表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/12

第11話 奪還

「さぁ、着いたわ」


 冬美梨花はそう言って、薄暗い階段の下で足を止めた。


 看板には、古びた電飾でカラオケとだけ書かれている。駅前の通りから少し外れた、細い路地の奥だった。昼間なのに建物の影が濃く、入口のガラス戸には、指の跡と、はがれかけた料金表が残っている。


 病院でも大学でもない場所。


 それだけで、胸の奥が重く沈んだ。


「ここで話すんですか」


 俺が言うと、冬美は肩越しに振り返った。


「病院の近くじゃ人目が多すぎるでしょう。大学も同じ。あなた、有名人になりかけてる自覚が足りないわ」


「有名人になりたいなんて、一度も言ってません」


「言わなくても、なる時はなるのよ」


 冬美は当然のようにガラス戸を押し開けた。中から、古い空調のにおいと、甘い消臭剤のにおいが混ざって流れてくる。


 受付にいた年配の店員は、冬美の顔を見るなり、小さく頭を下げた。予約していたのか、冬美は名前も告げずに鍵を受け取った。


 狭い廊下を進む。壁には、少し色あせたポスターが何枚も貼られていた。明るい歌声がどこかの部屋から漏れているのに、俺たちの周りだけ妙に静かだった。


 冬美は一番奥の部屋の扉を開けた。


 小さなカラオケルームだった。


 二人掛けのソファ。低いテーブル。壁際のモニター。マイクが二本、雑にスタンドへ差してある。照明は青白く、窓はない。


 扉が閉まった瞬間、外の音が遠くなった。


「座って」


 冬美はテーブルの奥に腰を下ろし、バッグからタブレットと数枚の書類を取り出した。


 俺は反対側のソファに座った。制服の袖口が膝に触れる。自分の手元を見ると、指先だけが冷えていた。


「そんなに警戒しなくてもいいわ。今日はあなたにとって悪い話じゃない」


「ミユウを見逃すって言ったのは、本当ですか」


 俺が一番先に確かめたかったのは、それだけだった。


 冬美は唇の端を上げた。


「本当よ。ミユウ・ルミナスさんのことは、私の判断で追わない。事故のことも、記憶喪失のことも、今は記事にしない。彼女はまだ十八歳。晒し者にしたら、さすがに世間の反応が面倒だもの」


「面倒だから、ですか」


「理由なんて何でもいいでしょう。結果が欲しいんじゃないの?」


 その言い方に、胸の奥が熱くなった。


 ミユウが泣かずに済む。


 ミユウが、知らない大人たちに囲まれて、勝手に過去を暴かれずに済む。


 その結果だけを見れば、俺はここに来た意味があるのかもしれない。そう思おうとした。


 けれど、冬美の前に並べられた書類を見た瞬間、喉の奥が固くなった。


「これは?」


「掲載許可と、取材協力の同意書。あと、あなたの発言内容の確認書」


 冬美は淡々と言い、タブレットの画面をこちらに向けた。


 そこには、見出し案が表示されていた。


 異世界帰りの天才医学生、恋人を救うために沈黙を選んだ十八歳。


 その下に、俺の顔写真があった。


 いつ撮られたものかわからない。病院棟の外で、白衣を着た俺が横を向いている。無断で切り取られた一瞬が、まるで物語の主人公みたいに加工されていた。


「消してください」


「無理ね。素材はもう押さえてある」


「俺は取材を受けてない」


「今日、受けるのよ」


 冬美は紙の束を一枚ずつ並べた。


 俺の生い立ち。星雲大学医学部に入った経緯。成績。救命に関わった出来事。ミユウとの関係。事故の夜のこと。


 どれも、俺が自分で話したことではない。断片を拾われ、足りない部分を想像で埋められ、都合のいい形に変えられていた。


「これは事実じゃありません」


「全部が嘘でもないわ」


「嘘が混ざってるなら、それはもう俺の人生じゃない」


「瀬野くん」


 冬美は初めて、少しだけ声を低くした。


「あなたは頭がいい。だったら理解して。世の中に出る記事は、本人の人生そのものじゃない。読者が読みたい形に整えた商品よ」


「俺は商品じゃない」


「今はそう思っていても、すぐ慣れるわ。注目される。大学も病院も、あなたを無視できなくなる。奨学金、研究枠、将来の勤務先。悪いことばかりじゃない」


「ミユウは」


 俺の声が、自分でも思ったより低く出た。


「ミユウは、そこに出さないんですね」


「約束するわ」


 冬美は迷わず答えた。


「彼女の名前は出さない。写真も出さない。事故の詳細もぼかす。だから、あなたが代わりに前へ出なさい」


 代わりに。


 その言葉だけが、頭の中に残った。


 俺がサインすれば、ミユウは守れる。


 そう考えれば簡単だった。俺が少し我慢すればいい。俺の名前が勝手に飾られても、俺の過去が都合よく並べられても、ミユウが傷つかないなら。


 けれど、テーブルの上の紙は、どれも薄いくせに重かった。


 俺がペンを持てば、そこから先は戻れない。


「ここに署名して」


 冬美が一枚の書類を差し出した。


 取材協力および掲載許可証。


 俺の名前を書く欄が、空白のまま待っている。


「あなたが自分で認めた形にする。そうすれば、誰も騒がない。私も彼女を追わない。あなたも彼女を守ったと言える」


「守ったことに、なるんですか」


「なるわ」


 冬美は即答した。


「少なくとも、何もしないよりは」


 何もしない。


 その言葉は、痛いところに刺さった。


 ミユウは記憶を失っている。俺と過ごした時間を覚えていない。それでも、俺の前で笑おうとしてくれた。わからないことだらけのはずなのに、俺を責めなかった。


 そんなミユウを、俺はもう一度傷つけたくなかった。


 冬美のやり方は気に入らない。俺の人生を勝手に並べることも、ミユウを人質みたいに扱うことも、腹の底から嫌だった。


 それでも、この場で俺が拒めば、冬美はミユウへ向かう。


 それだけは駄目だ。


 俺はペンを取った。


 安いボールペンだった。キャップの先が少し欠けている。指に触れるプラスチックの感触が妙に現実的で、逃げ場がなかった。


「賢い選択よ」


 冬美が言った。


「これで彼女は守られる。あなたは痛みを引き受ける。読者は泣ける。全員に役割がある」


「読者のために生きてるわけじゃない」


「でも読者は、そういうあなたを好きになる」


 俺は返事をしなかった。


 書類に視線を落とす。


 瀬野龍夜。


 その四文字を書くだけで、何かが終わる気がした。


 俺はペン先を署名欄に近づけた。


 インクが紙に触れる、その寸前だった。


 廊下の向こうで、何かが強くぶつかる音がした。


 次に、走る足音。


 店員の慌てた声。


 冬美が眉をひそめる。


「何?」


 扉が勢いよく開いた。


 青白い照明の中へ、ミユウが飛び込んできた。


「……はっ! はぁっ!」


 息が荒い。


 銀白の髪が乱れ、汗で額と頬に張り付いていた。前髪の先から、小さな汗が落ちる。スーツのリボンは少し曲がり、肩で何度も息をしている。


 走ってきたのが一目でわかった。


 入口のところで一度よろめき、それでもミユウは足を止めなかった。細い指で扉の縁をつかみ、体を支えながら、俺と冬美の間に視線を走らせる。


「ミユウ」


 俺は立ち上がった。


「どうしてここに」


「……瀬野さんが」


 ミユウは息を整えきれないまま、俺を見た。


「瀬野さんが、ひとりで……行って。

それで……わたし……」


 なぜだ。


 あれほど来るなと言ったのに。


 聞きたいことはいくつもあった。


 でも、その顔を見た瞬間、全部消えた。


 ミユウの頬は赤く、呼吸は乱れている。唇は乾き、胸元が大きく上下していた。それでも目だけは、まっすぐだった。


 記憶を失ったはずの彼女が、俺のためにここまで走ってきた。


 それがわかっただけで、胸が痛いほど熱くなった。


「ミユウ、無理するな。座って」


「嫌です」


 ミユウは首を振った。


 俺の前へ出ようとする足取りは危うかった。けれど、迷いはない。


「瀬野さん、サインしないでください」


 冬美がゆっくり立ち上がった。


「ミユウさん。あなたには関係のない話よ」


「あります」


 ミユウはすぐに言い返した。


 まだ息は乱れている。言葉の合間に、短く空気を吸い込む音が混じった。


「あります。だって、瀬野さんが苦しそうな顔をしているから」


 俺は何も言えなかった。


 苦しそうな顔。


 自分では、顔に出していないつもりだった。冷静に判断しているつもりだった。ミユウを守るために、一番ましな選択を選ぼうとしているつもりだった。


 けれど、ミユウには見えていた。


 記憶がなくても。


 俺の名前を、まだ距離のある呼び方で呼んでいても。


「瀬野くんは納得しているわ」


 冬美は、声に笑みを混ぜた。


「あなたを守るためにね。彼は自分で選んだの。邪魔をしないで」


「守るって、そんなの違います」


「何が違うの?」


「瀬野さんを傷つけて、瀬野さんの名前を勝手に使って、それで私を守ったことにするなんて」


 ミユウは一歩、冬美へ向かった。


 足元がふらついた。俺は反射的に手を伸ばしかけたが、ミユウは自分で踏みとどまった。


「そんなの、守るじゃありません」


 冬美の表情から、笑みが消えた。


「ずいぶん強く言うのね。あなた、自分がどれだけ危うい立場かわかってる? 事故、記憶喪失、彼との関係。世間が知りたがる材料はいくらでもあるのよ」


「だからって」


 ミユウの声が、一瞬だけ細くなった。


 それでも、彼女は下がらなかった。


「だからって、人の人生を勝手に売っていい理由にはなりません」


「綺麗事ね」


「綺麗事でもいいです」


 ミユウは、俺の前に立った。


 細い背中だった。


 いつもなら、俺が守る側に立つはずだった。危険なものがあるなら、俺が前へ出る。何か言われるなら、俺が受ける。それが当然だと思っていた。


 けれど今、ミユウは俺を背にして立っている。


 汗で乱れた銀髪が、青白い照明を受けて揺れた。


 小さな肩は上下している。限界に近いのは明らかだった。


 それでも、彼女は冬美から目をそらさなかった。


「瀬野さんの人生、おもちゃみたいにしないで!」


 カラオケルームの狭い壁に、その声が強く響いた。


 冬美の目が見開かれた。


 俺も息を止めた。


 ミユウの声は、綺麗なだけじゃなかった。怒りがあった。悔しさがあった。俺のために走ってきた人間の、剥き出しの感情があった。


 冬美は、しばらく言葉を失っていた。


 雑誌編集者としての計算も、余裕のある態度も、その一瞬だけ崩れた。


「あなた……記憶がないんでしょう」


 冬美が低く言った。


「彼のことを、まだ全部思い出していないんでしょう。それなのに、どうしてそこまで」


「覚えていなくても、わかります」


 ミユウは答えた。


「瀬野さんは、私を売らなかった。私を責めなかった。私が何も思い出せなくても、ひどい言い方をしなかった。だから、今度は私が止めます」


 俺は奥歯を噛んだ。


 胸の奥に押し込めていたものが、乱暴に引きずり出されるようだった。


 俺は守っているつもりで、またひとりで決めようとしていた。


 ミユウが傷つかない道を選んだつもりで、ミユウの気持ちを置いていこうとしていた。


 彼女はそれを追いかけてきた。


 息を切らして、髪を乱して、それでも俺の前に立った。


「ミユウ」


 名前を呼ぶと、ミユウの肩がわずかに動いた。


「もういい。わかった」


「……瀬野、さん」


「サインしない」


 俺はペンをテーブルに置いた。


 カツン、と乾いた音がした。


 冬美の視線が俺に戻る。


「瀬野くん。感情で判断すると後悔するわよ」


「感情で決めたんじゃない」


 俺は書類を冬美の方へ押し返した。


「俺の人生は、俺のものです。ミユウを守るためでも、あなたに渡すものじゃない」


「彼女が記事になるかもしれないのよ」


「その時は、俺が正面から止めます」


「どうやって?」


「逃げずに抗議する。大学にも病院にも相談する。必要なら正式に対応してもらう。あなたが相手でも、雑誌でも、俺はもう勝手に差し出さない」


 言いながら、自分の中で何かが定まっていくのを感じた。


 異世界で剣を握っていた時も、俺は何度も間違えた。強ければ守れると思った。ひとりで背負えばいいと思った。けれど、人間界に戻っても同じことを繰り返すなら、何も学んでいない。


 今の俺は、医学生だ。


 剣ではなく、言葉と手順と、そばにいる人の声で戦う場所にいる。


 それでも、守りたいものは変わらない。


「私は甘くないわよ」


 冬美の声は冷えていた。


「あなたたちが拒んだなら、こちらも次の手を考える。世間は優しくない。若い二人の綺麗な絆だけで、何でも守れると思ったら大間違いよ」


「絆だけじゃないです」


 ミユウが言った。


 声は少し掠れていた。


「瀬野さんには、瀬野さんの人生があります。私にも、私の人生があります。あなたの紙面を埋めるためにあるんじゃありません」


 冬美が何か言い返そうとした。


 その時、テーブルの上でスマホが震えた。


 冬美のものだった。


 画面が光る。冬美は一瞬だけ無視しようとしたが、表示を見た途端、表情を変えた。


「何?」


 通話に出た声から、さっきまでの余裕が消えていた。


 俺はミユウの背中に手を伸ばした。


「ミユウ、こっちへ」


 ミユウは振り返ろうとした。その瞬間、膝から力が抜けた。


「あ……」


 体が横に傾く。


 俺はすぐに腕を回し、ミユウを抱き止めた。


 軽かった。


 走ってきた熱が、制服越しに伝わってくる。額には汗が滲み、呼吸はまだ速い。俺の腕の中で、ミユウは必死に目を開けていた。


「ごめん、なさい……足、力が」


「謝らなくていい」


 俺はソファに座らせるように支えた。


 ミユウの髪が頬に触れた。汗で湿った銀髪から、外の空気と、少しだけ甘い香りがした。


「瀬野さん、サイン……」


「してない」


 俺ははっきり言った。


「もうしない」


 ミユウの目に、ほっとした色が浮かんだ。


 その顔を見て、俺はようやく息ができた気がした。


 冬美の声が鋭くなる。


「本当なの? 場所は? 誰が見たの?」


 彼女は俺たちを見ていなかった。


 スマホを耳に押し当て、テーブルの上の書類も、俺のペンも、ミユウの存在も、意識の外へ追いやっていた。


 冬美の目は、別の獲物を見つけた人間の目に変わっていた。


「襲撃犯の目撃情報が入った!」


 電話の向こうの声までは聞こえない。けれど、冬美のその一言だけで十分だった。


 襲撃犯。


 その言葉で、カラオケルームの空気が一気に変わった。


 冬美はバッグに書類を乱暴に突っ込み始めた。俺たちを追い詰めていた記事も、許可証も、今は邪魔な紙束にしか見えていない。


「写真は? 映像はある? 場所を送って。すぐ行く」


 冬美は立ち上がり、タブレットを抱えた。


 俺に向けていた刃のような関心が、完全に外れたのがわかった。


 ミユウは俺の腕の中で、小さく息を整えている。まだつらそうではある。けれど、さっきまで彼女を縛っていた緊張はほどけていた。


 冬美は扉の前で一度だけ振り返った。


「瀬野くん。今日は運がよかったわね」


「運じゃありません」


 俺はミユウを支えたまま答えた。


「ミユウが来たんです」


 冬美の目が少し細くなる。


 けれど、もう言い返している時間はないらしい。彼女は舌打ちをこらえるように息を吐き、扉を開けた。


「この話、終わったと思わないで」


「少なくとも、今日は終わりです」


 冬美は返事をしなかった。


 廊下へ出る足音が遠ざかっていく。受付の方で店員と短く何かを話す声がして、やがて入口のガラス戸が閉まる音が響いた。


 部屋に残ったのは、俺とミユウだけだった。


 モニターには、誰も選んでいない曲の待機画面が映っている。青白い光が、低いテーブルと、置き去りにされた一本のペンを照らしていた。


 俺はペンを見た。


 ほんの数分前まで、あれで自分の人生を渡そうとしていた。


 馬鹿なことをしたと思う。


 でも、その馬鹿な選択を止めてくれた人が、今、俺の腕の中にいる。


「瀬野さん」


 ミユウが俺を呼んだ。


 声はまだ弱い。それでも、さっきの叫びと同じ芯が残っていた。


「勝てましたか」


 俺はミユウの額に張り付いた髪を、指先でそっと横へ流した。汗で濡れた前髪の下から、まっすぐな瞳が見える。


「ああ」


 俺は答えた。


「勝てた」


「よかった……」


 ミユウは小さく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった硬いものが崩れた。


 俺はずっと、ミユウを守らなければと思っていた。


 記憶を失った彼女を、危険から遠ざけなければと。


 でも、ミユウは弱いだけの人じゃない。守られるだけの存在じゃない。自分の足で走って、怒って、俺の前に立てる人だ。


 俺はそれを忘れかけていた。


「ミユウ」


「はい」


「来てくれて、ありがとう」


 ミユウは少しだけ目を伏せた。


「私……瀬野さんのこと、まだ全部は思い出せません」


「うん」


「でも、嫌だったんです。瀬野さんが、ひとりで苦しい方へ行こうとしているのが」


 その言葉は、静かに胸へ落ちた。


 記憶が戻ったから来たんじゃない。


 恋人だった自覚があるから来たんじゃない。


 今のミユウが、今の俺を見て、走ってきてくれた。


 それが何より強かった。


「俺も、間違えた」


 俺は正直に言った。


「ミユウを守るって言いながら、ミユウの声を聞かずに決めようとしてた」


「瀬野さんは、私を守ろうとしてくれました」


「それでも、やり方を間違えたら駄目だ」


 俺はテーブルの上の書類がなくなった場所を見た。


 冬美が持っていったせいで、そこには何も残っていない。けれど、あの空白が逆に、俺たちが奪い返したものの形に見えた。


「俺は、俺の人生を勝手に売らせない。ミユウの人生も、売らせない」


 ミユウはゆっくり頷いた。


 その動きだけで、まだ体力が戻っていないのがわかった。


 俺はソファの背にミユウをもたれさせ、彼女の呼吸が落ち着くのを待った。もう急がなくていい。冬美はここにいない。許可証にサインする必要もない。


 外では、誰かの歌声がかすかに聞こえていた。明るいメロディなのに、遠い世界の音みたいだった。


 俺はミユウの手元を見た。


 指先に、走ってきた時についたのか、うっすらと壁の埃がついている。綺麗な制服も、今日は少し乱れていた。


 それが、たまらなく人間らしかった。


 完璧な天使でも、物語の飾りでもない。


 汗をかいて、息を切らして、怒って、倒れそうになっても立ち向かった十八歳の女の子。


 俺の大切な人。


「帰ろう」


 俺は言った。


「大学に戻って、ちゃんと相談する。冬美さんのことも、今日のことも。俺ひとりで抱えない」


「はい」


 ミユウは安心したように返事をした。


 俺は立ち上がる前に、テーブルの上に残っていたペンを手に取った。


 持ち主は冬美か、店のものか。どちらでもいい。


 俺はそれをテーブルの端に置き直した。


 もう握らない。


 もう、自分を売るための道具にはしない。


 ミユウがゆっくり立とうとしたので、俺は彼女の背中を支えた。今度はミユウも拒まなかった。肩を借りるように、俺の近くへ体を寄せる。


「すみません。少しだけ」


「いい」


 俺は短く答えた。


「今日は、俺が支える」


 ミユウが小さく笑った。


「さっきは、私が支えました」


「そうだな」


 俺も少しだけ笑えた。


 扉へ向かう。


 カラオケルームの青白い光が、背中側に遠ざかる。狭くて、息苦しくて、俺の人生が紙の上に閉じ込められそうになった場所。


 そこから、ミユウと一緒に出ていく。


 廊下に出ると、空調の音がやけに大きく聞こえた。受付の店員が心配そうにこちらを見たが、何も聞いてこなかった。ミユウの足取りはまだ頼りない。だから俺は、歩幅を合わせた。


 入口のガラス戸の向こうに、昼の光が見えた。


 冬美はもういない。


 彼女の関心は襲撃犯の目撃情報へ移り、俺たちを縛っていた糸は切れた。


 完全な解決ではない。


 冬美の言った通り、これで全部が終わったわけではないのかもしれない。


 それでも、今日の俺たちは負けなかった。


 ミユウが走ってきた。


 俺はサインをしなかった。


 俺たちは、自分たちの人生を取り返した。


 ガラス戸を押し開けると、外の空気が流れ込んできた。ミユウが眩しそうに目を細める。汗で額に張り付いた銀髪が、光を受けてやわらかく輝いた。


 俺は彼女を支えながら、ゆっくり一歩を踏み出した。


「ミユウ」


「はい」


 俺は前を向いたまま、静かに言った。


「……もう、大丈夫だ」

ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら、ぜひ評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ