第11話 奪還
「さぁ、着いたわ」
冬美梨花はそう言って、薄暗い階段の下で足を止めた。
看板には、古びた電飾でカラオケとだけ書かれている。駅前の通りから少し外れた、細い路地の奥だった。昼間なのに建物の影が濃く、入口のガラス戸には、指の跡と、はがれかけた料金表が残っている。
病院でも大学でもない場所。
それだけで、胸の奥が重く沈んだ。
「ここで話すんですか」
俺が言うと、冬美は肩越しに振り返った。
「病院の近くじゃ人目が多すぎるでしょう。大学も同じ。あなた、有名人になりかけてる自覚が足りないわ」
「有名人になりたいなんて、一度も言ってません」
「言わなくても、なる時はなるのよ」
冬美は当然のようにガラス戸を押し開けた。中から、古い空調のにおいと、甘い消臭剤のにおいが混ざって流れてくる。
受付にいた年配の店員は、冬美の顔を見るなり、小さく頭を下げた。予約していたのか、冬美は名前も告げずに鍵を受け取った。
狭い廊下を進む。壁には、少し色あせたポスターが何枚も貼られていた。明るい歌声がどこかの部屋から漏れているのに、俺たちの周りだけ妙に静かだった。
冬美は一番奥の部屋の扉を開けた。
小さなカラオケルームだった。
二人掛けのソファ。低いテーブル。壁際のモニター。マイクが二本、雑にスタンドへ差してある。照明は青白く、窓はない。
扉が閉まった瞬間、外の音が遠くなった。
「座って」
冬美はテーブルの奥に腰を下ろし、バッグからタブレットと数枚の書類を取り出した。
俺は反対側のソファに座った。制服の袖口が膝に触れる。自分の手元を見ると、指先だけが冷えていた。
「そんなに警戒しなくてもいいわ。今日はあなたにとって悪い話じゃない」
「ミユウを見逃すって言ったのは、本当ですか」
俺が一番先に確かめたかったのは、それだけだった。
冬美は唇の端を上げた。
「本当よ。ミユウ・ルミナスさんのことは、私の判断で追わない。事故のことも、記憶喪失のことも、今は記事にしない。彼女はまだ十八歳。晒し者にしたら、さすがに世間の反応が面倒だもの」
「面倒だから、ですか」
「理由なんて何でもいいでしょう。結果が欲しいんじゃないの?」
その言い方に、胸の奥が熱くなった。
ミユウが泣かずに済む。
ミユウが、知らない大人たちに囲まれて、勝手に過去を暴かれずに済む。
その結果だけを見れば、俺はここに来た意味があるのかもしれない。そう思おうとした。
けれど、冬美の前に並べられた書類を見た瞬間、喉の奥が固くなった。
「これは?」
「掲載許可と、取材協力の同意書。あと、あなたの発言内容の確認書」
冬美は淡々と言い、タブレットの画面をこちらに向けた。
そこには、見出し案が表示されていた。
異世界帰りの天才医学生、恋人を救うために沈黙を選んだ十八歳。
その下に、俺の顔写真があった。
いつ撮られたものかわからない。病院棟の外で、白衣を着た俺が横を向いている。無断で切り取られた一瞬が、まるで物語の主人公みたいに加工されていた。
「消してください」
「無理ね。素材はもう押さえてある」
「俺は取材を受けてない」
「今日、受けるのよ」
冬美は紙の束を一枚ずつ並べた。
俺の生い立ち。星雲大学医学部に入った経緯。成績。救命に関わった出来事。ミユウとの関係。事故の夜のこと。
どれも、俺が自分で話したことではない。断片を拾われ、足りない部分を想像で埋められ、都合のいい形に変えられていた。
「これは事実じゃありません」
「全部が嘘でもないわ」
「嘘が混ざってるなら、それはもう俺の人生じゃない」
「瀬野くん」
冬美は初めて、少しだけ声を低くした。
「あなたは頭がいい。だったら理解して。世の中に出る記事は、本人の人生そのものじゃない。読者が読みたい形に整えた商品よ」
「俺は商品じゃない」
「今はそう思っていても、すぐ慣れるわ。注目される。大学も病院も、あなたを無視できなくなる。奨学金、研究枠、将来の勤務先。悪いことばかりじゃない」
「ミユウは」
俺の声が、自分でも思ったより低く出た。
「ミユウは、そこに出さないんですね」
「約束するわ」
冬美は迷わず答えた。
「彼女の名前は出さない。写真も出さない。事故の詳細もぼかす。だから、あなたが代わりに前へ出なさい」
代わりに。
その言葉だけが、頭の中に残った。
俺がサインすれば、ミユウは守れる。
そう考えれば簡単だった。俺が少し我慢すればいい。俺の名前が勝手に飾られても、俺の過去が都合よく並べられても、ミユウが傷つかないなら。
けれど、テーブルの上の紙は、どれも薄いくせに重かった。
俺がペンを持てば、そこから先は戻れない。
「ここに署名して」
冬美が一枚の書類を差し出した。
取材協力および掲載許可証。
俺の名前を書く欄が、空白のまま待っている。
「あなたが自分で認めた形にする。そうすれば、誰も騒がない。私も彼女を追わない。あなたも彼女を守ったと言える」
「守ったことに、なるんですか」
「なるわ」
冬美は即答した。
「少なくとも、何もしないよりは」
何もしない。
その言葉は、痛いところに刺さった。
ミユウは記憶を失っている。俺と過ごした時間を覚えていない。それでも、俺の前で笑おうとしてくれた。わからないことだらけのはずなのに、俺を責めなかった。
そんなミユウを、俺はもう一度傷つけたくなかった。
冬美のやり方は気に入らない。俺の人生を勝手に並べることも、ミユウを人質みたいに扱うことも、腹の底から嫌だった。
それでも、この場で俺が拒めば、冬美はミユウへ向かう。
それだけは駄目だ。
俺はペンを取った。
安いボールペンだった。キャップの先が少し欠けている。指に触れるプラスチックの感触が妙に現実的で、逃げ場がなかった。
「賢い選択よ」
冬美が言った。
「これで彼女は守られる。あなたは痛みを引き受ける。読者は泣ける。全員に役割がある」
「読者のために生きてるわけじゃない」
「でも読者は、そういうあなたを好きになる」
俺は返事をしなかった。
書類に視線を落とす。
瀬野龍夜。
その四文字を書くだけで、何かが終わる気がした。
俺はペン先を署名欄に近づけた。
インクが紙に触れる、その寸前だった。
廊下の向こうで、何かが強くぶつかる音がした。
次に、走る足音。
店員の慌てた声。
冬美が眉をひそめる。
「何?」
扉が勢いよく開いた。
青白い照明の中へ、ミユウが飛び込んできた。
「……はっ! はぁっ!」
息が荒い。
銀白の髪が乱れ、汗で額と頬に張り付いていた。前髪の先から、小さな汗が落ちる。スーツのリボンは少し曲がり、肩で何度も息をしている。
走ってきたのが一目でわかった。
入口のところで一度よろめき、それでもミユウは足を止めなかった。細い指で扉の縁をつかみ、体を支えながら、俺と冬美の間に視線を走らせる。
「ミユウ」
俺は立ち上がった。
「どうしてここに」
「……瀬野さんが」
ミユウは息を整えきれないまま、俺を見た。
「瀬野さんが、ひとりで……行って。
それで……わたし……」
なぜだ。
あれほど来るなと言ったのに。
聞きたいことはいくつもあった。
でも、その顔を見た瞬間、全部消えた。
ミユウの頬は赤く、呼吸は乱れている。唇は乾き、胸元が大きく上下していた。それでも目だけは、まっすぐだった。
記憶を失ったはずの彼女が、俺のためにここまで走ってきた。
それがわかっただけで、胸が痛いほど熱くなった。
「ミユウ、無理するな。座って」
「嫌です」
ミユウは首を振った。
俺の前へ出ようとする足取りは危うかった。けれど、迷いはない。
「瀬野さん、サインしないでください」
冬美がゆっくり立ち上がった。
「ミユウさん。あなたには関係のない話よ」
「あります」
ミユウはすぐに言い返した。
まだ息は乱れている。言葉の合間に、短く空気を吸い込む音が混じった。
「あります。だって、瀬野さんが苦しそうな顔をしているから」
俺は何も言えなかった。
苦しそうな顔。
自分では、顔に出していないつもりだった。冷静に判断しているつもりだった。ミユウを守るために、一番ましな選択を選ぼうとしているつもりだった。
けれど、ミユウには見えていた。
記憶がなくても。
俺の名前を、まだ距離のある呼び方で呼んでいても。
「瀬野くんは納得しているわ」
冬美は、声に笑みを混ぜた。
「あなたを守るためにね。彼は自分で選んだの。邪魔をしないで」
「守るって、そんなの違います」
「何が違うの?」
「瀬野さんを傷つけて、瀬野さんの名前を勝手に使って、それで私を守ったことにするなんて」
ミユウは一歩、冬美へ向かった。
足元がふらついた。俺は反射的に手を伸ばしかけたが、ミユウは自分で踏みとどまった。
「そんなの、守るじゃありません」
冬美の表情から、笑みが消えた。
「ずいぶん強く言うのね。あなた、自分がどれだけ危うい立場かわかってる? 事故、記憶喪失、彼との関係。世間が知りたがる材料はいくらでもあるのよ」
「だからって」
ミユウの声が、一瞬だけ細くなった。
それでも、彼女は下がらなかった。
「だからって、人の人生を勝手に売っていい理由にはなりません」
「綺麗事ね」
「綺麗事でもいいです」
ミユウは、俺の前に立った。
細い背中だった。
いつもなら、俺が守る側に立つはずだった。危険なものがあるなら、俺が前へ出る。何か言われるなら、俺が受ける。それが当然だと思っていた。
けれど今、ミユウは俺を背にして立っている。
汗で乱れた銀髪が、青白い照明を受けて揺れた。
小さな肩は上下している。限界に近いのは明らかだった。
それでも、彼女は冬美から目をそらさなかった。
「瀬野さんの人生、おもちゃみたいにしないで!」
カラオケルームの狭い壁に、その声が強く響いた。
冬美の目が見開かれた。
俺も息を止めた。
ミユウの声は、綺麗なだけじゃなかった。怒りがあった。悔しさがあった。俺のために走ってきた人間の、剥き出しの感情があった。
冬美は、しばらく言葉を失っていた。
雑誌編集者としての計算も、余裕のある態度も、その一瞬だけ崩れた。
「あなた……記憶がないんでしょう」
冬美が低く言った。
「彼のことを、まだ全部思い出していないんでしょう。それなのに、どうしてそこまで」
「覚えていなくても、わかります」
ミユウは答えた。
「瀬野さんは、私を売らなかった。私を責めなかった。私が何も思い出せなくても、ひどい言い方をしなかった。だから、今度は私が止めます」
俺は奥歯を噛んだ。
胸の奥に押し込めていたものが、乱暴に引きずり出されるようだった。
俺は守っているつもりで、またひとりで決めようとしていた。
ミユウが傷つかない道を選んだつもりで、ミユウの気持ちを置いていこうとしていた。
彼女はそれを追いかけてきた。
息を切らして、髪を乱して、それでも俺の前に立った。
「ミユウ」
名前を呼ぶと、ミユウの肩がわずかに動いた。
「もういい。わかった」
「……瀬野、さん」
「サインしない」
俺はペンをテーブルに置いた。
カツン、と乾いた音がした。
冬美の視線が俺に戻る。
「瀬野くん。感情で判断すると後悔するわよ」
「感情で決めたんじゃない」
俺は書類を冬美の方へ押し返した。
「俺の人生は、俺のものです。ミユウを守るためでも、あなたに渡すものじゃない」
「彼女が記事になるかもしれないのよ」
「その時は、俺が正面から止めます」
「どうやって?」
「逃げずに抗議する。大学にも病院にも相談する。必要なら正式に対応してもらう。あなたが相手でも、雑誌でも、俺はもう勝手に差し出さない」
言いながら、自分の中で何かが定まっていくのを感じた。
異世界で剣を握っていた時も、俺は何度も間違えた。強ければ守れると思った。ひとりで背負えばいいと思った。けれど、人間界に戻っても同じことを繰り返すなら、何も学んでいない。
今の俺は、医学生だ。
剣ではなく、言葉と手順と、そばにいる人の声で戦う場所にいる。
それでも、守りたいものは変わらない。
「私は甘くないわよ」
冬美の声は冷えていた。
「あなたたちが拒んだなら、こちらも次の手を考える。世間は優しくない。若い二人の綺麗な絆だけで、何でも守れると思ったら大間違いよ」
「絆だけじゃないです」
ミユウが言った。
声は少し掠れていた。
「瀬野さんには、瀬野さんの人生があります。私にも、私の人生があります。あなたの紙面を埋めるためにあるんじゃありません」
冬美が何か言い返そうとした。
その時、テーブルの上でスマホが震えた。
冬美のものだった。
画面が光る。冬美は一瞬だけ無視しようとしたが、表示を見た途端、表情を変えた。
「何?」
通話に出た声から、さっきまでの余裕が消えていた。
俺はミユウの背中に手を伸ばした。
「ミユウ、こっちへ」
ミユウは振り返ろうとした。その瞬間、膝から力が抜けた。
「あ……」
体が横に傾く。
俺はすぐに腕を回し、ミユウを抱き止めた。
軽かった。
走ってきた熱が、制服越しに伝わってくる。額には汗が滲み、呼吸はまだ速い。俺の腕の中で、ミユウは必死に目を開けていた。
「ごめん、なさい……足、力が」
「謝らなくていい」
俺はソファに座らせるように支えた。
ミユウの髪が頬に触れた。汗で湿った銀髪から、外の空気と、少しだけ甘い香りがした。
「瀬野さん、サイン……」
「してない」
俺ははっきり言った。
「もうしない」
ミユウの目に、ほっとした色が浮かんだ。
その顔を見て、俺はようやく息ができた気がした。
冬美の声が鋭くなる。
「本当なの? 場所は? 誰が見たの?」
彼女は俺たちを見ていなかった。
スマホを耳に押し当て、テーブルの上の書類も、俺のペンも、ミユウの存在も、意識の外へ追いやっていた。
冬美の目は、別の獲物を見つけた人間の目に変わっていた。
「襲撃犯の目撃情報が入った!」
電話の向こうの声までは聞こえない。けれど、冬美のその一言だけで十分だった。
襲撃犯。
その言葉で、カラオケルームの空気が一気に変わった。
冬美はバッグに書類を乱暴に突っ込み始めた。俺たちを追い詰めていた記事も、許可証も、今は邪魔な紙束にしか見えていない。
「写真は? 映像はある? 場所を送って。すぐ行く」
冬美は立ち上がり、タブレットを抱えた。
俺に向けていた刃のような関心が、完全に外れたのがわかった。
ミユウは俺の腕の中で、小さく息を整えている。まだつらそうではある。けれど、さっきまで彼女を縛っていた緊張はほどけていた。
冬美は扉の前で一度だけ振り返った。
「瀬野くん。今日は運がよかったわね」
「運じゃありません」
俺はミユウを支えたまま答えた。
「ミユウが来たんです」
冬美の目が少し細くなる。
けれど、もう言い返している時間はないらしい。彼女は舌打ちをこらえるように息を吐き、扉を開けた。
「この話、終わったと思わないで」
「少なくとも、今日は終わりです」
冬美は返事をしなかった。
廊下へ出る足音が遠ざかっていく。受付の方で店員と短く何かを話す声がして、やがて入口のガラス戸が閉まる音が響いた。
部屋に残ったのは、俺とミユウだけだった。
モニターには、誰も選んでいない曲の待機画面が映っている。青白い光が、低いテーブルと、置き去りにされた一本のペンを照らしていた。
俺はペンを見た。
ほんの数分前まで、あれで自分の人生を渡そうとしていた。
馬鹿なことをしたと思う。
でも、その馬鹿な選択を止めてくれた人が、今、俺の腕の中にいる。
「瀬野さん」
ミユウが俺を呼んだ。
声はまだ弱い。それでも、さっきの叫びと同じ芯が残っていた。
「勝てましたか」
俺はミユウの額に張り付いた髪を、指先でそっと横へ流した。汗で濡れた前髪の下から、まっすぐな瞳が見える。
「ああ」
俺は答えた。
「勝てた」
「よかった……」
ミユウは小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった硬いものが崩れた。
俺はずっと、ミユウを守らなければと思っていた。
記憶を失った彼女を、危険から遠ざけなければと。
でも、ミユウは弱いだけの人じゃない。守られるだけの存在じゃない。自分の足で走って、怒って、俺の前に立てる人だ。
俺はそれを忘れかけていた。
「ミユウ」
「はい」
「来てくれて、ありがとう」
ミユウは少しだけ目を伏せた。
「私……瀬野さんのこと、まだ全部は思い出せません」
「うん」
「でも、嫌だったんです。瀬野さんが、ひとりで苦しい方へ行こうとしているのが」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
記憶が戻ったから来たんじゃない。
恋人だった自覚があるから来たんじゃない。
今のミユウが、今の俺を見て、走ってきてくれた。
それが何より強かった。
「俺も、間違えた」
俺は正直に言った。
「ミユウを守るって言いながら、ミユウの声を聞かずに決めようとしてた」
「瀬野さんは、私を守ろうとしてくれました」
「それでも、やり方を間違えたら駄目だ」
俺はテーブルの上の書類がなくなった場所を見た。
冬美が持っていったせいで、そこには何も残っていない。けれど、あの空白が逆に、俺たちが奪い返したものの形に見えた。
「俺は、俺の人生を勝手に売らせない。ミユウの人生も、売らせない」
ミユウはゆっくり頷いた。
その動きだけで、まだ体力が戻っていないのがわかった。
俺はソファの背にミユウをもたれさせ、彼女の呼吸が落ち着くのを待った。もう急がなくていい。冬美はここにいない。許可証にサインする必要もない。
外では、誰かの歌声がかすかに聞こえていた。明るいメロディなのに、遠い世界の音みたいだった。
俺はミユウの手元を見た。
指先に、走ってきた時についたのか、うっすらと壁の埃がついている。綺麗な制服も、今日は少し乱れていた。
それが、たまらなく人間らしかった。
完璧な天使でも、物語の飾りでもない。
汗をかいて、息を切らして、怒って、倒れそうになっても立ち向かった十八歳の女の子。
俺の大切な人。
「帰ろう」
俺は言った。
「大学に戻って、ちゃんと相談する。冬美さんのことも、今日のことも。俺ひとりで抱えない」
「はい」
ミユウは安心したように返事をした。
俺は立ち上がる前に、テーブルの上に残っていたペンを手に取った。
持ち主は冬美か、店のものか。どちらでもいい。
俺はそれをテーブルの端に置き直した。
もう握らない。
もう、自分を売るための道具にはしない。
ミユウがゆっくり立とうとしたので、俺は彼女の背中を支えた。今度はミユウも拒まなかった。肩を借りるように、俺の近くへ体を寄せる。
「すみません。少しだけ」
「いい」
俺は短く答えた。
「今日は、俺が支える」
ミユウが小さく笑った。
「さっきは、私が支えました」
「そうだな」
俺も少しだけ笑えた。
扉へ向かう。
カラオケルームの青白い光が、背中側に遠ざかる。狭くて、息苦しくて、俺の人生が紙の上に閉じ込められそうになった場所。
そこから、ミユウと一緒に出ていく。
廊下に出ると、空調の音がやけに大きく聞こえた。受付の店員が心配そうにこちらを見たが、何も聞いてこなかった。ミユウの足取りはまだ頼りない。だから俺は、歩幅を合わせた。
入口のガラス戸の向こうに、昼の光が見えた。
冬美はもういない。
彼女の関心は襲撃犯の目撃情報へ移り、俺たちを縛っていた糸は切れた。
完全な解決ではない。
冬美の言った通り、これで全部が終わったわけではないのかもしれない。
それでも、今日の俺たちは負けなかった。
ミユウが走ってきた。
俺はサインをしなかった。
俺たちは、自分たちの人生を取り返した。
ガラス戸を押し開けると、外の空気が流れ込んできた。ミユウが眩しそうに目を細める。汗で額に張り付いた銀髪が、光を受けてやわらかく輝いた。
俺は彼女を支えながら、ゆっくり一歩を踏み出した。
「ミユウ」
「はい」
俺は前を向いたまま、静かに言った。
「……もう、大丈夫だ」
ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたら、ぜひ評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。




