第42狂・イカリ草__20年を経て生まれた依存心
『〇〇号室の女の子がいません』
看護師の切羽が詰まった声。
病棟を駆ける足音、その緊張感を伝ってくる。
肩で呼吸をしながら、その先にある病室のドアを開けて青年は項垂れている。
ベッドの上は、もぬけの殻だった。
引き千切られた点滴。誰かが眠っていた痕跡はあっても、肝心な人が居ない。
ベッドの上には紙切れが置いてあった。
青年はそれを披露と、目を見開いた。
“この子には、御影家の子女としての運命を果たしてもらう”
「どうして…………」
項垂れたまま、悲鳴の如く、呟きは溢れる。
守れなかった。敵はすぐ居た事をのだ。そして、少女を見殺しの船に乗せてしまった。
罪悪感で、胸が締め付けられそうになる。
「ごめん____“トウカ”」
くすみ一つのない白い天井。
霧がかかる脳裏に、自然と頭に触れた。
腕は点滴に繋がれていて背中の感覚からベッドに横たわっているらしい。
なんだろう。懐かしい、旅の記憶を辿っている感覚に襲われた。
身体を起こして、不意に両手を見た。
細い手首から袖が落ちて、目を見開いた。
びっしりと肌に浮かんでいるのは隙間のない白い一本線。
瞳を右往左往と動かして、彼女は視線を落とした。
どこだろう。
そして、自分自身は、誰なのだろう。
草摩智恵は苦虫を噛み潰したように腕を組み、MRIの控室に居てモニターを睨んでいる。
『私は、誰ですか』
目を覚ました、御影透架の発した第一声は、それだった。
「異常は見られません」
「そうですか」
御影透架という人格を忘れてしまった彼女は
顔付きも心無しか柔らかいものに変わっていた気がする。
何から教えていればいいのか。
今の透架は、純真無垢な原石そのものだ。
香取真帆としての偽名を用意て、彼女を無かった事にしてしまおうか。
ただ何もかも忘れてしまった彼女が、疑問に思うのは時間の問題となるだろう。
____病室。
意識が戻った、と聞いて、私は何処かで期待を寄せていた。
けれどもそんなもの、一瞬で奈落の果てに突き落とされる。
『記憶喪失になっていて………自身の事も、何もかも分からないの』
『…………そう、ですか』
そんな易々と期待なんぞ抱いても、すぐに水の泡になる。
分かっていた筈なのに相手が相手故に間違えてしまった。
病室に向かうと、ベッドに腰掛けて遠目で、壁を見詰めている透架がいた。
私の存在に気付くやら、ちらりと此方を見た。
嗚呼、透架だ。
私がずっと想い焦がれ、求めていた姿は其処にいる。
いつもは冷たい涙腺が熱を帯びて純架の瞳は潤み始めた。
______しかし。
「…………あの、どちら様ですか」
(私の事も、忘れてしまったの?)
頭から全身に冷や水を浴びせられた感覚。
それがとてつもなく衝撃は、私の心に容赦ない打撃を与えた。
記憶喪失、と仕方がないけれども私の存在だけは、
(忘れて欲しくなかった)
純架は、茫然自失としていた気がする。
何もかも忘れた今の透架は双子の妹の事さえも記憶が欠落している。
不思議そうにしている透架と、
ショックを隠せないでいる純架。
一方通行かつあべこべな世界観に残された様に、二人は見詰め合っている。
そんな二人の間に、智恵が入った。
「香取さん。この子、貴女が眠っていた時、
ずっと面会に来て傍に居てくれていた方なのよ」
微笑んでそう告げると、透架も真似をして
微笑もうとしたけれどもぎごち無く、上手く出来ない。
透架は続いて、純架の方を向くと頭を下げて
「…………ありがとうございます」
たった10文字。
ただその微笑みは
あの頃の穢れを知らなかった頃の無垢なものの様に見えた。
それだけで救われた気がして、純架は心の何処かで腹を据える。
20年間の空白を埋めたかった。
彼女がどう過ごし人生のレールを歩んでいたのか、知りたかった。
そして二人で語り合えたのならば、
9才の時のまま時が止まってしまった彼女を知る事も出来ただろう。
だが、それが出来ない以上___
(………純粋無垢ならば、何事にも染められる)
まだ病院関係者としか話していない。
ならばまだ_____“間に合う”。
無垢な人形である透架を、純架が命を吹き込むのだ。
散々、傷付けられた双子の姉。もう誰の事を聞いても信じぬ様に。
20年の時を経て再会を果たした姉を容易く離してしまうものか。
これが独占欲だと言う事も、依存心だと言う事も知っている。
(見てなさい。御影家。
あなた達の思い通りなんかさせないから)




