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第10話 取引

「どういうことだ」


 星雲市の駅前通りは、夕方の光をまだ抱えたまま、ゆっくり夜へ沈もうとしていた。


 バスロータリーの向こうでは、制服姿の学生や会社帰りの人間が信号の色に合わせて流れていく。誰かの笑い声。自転車のベル。排気ガスの匂い。ビルのガラスに反射した西日が、俺の目を刺す。


 その全部が遠かった。


 目の前の女だけが、妙に鮮明だった。


 冬美梨花。


 雑誌編集者だと名乗った女は、こちらの問いに怯える様子もなく、薄いベージュのコートのポケットに片手を入れたまま笑っていた。三十二歳。落ち着いた化粧。綺麗に巻かれた髪。街のざわめきに紛れても、声だけは妙に耳へ残る。


「そのままの意味よ、瀬野龍夜くん」


 俺の隣で、ミユウが小さく息を呑んだ。


 彼女はまだ俺のことを思い出していない。


 名前以外の記憶を失い、俺を知らない人として見る。近づけば戸惑い、離れれば不安そうに目で追う。そんな不安定な距離のまま、俺たちはここまで来てしまった。


 なのに。


 この女は、そのミユウを見ていた。


 獲物を見つけた人間の目で。


「ミユウちゃんの記事、出されたくないでしょう?」


 喉の奥が熱くなった。


「彼女に何をするつもりだ」


「怖い顔。さすが医学部一年の学年主席。普段は優等生の顔をしているのに、こういう時はちゃんと男の子なのね」


「質問に答えろ」


 自分の声が低く沈んだ。


 冬美は肩をすくめた。悪びれた様子はない。むしろこちらの反応を楽しんでいるようにさえ見えた。


「別に、危害を加えるつもりはないわ。そんなことしたら私が困るもの。ただ、世間に見せるだけ」


「見せる?」


「イタリアから来た美少女帰国子女。事故で記憶を失った普通科一年生。病院棟に何度も通う医学部主席の男子学生。ねえ、並べるだけで絵になると思わない?」


 ミユウの指が、俺の袖を掴んだ。


 力は弱かった。


 けれど、その震えだけで十分だった。


 俺の中で、何かがゆっくり軋む。


「ミユウは見世物じゃない」


「そうね。本人はそう思っているでしょうね。でも、読む側は違う。人は可哀想な女の子が好きなの。守ろうとする男の子がいるなら、もっと好き。記憶喪失、帰国子女、若すぎる恋、医学生の献身。どれも売れる」


「ふざけるな」


「ふざけてないわ。仕事よ」


 冬美はスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。


 そこには、遠くから撮られた俺とミユウの姿があった。


 病院棟の外。大学の通路。彼女が不安げに立ち止まり、俺が少し離れて寄り添っている写真。どれも決定的なものではない。けれど、切り取り方ひとつで意味はいくらでも変えられる。


 胸の奥で、冷たいものが広がった。


 俺一人ならまだいい。


 学年主席だろうが、医者を目指していようが、叩かれるなら俺が受ければいい。噂も、悪意も、誤解も、全部俺の上に落ちればいい。


 だが、ミユウは違う。


 彼女はまだ、自分の足元さえ確かめながら歩いている。昨日のことも、俺とのことも、自分がどんなふうに笑っていたのかさえ知らない。そんな彼女を、勝手に物語にされて、知らない人間の好奇心に晒されるなんて。


 許せるはずがなかった。


「写真を消せ」


「無理」


「消せと言っている」


「怒鳴れば消えると思う? 残念だけど、私のスマホだけじゃないわ。こういう仕事をする人間が、証拠を一か所に置いておくと思う?」


 分かっていた。


 分かっていても、拳が震えた。


 力で奪えば終わる相手じゃない。ここで声を荒げれば、向こうはそれさえ記事にする。医学部主席が女性編集者を威圧。記憶喪失の少女を巡って激昂。いくらでも汚せる。


 俺は、今すぐ冬美を黙らせたい衝動を飲み込んだ。


 舌の奥に血の味がした。


「目的は何だ」


「話が早い子は好きよ」


 冬美はスマホをしまい、今度は鞄から薄い封筒を出した。


「ミユウちゃんのことを見逃してあげる。その代わり、あなたの記事を載せる許可を出して」


「俺の記事?」


「ええ。偽りの記事。瀬野龍夜という天才医学生の裏側。冷酷で計算高い主席。事故に遭った少女に近づいたのは、将来の美談作りのため。病院棟に通ったのも、献身的な自分を演出するため。そんな感じ」


 ミユウが息を止めたのが分かった。


 俺は動かなかった。


 動けば、全部壊しそうだった。


「嘘だ」


「嘘よ」


 冬美はあっさり認めた。


「でも、あなたが許可すれば形になる。取材に応じた、本人も認めた。そういう体裁を整えれば、読者は勝手に信じる」


「俺に、自分を売れと言っているのか」


「言い方を変えれば、ミユウちゃんを守るための取引ね」


 取引。


 その言葉が、ひどく安く聞こえた。


 人の人生を、心を、名前を、傷を、封筒一枚の軽さで動かそうとする女が目の前にいる。俺が積み上げてきたものも、これから掴もうとしているものも、彼女にはただの材料でしかない。


 俺は医者になる。


 今度こそ、誰も失わないために。


 大切な人が崩れていくのを、ただ見ているしかなかった過去を繰り返さないために。白衣を着る資格もないくせに、誰かの命に触れたいと願っている。医学部の席も、成績も、周囲の評価も、そのために掴み取ってきた。


 その全部を、ここで汚される。


 たぶん、大学にも広がる。


 家にも届く。


 将来、病院に立つたびに、あの記事がつきまとうかもしれない。患者に疑われるかもしれない。俺の言葉より、画面に残った嘘のほうが強い日が来るかもしれない。


 それでも。


 隣のミユウが、俺の袖を掴んだまま震えている。


 今の彼女は、俺の過去を知らない。


 俺がどれだけ彼女を大切にしていたのかも、俺がどんな後悔を抱えているのかも知らない。


 知らないままでいい。


 思い出せなくてもいい。


 彼女が今日を生きて、明日を怖がらずに目を開けられるなら、それでいい。


 俺は息を吐いた。


 夕方の空気が肺に入る。冷たいのに、胸の奥は焼けていた。


「その記事を出せば、ミユウには触れないんだな」


「龍夜くん」


 ミユウの声が、細く割れた。


 俺は彼女を見なかった。


 見たら、迷う。


 迷ったら、彼女が自分を責める。


 だから見なかった。


 冬美の目だけを見据えた。


「答えろ」


「ええ。ミユウちゃんの名前も、写真も、病気や事故のことも出さない。約束するわ」


「口約束に価値はない」


「あら、現実的」


「書面にしろ。録音もする。俺の記事を出す範囲、ミユウに一切触れないこと、今後も彼女を追わないこと。全部だ」


 冬美の目が、初めて少しだけ細くなった。


 俺がただ感情で突っ走るとでも思っていたのかもしれない。残念だが、俺は感情だけで動けるほど器用じゃない。怒りも、恐怖も、全部使う。ミユウを守るためなら、自分の評判くらい秤に乗せる。


 それが若さの暴走だと言われても構わない。


 綺麗な正解なんて、今ここにはない。


「思ったより面倒な子ね」


「面倒でいい。俺を売るなら、最低限の代金を払え」


「代金?」


「ミユウの安全だ」


 冬美は一瞬だけ黙った。


 車のエンジン音。信号が変わる電子音。どこかの店から流れる流行歌。


 街は何も知らない顔で動いている。


 俺の人生が今、音もなく別の方向へ折れようとしていることなんて、誰も知らない。


「いいわ。場所を変えましょう」


 冬美が駐車場の方を顎で示した。


「ここじゃ落ち着いて話せない。近くに個室のある店があるの。カラオケ屋。知ってる?」


「そこで何をする」


「書面の確認。録音。あなたが望むなら、条件のすり合わせも。私は仕事ができる子が好きだから、そこは付き合ってあげる」


「ミユウは連れて行かない」


 即答だった。


 ミユウの指が、俺の袖から離れた。


「待ってください。私も——」


「来るな」


 自分でも驚くほど、鋭い声が出た。


 ミユウの肩が小さく跳ねる。


 胸が痛んだ。


 けれど、ここで優しい声を出せば、彼女はついてくる。今のミユウは、自分が何に巻き込まれているのか正確には分かっていない。分からないまま、俺を心配して、こちらへ踏み込んでくる。


 それだけは駄目だ。


 冬美の目の前に、彼女をこれ以上置きたくなかった。


「ここで待っていろ。すぐ戻る」


「でも、瀬野さんが」


「大丈夫だ」


 嘘だった。


 何も大丈夫じゃない。


 俺の名前は汚れるかもしれない。未来は歪むかもしれない。今日の選択を、いつか後悔する日が来るかもしれない。


 それでも、今ここでミユウを守ると言う以外の言葉を、俺は持っていなかった。


 ミユウの青い瞳が揺れた。


 記憶を失っても、その目は変わらない。


 不安になると、少しだけ眉を寄せるところも。言いたいことを飲み込む直前、唇に力を入れるところも。俺を知らないはずなのに、俺の痛みに触れようとするところも。


 やめてくれ。


 そんな顔をされたら、俺は全部捨てるしかなくなる。


「俺を見るな」


 口から出た言葉は、最低だった。


 ミユウの表情が固まる。


 すぐに訂正したかった。違う。そうじゃない。君に傷ついてほしいわけじゃない。俺を見ていたら、自分のせいだと思うだろ。だから見るな。背負うな。これは俺が勝手に選ぶことだ。


 でも、言えなかった。


 冬美の前で、ミユウへの気持ちを一つでも見せれば、それすら材料にされる。


 俺は彼女から目をそらし、冬美の車へ歩いた。


 黒い小型車だった。後部座席のドアが開く。冬美の運転手らしき男がいたが、顔は見なかった。見ても意味がない。今、俺が見るべきものは、この取引の穴だけだ。


 乗り込む直前、ミユウが一歩踏み出した。


「瀬野さん」


 胸の奥が、引き裂かれるように痛んだ。


 振り返るな。


 そう命じたのに、体は勝手に止まった。


 俺は半分だけ振り向いた。


 ミユウは歩道に立っていた。夕方の光を受けた銀髪が、街の色から浮いて見える。人の流れの中で、彼女だけが取り残されたみたいだった。


 こんな場所に一人で置いていくのか。


 記憶もなく、不安も抱えたまま、俺を知らない彼女を。


 最低だ。


 けれど、連れていけばもっと最低になる。


「そこを動くな」


 俺は言った。


 命令みたいな声だった。


 ミユウの瞳が揺れる。


 俺は逃げるように車へ乗り込んだ。


 ドアが閉まると、外の音が鈍くなった。冬美が助手席に座り、こちらを振り返る。


「ずいぶん強く言うのね。可哀想に」


「黙れ」


「怖い怖い。でも、そういう顔のほうが記事には向いているわ」


 俺はスマホを取り出し、録音アプリを開いた。


「会話は全部録る」


「どうぞ」


「ミユウの名前を記事にも企画書にも出すな。写真も使うな。彼女の事故、記憶、大学生活に関わる情報を第三者へ渡すな。今後接触するな。破った場合は、俺はお前を潰す」


 冬美の笑みが深くなった。


「潰す?」


「法でも、世論でも、使えるものは全部使う。俺は医者になるために勉強しているが、医者になる前に人間をやめたつもりはない。大切な人を踏みにじる相手にまで礼儀を払うほど、できた人間じゃない」


 車内が一瞬、沈黙した。


 自分の声が、ひどく冷えて聞こえた。


 だが、胸の中では別の感情が暴れていた。


 怖い。


 失うのが怖い。


 ミユウが晒されるのが怖い。彼女が知らない人間の言葉に傷つけられるのが怖い。俺のせいで、彼女がまた世界を怖がるようになるのが怖い。


 好きだと口にしたこともない。


 恋だと認めきったこともない。


 それなのに、彼女を守るためなら、自分の未来を差し出せると思っている。


 馬鹿みたいだ。


 今時の若者なら、もっと軽く笑って、もっと器用に距離を取るのかもしれない。恋なんて面倒だと、傷つく前に逃げるのかもしれない。


 俺にはできなかった。


 ミユウが泣くくらいなら、俺が壊れたほうがいい。


「瀬野くん」


 冬美がゆっくり名前を呼んだ。


「あなた、自分が何を差し出そうとしているか分かってる?」


「分かっている」


「本当に? この手の記事は、消えないわよ。あとから否定しても、嘘だったと証明しても、一度ついた印象は残る。天才医学生。冷酷。利用。偽善。将来、誰かがあなたを検索した時、それが出てくるかもしれない」


「だから何だ」


 言葉が勝手に落ちた。


「彼女を晒す理由にはならない」


 冬美は俺を見ていた。


 その目に、さっきまでの軽薄な笑いは少し薄れていた。


「若いわね」


「それで構わない」


「無謀よ」


「それでも構わない」


 車がゆっくり動き出した。


 窓の外で、星雲市の景色が流れた。コンビニの明かり。横断歩道。駅前の花壇。見慣れた街が、別のものみたいに遠ざかっていく。


 俺は反射的に後ろを見た。


 ミユウがいた。


 歩道に立ったまま、こちらを見ていた。


 胸が詰まった。


 彼女は何かを言おうとしているように唇を開き、けれど声が届かず、足元を見た。俺が言った最低な言葉を、きっとまだ抱えている。


 俺を見るな。


 あんな言い方をする必要なんてなかった。


 でも、もう戻れない。


「カラオケ屋まで五分くらいよ」


 冬美の声がした。


「そこで、続きを話しましょう」


 俺は返事をしなかった。


 後部座席の窓に額が触れるほど近づく。ガラス越しに見えるミユウが、小さくなっていく。


 その時だった。


 ミユウが顔を上げた。


 風に銀髪が揺れる。


 閉まりきっていなかった窓の隙間から、街の音に混じって、かすかな声が滑り込んできた。


「……瀬野さん」


 ミユウはそう呟き、車を追いかけて走り出した。


(……来るな。……来るなよ。……そんな身体で……。)


 俺は、何度もつまづきながら、長い銀髪を振り乱して追いかけるミユウを、バックミラー越しに見つめることしか出来なかった。

ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたらぜひ評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

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