第44狂・エリカ___罪を隠したもの
お久しぶりです。
凍て付く寒波。
不意に気付いたら、氷の水面の前に見詰めている。
一面の綺麗な銀世界に圧巻されながらも、銀世界は何処かで影を落としている。
不意に水面を歩く。
つま先から冷や水を浴びる様に冷めた熱は伝わった。
“彼女”はゆっくりと身を屈ませると、水面を見詰めた。
____水面は、何も映さない。
(___あれは、嘘だという事ですか)
娘達を前に見せていた微笑みも、言葉。
鮮やかな花の様な笑みを絶やさない貴女は、
ずっとペテン師の仮面を被って、どちらかを生贄に捧げるのだと。
玲緒は絶句して、反吐が出そうになる。
自身の“負い目”を娘何も知らない娘を使って果たそうとしていた、なんて。
(自分自身を不安を娘を生贄に出す事によって、安心しようとしたのですか)
母が犯そうとした罪を、消してしまいたかった。
例え、それが間違えた方法だとしても………。
純架は沢山の管が通る腕を見詰めると、流し目に玲緒を見る。
「______玲緒は、」
沈黙の果てに、少し目を伏せてそう呟いた。
その横顔は儚さを称えながらも、何処か悲哀に満ちている。
「私が “どんなに穢れたこと”をしていても、引かない?」
「…………それって、君が悪い事をした、ということ?」
自責という名の罪悪感を、彼女は抱えている。
直感的に玲緒はその心を見抜いて、純架に視線を寄せた。
純架は視線を泳がせて俯いていたものの、意を決したのか前を見据えた。
「____そう。私が“全ての元凶”……なの。
離れたくないものを“繋ぎ留めようとしたら、大変な事になってしまった”」
玲緒は、小首を傾げる。
純架の声が震えている事も、彼女の声音が微かに震えている
という事も。
あの幸せそうな、篠宮一家に何が起きていたのか。
「………母が透架を手放そうとした、という話。
あれは____母だけのせいじゃない」
そう声音は意外にも冷静沈着で、悟りを開いたかのよう。
唇を噛み締めてから純架は、話し始めた。
全ての因果の始まりを。
___御影家、自室。
ただ自分自身の保身ばかりを考えていた頃、
ひとつの嘘が、取り返しの付かない悲劇を生むなんて
あの頃は微塵も知らなかった。
手を組み合わせながら、
それに縋る様に暗闇の中で、桜は問いかける。
(私は知らず知らずの内にお姉様の事を追い詰めた。
でも、あの双子を、いたぶる事だけは間違いじゃないよね?)
ずっと抑えていたものが、視界を潤ませて
静かに頬に涙が伝わる。視界を指先で拭いながら桜は嗚咽する。
酔いが廻りながら、ずっと胸に抱えている“あの日”と
“自身の決断”をずっと後悔する。
そして何処かで
透架と純架さえいなかったら、と思うと憎しみが滾る。
彼女達が生きていれば、玲伽は自ら生を断ち切る事はしなかった。
屋上はテラス風になっていて、風当たりが良い。
山の手にある立地だからなのか街並みが伺えて、
それはまるで
とある風景写真を見ているようだった。
一瞬だけ視界がぼやけて、コンタクトの不具合だろうかと目を伏せて瞼に手を当てる。
純架の口から全てを知った今、冷伽の犯したものが、
自分自身の身勝手なものだと思い知らされてしまう。
それを隠蔽工作した御影家も、逆恨みしている桜すらも。
(____皆、嘘つきだ)
「あの………」
数メートル離れている気配を感じ取って、話しかけた。
涙を心に貶めて、玲緒は平静を装う。
「どうして、僕に声をかけたんです?」
「………あの人と親しそうにしていたので………お知り合いの方かと思って」
玲緒は頭を抱えてしまいたくなる。
目の前に居るのは、御影透架。
あの頃の無愛想かつ素っ気ない氷の様な女医だった筈だった。
なのに今、自身の目の前にいるのは、柔和な面持ちをした清々しい無垢な娘。
物言いも顔付きも優しげな、何処にでもいる女性。
「どうか、しました?」
「いえ、なんでもないです」
呆然自失とし首を傾けた彼女に対し、
玲緒は頭をかきながら、柵に肘を着ける。
哀しみの空笑いは虚空に消えて何とも言えない無慈悲さ、無力さ_____。
「貴女は、どちら様ですか」
彼女は瞳を伏せた。
「………分かりません。思い出せなくて。
記憶喪失になったと宣告されたのですが
何もかもが分からないのです。
香取真帆、という名前だと先生から
教えて頂きましたけど、実感が無くて………。
名前も自分自身の事もどう過ごしていたのかすら………変ですよね」
何処かで、自身を嘲笑っている。
やはり根本からの仕草は潜在能力は残っているのだろう。
彼女が喪ってしまったのは………記憶だけ。
罪人の娘でも、
呪縛の娘でも、双子の妹の為だけに翻弄する女でもない。
酷く言えば、軸をを喪った壊れかけのマリオネット。
天秤を忘れた者。
血液提供者として、御影透架の経過は聞いていたけれど
あの時、輸血を申し出て終わりだと思っていた。
けれども、今は。
(その屈託のない笑顔が、苦しい)
「____双子の女の子よ」
今思えば玲伽は、
娘達の出生から悲観的に暮れていたのかも知れない。
娘達の未来は無いもの同然なのだと、
身に沁みた立場にいた彼女なら解っていた筈だ。
それでも隔離された世界で彼女は、娘達を愛していた。
____そう思っていたのに。
(全ての罪人、裏切り者は貴女だ___)
親の因果が子に報いゆく。
純架は自身が罪の種と言ったけれども、それは間違いな気がする。
____病室。
香取真帆、と書いて、彼女は首を傾ける。
なんだか不思議な感覚に苛まれては現実味がない。
目を覚ましてこの方、脳裏にある事が引っ掛かっては頭が痛くなる。
大切な事なのだろうか。
大事な事は、と紙に書いておかないと思った刹那に
くらり、と目眩がした。
(何故、あの子は、私に親切にしてくれるのだろうか)
不意に脳裏を過った。
見知らぬ赤の他人、心当たりのない重い心臓病の女性。
彼女は親切で自身に対しては好意的に接してくれるけれども、
それは何故だろう?
まるで初めから計算されていたかのように。
初対面の筈なのに、相手は最初から知っているかのようだ。
無性にあの微笑みを見ていると、胸が痛い。
柔和な微笑みに、時折に見せる辛辣な表情。
彼女が浮かべる儚いその表情と眼差しが何を意味するのか、
何故、何もかも忘れてしまった自身の元に訪れるだろうか。
点と点が繋がらない。
(_____彼女はだれ?)
彼女の微笑みが、無意識に胸に突き刺さる。
彼女の後をこっそりと追って、病室に辿り着いた。
個室のICU《集中治療室》であり、ロックドア式の厳重な警備と医療機器。
名札には【御影 純架】と刻まれている。
御影純架。
心当たりのない名前だ。
(本当に、そう?)
脳裏の誰かが声をかけた。
何も心当たりはない。御影純架は知らない人。………本当か。
無意識的に不意に後ろを振り返る。虚空が広がる薄暗い廊下。
それは、異様に冷たかった。
本当に、そうなのか。
記憶喪失の影響だろう。自分自身にはの記憶もない。
けれども自分自身は誰なのだろうか、と疑問符が浮かんだ。




