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戦うのは好きだけど面倒事は嫌いなので、最強なのは秘密です。  作者: 檸堂礼音
第二章

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第三話 神器と訓練

第二章 ーーー 第三話


――翌朝。

朝凪高等学校《あさなぎこうとうがっこう》、教室。

禮(らい)は自分の席に座り、机へ突っ伏していた。


「……眠い」


昨日は、久世(くせ)との再戦、神器(じんぎ)《ノア》の初実戦、そしてあの女との再会と、色々ありすぎた。

だからこそ今日は、何も考えたくない。

――はずだった。


「禮」

「…………」

「禮」

「聞こえてる」


顔は上げない。

目の前には、相良慧(さがらけい)が立っていた。


「じゃあ聞くけど」

「嫌だ」

「まだ何も聞いてない!」

「どうせ昨日の話だろ」


慧が一瞬詰まる。


「……まあ、そうだけど」

「なら嫌だ」

「押し切ろうとするなよ!」


禮はようやく顔を少しだけ上げた。


「朝からめんどい」

「俺は昨日いきなり家に飛ばされたんだぞ!?」

「ちゃんと家に送っただろ」

「そういう問題じゃない!」

「何が不満なんだよ」

「全部だよ!」


少し離れた席では、禮歌(れいか)が本を読みながら小さく笑っていた。

慧は声を落とす。


「……あの女」


禮の目がほんの少しだけ変わった。

慧もそれに気づく。


「やっぱ知り合いなんだろ?」

「慧」

「何だよ」

「めんどい」

「それで全部終わらせる気か!?」

「ああ」

「即答!?」


禮は再び机へ伏せる。


「その話は今したくない」


今度だけは、少し真面目な声であり、慧もそれ以上はすぐには踏み込まなかった。


「……分かったよ」

「助かる」

「でも」

「まだあるの?」

「今日、局行くんだろ?」


禮が顔だけ上げる。


「行くよ」

「壁」

「ああ」

「直すんだよな?」

「直す」

「空は?」

「勝手に治る」

「まだ言ってんのかそれ」


禮は眠そうに欠伸をする。


「放課後行って」

「壁直して」


一拍。


「適当に訓練して帰る」


慧がじっと禮を見る。


「……本当にそれだけで済む?」

「知らん」

「昨日あんなことあったんだぞ」

「その時考える」

「お前ほんとそればっかだな……」


始業のチャイムが教室へ響いた。


――放課後。

朝凪高等学校。


「……終わった」


禮は机から立ち上がる。


「じゃ、行くか」


慧が鞄を持ちながら横を見る。


「局?」

「ああ」

「壁直しに?」

「それが一番の目的」

「一番?」

「ついでに訓練」

「やっぱりそっちもやるんだな……」


禮歌も本を鞄へしまい、二人の横へ来る。


「昨日あれだけやったのに元気だね」

「寝たからな」

「回復早すぎない?」


三人はそのまま学校を出る。

少しして、特異事象対策局《とくいじしょうたいさくきょく》。

中央戦闘訓練施設《ちゅうおうせんとうくんれんしせつ》、入口。

禮は建物を見上げる。


「…………」


昨日、自分が怨消(おんしょう)を放った場所。

当然、壁はまだ派手に壊れたままだった。


「残ってるな」


慧が即座に突っ込む。


「残ってるな、じゃないだろ」


禮歌も壊れた部分を見る。


「結構ひどいね」

「まあ」


禮は軽く肩を回した。


「約束したし」


一歩、施設へ向かう。


「先に直すか」


禮は壊れた壁へ手を向ける。


「創(そう)」


崩れた破片、砕けた床、裂けた壁面。

それらすべての状態を《創》によって元へ再構築していく。

欠けた部分が埋まり、亀裂が閉じ、吹き飛んでいた壁がまるで何事もなかったかのように元の形へ戻っていく。

慧がその様子を見ながら呟く。


「……こういうの見ると便利すぎるな、お前の能力」

「壊したの俺だけどな」

「それ言ったら駄目だろ」


禮歌が直った壁へ近づき、軽く触れる。


「うん」

「どう?」

「ちゃんと直ってる」

「なら終わり」


禮は手を下ろした。


「よし」

「早っ」


慧が壁を見る。

昨日、あれだけ派手に吹き飛んでいたとは到底思えない。

禮が少し離れて確認する。


「これなら文句ないだろ」

「どうでしょうね」


後ろから、聞き覚えのある声。

禮が振り返る。

そこには天倉(あまくら)と、その隣に久世が立っていた。


「お」


久世が直った壁を見る。


「本当に直ってる」

「約束したからな」


天倉も壁へ視線を向け、数秒、確認するように見たあと禮を見る。


「……来る前に直したのか」

「ああ」

「少しは反省しているらしいな」

「反省?」


天倉の眉が動く。


「してないのか?」

「直しただろ」

「そういう話ではない」


久世が横で笑った。


「でもまあ」


直った壁を軽く叩く。


「昨日より綺麗になってない?」


天倉が一瞬、壁を見る。


「…………」


慧が小さく呟いた。


「そこ確認するんだ……」


禮は直した壁から視線を外す。


「さてと」


軽く肩を回した。


「少し訓練していきたいんだが」


天倉を見る。


「誰か相手はいるか?」


そして、少し考えてから付け足す。


「それとも、他に何か用あるなら」

「そっちから先に済ますが」

「……ある」


天倉が答えた。

禮の眉が僅(わず)かに上がる。

久世もさっきまでの軽い表情を少し引っ込めた。

天倉は禮を見る。


「昨日の件だ」


一拍。


「訓練の前に、少しだけ話をしたい」

「まぁいいぞ」


禮は直したばかりの壁を見る。


「さすがに壁まで壊したし」

「そこを自覚しているなら助かる」


天倉が少しだけため息をついた。


「場所を変えるぞ」

「ここじゃ駄目なのか?」

「昨日の話を、訓練場の入口でするつもりはない」

「確かに」


久世も今回は何も茶化さず、天倉について歩き始める。

禮、禮歌、慧も続いた。


しばらくして。

施設内の小さな応接室へ、全員が入る。

禮は適当な椅子へ座った。

禮歌がその隣。

慧は少し迷ってから、反対側へ座る。


「俺も聞いてていいんですか?」


慧が聞く。

天倉は禮を見る。


「俺としては構わない」

「俺も別にいいぞ」

「じゃあいる」


慧も座った。

久世は壁際。

いつものように少し気楽な姿勢で立っている。

ただ、昨日のこともあってか。

普段より静かであり、天倉が禮を見る。


「まず」


一拍。


「昨日の局員についてだ」


室内の空気が少しだけ変わる。

禮歌も何も言わず。

禮の隣にいる。


「お前があの人間を知っていることは分かった」


天倉は続ける。


「そして」

「俺たちが割って入るより先に、神成(しんじょう)さんが止めなければ」


禮歌を見る。


「本当に殺していた可能性が高いこともな」


久世が小さく付け足す。


「可能性っていうか」


禮を見る。


「昨日の神成、完全にそのつもりだったよね」


慧が苦い顔をする。


「俺でも分かりましたよ……」

「まあ」


天倉はそこを追及するような言い方はしなかった。


「昨日の時点で無理に事情を聞くべき状態ではなかった」

「だから止めた」


そして、机の上へ指を組む。


「だが」

「今後もここへ来るなら」

「同じことが起こる可能性を無視はできない」


もっともな話、あの女は局員。

禮も外部協力者として、この施設へ来る。

今後。

また顔を合わせる可能性はある。

天倉は静かに聞いた。


「神成」

「話せる範囲でいい」


一拍。


「あの局員と、お前の間に何があった?」


禮は少しだけ目を伏せた。


「あまり難しく話すつもりもない」


天倉を見る。


「簡潔に言うが」


一拍。


「あいつに姉を殺された」

「…………」


室内が静まり返った。

慧が息を止める。

昨日、禮が見せたあの怒りと殺意。

ようやく、その理由の一端が繋がった。


「……姉を?」


久世からもいつもの軽さが消える。


「ああ」


禮はそれ以上、言葉を足さない。

天倉もすぐには何も言わなかった。

局員に家族を殺された。

それだけでも十分すぎるほど重い。

だが天倉はしばらく考えてから、慎重に口を開いた。


「……任務中のことか?」


禮を見る。


「それとも」


一拍。


「何か別の事情があったのか?」

「そこまでは知らん」


禮は椅子の背へ身体を預ける。


「俺も数年前のことだからな」


一拍。


「言葉の全部まで覚えてるわけじゃない」


天倉は黙って聞いている。


「ただ」


禮の声が少しだけ低くなる。


「『犯罪者を発見』」

「それから」


思い出すように僅かに目を細めた。


「『捕縛の余地なし』……だったか?」


久世の眉がゆっくり寄る。

禮は乾いた笑いを漏らした。


「笑えるだろ」

「俺らは抵抗もしてなければ」

「逃走もしてないんだしな?」

「…………」


慧が何も言えなくなり、ただ歩いており、それだけ少なくとも禮の話を聞く限りでは、即座に命を奪うような状況には到底思えない。


「それで」


禮は続けた。


「あいつは姉を殺した」

「犯罪者だったから、だとよ」


天倉の表情が僅かに険しくなる。


「……その判断が正しかったのか?」

「いや」


禮は即答した。


「あとな」


一拍。


「後々分かった」


視線を天倉へ向ける。


「誤認だったとよ」

「…………は?」


慧から、思わず声が漏れた。

久世も今度こそ、完全に表情を失う。


「誤認……?」

「ああ」


禮は淡々と答える。


「姉は犯罪者じゃなかった」


室内が再び静かになり、先ほどまでとは違う沈黙、天倉がゆっくりと息を吐く。


「確認する」


声が少し硬い。


「局側が後になって、誤認だったと認めたということか?」

「局側っていうより」


禮は少しだけ考える。


「たぶん、あの女からだろうな」


天倉が目を細める。


「本人から?」

「ああ」

「手紙が来た」


慧が思わず聞き返す。


「手紙?」

「神成禮宛に」


禮は淡々と続ける。


「姉が死んでから、しばらく経った頃だった」


久世が腕を組む。


「……そこに、誤認だったって?」

「ああ」

「少なくとも」


禮は僅かに眉を寄せる。


「俺は、そう受け取った」


天倉の表情がさらに硬くなる。


「その手紙」


一拍。


「内容は覚えているか?」

「これだよ」


禮は鞄の中から、一通の封筒を取り出した。

古く、角は少し潰れ、紙も僅かに黄ばんでいる。

それでも捨てずに、ずっと残していたものだ。


「……持ってたの?」


慧が少し驚いたように見る。


「ああ」


禮は封筒を天倉へ差し出した。


「当時のやつだ」


天倉がゆっくり受け取る。

表の宛名には、確かに書かれている。

――神成禮 様。

天倉の表情がさらに真剣になる。

久世も横から覗き込む。


「……開けていい?」


禮は短く答えた。


「ああ」

「笑っちまうな」


禮が椅子へ深く座りながら、乾いた笑いを漏らす。


「人一人殺しておいて」


視線だけを封筒へ向けた。


「あとから手紙一枚だ」


慧は何も言えない。

禮歌も隣で黙っている。

彼女だけは禮がその手紙を受け取った時のこともその後、何度それを見返したのかも知っている。

天倉が慎重に封筒から、中の便箋を取り出した。

久世も横からその文章へ目を向ける。

数秒。


「…………」


一度、禮を見る。


「読むぞ」

「ああ」


天倉は視線を紙へ戻した。

そして、書かれている文章をそのまま読み上げる。


「――神成禮へ」


室内が静かになる。


「先日処理した対象について」


慧の眉が僅かに動く。

――処理した対象。

人間のことをそう書いている。

天倉は続きを読む。


「後日の照合により、当該対象は捜索対象者とは別人であったことが判明した」


久世の表情が消える。


「対象確認時の情報に誤りがあり、結果として誤った対象を処理したものと判断する」


一拍。


「本件については、既に内部情報の訂正を行った」


天倉の声が少しずつ、硬くなっていく。

それでも最後まで読む。


「今後、同様の誤認が発生しないよう留意する」


そして、最後。


「――以上」

「…………」


天倉が紙から目を離した。

慧が呆然(ぼうぜん)としている。


「……終わり?」


天倉は答えない。

久世が静かに便箋を見る。


「……謝罪は?」

「ない」


天倉が答える。


「一言も」

「…………」


禮が椅子へ座ったまま、笑った。

乾いた。

何の面白さもない笑い。


「な?」

「笑えるだろ」


慧が禮を見る。

禮は天倉の持っている手紙を見ながら、ゆっくり口を開いた。


「当時の俺は」


一拍。


「意味すら理解できなかった」


慧が少しだけ眉を寄せる。


「意味……?」

「ああ」


禮は目を細める。


「意味が分からなかった」

「別に」

「言葉の意味を知らなかったわけじゃない」


《処理》、《誤認》、《別人》、《訂正》。

どれも知っている言葉であり、文章だって読めた。

何が書いてあるかも一文ずつなら、理解できた。


「だけど」


禮が小さく息を吐く。


「その封筒に関して」


一拍。


「何一つ理解できなかった」


ただ、家に帰っていただけであり、姉と夕飯の話をしながら、歩いていただけ。

知らない女が現れて、姉を犯罪者だと言った。

捕まえることすらせず。

殺した。

そして、しばらくして届いたのがこれ。

――別人でした。

――誤って処理しました。

――内部情報を訂正しました。

それだけ。


「姉ちゃんが死んだんだぞ」


禮の声は不思議なくらい静かだった。


「目の前で」

「なのに」


便箋を見る。


「こいつが俺に送ってきたのは」

「間違えて殺しました」

「記録は直しました」

「今後気をつけます」


一拍。


「それだけだった」


慧が拳を握る。


「……そんなの」


言葉が続かなかった。

禮は少し笑う。


「だろ?」

「俺も同じだったよ」


当時、何度も読んだ。

一回、二回、三回。

何度読んでも分からない。

どうして、姉が死んで、それがこんな紙一枚で終わっているのか。

どうして、殺した本人がこんな文章を書けるのか。

どうして、謝ることすらしないのか。


「最初はな」


禮は昔を思い出すように天井を見る。


「何か俺が読み飛ばしてると思ったんだよ」

「もっと何か」

「理由とか」

「姉ちゃんが疑われた原因とか」

「なんで殺すしかなかったのかとか」

「どっかに書いてあるんじゃないかって」


だが何度読んでもなかった。

そこにあったのは誤認だった。

という事実だけ。


「それで」


禮は視線を戻す。


「ようやく分かった」

「俺が理解できないんじゃない」


一拍。


「あいつが、人を一人殺したことを」

「俺と同じ重さで考えてないんだってな」

「…………」


禮歌は隣で、何も言わない。

彼女はその頃の禮を知っている。

この封筒を何度も開いて、何度も閉じて、その度に少しずつ何かが変わっていったことも天倉がもう一度。

便箋を見る。

だが今度は、局員として文章を読む目だった。


「……おかしい」


低く呟く。

久世が横を見る。


「何が?」

「全部だ」


天倉は即答した。


「仮に現場で重大な誤認が起きたとしても」


便箋を持ち上げる。


「これだけで処理されるはずがない」


死亡事案、対象誤認、局員による殺害。

本来なら、記録、報告、調査、責任者、判断経緯。

残っていなければおかしい。

まして、遺族へ実行した本人からこんな手紙だけが送られる。


「少なくとも」


天倉の表情が険しくなる。


「俺が知っている局の手続きではない」


久世も珍しく真面目な顔のまま。


「私も聞いたことない」


慧が二人を見る。


「じゃあ……」

「局として正式に出した文書ではない可能性がある」


天倉が答える。

禮は特に驚かなかった。


「だろうな」


天倉が禮を見る。


「気づいていたのか?」

「今ならな」


禮は肩を竦める。


「当時の俺にそんなもん分かるわけないだろ」


まだ局の仕組みも正式な文書がどういうものかも知らなかった。

ただ、姉を殺した女から、封筒が届おり、それだけであり、久世が少し考える。


「……これ」


便箋を見る。


「調べた方がいいね」


天倉はすぐには答えない。

数年前の古い事件。

それでも現物が目の前にある。

そして、昨日現れた本人は現在も局に所属している。


「神成」


天倉が慎重に言う。


「この手紙」


一拍。


「一度、こちらで調べさせてもらえないか」

「文書の出所」

「当時の記録」

「姉の誤認がどう処理されたのか」


そして、少し声を落とす。


「……あの局員が、当時何を報告したのかも含めて」

「別に構わないさ」


禮は天倉の持つ手紙を見る。


「それには」


一拍。


「俺からしたら何の価値もない」


慧が僅かに禮を見る。

数年間、捨てずに持っていた手紙。

それでも禮にとって、価値があるから残していたわけではない。


「ただ」


禮は椅子へ深く身体を預けた。


「あいつが昨日も」

「なんであんな調子だったのか」


少しだけ目を細める。


「分かった気がするよ」


昨日、数年ぶりに現れた女。

禮を見ても怯えもしなかった。

申し訳なさそうな顔すらしなかった。

昔と変わらない、人を見下すようなあの態度。


「あいつは」


禮の声が僅かに低くなる。


「無実の人間を殺して」

「それでも反省すらなかった」

「…………」


誰も口を挟まない。


「何なら」


禮は乾いた笑みを浮かべた。


「あの調子だ」

「楽しかったんじゃねえか?」


禮歌の目が僅かに細くなる。


「……知らねぇけどな」


最後だけ、禮自身で切った。

あの女が当時何を考えていたのか、本当に楽しんでいたのか。

そんなことは禮にも分からない。

分かっているのは姉を殺した。

誤認だと判明した。

それでも昨日の女から、罪悪感らしいものを禮は何一つ感じなかった。

それだけ。


「だから」


禮は天倉を見る。


「先に言っとく」


その声に今度は久世も真っ直ぐ禮を見る。


「俺はもう」

「次にあいつと会った時」


一拍。


「昨日みたいに止められるほど」

「理性が残ってるかすら分からん」

「…………」


慧の表情が強張る。

昨日、禮歌が止めなければどうなっていたのか。

全員、もう分かっている。

久世が壁から身体を離した。


「それ」


いつもの軽い声ではない。


「脅しじゃないんだよね」

「ああ」


禮は即答する。


「自分でも分からんって話だ」


殺すと宣言しているわけではない。

会いに行くと言っているわけでもない。

だが再び目の前に現れた時、自分がどうなるのか保証できない。

天倉は長く息を吐き、それから、禮へ向けて、はっきり言った。


「分かった」


慧が少し驚いて天倉を見る。


「……分かった、でいいんですか?」

「よくはない」


天倉は答える。


「だからこそ、今聞けて良かった」


机の上、古い封筒へ目を落とす。


「神成が次に何をするかを責めるより先に」

「こちらがやるべきことがある」


久世が静かに聞く。


「接触させない?」

「ああ」


天倉は頷く。


「少なくとも事情が分かるまでは」

「訓練日程」

「使用区画」

「入退場予定」

「こちらで可能な限り重ならないよう調整する」


禮が僅かに眉を上げた。

天倉はそのまま続ける。


「お前だけのためではない」

「昨日の状態のお前と、あの局員を同じ場所に置くこと自体が危険だ」

「まあ」


久世が苦笑する。


「昨日の神成ともう一回鉢合わせさせるのは、さすがに私も嫌かな」

「お前、楽しそうだったじゃん」


禮が言う。


「戦う神成は好きだけど」


久世は珍しく即座に否定した。


「あれは別」

「そうか」

「そうだよ」


そして、天倉は手紙を封筒へ戻す。

雑には扱わない。

角を揃え、元の形へ戻してから机の上へ置いた。


「それと」


禮を見る。


「この件は調べる」

「何年前の記録だろうと」

「残っているものは洗う」

「正式な任務だったのか」

「誰が対象を指定したのか」

「捕縛の余地なしという判断が、どこから出たのか」

「現場報告には何と記載されたのか」

「誤認が判明した後、誰がどう処理したのか」


そして、便箋。


「この手紙を」


指先で示す。


「本人が独断で送ったのかもな」


禮は静かに聞いていた。


「ただし」


天倉が付け加える。


「俺はまだ」

「あの局員が何を考えていたのかまでは断定しない」


禮が少しだけ口元を上げる。


「そりゃそうだ」

「俺だって知らねぇって言ったろ」

「ああ」


天倉も頷く。


「だから」

「感情ではなく記録で確認する」

「その方がいい」


禮はあっさり答えた。


「俺に気を遣って」

「あいつを悪人にする必要もない」


一拍。


「事実だけ見つけてくれればいい」


久世がそこで、ほんの少し禮を見る目を変えた。

昨日、殺意を隠そうともしなかった人間と今、目の前で話している人間。

どちらも神成禮。

怒りが消えたわけではない。

許したわけでもない。

ただ、それと事実が何だったのかは分けて考えている。


「……了解」


天倉が答えた。

慧はしばらく黙っていたがやがて、小さく息を吐いた。


「俺」


禮を見る。


「朝、色々聞こうとして悪かった」

「別に」

「いや、でも――」

「慧」

「何?」

「その話長くなる?」

「…………」


慧が数秒黙る。


「今それ言う?」

「だって長そうだったから」

「お前なぁ……!」


重かった室内にほんの少しだけ。

いつもの空気が戻り、禮歌が隣で小さく笑った。

久世もようやく肩の力を抜く。

天倉だけは封筒を見ながら、まだ真面目な顔をしていた。


「神成」

「ん?」

「これは一度預かる」

「ああ」

「調査が済めば返す」

「別に返さなくても――」

「返す」


言い切った。

禮が少しだけ目を瞬く、天倉は封筒を丁寧にしまう。


「価値があるかどうかを決めるのはお前だ」

「だが」

「他人の持ち物を、こちらの判断で処分する理由にはならない」

「……真面目だな」

「お前が適当すぎる」

「それは否定しない」


久世がそこで手を叩いた。


「じゃ」


全員の視線が集まる。


「重い話はここまで?」


天倉が少し嫌そうな顔をする。


「久世さん」

「だって神成」


禮を見る。


「訓練しに来たんでしょ?」


その言葉で、禮の表情がほんの少しいつものものへ戻った。


「もう昨日のことで聞くことはないんですか?」


禮が天倉を見る。

天倉は少しだけ黙った。


「……いや」

「ある」


久世も天倉へ視線を向ける。

天倉は一度。

言葉を整理してから口を開いた。


「昨日」

「お前が施設の壁に向けて使った技」


一拍。


「《怨消》」


禮の目が僅かに細くなる。


「まず、あれについて聞きたい」


天倉は続ける。


「俺が今まで見たお前の技とは」

「明らかに性質が違った」


《創》による物質生成、空間への干渉、夢虚無幻(むきょむげん)、創約(そうやく)。

それらとはどこか違う。

そして、もう一つ。


「それと」


天倉が禮を真っ直ぐ見る。


「あの詠唱(えいしょう)だ」

「お前は昨日」

「技を使う前に、かなり長い言葉を口にした」


久世も少し真面目な顔になる。


「私も気になってた」

「前の戦いでも」

「技名を言うことはあったけど」

「昨日のあれは違ったよね」


天倉が静かに聞いた。


「神成」

「《怨消》は」

「詠唱そのものが必要な技なのか?」


一拍。


「それとも」

「別の意味があるのか?」

「あの技ね」


禮は少しだけ考える。


「実際は」


一拍。


「あれが最初から技だったわけじゃない」


天倉の眉が僅かに動く。


「どういう意味だ?」

「昔」


禮は静かに続ける。


「俺が能力を制御できてなかった頃」

「感情のままに能力を垂れ流したことがある」

「……垂れ流した?」

「ああ」


禮は昨日、割れた空を思い出す。


「その波だけで」

「地形が歪(ゆが)んだ」

「空気も」

「空間も」


一拍。


「昨日の空みたいにな」

「…………」


天倉が言葉を失う。

久世もさっきより、明らかに真剣な顔になっていた。


「じゃあ《怨消》って」


久世が聞く。


「その時の状態を技として再現してる?」

「近い」


禮が頷く。


「だからこそ」

「技にして封じた」

「封じた……」


天倉がその言葉を繰り返す。


「そのまま出すんじゃなく」

「形を決めた」

「ああ」


禮は少しだけ目を伏せる。


「その時」

「俺は詠唱もしてた」


慧が横から聞く。


「昨日の?」

「そう」


そして、禮は天倉を見る。


「ただ」

「なんで当時、あの言葉を口にしてたのかは」

「後になってから分かった」


天倉は黙って続きを待つ。


「あの詠唱がなければ」


一拍。


「俺は《怨消》を使えない」


久世の目が僅かに細くなる。


「必須?」

「ああ」

「技の発動条件だ」


禮はゆっくり言葉を選ぶ。


「あの詠唱を」

「最初から最後まで」

「全部唱える」


そして、少しだけ声が低くなる。


「その間に」

「俺の中にある感情を」

「全部」

「憎しみに変える」

「…………」


慧が黙る。


「怒りも」

「悲しみも」

「喪失(そうしつ)も」

「全部だ」

「それを」


禮は自分の胸元へ手を当てる。


「内側に残さず」

「全部」

「憎しみとして外へ放出する」


天倉がゆっくり理解していく。


「……つまり」

「詠唱は単なる演出でも」

「能力を安定させるための型でもない」


禮を見る。


「お前自身の感情を」

「《怨消》という一つの出力へ変換するための工程か」

「ああ」


禮は短く答え、久世が少しだけ目を細めた。


「じゃあ」


一拍。


「詠唱を途中で止めたら?」

「昨日の場合は」


禮は少しだけ視線を逸らした。


「局が異世界みたいな見た目になってただろうな」


慧の動きが止まった。


「……は?」


禮はできるだけ分かりやすく言い直した。


「異形って言えば分かりやすいか」

「…………」


今度は、慧だけじゃない。

天倉も久世も数秒、言葉を失った。


「異形……」


久世が小さく繰り返す。


「つまり、途中で止めたら不発になるんじゃなくて」


一拍。


「中途半端なまま外へ漏れるの?」

「ああ」


禮は頷く。


「完成した《怨消》として放出されるんじゃない」

「感情と能力が、形になりきらないまま周囲を侵す」


天倉の表情が険しくなる。


「侵す、だと?」

「地面」


禮が指を下へ向ける。


「空気」


次に横。


「空間」


最後に上を見る。


「下手すりゃ景色そのものだな」


慧が青ざめる。


「いや待て待て待て」

「それ」

「局の壁壊したとか、空割ったとか、そういう話じゃないだろ……?」

「違うな」


禮はあっさり言った。


「もっと気持ち悪い感じになる」

「気持ち悪いって……」

「見た目もそうだし、空気もだな」


禮は昨日を思い出すように目を細める。


「まともな場所じゃなくなる」

「そこにいるだけで、本能的に嫌になるというか」

「世界そのものが歪む感じか」


久世が静かに言う。


「近い」


禮は短く答えた。


「だから詠唱が要る」

「最後まで唱えて」

「感情を一つにまとめて」

「技として閉じる」

「そうしないと」


一拍。


「ただの汚い暴走になる」

「…………」


天倉が腕を組む。


「なるほどな」

「詠唱は鍵であると同時に、封印でもあるわけか」

「そういう認識でいい」


禮は天倉を見る。


「憎しみを外へ出すだけなら、別に技名なんていらない」

「でもそれじゃ制御できない」

「だから《怨消》にした」


慧がまだ少し引いた顔のまま聞く。


「じゃあ昨日は……」

「かなり抑えた」


禮が即答した。


「壁が砕けて空が割れた程度で済んだのは、そのおかげだ」

「程度って言うなよ……」


慧が頭を抱える。

久世はそんな慧を見て少しだけ笑ったがすぐに禮へ視線を戻した。


「昨日、禮歌ちゃんが止めなかったら?」

「もっと広がってたかもな」

「局全体?」

「可能性はある」


その言葉に、室内の空気が少し重くなる。

だが禮自身は妙に淡々としており、天倉がそれを見て、静かに口を開く。


「……つまりお前は」

「昨日、あの女を前にして」

「そこまで理性を削られていたわけだな」

「……まあ」


禮は少し考える。


「通常時の理性が百だとすれば」


一拍。


「昨日は五とかじゃないかな」

「五?」


慧が思わず聞き返す。


「ああ」


禮は特に大げさなことを言っている様子もなく。

続ける。


「喋れてるだけマシにも思えるがな」

「…………」


久世が昨日の禮を思い返す。

女へ殴りかかった。

禮歌に止められても力を緩めなかった。

十秒以内に消えなければ殺すと本気で告げた。

その後、《怨消》。

施設の壁を砕き、空間にまで亀裂を走らせた。

それで、五。


「……あれで?」


久世の声から、普段の軽さが消える。


「ああ」


禮は頷いた。


「完全に理性が飛んでたわけじゃない」

「殺そうとはしてたが」

「殺す以外のことも、まだ多少は考えられてた」


天倉が少し眉を寄せる。


「神成さんが止められたのも?」


禮は隣の禮歌を見る。


「あれも」


一拍。


「完全な本気ならどうだろうな」


禮歌が僅かに目を細めた。


「俺が本当に」

「何も考えず」

「ただ殺すことだけに全部振ったら」


禮は少しだけ肩を竦める。


「レイカだって止められるか分からん」


慧が禮歌を見る。

昨日、あの禮の拳を真正面から止めた本人。

それでも禮歌自身もすぐには否定しなかった。


「……分からないね」


静かに答える。


「本当にそうなった禮を止めたことはないから」

「だろ?」


禮も淡々と返した。


「結局」

「その時にならないと分からん」


室内が少し静かになり、天倉はその言葉を冗談として流さなかった。

むしろ、昨日より、さらに警戒すべき事実として受け取っている。


「……なら」


天倉が禮を見る。


「理性が五ではなく」


一拍。


「ゼロになった時」

「お前自身は、どうなると思っている?」

「はっきり言って」


禮は少しだけ目を伏せる。


「技という技で殺そうとするかも分からない」


天倉が黙って聞く。


「それこそ」


一拍。


「昔みたいに」


禮の声が僅かに低くなる。


「能力そのものが暴走する可能性もある」

「…………」


慧の表情が強張る。

久世もさすがに何も挟まない。

禮は続ける。


「今みたいに」

「技を選んで」

「対象を決めて」

「出力を考えて」

「そういう手順すら残るか分からん」


自分で作った技、自分で積み上げた戦い方。

それすら全部飛ぶ可能性がある。


「《夢虚無幻》を使うのか」

「終焉創世(しゅうえんそうせい)を使うのか」

「《怨消》なのか」

「それとも」


禮は少しだけ息を吐く。


「そんなものすら関係なく」

「昔みたいに能力を撒き散らすのか」

「俺にも分からない」


天倉がゆっくり口を開く。


「……制御不能状態」

「ああ」

「しかも」


天倉は昨日の壁と割れた空、その光景を思い出す。


「今のお前の出力で」


禮が少しだけ苦笑する。


「そこが一番面倒だな」


昔とは違う、禮は今の方が遥かに強い。

昔は、制御できなかった能力だけで地形も、空気も、空間も歪めた。

なら今、同じことが起きればどうなるのか。

誰にも分からない。

禮歌が隣で静かに言う。


「だから昨日」

「私も離せなかった」


慧が禮歌を見る。


「……止められるか分からないって言ってたけど」

「うん」


禮歌は素直に頷く。


「禮がまだ私の声を聞ける状態なら」


一拍。


「止められる可能性はあると思う」

「でも」


少しだけ禮を見る。


「完全に何も聞こえなくなったら」

「私にも分からない」


久世が腕を組む。


「なるほどね……」


そして、禮を見る。


「じゃあ昨日って」

「かなり危なかったけど」


一拍。


「まだ最悪ではなかったんだ」

「そういうことだな」


禮はあっさり答え、天倉が深く息を吐いた。


「……改めて」

「例の局員とは接触させない方がいいな」

「助かる」


禮は軽く手を上げる。


「俺としても」

「わざわざ会いたいわけじゃない」

「ただ」


少しだけ目が冷える。


「向こうから来たら知らん」

「それは聞いた」


天倉が即座に返した。

久世が小さく笑う。


「天倉くん、今日ずっと胃が痛そう」

「誰のせいだと思ってるんですか」

「神成?」

「久世さんもです」

「私も?」

「あなたもです」


慧が小さく笑う、重かった空気が少しだけ。

空気が緩んだところで、禮は天倉を見る。


「それで天倉さん」

「ん?」

「どうです?」


一拍。


「調べられました?」


天倉は禮から預かった封筒へ視線を落とした。


「この手紙そのものは、今受け取ったばかりだ」

「まあ、それはそうか」

「ただ」


天倉の声が再び真面目なものへ戻る。


「昨日の件があった時点で、あの局員については少し確認した」


久世も天倉を見る。

どうやらそこまでは聞いていなかったらしい。


「まず」


天倉は続ける。


「あの人間が現在も局員なのは間違いない」

「それは見りゃ分かるな」

「ああ」

「問題は数年前の記録だ」


禮の表情が僅かに変わる。


「お前の姉に関係すると思われる死亡事案」


一拍。


「記録自体は残っていた」


慧が身を乗り出す。


「じゃあ、本当に誤認だったって?」

「そこまでは確認できた」


天倉が頷く。


「対象誤認」

「後日の身元照合によって、別人だったことが判明」

「その事実は局の記録にも残っている」


禮は特に驚かなかった。


「手紙の通りか」

「そこだけならな」


天倉の言葉に久世が眉を上げる。


「……そこだけ?」

「ああ」


天倉は少し間を置いた。


「妙なんだ」


禮が天倉を見る。


「何が?」

「記録が少なすぎる」


室内が再び静かになる。


「誤認による死亡事案だぞ」

「本来なら」

「当時の現場報告」

「対象選定の根拠」

「殺傷判断に至った理由」

「事後調査」

「責任の所在」

「少なくとも、その辺りの記録が紐づいていなければおかしい」


久世が少しだけ目を細める。


「なかった?」

「俺が通常権限で確認できた範囲ではな」


あるのは、対象を誤認したこと、死亡したこと、後に別人だと判明したこと、内部情報を訂正したことその程度。

まるでさっき読んだ手紙を少しだけ公的な文章へ直したような。

そんな記録。

慧が顔をしかめる。


「……人が死んでるのに?」

「だからおかしい」


天倉が答える。

そして、今度は手元の封筒を指す。


「それと、この手紙」

「少なくとも確認した記録の中に」


一拍。


「遺族への正式な通知として送付した記録はなかった」


禮が小さく笑う。


「やっぱあいつが勝手に送った可能性が高いか」

「まだ断定はしない」


天倉はすぐに止めた。


「古い記録だ」

「別の場所に保管されている可能性もある」

「上位権限でなければ見られない情報がある可能性もな」

「ただ」


天倉の表情が僅かに険しくなる。


「少なくとも現時点では」

「綺麗な記録には見えない」


久世が腕を組む。


「消された?」

「それも断定できません」


天倉は冷静に答える。


「元から作られていないのか」

「後から欠落したのか」

「別管理なのか」

「意図的に消されたのか」

「まだ何も分からない」


禮は少し考える。

天倉が続けた。


「今日この手紙を預かったことで」

「調べられるものは増えた」

「筆跡」

「使用された用紙」

「当時の送付記録」

「局内文書との照合」

「それから」


一拍。


「あの女本人が、当時この件について何を報告していたのか」

「そこまで掘るつもりだ」


久世が横から禮を見る。


「思ったより変なことになってきたね」


天倉はそれには答えず。

禮へ視線を向けた。


「ただ神成」

「一つだけ先に言っておく」


少し声を低くする。


「今見えている記録だけでは」

「あの女が何をしたのか」

「どこまで本人の判断だったのか」

「まだ確定できない」

「お前の姉が誤認で殺された」

「そこまでは事実として確認できた」


一拍。


「その先は、これからだ」

「まぁ、そうだろうな」


禮は特に不満そうな様子もなく。

椅子へ身体を預ける。


「事実が知れれば満足だ」


一拍。


「それに一歩近づいただけでもいいさ」

「…………」


慧がじっと禮を見る。


「何だよ」

「いや……」


慧は少し言いづらそうにしながら、それでも口を開いた。


「お前さ」

「ん?」

「昨日の今日で」


一拍。


「落ち着きすぎじゃない?」


久世が僅かに眉を上げる。

天倉も禮を見る。

確かに、昨日はあの女を見ただけで、ほとんど理性を失い。

本気で殺そうとしており、それが今は姉の死について話し、手紙を読み返し、女について調べる話までしている。

それでも声を荒らげることすらない。


「普通、もっと……」


慧が言葉を探す。


「昨日のこと引きずっててもおかしくないだろ」

「ああ」


禮はあっさり頷いた。


「《怨消》の影響だな」

「……あれ?」

「そう」


禮は自分の胸元を軽く指す。


「昨日説明しただろ」

「《怨消》は」

「俺の中にある感情を」

「憎しみとしてまとめて」

「外側へ全部放出する」


慧が少し考える。


「あ」

「つまり……」

「負の感情を」

「昨日、一回ほとんど吐き出した」

「…………」


久世が少しだけ納得したような顔になる。


「だから今は落ち着いてる?」

「まあ」


禮は少し首を傾げた。


「落ち着いてるっていうより」


一拍。


「一時的に不安定になる」

「逆じゃない?」


慧が即座に突っ込む。


「不安定なのに落ち着いて見えるの?」

「ああ」


禮は少し考えてから説明する。


「《怨消》を使った直後って」

「負の感情を一気に外へ持っていかれるから」

「怒りとか」

「憎しみとか」

「そういう感情が一時的に薄くなる」

「でも」

「消えたわけじゃない」


久世が禮を見る。


「戻ってくる?」

「戻る」

「しかも」


禮は指を一本立てる。


「戻り方が安定しない」


昨日ほどではない。

だが突然、強い怒りが戻ることもある。

逆に何も感じないような。

妙に冷めた状態になることもある。


「だから」


禮は肩を竦めた。


「今の俺が冷静なのも」

「別に吹っ切れたとか」

「許したとか」

「そういう話じゃない」


一拍。


「単純に」

「昨日、吐き出しすぎた反動だ」


慧が少し引いた顔をする。


「……その技」

「精神的にも結構危なくない?」

「危ないぞ」

「即答すんなよ!」

「危なくなきゃ《怨消》なんて名前つけないだろ」

「名前の問題じゃない!」


久世がそこで、少しだけ笑う。

だが天倉は別の部分が気になったらしい。


「神成」

「何?」

「その不安定な状態は」

「どのくらい続く?」


禮は少し考える。


「決まってないな」

「使った時の感情次第」

「昨日みたいに」

「かなり溜まってた状態で撃ったなら」


一拍。


「しばらくはこんな感じだと思う」


禮歌が隣から禮を見る。


「だから昨日より静かなんだ」

「ああ」

「なるほどね」


慧はようやく納得したように禮を見る。


「じゃあ」


少しだけ安心したような、困ったような顔。


「いつものお前に戻ったわけじゃないのか」


禮は少しだけ姿勢を正した。

さっきまでとは明らかに違う。


「……天倉さん」

「何だ」

「おそらくだけど」


禮はゆっくりと言葉を選ぶ。


「昨日までは」

「あの女」

「俺が局に関わってること自体」

「知らなかったはずだ」


天倉の目が僅かに細くなる。


「その根拠は?」

「昨日の反応だ」


禮は答える。


「俺を見に来た」


一拍。


「わざわざな」


久世も少し考える。


「確かに」

「偶然通りかかったって感じじゃなかったね」

「ああ」


禮は続ける。


「俺が局に関わってることを」

「どこかで知った」

「それで昨日」

「様子を見に来た」


慧が眉を寄せる。


「じゃあ……」


禮の声がさらに真剣になる。


「これから何かしてくる可能性がある」

「情報の改ざん」

「記録の隠滅」

「証拠の処分」


一拍。


「何かしら」

「自分に都合が悪いものへ」

「対策するかもしれない」


天倉はすぐには答えない。

禮も断定はしない。

あくまで可能性だ。

だが昨日、あの女が禮の存在を改めて認識した。

それは間違いない。


「だから」


禮が天倉を真っ直ぐ見る。

さっきまでの面倒そうな態度も軽口もない。


「天倉さん」


一拍。


「対処される前に」

「全部見つけ出してほしい」


室内が静かになり、慧も禮歌も久世も何も挟まない。

禮は続けた。


「姉ちゃんが」

「なんで犯罪者と間違われたのか」

「誰が情報を出したのか」

「何を根拠に」

「捕縛の余地なしなんて判断になったのか」

「誤認だと分かった後」

「何が処理されて」

「何が残ったのか」


そして、少しだけ拳を握る。


「全部」

「知りたい」


天倉は黙って禮を見る。


「これは」


禮が一度だけ息を吐く。


「外部協力者としてじゃない」


一拍。


「一個人として頼みたい」


その言葉に、天倉の表情がほんの少し変わり、今まで、禮は局へ何かを求めることがほとんどなかった。

むしろ距離を置き、面倒を嫌い、必要以上に関わろうとしなかった。

その禮が今。

はっきり、頼んでいる。

天倉はしばらく黙った後、口を開いた。


「分かった」


短い返答。

だが軽くはない。


「今から」

「残っている記録を保全する」


慧が天倉を見る。


「保全?」

「ああ」


天倉は続ける。


「調べる前に」

「消される可能性を考えるなら」

「まず現時点で存在する記録を」

「動かせない状態で確保する必要がある」


久世も表情を引き締める。


「閲覧履歴も?」

「取れるものは全部です」

「誰がいつ」

「どの記録へアクセスしたか」

「変更された形跡がないか」

「削除されたものがないか」

「バックアップが残っているか」


天倉の声が少しずつ、仕事のものへ変わっていく。


「それから」

「昨日以降」

「あの局員が」

「どの情報に触れたのかも確認する」


禮が静かに聞いている。


「ただし」


天倉が禮を見る。


「一つだけ約束してくれ」

「何だ?」

「俺が調べている間」

「お前はあの局員を探しに行くな」


禮の目が僅かに細くなり、天倉はそのまま続ける。


「会うな、とは言わない」

「偶然まで防げるとは限らない」

「だが」

「自分から接触するな」

「今のお前が動けば」

「相手が警戒して」

「本当に記録へ手を出す可能性もある」


久世が静かに頷く。


「それに」

「神成が先に暴れたら」

「調べられるものも調べられなくなる」

「…………」


天倉がもう一度。

はっきり言う。


「俺がやる」

「お前が知りたい事実を」

「可能な限り」

「全部拾う」


一拍。


「だから」

「今だけは任せろ」


天倉の言葉が静かに室内へ残る。

禮はしばらく。

何も言わなかった。

いつもなら、何か一つくらい。

余計なことを言う。

面倒そうに肩を竦めるかもしれない。

軽く笑って、誤魔化すかもしれない。

だが今回は、何もしなかった。

ただ、天倉を真っ直ぐ見る。

そして、短く。


「ありがとう」

「…………」


天倉が僅かに目を見開おり、久世も慧も禮歌も、一瞬だけ禮を見る。

それほど珍しかった。

神成禮が何の冗談も、何の照れ隠しもなく。

誰かへ真正面から、感謝を伝える。


「本当に」


禮はもう一度だけ。

言葉を続ける。


「助かる」


天倉は数秒、何も言わなかった。

それから、小さく頷く。


「ああ」


余計な言葉は返さない。

必要ないと分かっており、久世も今回は茶化さなかった。

慧も何も言わない。

禮歌だけが隣で、ほんの少し表情を柔らかくしており、禮にとって、この件を誰かに任せること自体が簡単なことではない。

姉を失ってから、ずっと自分で強くなり、自分で見つけ、自分で決着をつける。

そう考えてきた。

それでも今。

初めて誰かに事実を探してほしいと頼んだ。

そして、その頼みを受けてもらった。

ただそれだけのことが禮にとっては思っていた以上に大きかった。


「本当に助かる」


禮の言葉に天倉は小さく頷いた。


「ああ」


それ以上誰かが何かを付け加えることはなかった。

久世も慧も禮歌も、あえてその話を続けない。

数秒、静かな時間が流れる。

そして、天倉が机の上の資料をまとめた。


「……では」


声もいつものものへ戻る。


「この件については、一旦ここまでだ」

「ああ」


禮も普段通りに返す。

さっきまでの張り詰めた空気が少しずついつものものへ戻っていく。

天倉が立ち上がる。


「それで」


禮を見る。


「最初にお前が聞いていた件だ」


禮が僅かに眉を上げた。


「対戦相手?」

「ああ」


久世がそこでようやく、いつものように笑う。


「やっと訓練の話に戻ったね」

「元々それしに来たからな」


慧が小さく呟く。


「途中が重すぎたんだよ……」


禮歌も少しだけ笑い、天倉はそんな三人を横目に続ける。


「今日は久世さんではない」

「えー」


久世がすぐに不満そうな声を出す。


「昨日やったでしょう」

「もう一回でもいいのに」

「駄目です」


即答。


「ちぇー」


禮が久世を見る。


「まあ、俺も別の相手の方がいい」

「神成まで?」

「色んな能力見たいし」

「そっちかぁ」


天倉が軽く咳払いする。


「話を戻すぞ」


全員の視線が天倉へ向く。


「今日のお前の相手は」


一拍。


「もう訓練場で待っている」


禮の口元が僅かに上がった。


「強い?」


天倉が少しだけ考える。


「少なくとも」

「お前が退屈する相手ではないと思う」


その一言で、禮の表情が分かりやすく変わり、慧がそれを見て、ため息をつく。


「さっきまでとの切り替え早すぎだろ……」

「切り替えるって昨日言ったしな」

「そういうレベル?」


禮はすでに先ほどまでとは別の意味で、訓練場へ意識を向けており、今日、最初の対戦相手。

まだその名前は聞かされていない。

どんな相手が待ってるんだろうな。


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