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第12話 同居

校長室の前で、俺のスマホが震えた。


 画面に表示されたのは、知らない番号。


 隣に立つミユウの肩が、小さく跳ねた。


「……また、ですか」


 白い廊下に、着信音だけがやけに冷たく響く。


 俺は画面を伏せた。三度鳴って切れたあと、すぐにメッセージが届く。


『どこにいるの? 話したいだけ』


 名前はない。


 けれど、誰なのかは分かっていた。


 冬美梨花。


 昨日、星雲大学の正門前で俺たちを待ち伏せし、ミユウを責めるような目で見た女だ。警備員が止めに入らなければ、あの場はもっとひどい騒ぎになっていた。


 あれで終わる相手じゃない。


「瀬野さん」


 ミユウ・ルミナスが、俺の顔を不安そうに覗き込む。


 事故で俺との記憶を失った彼女は、今も俺をそう呼ぶ。


 以前の距離には戻れない。


 それでも、俺の変化だけは見逃さない。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫だ」


 答えた声が、自分でも少し硬かった。


 ミユウは胸元で指を握る。


「私のせいで、瀬野さんに迷惑をかけています」


「違う」


 ほとんど反射で言っていた。


「ミユウのせいじゃない。あいつが勝手に追ってきているだけだ」


「でも……」


「でも、じゃない」


 俺はスマホをポケットに押し込んだ。


 ミユウは守られるだけの人形じゃない。


 普通科の転校生として、日本語も、一般教養も、レポートも、慣れない学園生活も必死に向き合っている。夜遅くまで辞書を引き、分からない言葉に付箋を貼り、翌朝には眠そうな顔で「今日も頑張ります」と笑う。


 そんな彼女に、余計な恐怖を背負わせたくなかった。


 俺は星雲大学医学部一年首席。


 医者になるために、ここにいる。


 なのに今の俺は、たった一人の女の子を安心させることもできていない。


「失礼します」


 ノックをして、俺は校長室のドアを開けた。


 重厚な机の向こうで、校長が俺たちを待っていた。


「瀬野龍夜君。ミユウ・ルミナス君。来てくれてありがとう」


「お時間をいただき、ありがとうございます」


 俺が頭を下げると、ミユウも慌てて続いた。


「ありがとうございます」


 校長は手元の書類を閉じた。


「昨日の件は、警備員から報告を受けている。大学の正門前での騒ぎだ。軽く扱うつもりはない」


 ミユウの指先が、袖を握る。


 俺は一歩だけ彼女の前に出た。


「俺が対応します。大学には迷惑をかけません」


「そういう話だけではない」


 静かな声だった。


 怒鳴られたわけじゃない。


 けれど、その一言で背筋が伸びた。


「学園の名誉を守ってくれたことには感謝する。だが君は医学部の首席で信頼を置いている。医学生の立場を忘れるな」


 胸の奥を、鋭く押された気がした。


 俺は軽く会釈する。


「はい」


 反論はできなかった。


 昨日、俺はミユウを守るために冬美を拒絶した。後悔はない。けれど俺は、感情だけで動いていい立場じゃない。


 俺の一言が、ミユウの立場まで悪くすることもある。


「瀬野さんは、私を守ろうとしてくれただけです」


 小さな声がした。


 ミユウだった。


 震えそうな声を押さえながら、それでも校長をまっすぐ見ている。


「昨日、私は怖かったです。知らない人に責められて、どうしたらいいか分かりませんでした。でも瀬野さんが前に立ってくれました。だから、私は逃げずにここに来られました」


「ミユウ」


「私は医学部のことは分かりません。普通科の授業についていくのも、まだ大変です。でも、瀬野さんが本気で医者になるために勉強している姿を見て、私も頑張ろうと思えました」


 ミユウは胸の前で指を組む。


「だから、瀬野さんが間違って叱られるのは、嫌です」


 校長室に沈黙が落ちた。


 俺はミユウの横顔を見つめていた。


 事故で記憶を失った彼女。


 昔みたいには笑ってくれない。


 それでも今、彼女は俺のために声を出した。


 好きだと、言ってしまいたくなる。


 でも今は違う。


 俺は医者になる。


 彼女の記憶にすがるんじゃなく、彼女が安心して暮らせる現実を作る。


 それが今の俺にできることだ。


「ルミナス君」


 校長が口を開く。


「君の言葉は分かった。大学としても、今後の警備体制は強化する」


「ありがとうございます」


「それと」


 校長は机の横に置かれた紙袋を手に取った。


 紺色の袋に、星雲大学の校章が入っている。


「制服が届いている」


 ミユウの目が、ぱっと開いた。


「私の、ですか?」


「そうだ。普通科の転校生として、今日から正式に君のものだ。サイズが合わなければ学生課へ言いなさい」


 ミユウは両手で紙袋を受け取った。


「ありがとうございます」


 その声は、少しだけ明るかった。


 校長は隣の応接室を示す。


「そこで着替えなさい。そのあと学生課へ行くように」


「はい」


 ミユウが応接室へ入ると、校長は俺に視線を戻した。


「瀬野君。守るという言葉は便利だ。時に、相手の人生を狭める」


「……分かっています」


「ルミナス君は普通科の学生だ。医学部の君とは学ぶ場所も背負うものも違う。君の人生に、彼女を巻き込みすぎるな」


 痛いところを突かれた。


 俺はミユウを守りたい。


 でも、彼女の自由まで奪いたいわけじゃない。


 守ることと、閉じ込めることは違う。


 それくらい、分かっているつもりだった。


「ただ」


 俺は拳を握った。


「今、彼女を放っておくことはできません」


 校長の眉が少し動く。


「冬美梨花は、俺の実家も知っています。大学の正門にも来た。ミユウが一人で帰る道を狙われる可能性もあります」


「だから?」


「実家を出ます。星雲大学近くのマンションを借ります。防犯設備のある場所です。ミユウも一緒に住みます」


 校長室の空気が、少し重くなる。


 当然だ。


 十八歳の男女が同居する。


 軽く聞こえる話ではない。


 けれど、ここで引くわけにはいかなかった。


「保護者には連絡済みです。契約も進めています。大学に迷惑はかけません。授業も成績も落としません」


「君はこれから、今まで以上に見られる。噂は真実より速く走る」


「承知しています」


「首席であることに甘えるな。首席だからこそ、疑われる」


「はい」


 俺は頭を下げた。


「それでも、俺はミユウを守ります。彼女が普通科の学生として、自分の居場所を作れるように」


 その時、応接室のドアが開いた。


 振り返った瞬間、呼吸が止まる。


 ミユウが、星雲大学普通科の制服を着て立っていた。


 紺色のジャケットに、淡い水色のライン。白いブラウスの襟元には上品なリボン。胸元の校章ブローチが小さく光り、スカートのプリーツが控えめに揺れる。


 銀白の髪と制服の色が、驚くほど合っていた。


 異世界のどこかから迷い込んだような彼女が、今は確かに星雲大学の学生としてここにいる。


 ミユウは袖口を少し引っ張りながら、恥ずかしそうに俺を見た。


「瀬野さん」


「……何」


「似合う?」


 言ってから、彼女ははっとする。


「あ、すみません。似合いますか、でした」


 校長室だというのに、俺は一瞬言葉を失った。


 その仕草が自然すぎて、消えたはずの距離が少しだけ戻った気がした。


 駄目だ。


 今、顔を見るな。


 俺はそっぽを向いた。


「似合ってる」


 小さく呟くと、ミユウが息を呑んだ気配がした。


「本当ですか?」


「嘘を言う理由がない」


「瀬野さん、そういう言い方だと、褒めているのか分かりにくいです」


「褒めてる」


 今度は、少しだけはっきり言った。


 ミユウの頬が薄く赤くなる。


「ありがとうございます」


 その笑顔を見た瞬間、俺は決めた。


 この顔を、冬美梨花にも、過去にも、俺自身の未熟さにも壊させない。


 校長室を出ると、ポケットのスマホがまた震えた。


『逃げないで』

『その子といるんだよね』

『家に行けば会える?』


 血の気が引いた。


 実家。


 そこまで来ているのか。


「予定を変える」


「え?」


「学生課に行ったら、そのままマンションへ向かう」


 ミユウの目が揺れた。


「本当に、私も行っていいんですか」


「行くんだ」


「でも、同居なんて……瀬野さんの勉強の邪魔になります」


「邪魔じゃない」


 俺は足を止めた。


 廊下の窓から、医学部棟が見える。


 あの中で俺は、医者になるために毎日知識を叩き込まれている。解剖学も、生理学も、覚えることは山ほどある。


 でも今、一番難しいのは自分の感情を間違えないことだった。


 ミユウに近づきたい。


 でも、記憶を失った彼女に昔の関係を押しつけたくない。


 守りたい。


 でも、彼女の自由まで奪いたくない。


「ミユウ」


「はい」


「俺は医学部の勉強をやめない。成績も落とさない。そこは絶対に譲らない」


「はい」


「その代わり、ミユウも普通科の勉強を続けろ。日本語も、一般教養も、レポートも。俺に合わせて、自分のことを後回しにするな」


 ミユウは驚いたように俺を見た。


「私は、瀬野さんを支えるって決めました」


「支えるのと、自分を消すのは違う」


 校長の言葉が、胸に残っていた。


 相手の人生を狭めるな。


「ミユウが自分の居場所を作ることが、俺にとって一番の支えになる」


 ミユウの瞳が揺れた。


 泣きそうなのに、泣かなかった。


「分かりました。私、普通科の課題も、日本語の勉強も、ちゃんと続けます。瀬野さんが医学部で頑張るなら、私も私の場所で頑張ります」


「それでいい」


「でも、夜食くらいは作ってもいいですか?」


「夜食?」


「瀬野さん、勉強していると食事を後回しにしそうです」


 図星だった。


 黙る俺を見て、ミユウが少しだけ得意そうに笑う。


「私は医学のことは分かりません。でも、瀬野さんが倒れないようにすることなら、少しはできます」


 その言葉が、思ったより深く胸に刺さった。


 医者を目指す俺が、倒れないように支えられる。


 格好悪い。


 でも、嫌じゃなかった。


「じゃあ、頼む」


「はい」


 学生課で説明を受け、警備上の注意を確認してから、俺たちは大学を出た。


 正門を通る時、ミユウの足がわずかに止まる。


 昨日、冬美梨花が立っていた場所。


 俺は何も言わず、彼女の隣に並んだ。


 手は握らない。


 今の彼女に、昔の距離を押しつけたくない。


 ただ、歩幅だけは合わせた。


 大学近くのマンションは、駅から少し離れた通りにあった。


 派手ではない。けれどエントランスにはオートロックがあり、管理人室も見える。学生向けにしては、防犯がしっかりしていた。


 鍵を受け取り、説明を聞く。


 オートロック、宅配ボックス、非常階段、来客時の対応。


 ミユウは一つひとつ、スマホにメモしていた。


「分からない言葉はありますか?」


 担当者に尋ねられ、ミユウは少し考えてから首を横に振る。


「大丈夫です。あとで自分で調べます」


 頼ればいいのに、と思う。


 でも、それがミユウなのだとも思った。


 彼女は誰かの荷物になることを望まない。


 自分の足で立とうとしている。


 部屋のドアが開いた。


 家具のない室内に、夕方の光が差し込んでいる。


 リビングは広くない。けれど、勉強机を二つ並べるには十分だった。廊下の先には部屋が二つある。


 それを確認して、ミユウがほっと息をついた。


「部屋、分かれているんですね」


「当たり前だ」


「すみません。変な意味ではなくて」


「分かってる」


 俺は荷物を床に置いた。


 まだベッドも机もない。


 生活感なんて、どこにもない。


 それでもここは、俺たちの新しい場所になる。


 ミユウが普通科の学生として朝起き、授業に行き、課題に悩み、少しずつ居場所を作る場所。


 俺が医学部の首席として机に向かい、何度も壁にぶつかりながら医者を目指す場所。


 同じ屋根の下で、別々の道を進みながら、互いを支える場所。


「瀬野さん」


 ミユウが玄関の方を見ていた。


「鍵、閉めてもいいですか」


「ああ」


 カチリ、と鍵の音がした。


 その小さな音に、ミユウの肩から少し力が抜ける。


 俺はスマホを取り出す。


 冬美からのメッセージは、さらに増えていた。


『家にいないの?』

『どこに行ったの?』

『その子のせい?』


 喉の奥に、熱い怒りが上がる。


 ミユウを物みたいに言うな。


 お前の都合で、彼女の居場所を壊すな。


 俺は返信せず、スマホの電源を落とした。


 今、感情で返せば、また間違える。


 医学生の立場を忘れるな。


 校長の言葉が、まだ耳に残っている。


「瀬野さん?」


 ミユウが不安そうにこちらを見る。


「何でもない」


「嘘です」


 すぐに返されて、少し驚いた。


「瀬野さんは、何でもない時にそんな顔をしません」


「どんな顔だよ」


「難しい医学書を読んでいる時より、怖い顔です」


 思わず息が漏れた。


 ミユウの表情が、少しだけ緩む。


「冬美さん、ですか?」


 俺は答えなかった。


 それだけで十分だったらしい。


 ミユウは視線を落とし、それでも逃げなかった。


「私、怖いです」


 小さな声だった。


「知らない場所で、知らない人に追いかけられるのは怖いです。事故のことも、思い出せないことも、まだ怖いです」


 胸が痛んだ。


 彼女にそんなことを言わせたくなかった。


 けれど、言ってくれてよかったとも思った。


 怖いと言える相手に、俺がなれているなら。


「でも」


 ミユウは顔を上げた。


「ここで、頑張りたいです。普通科の授業についていきたいです。日本語も、レポートも、もっとできるようになりたいです。瀬野さんが医学部で頑張る姿を、近くで見ていたいです」


 心臓が、変な音を立てた。


 近くで見ていたい。


 その言葉だけで、馬鹿みたいに嬉しくなる。


 でも、顔には出さなかった。


 ミユウが今求めているのは、恋愛の返事じゃない。


 安心できる日常だ。


「なら、ここで始めよう」


 俺はリビングの中央に立った。


「俺は医学部の勉強をする。ミユウは普通科の勉強をする。食事と掃除は分担。夜遅くに外へ出る時は、必ず俺に言え」


「瀬野さんも、食事を抜かないでください」


「努力する」


「努力じゃなくて、約束です」


 その声は強かった。


 守られるだけの人形じゃない。


 俺の生活に口を出し、俺が倒れないように怒ってくれる。


 その姿が、どうしようもなく眩しい。


「分かった。約束する」


「はい」


 外から、遠く車の音がした。


 普通の夕方。


 普通の生活音。


 けれど俺にとっては、戦いの始まりの音にも聞こえた。


 冬美梨花が諦める保証はない。


 大学内の噂も広がるかもしれない。


 医学部の首席であり続けることも、ミユウを守ることも、どちらか片方だけならまだ楽だった。


 でも俺は、どちらも捨てない。


 机に向かう。


 講義に出る。


 試験で結果を出す。


 ミユウの居場所を守る。


 その全部を、ここで始める。


 俺は玄関へ行き、チェーンロックをかけた。


 もう一度、カチリと音がする。


 ミユウがリビングの入口でこちらを見ていた。


 新しい制服。


 まだ慣れない部屋。


 消えた記憶。


 追ってくる影。


 それら全部を抱えたまま、彼女はここに立っている。


 俺は彼女の前まで戻り、できるだけ静かな声で言った。


「ここにいれば、もう安全だ」

ここまでお読みいただき、very very thanks‼︎です。少しでもおもしろいと思われましたらぜひ評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。

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