れる活字の凹凸だけは、余計な声を遠ざけるのに都合がよかった。
壇上のマイクが息を拾い、普通科の列から小さな歓声が起こっても、俺はページをめくる速度を変えなかった。
「それでは、紹介します」
教員の声が天井へ伸びた瞬間、講堂のざわめきは逆に濃くなった。誰かがスマホを構え、誰かが隣の肩を叩き、医学科の白衣組まで首を伸ばす。
俺はペン先を図版の上に置いたまま、まぶたの裏に浮かびかけた白い羽根を押し返した。
ここは天界アストリアではない。剣の柄を握る手ではなく、シャープペンを持つ手で、人を救う場所だ。そう刻み込むように、俺は医学書の背を左腕で押さえた。
壇上の横扉が開いた。
空調の風が講堂の前列を抜け、白いスーツの裾をわずかに揺らした。
制服が間に合わなかったのだろう、星雲大学の制服の列の中で、その白だけが切り取られた光のように浮いて見える。
肩から胸元へ流れる白銀の髪は、講堂の照明を受けるたび細い糸を束ねたように艶めき、歩くたびに毛先が遅れて揺れた。俺のペン先は紙に触れたまま止まり、引き損ねた線だけが図版の端で少し曲がった。
「イタリアからの帰国子女で、本日より普通科に編入する、ミユウ・ルミナスさんです」
音が消えたのではない。むしろ、周囲は一斉に沸いた。普通科の生徒が「きれい」と息を漏らし、後ろの誰かが「映画みたい」とつぶやき、医学科の席でも椅子が一つ鳴った。けれど俺の耳には、教員の言った名前だけが、机の上を転がる金属片みたいに何度もぶつかった。
ミユウ・ルミナス。
俺の右手からシャープペンが滑った。慌てて押さえようとした肘が医学書の角を打ち、分厚い本は机の上で一度跳ね、隣の机にぶつかり、最後に床へ落ちた。開いたページが派手にめくれ、講堂の前から後ろまで聞こえそうな音を立てる。
数秒遅れて、周囲が吹き出した。
「首席、今の音やば」
「医学書って落とすとあんな音すんの?」
「瀬野くん、講堂壊す気?」
顔を上げるより先に、俺は床へ手を伸ばした。落ちた医学書は俺の靴先に当たり、開いたページを下にして止まっている。
拾うだけなら一秒で済む。そう分かっているのに、指が表紙に触れたところで動かなくなった。革のように硬い表紙の角が爪に当たり、床の冷たさが指先に伝わる。
壇上から、視線が届いた。
ミユウは胸の前で両手を重ね、紹介の声が終わるのを待っていた。
白いスーツの襟はきちんと整えられ、袖口からのぞく指は細く、講堂の空気にまだ馴染んでいない白さをしている。
彼女は一度、客席全体へ目を向け、それから、まるでそこに置き忘れたものを見つけたみたいに、俺を見た。
優しく微笑んだ。
俺は息を吸い損ねた。
かつて、白い羽根の下で俺を「あなた」と呼んだ声があった。
戦場の瓦礫の上で、血の匂いの中で、崩れそうな空を背にして、それでも俺の手を取った温度があった。
魔王の核へ剣を届かせるため、自分の命を差し出した最後の瞬間、握り返せなかった指の感触だけが、転生のたびに骨の内側へ残った。
何千回も名前を変え、顔を変え、時代を渡り、この人間界で瀬野龍夜として十八年を過ごしても、その感触だけは消えなかった。
なのに、壇上の彼女は俺を知らない。
俺を知らない目で、俺だけを見ていた。
「瀬野くん、拾わないの?」
隣から腕が伸び、俺の医学書の端をつまもうとした。
反射で俺は先に表紙を掴み、勢い余って本を抱え上げる。開いたページが胸元で折れ、シャープペンが床を転がり、前の席の脚に当たって止まった。
「大丈夫かよ、顔すごいぞ」
「……顔は関係ない」
そう返したつもりだったが、喉から出た声は妙にかすれ、隣の生徒がまた笑った。
俺は本を机に戻し、ページを閉じようとして、なぜか表紙と裏表紙を逆に重ねようとした。
紙が不自然にたわみ、慌てて直す。医学書は悪くない。悪いのは俺の手だ。俺の手が、医学生の手ではなく、剣を落とした男の手になっている。
壇上の教員が、ミユウへマイクを向けた。
「ミユウ・ルミナスです。日本での学校生活は初めてなので、分からないことも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
声は、昔と同じではなかった。少し高く、少し慎重で、言葉の端に外国で暮らした時間が滲んでいる。
それでも、母音の抜け方、息を置く間、最後に目を伏せる癖が、俺の記憶の奥へ指を入れてくる。俺は医学書の端を握りすぎて、親指の先が白くなった。
「日本語うま」
「白スーツ、かっこよ」
「普通科だよな? 医学科じゃなくて?」
声が飛び交い、前列の普通科の生徒たちが振り返ったり身を乗り出したりして、講堂は始業前の駅のホームみたいに膨らんだ。
ミユウはそれらを受け止めるように一つ一つへ軽く頭を下げ、それからまた、俺の方を見た。今度はほんの少し、首を傾ける。
それだけで、俺の心拍は医学書の図版より扱いにくくなった。
俺は視線を落とした。落とした先には、さっき引き損ねた線がある。
心臓の図の端を、情けない曲線が走っていた。剣で魔王の核を断った男が、十八歳の医学生になって、転校生の名前一つで線も引けない。笑われても仕方がない。いや、笑われている場合ではない。ここで妙な反応をすれば、普通科と医学科の合同紹介が終わったあと、噂は食堂、購買、学生用アプリの掲示板まで広がる。
俺はページの端に手をかけ、何事もなかったようにめくろうとした。
紙が二枚同時についてきた。
一枚戻す。
今度は三枚めくれた。
隣の生徒が肩を震わせている。俺はその肩を視界から切り、紙の端だけに集中した。
手術用の糸より薄い紙ではない。普通の紙だ。普通の紙を一枚めくるだけだ。そう考えた瞬間、なぜか指先に力が入り、ページの角が小さく折れた。
「瀬野くん、今日ちょっと面白いね」
「面白くない」
「いや、面白いって」
「違う。これは紙の摩擦係数の問題だ」
言ってから、自分でも何を口走ったのか分からなくなった。隣の生徒は机に額をつける勢いで笑いをこらえ、後ろの席から「摩擦係数だって」と囁きが広がった。俺は咳払いをして、折れたページの角を爪で伸ばす。伸ばしても白い筋は残った。
壇上では教員が今後の手続きについて話し始めた。制服の採寸、学生証の発行、普通科のホームルームへの案内。どれも俺には関係のない話のはずなのに、ミユウがそのたびにうなずく仕草から目が離れない。
白銀の髪が頬にかかると、彼女は指先で耳の後ろへ流した。その動きに、昔の彼女の仕草が重なる。
天界の庭で、風に乱れた羽根飾りを直した手。王城の回廊で、俺の外套についた灰を払った手。最後の戦いの前、震える俺の指を包んだ手。
俺は医学書を閉じた。
音を立てないように閉じたつもりだったが、表紙の重みが机を叩き、また周囲の視線を拾った。俺は顔を上げず、両手を膝の上に置く。
こういうときは姿勢を整えろ。呼吸を数えろ。状況を切り分けろ。目の前にいる少女は、ミユウ・ルミナスという名の転校生。十八歳。イタリアからの帰国子女。普通科所属。前世の記憶はない。
そこまで並べたところで、胸の奥がきしんだ。
事実を並べれば片づくものなら、俺はとっくに剣を置けていた。
「では、ルミナスさんは前方の席へ」
教員の声で、ミユウが壇上から降りた。白いスーツの裾が階段の角をかすめ、低い靴音が床に落ちる。
前列へ向かうだけなら、俺の席とは距離がある。俺はそう判断し、医学書の上に手を置いた。
その靴音が、途中でわずかに変わった。
まっすぐ前へ進む足音ではない。通路側へ寄る足音だ。俺は視線を上げないまま、長机の端に映る白い影を見た。隣の生徒が急に背筋を伸ばし、後ろの席から誰かの息が止まる音がした。講堂の空気が、ざわめきごとこちらへ傾く。
白いスーツの袖口が、俺の机の横で止まった。
「瀬野龍夜さん、ですよね?」
名前を呼ばれた。
俺は立ち上がろうとして、膝を机の裏にぶつけた。鈍い音がして、長机の上の医学書が一センチ跳ねる。
隣の生徒が今度こそ笑いを噛み殺せず、前の列の女子が振り返った。俺は膝を押さえるわけにもいかず、椅子を引くわけにもいかず、中途半端な角度で立ちかけたまま止まった。
「……はい。瀬野です」
声が固い。固すぎる。初対面の患者にこんな声を出したら、それだけで血圧が上がる。
ミユウは俺の膝が机にぶつかった音を聞いていたはずなのに、笑わなかった。むしろ、少し眉を下げて、机の上に落ちかけていたシャープペンを拾い、俺の方へ差し出した。
「落としました」
白い指先に、俺のシャープペンが乗っている。
たったそれだけの光景が、俺の喉を塞いだ。受け取るには手を伸ばせばいい。礼を言えばいい。初対面の相手として、普通に、何も知らないふりをして。
「……ありがとうございます」
俺はシャープペンを受け取った。指先が触れたのは一瞬だった。なのに、冷房で冷えたはずの講堂の空気とは違う温度が、皮膚の下に残った。
ミユウはそこでまた、あの微笑みを浮かべた。
「医学科の方なんですね。さっき、ずっと本を読んでいたので」
「授業の予習です」
「すごいです。私、まだ校舎の場所も覚えられていなくて」
「最初は誰でもそうです」
「では、迷ったら聞いてもいいですか?」
周囲が一斉にこちらを見た気配がした。普通科も医学科も関係なく、講堂のいくつもの目が俺の返事を待っている。隣の生徒が肘で俺の袖をつつきかけ、俺が横目で見たら、何もしていない顔で前を向いた。
断る理由はない。
引き受ける理由は、ありすぎる。
俺はシャープペンを握り直し、親指で芯を戻した。カチ、と小さな音が鳴る。
「……分かる範囲なら」
「ありがとうございます、瀬野さん」
その呼び方に、胸の奥で何かがずれた。
あなた、ではない。
当然だ。彼女は知らない。知らないままここにいる。
俺がかつて彼女の夫だったことも、天界アストリアで勇者と呼ばれたことも、魔王を倒すために自分の命を断ったことも、何千回の転生の果てにこの大学へたどり着いたことも。
それなのに、彼女は俺の机の横に立っている。
「ルミナスさん、席へ」
教員に呼ばれ、ミユウは小さく頭を下げた。
「また、あとで」
その一言を残して、彼女は前方の席へ向かった。白銀の髪が背中で揺れ、白いスーツの背が普通科の制服の列に溶け込んでいく。俺は座るのを忘れたまま見送っていたら、隣の生徒が机の下で俺の椅子を軽く蹴った。
「瀬野くん、座った方がいい。めちゃくちゃ見られてる」
「分かってる」
分かっていなかった。椅子に腰を下ろすとき、今度は医学書の角に袖が引っかかり、閉じたはずの本がまた開いた。周囲で細い笑いが漏れる。
俺は何も言わず、本を閉じ、両手で表紙を押さえた。手のひらの下で、分厚い医学書が妙に頼りなく感じる。
前方の席で、ミユウが振り返った。
一瞬だけ。
俺と目が合う。
彼女は口元だけで笑った。声はない。けれど、講堂のざわめきも、マイクの音も、机を叩く指の音も、その一瞬だけ奥へ退いた。
俺は返す言葉を持たず、ただ小さく会釈した。医学生としての礼儀に見える程度に。勇者だった男の未練には見えない程度に。
教員の話が再開された。
学生証の説明。今月の合同行事。キャンパスアプリの登録。講堂のあちこちでスマホが光り、画面を覗き込む生徒たちの顔が青白く浮かぶ。
俺もポケットのスマホを出しかけたが、指先がまだシャープペンの感触を覚えていて、やめた。ミユウが拾ったものを、机の上に置けなかった。
「なあ、瀬野くん」
隣が声を潜めた。
「知り合い?」
「初対面だ」
「初対面の顔じゃなかったけど」
「初対面だ」
「二回言うと余計に怪しいぞ」
俺は返事をしなかった。医学書を開き、心臓の図を見た。左心房、左心室、大動脈。血液は決まった道を流れる。逆流すれば弁が軋み、拍動が乱れ、全身に届くはずの酸素が足りなくなる。人間の体は、目に見えるものだけなら扱いやすい。どこで詰まり、どこが破れ、どこを縫えばいいのか、少なくとも手順がある。
記憶には、手順がない。
壇上の声が遠くなったわけではない。俺の内側で、別の音が大きくなっただけだ。
剣が砕ける音。羽根が焼ける匂い。最後に呼ばれた「あなた」という声。どれも今の講堂には存在しないのに、白銀の髪が揺れるたび、紙の上の図版に影を落とした。
俺はペンを持ち、欄外に一文字書こうとした。
芯が折れた。
小さな黒い欠片が紙の上に転がる。隣の生徒がまた見ている。俺は何事もなかったようにペン先をノックし、折れた芯を指で払った。指の腹に黒い粉がつく。
前方で、ミユウが配布資料を受け取っていた。両手で紙を持ち、隣の普通科の生徒に何かを尋ねている。横顔だけなら、ただの転校生だ。制服が間に合わなかった、少し目立つ帰国子女。そう見える。そう見えなければならない。
俺は視線を戻した。
医学書の文字が読めない。
読めないなら閉じろ。閉じて、話を聞け。今日の予定を把握しろ。医学部一年首席として、無駄な行動をするな。頭の中で命令を並べるほど、手元のシャープペンが傾いた。ペン先は心臓の図から外れ、余白に細い線を引く。
その線は、白い羽根の形になりかけていた。
俺はすぐに手で隠した。
合同紹介が終わる頃には、講堂の熱は別の方向へ流れていた。
普通科の生徒たちは新しい転校生の話で固まり、医学科の生徒たちは午後の実習予定を見ながら立ち上がる。長机の列が軋み、リュックのファスナーが開き、スマホのカメラ音がどこかで鳴った。
俺は医学書を閉じ、胸に抱えて立った。今度は膝をぶつけなかった。シャープペンも落とさなかった。表情も、たぶん崩れていない。そう信じるしかない。
前方の通路で、ミユウが配布資料を抱えて立ち止まっていた。
普通科の生徒に囲まれ、校舎の場所を聞かれている。彼女は一つ一つにうなずき、紙の端を指で押さえながら、少し困ったように笑っていた。俺の足は、出口へ向かう流れに乗っていたはずだった。
乗っていたはずなのに、止まった。
ミユウが顔を上げた。
俺を見る。
白銀の髪の隙間から、まっすぐに。
「瀬野さん」
その声だけで、医学書の角が胸骨に食い込んだ。
周囲の生徒が道を空ける。俺は一歩、前へ出る。講堂の床は硬く、革靴の底から冷たさが上がってくる。ミユウは資料を胸に抱え直し、俺の前で足を止めた。
「医学部の棟は、こちらで合っていますか?」
彼女が差し出したキャンパスマップには、普通科棟と医学部棟が青い線で結ばれていた。指先が地図の上で迷い、爪が紙を少し押している。俺はその指の横を示そうとして、手を伸ばした。
触れない距離で止めるつもりだった。
けれど、講堂の出口へ向かう生徒が背後から俺の肩にぶつかり、俺の指先が、ミユウの手の甲にかすれた。
冷房で冷えた紙。
白いスーツの袖。
その下にある、確かな温度。
俺の指先が、そこで止まった。
ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。もしおもしろいとおもわれましたら、評価、ブクマ、感想頂けると泣いて喜びます。




