第46狂・ストケシア__断片の記憶を取り戻す時
病室に帰り、ドアを閉めると透架は項垂れる様に座り込む。
自分自身は何者なのだろうか。
あの女性は何か知っている様な素振りを見せて詰め寄っていた。
そもそも何故、記憶喪失になった?
そして何よりも時折にして雪崩れ込む様な、
あの情景は何を意味している?
言われて見れば名前以外、何も教えられていない。
家族はいるのか。
それが誰の誰なのか。その全てに心当たりが全く無い。
(______私は、何者?)
思い返してみれば、この身体は不思議だ。
意識は眠りにくく、身体には心当たりのない
無数の傷痕が浮かび上がっている。
そして無作為に脳裏に浮かぶのは
途切れ途切れの、誰かの記憶。
亡くした記憶の断片かと最初は思ったが、
それにしては何処か客観的で遠いものの様に見える。
まるで映画を、特等席で眺めるようなもの。
そう言えば、この部屋には、鏡はない。
目を覚ましてから一度も自分自身の顔立ちを
見詰めた事を一度もない。
自分自身が、
どんな顔立ちをしているのか、分からない事に今更気付いた。
何か、
記憶喪失から抜け出すきっかけが、あるのかも知れない。
心には暗雲めいた気持ちが蠢いているが、
好奇心を抑えられなかった。
化粧室に向かうと、恐る恐る鏡を覗く。
______そして唖然とした。
迷いを知らない真っ直ぐな髪。
雪のような肌に、目鼻立ちがくっきりと浮んでいる。
その顔立ちの雰囲気は何処か茫洋かつ憂鬱で、不透明な感じだ。
瞬間的に闇の心の中で硝子が割れる。
その散乱してた破片に映る、フィルムの様に重なる記憶達。
最初はただただ驚いた。
鏡の向こう側に居たのは、御影純架だったのから。
その瞳を見開かれ揺らいだ刹那に、脳裏に強く反響した言葉。
(_____私よ。何をぼうっとしているの?)
御影 透架。
御影純架の双子の姉。
女医で、純架の心臓の為に躍起に生きていた。
_______それが、自分自身の名前、人格だ。
驚愕と動揺。
透架は無意識的に項垂れて、床に膝を着いて瞳を伏せる。
静かに冷水が静かに心に浸水していく、
全て思い出した刹那に香取真帆という虚像は崩れ去り、
全てが、御影透架に戻っていく。
(どうして、忘れていたんだろう)
あの時の悲鳴と、少女とぶつかった衝撃。条件が蘇る。
あの時の衝撃で御影透架という人格を忘れていた。
なんて危機感がなく、迂闊なのだろう。
どうして、人格を手放してしまったのか。
まだ何も果たしていないのに。
こんな所で燻っている場合ではないのに。
そして思う。
純架と再会してしまったのだと。
___草摩智恵、診療室。
夜間診療で飛び込んできた患者は、血相が変わっていた。
その刹那、智恵は全てを悟る。
__その緊張感に溢れた顔付きは“あの親友しか写さない”から。
「………どう? 思い出した? ………御影透架さん」
「……………」
机に片手で頬杖を着き、悟りを開いた表情と声音で告げると、
透架は、俯いて沈黙の後に一つ頷いた。
「…………全部、思い出しました」
「…………そう。人格は戻った、という事ね」
智恵は冷静に電子カルテを開くと、
そのまま香取真帆の備考欄に、
日付の記載と共に記憶回復、と打った。
智恵は視線を感じる。
相手は何処か目許が据わっていた。
「言いたい事があるなら、どうぞ」
「………どうして、純架と、私を引き合わせたの」
何処か憂いを帯びた眼差しで、
透架は告げると智恵は口許を押さえて笑う。
「ちょっと待って。
それ、私が責められる事じゃないわ」
開き直って、挑発的に智恵は首を傾けた。
流石は、自他共認める演技派の女優体質だ。
「………私は、責めていないわ」
「利用する事になってしまった様な形になったのは謝る。
でもね、確認したかったの。
いいえ……見てみたかった、というべきかな。
本当に純架ちゃんは、貴女を見て拒絶反応を起こすのか………をね」
「……………‥」
透架の双眸が据わる。
「………純架の心臓で遊んでるの?
心理で遊びたいなら私だけでいい」
智恵は、
善良なのか、味方なのか、たまに分からない時がある。
そしてそのやり方が見覚えのある誰かに似ている気もするのだが、誰だろう。
「でも証明されたわ。
純架ちゃんは姉を見た、それでも変わらない。
SPO2の数値も同等。寧ろ、普段より安定してた」
「………私があれだけ、合わせる顔がない。って言ってたのに?」
ずっと癖の様に思っていた。
合わせる顔もない。もう二度と純架と再会する事は
ないのだと。
「それは、貴女の意見でしょ?
純架ちゃんは貴女を恋しがって、常に想ってる。
姉妹で意見が相違しているだけよ。
寧ろ、貴女は、
妹の気持ちを無視して蔑ろしてるんじゃない?
それに
何か転機がないと、この日常の繰り返しでしょう。
____貴女が何を考えているのかは、分からないけれど」
透架から見て智恵は余裕綽々だ。
それが演技なのか、本心なのかは分からないけれども。
「私は貴女の意見を尊重してきたつもりよ。
貴女は、私の恩人だからと見守るつもりでいたわ。
でも
純架ちゃんの気持ちを無視して、
勝手に一人暴走しているのは誰?」
____他でもない、貴女でしょう。
病室に戻り、
智恵が保管していた荷物を受け取り
バックの中身を整理していると、視界が霞んでいる事に気付いた。
軈てそれは涙腺が潤んでいるせいだと
気付いた時、不思議と涙が止まらなくなる。
涙を手で抑えながら蹲る。
純架とは、もうこの生涯で会わない、心に誓っていた。
合わせる顔がないという透架の意思と後ろめたさ、
そして透架の人生計画が
果たされれば、純架とは“二度と交わる事はないだろう”。
けれども今は、純架に自分自身の現状が知られてしまった。
無垢な純架は何も知らない。
自身を記憶喪失だと思い込んでいて、
またこの場所に訪れるだろう。
けれども
記憶を全て、取り戻した今は複雑だ。
(…………どんな顔をして、会えばいいの)
自分自身のせいで、深く傷付いた双子の妹。
要因と原因が存在がなければ、傷付つく理由もなかった筈だ。
何の罪もない彼女が、苦しまなければならないのか。
どうして、父親と同罪の自身が、のうのうと息をしているのか。
声を押し殺した啜り泣きが聞こえた気がした。
純架は伏し目がちになると、看護師に告げた。
「………今日は、面会を遠慮致します。
ここまで運んで下さったのに申し訳御座いません」
ドアの前まで来たのに、純架はそう言い切った。
草摩は再度確認したものの、純架は首を横に振り切った。
(…………透架、貴女が嘆く事はないわ。
裁かれるべきは、“あの女”よ。
その役目は、私が果たさないと………)
透架が次回より復帰です。




