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戦うのは好きだけど面倒事は嫌いなので、最強なのは秘密です。  作者: 檸堂礼音
第三章

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第四話 大会2日目

翌朝。

最終実戦評価の二日目を迎えた大会施設には、前日にも劣らない数の観客が詰めかけていた。

むしろ、その熱気は昨日以上だった。

前日、正体不明だった特別審査官が十七歳の少年、神成禮(しんじょうらい)であると明かされた。

さらに瀬名凌(せなりょう)が一撃を当てて勝利条件を達成し、九条澪(くじょうみお)が《壊穿》を完全に相殺してみせた。

それらの映像は、一晩のうちに何度も繰り返し再生されていた。

だが、最も多く語られていたのは別のことだった。


「今日も神成が戦うんだよな?」

「昨日、二十%って言ってたの聞いた?」

「聞いた。でもあれ、本当に全部二十%だったのか?」

「本人がそう言ってたじゃん」

「だから信じられないんだって!」


そんな会話が、あちこちで交わされている。

午前九時、大型モニターが点灯した。


『最終実戦評価――二日目』

『第一評価対象者を発表します』


画面に、一人の青年の顔写真が映る。

――エリオット・グレイ。

十九歳。

イギリス出身。


能力《分岐視》。

数秒先に起こり得る、複数の行動の分岐を見る能力。

大会中、救助部門で高い評価を受けた参加者だった。

仲間の動きを予測し、事故の可能性を避け、限られた時間で救助経路を組み立てた。


だが禮(らい)が注目したのは、そこではない。

終盤、エリオットは自ら《分岐視》を止めた。

可能性が増えすぎれば、かえって判断が鈍る。


それを理解したうえで、能力を使わずに仲間の動きを読んだのだ。

やがて通路の奥から、本人が姿を現す。

エリオットは闘技場の中央まで歩き、禮の前で足を止めた。


「よろしくお願いします、神成審査官」


落ち着いた声だった。

だが、視線は忙しい。

禮の手。

足の位置。


背後の壁。

床の状態。

それらを順番に確かめている。

エリオットは一度だけ息を吐くと、禮を見た。


「昨日の試合は、すべて見ました」

「……一つだけ、先に聞いてもいいでしょうか」


少し間を置く。


「今回も、相手に合わせて勝利条件を変えるんですか?」


観客席が静かになる。

昨日とは違い、最初から禮の回答に注目が集まっていた。


「ああ、今回も変える」


禮は頷いた。


「ただし、今回は特殊だ」


エリオットが姿勢を正す。


「俺の技に耐えられたらクリア。それがお前の勝利条件だ」

「……耐える?」

「ああ。ただ、一つだけ教えておく」


禮は人差し指を立てた。


「俺が使うのは、攻撃技じゃない」


エリオットの眉が僅かに動く。


「攻撃ではない……?」

「それと、互いに攻撃は禁止。俺もお前を殴らないし、お前も俺を攻撃しなくていい」


観客席から、困惑した声が漏れた。


「どういうことだ?」

「攻撃じゃない技に耐えるって……何に?」

「精神系の能力とか?」

「いや、神成の能力って《創》だろ?」


誰も答えを知らない。

エリオットも同じだった。

彼は禮を見つめながら、静かに《分岐視》を働かせる。

見えるのは、数秒先に起こり得る複数の行動。


禮が手を上げる可能性。

歩き出す可能性。

何かを創り出す可能性。

だが、技の正体を知らない以上、その先を正確に読むことはできない。


「……先に聞いても?」

「ん?」

「耐えられなかった場合、僕はどうなるんでしょうか」


審査席の天倉(あまくら)も、同じ疑問を抱いたらしい。

通信機へ手を伸ばす。


『神成。安全面の確認だけはさせろよ。攻撃じゃないから安全、とは限らないからな』

「……」


エリオットは小さく息を吐いた。

そして、禮へ向き直る。


「分かりました。技の正体は、始まるまで伏せておくんですね」


少し緊張したように笑う。


「だったら、見てから考えます」


《分岐視》を解除する。

まだ何も起きていない段階で、無数の可能性を追っても仕方がない。

まずは、目の前で起こることを見る。

そこから判断する。

エリオットは両手を下ろし、構えを解いた。


「準備はできています」


攻撃も、防御の構えもない。

ただ、禮の次の一手を待つ。

観客席が静まり返った。


「まぁ、無理でも死んだりはしないから安心してくれ」


禮は軽く笑った。


「悪くても、気絶くらいで済む」

「……それ、安心していいんでしょうか」


エリオットの顔が僅かに引きつる。

審査席では、天倉が通信機を握り直していた。


『神成。その言い方は安心できないんだが』

「大丈夫だって」


禮はエリオットへ向き直る。


「さて、使う技は二つだけだ」


二本の指を立て、そのうち一本を折る。


「まず、一つ目」


《創》の気配が広がる。


「再竜聖歌(さいりゅうせいか)」


瞬間禮の周囲に、幾重もの光が走った。

これまで禮が使用してきた技。

その構造が再構築され、同時に展開されていく。

斬撃が地面を駆ける。


衝撃が壁を叩く。

空中には、次々と異なる現象が生まれる。

《零衝》。

《壊穿》。


《断絶ノ界線》。

そして、それだけでは終わらない。

過去に使われた技が、形を変えながら次々と現れる。

ただし、どの技もエリオットには向かわない。


標的は地面。

壁。

誰もいない空間。

それでも、闘技場全体で絶え間なく現象が起こり続ける光景は、十分に異様だった。


「うわっ!?」

「何だこれ!?」

「全部、別の技なのか!?」


観客席が騒然となる。

エリオットも思わず一歩引いた。


「……攻撃しない、というのは本当みたいですね」


そして《分岐視》を発動する。

次の瞬間。


「――っ!?」


視界が、一気に埋まった。

地面を穿つ一撃。

壁で弾ける衝撃。

空間を横切る境界。


それぞれに、複数の分岐が生まれる。

一つの技が終わる前に、次の技。

さらに次。

さらに、その次。

エリオットの視界で、可能性が枝分かれし続けた。


「……多すぎる」


思わず呟く。

避ける必要はない。

自分へは当たらない。


頭では理解している。

だが、《分岐視》は周囲で起こり得る変化まで捉えてしまう。

見ようとするほど、情報が増える。


「くっ……!」


エリオットが額を押さえた。

審査席。

久世(くせ)が、ようやく禮の狙いに気づく。


「なるほど。あの子の能力にとっては、攻撃されるより厄介かもね」


禮歌(れいか)もエリオットを見つめる。


「見えるからこそ、全部を追いかけちゃうんだ」


闘技場の中央。

エリオットは荒く息を吐いた。

まだ倒れていない。

だが、次々に増える分岐を前に、顔から余裕が消えていく。


禮の技は、まだ一つ目だった。

《再竜聖歌》によって、闘技場の至るところで技が再現され続ける。

斬撃。


衝撃。

空間の変化。

その一つ一つから、無数の分岐が生まれていた。

エリオットは額を押さえながら、必死に視界を整理しようとしている。


「……まだ、続くのか……」


禮はその様子を見て、口を開いた。


「これに耐えられたら合格だ」


エリオットが顔を上げる。


「お前の《分岐視》は、可能性を見るような能力だろ?」

「……はい」

「でも、自分では想定できない可能性や、まだ観測していないものまでは見えないはずだ」


エリオットの目が僅かに見開かれる。

その通りだった。

彼の能力は、何もないところから未知の情報を生み出すわけではない。


見えている状況。

知っている条件。

そこから生じる、複数の行動の分岐。

それを捉える能力だ。


「なら――」


禮が片手を上げる。


「それすら可視化したら、どうする?」


審査席で、久世が反応した。


「あ」


禮歌も空を見上げる。


「……そっちまで使うんだ」


禮が告げた。


「《レインビーナ》」


ぽつり。

闘技場の床に、一粒の雨が落ちた。

続けて。

二粒。


三粒。

やがて、無数の雨粒が空間を満たし始める。

それは普通の雨ではない。

一粒一粒が、可能性。


実現するかもしれない選択。

実現しないかもしれない結果。

まだ誰にも知られていない分岐。

それらすべてが、雨となって現れる。


「……え?」


エリオットが目を見開いた。

《分岐視》の中に自分が見たことのない分岐が現れる。

知らない技。


想定していなかった現象。

観測していない場所で起こり得る変化。

それらが雨粒として視界に入り、次々と新しい分岐を生んでいく。


「待っ……」


エリオットは慌てて《分岐視》を解除しようとした。

だが、能力を止めても、雨は消えない。

《レインビーナ》によって可視化された可能性は、既に目の前に存在している。

見なければいい。


そう思って目を閉じる。

しかし、先ほどまでに見た無数の分岐が頭から離れない。

周囲では《再竜聖歌》が続いている。


技が再現される。

結果が生まれる。

可能性が増える。

雨が強まる。


「っ……あ、あ……!」


エリオットの呼吸が乱れた。

膝が揺れる。

観客席から声が上がる。


「おい、あの子……!」

「大丈夫なのか!?」

「攻撃は当たってないんだよな……?」


エリオットは最後まで立とうとした。

見えるものを整理する。

必要な情報だけを選ぶ。

大会中にできたはずのことだ。

だが、今は選ぶために見る情報さえ、多すぎた。


「……無理、だ……」


膝が折れる。

そのまま、エリオットは意識を失った。


『対象者の意識消失を確認』

『評価継続不能』


運営AIの音声が響く。

禮はすぐに《再竜聖歌》を止めた。

続けて《レインビーナ》も解除する。

雨が消え、闘技場が静まり返った。

禮は倒れたエリオットの傍らへ歩み寄る。


「《創》」


淡い光がエリオットを包んだ。

過度な負荷によって乱れていた身体の状態を整え、回復させていく。

しばらくして。


「……ん……」


エリオットが目を開けた。

ぼやけた視界の先に、禮がいる。


「……僕は」


上体を起こしかけて、周囲を見た。

雨はない。

技の再現も終わっている。


「……倒れたんですね」


禮が頷く。

エリオットは悔しそうに唇を噛んだ。


「能力を止めれば……耐えられると思ったのに」


一度、深く息を吐く。


「能力で見えないものまで、目の前に出されたら……」


そこで言葉が止まった。

エリオットは、何かに気づいたように禮を見上げる。


「……でも」


まだ少しふらつく声で、尋ねた。


「全部を見る必要は、なかったんでしょうか」


禮はエリオットの隣にしゃがんだ。


「お前の能力の弱点は、情報量の多さだ」


エリオットは静かに頷く。


「……はい」

「自覚はしてると思うけどな」


禮は先ほどまで雨が降っていた空間を見上げる。


「自分に必要なものを見る。それ以外は見ない。まずは、その判断が大事だ」

「必要なものだけ……」

「ああ。今回なら、初めから能力を展開しないって選択肢もあった」


エリオットが顔を上げた。


「……最初から?」

「俺は攻撃しないって宣言してただろ?」


禮は笑う。


「それなら、まずは能力を使わずに様子を見る。危険だと思った時だけ《分岐視》を使う。それでもよかった」


エリオットは目を伏せる。

思い返せば、確かにそうだった。

禮が《再竜聖歌》を発動した直後。

彼は反射的に《分岐視》を使った。


何が起こるか分からない。

だから、先に見ておきたい。

その判断自体は、普段なら間違っていない。

だが今回はその「見ておきたい」が、自分を追い詰めた。


「それに、あとから能力を止めても、それまでに見たものは消えないからな」


禮はエリオットを見る。


「一度頭に入れた情報を、なかったことにはできない」

「……そうですね」

「だからこそ、臨機応変に能力を使い分ける必要がある」


エリオットはしばらく黙っていた。

やがて、苦笑する。


「大会中は……できたつもりだったんです」

「ん?」

「救助部門の最後で、《分岐視》を使わずに仲間の動きを読めました。だから、僕はもう能力に頼りきりじゃないと思っていました」


自分の手を見つめる。


「でも、知らない状況になった途端、また最初に能力を使ってしまった」


禮は何も言わず、続きを待つ。


「……能力を使わないのも、一つの判断なんですね」


審査席の久世が、二人の様子を眺めながら呟いた。


「見えるものを減らすために、あえて見ない。簡単そうで難しいね」


禮歌が頷く。


「特に、見えることで何度も助かってきた人ならね」


闘技場では、エリオットがゆっくり立ち上がった。


「正直、悔しいです」


まだ少しだけ、足元がふらついている。


「耐えられなかったこともそうですけど……能力を使う前に、考えられなかったことが」


一度、深く息を吸う。

そして禮に向き直った。


「次に同じような状況になったら、まず考えます」


少し間を置いて。


「見る必要が、本当にあるのかどうか」


運営AIの音声が、静かな闘技場に響いた。


『最終実戦評価、終了』

『勝利条件――未達成』

『なお、評価中の行動記録および能力運用データは、総合評価へ反映されます』


エリオットは表示を一度見上げた。

残念そうに息を吐き、それから禮へ小さく頭を下げる。


「ありがとうございました、神成審査官」


勝利条件は達成できなかった。

けれど、何も得られなかったわけではない。

エリオットはもう一度、自分の手を見た。

今度は、能力を発動しなかった。


「さて、次だな」


禮が立ち上がる。

エリオットはもう一度頭を下げると、係員に付き添われて退場していった。

入れ替わるように、運営AIの音声が響く。


『次の評価対象者を発表します』


大型モニターが切り替わった。

――レオン・ハルトマン。

十八歳。

ドイツ出身。


能力《逆算》。

設定した結果から、そこへ至るために必要な手順を逆向きに組み立てる能力。

大会中の戦闘成績は四勝。

そのすべてで、相手に直接有効打を与えていない。


場外への誘導。

武器を使えない状況への追い込み。

制限時間を利用した判定勝利。


そして、再び場外。

相手を殴り倒すのではなく、勝利という結果へ相手を運んでいく。

禮が大会中に目をつけた参加者の一人だった。


「今度は《逆算》か!」

「あいつ、まともに殴り合わないんだよな」

「でも四試合とも勝ってるんだろ?」


観客席がざわめく。

やがて、レオンが闘技場に姿を現した。

彼は中央へ歩きながら、禮を一度見る。


次に、壁。

床。

場外を示す境界線。

最後に、天井。


「……なるほど」


何かを確かめるように、小さく呟く。

禮の前で足を止めたレオンは、軽く頭を下げた。


「よろしくお願いします」

「ああ」


レオンは顔を上げる。


「昨日からの試合を見て、気になっていたことがあります」

「何だ?」

「あなたは毎回、相手に合わせて勝利条件を設定していますよね」


禮は頷く。

レオンは少し笑った。


「僕の能力では、先に結果を決める必要があります」


そして、まっすぐ禮を見る。


「ですから、最初に聞かせてください」


少し間を置いた。


「今回、僕は何を達成すれば勝ちですか?」


禮の答えを待つ間、レオンは《逆算》を発動しなかった。

結果が決まる前に手順を考えても、意味がない。

彼はまず、条件を知ろうとしていた。


「……僕が、ですか?」


レオンは少し驚いたように聞き返した。


「そう。お前が決めていい。ただし、内容によっては俺が判断する」


レオンは顎(あご)に手を当てる。


「なるほど……」


視線を落とし、しばらく考える。

《逆算》。

結果を定め、そこへ至る道筋を組み立てる能力。


これまでの大会では、勝利という結果を先に置き、相手を場外へ追い込んできた。

だが今回は違う。

結果そのものを、自分で選べる。


「……でしたら」


レオンは闘技場を見渡した。

禮との距離。

床の状態。

壁までの間隔。

そして、会場中央に引かれた白い線。


「僕の勝利条件は――」


レオンが白線の一角を指さす。


「神成審査官に、僕が指定した場所を踏ませること」


観客席がざわつく。


「……え?」

「場外じゃないのか?」

「ただ、そこを踏ませるだけ?」


レオンは続けた。


「もちろん、偶然踏んだ場合は除外してください。僕の行動が原因となって、そこへ移動した場合に限ります」


禮はレオンの指さす場所を見る。

白線の上。

大人が一人立てる程度の、狭い範囲だった。


「ただし、一つだけ」


レオンは人差し指を立てた。


「僕は、あなたを直接押し込むつもりはありません」


その言葉に、審査席の久世が笑った。


「へえ。力ずくじゃなくて、誘導するんだ」

「《逆算》らしいね」


禮歌も興味深そうにレオンを見る。

レオンは禮へ向き直った。


「あなたがどう動くかを考えて、その場所へ至る手順を作る」


そこで一度、言葉を切る。


「それが、今回の僕の挑戦です」


そして、わずかに笑った。


「いかがでしょうか、神成審査官。この条件で、勝負していただけますか?」

「まぁ、いいけどさ」


禮はレオンが指定した白線を見た。


「だったら、これならどうだ?」

「……はい?」

「俺が一歩でも動いたら、お前の勝ちってのは」


レオンが目を瞬かせた。

観客席からも、戸惑いの声が上がる。


「え、そんなのでいいの?」

「それなら簡単じゃないか?」

「いや……神成が動かなかったら終わりだろ?」


レオンは少し考え込んだ。

指定した場所へ誘導する。

そのために、相手の行動を組み立てる。

それが当初の勝利条件だった。


だが、今回の提案は違う。

行き先を考える必要はない。

禮を、その場から一歩動かす。

たったそれだけしかし――。


「……なるほど」


レオンは小さく笑った。


「簡単になったようで、そうでもないですね」

「そうか?」

「はい。最初の条件なら、あなたが移動することを前提に考えられます。でも、今の条件なら……」


レオンは禮の足元を見る。


「あなたは、最初から動かないことを選べる」


それを聞いた久世が、審査席で頷いた。


「ちゃんと気づいたね」


レオンは再び顔を上げた。


「でも、その条件でお願いします」


迷いはなかった。


「僕の《逆算》が、動く必要のない相手をどこまで動かせるのか。試してみたい」

『勝利条件を更新します』


運営AIの音声が響く。


『レオン・ハルトマンの勝利条件――神成禮を現在位置から一歩以上移動させること』

『条件達成まで、評価を継続します』


レオンはゆっくりと息を吐いた。

そして、禮を見つめる。


「では――始めましょう」


《逆算》。

能力が発動する。

設定する結果は、一つ。

神成禮が、一歩動く。

そこへ至るための手順を、レオンは探し始めた。


「一つ言っておくけど」


禮はその場から動かず、レオンを見た。


「この位置からでも、俺は攻撃するぞ」


レオンの表情が引き締まる。


「……承知しています」

「なら、行くぞ」


禮が片手を上げる。


「《断絶ノ界線》」


瞬間レオンの足元を、細い線が走った。


「っ!」


反射的に後ろへ跳ぶ。

その直後、先ほどまで立っていた場所に、空間を隔てる境界が生まれた。


「……危なっ」


レオンが息を吐く。

だが、終わらない。

右側左側さらに背後。


禮は一歩も動かないまま、次々と《断絶ノ界線》を配置していく。

レオンが逃げようとした経路が、一本ずつ断たれていった。

観客席がざわめく。


「動かないって、そういうこと!?」

「神成はその場から攻撃できるのか!」

「レオン、近づくどころじゃないぞ!」


レオンは顔をしかめた。

《逆算》。

結果は変わらない。

――神成禮を一歩動かす。


そのために近づく。

だが、近づくための経路が消される。

別の方向へ回る。

そこにも境界が現れる。


「……なるほど。これは困ったな」


レオンは一度、大きく距離を取った。

禮は追いかけない。

必要がないからだ。

審査席では、久世が頬杖をついた。


「今回は禮が動く理由を作らないといけないんだね」


禮歌が頷く。


「うん。でも近づこうとしたら、先に道を塞がれる」

「じゃあ、どうするかな?」


闘技場。

レオンは禮の足元を見た。

それから、周囲に残る境界を見る。

《逆算》によって組み立てた手順は、既に何度も崩されていた。

だが、そこで一つ気づく。


「……ああ、そうか」


レオンが顔を上げた。


「僕は、あなたに近づくことばかり考えていました」


彼は禮の正面へ戻る。


「でも、勝利条件は近づくことじゃない」


ゆっくりと構えを解いた。


「あなたを、一歩動かすことだ」


レオンはその場に立ち止まる。

先ほどまでとは反対に、今度は自分から距離を詰めようとしなかった。

観客席から困惑の声が漏れる。


「……何してるんだ?」

「攻めるのをやめた?」


レオンは禮を見据えたまま、再び《逆算》を発動する。

今度は、接近するための手順ではない。

動く必要がない禮に、動くという選択をさせるための手順。


「……少し、試させてもらいます」


レオンが、最初の一手を選んだ。

禮は、構えていた手を下ろした。


「《断絶ノ界線》――解除」


闘技場に張り巡らされていた境界が、次々と消えていく。

禮はその場から動かない。

ただ、レオンを見ていた。


「……解除した?」


レオンが目を瞬かせる。

先ほどまで接近を阻んでいたものが、なくなった。


「近づけるようになった、か……」


レオンは一歩踏み出しかけて、止まる。

違う。

近づけることと、禮を動かせることは別だ。

観客席からも声が上がる。


「今なら近づけるぞ!」

「でも神成、全然動かないな」

「動かない方が勝てるんだから、当然だろ」


レオンは禮の周囲をゆっくり歩き始めた。

右へ左へ距離を変える。

禮の背後へ回れる位置まで移動する。

それでも、禮の足は動かない。


「……参ったな」


レオンが苦笑する。

《逆算》で組み立てた手順が、ことごとく途中で行き詰まる。

相手を動かすには、まず動く理由が必要だ。


攻撃を避ける。

防御する。

距離を取る。

だが、禮にはそのどれも強制できていない。


「だったら……」


レオンは足元に転がっていた、小さな床の破片を拾った。

瀬名戦で砕かれ、まだ回収されていなかったものだ。


「まずは、反応を確かめるところからですね」


レオンは破片を指先で軽く放り上げる。

狙いは禮の身体ではない。

禮が立つ、その足元。

破片が低い軌道を描いて飛んでいく。

レオンは投げた瞬間から、禮の足を見ていた。


「んー……」


禮は飛んでくる破片を見た。

その場から動くことなく、片手を軽く上げる。

《創》。

一瞬禮の手に、模倣《アポカリプス》が顕現(けんげん)した。


振り抜く。

パキンッ!

破片が粉々に砕ける。

そして、次の瞬間には模倣《アポカリプス》も消えていた。

禮の足は、最初から一歩も動いていない。


「……え?」


レオンが目を瞬かせる。

観客席もざわついた。


「今、剣出したよな?」

「出したと思ったら消えたぞ!?」

「しかも足、動いてない!」


レオンは砕けた破片を見て、それから禮の手を見る。


「……武器を持っていなくても、必要な瞬間だけ創れるんですね」


《逆算》。

先ほどの結果を踏まえ、手順を組み直す。

小さな物を投げる。


禮が回避する。

その隙に、次の行動へ繋げる。

――その道筋は、今ので使えなくなった。


「攻撃を避けさせるだけでは駄目、か……」


レオンは顎に手を当てる。

禮がこちらを攻撃していた間は、攻撃の隙を利用することも考えられた。

だが、今の禮は違う。


何もせず、ただ立っている。

必要になった時だけ対処する。

それだけで、レオンの手順は途中から成立しなくなる。


「……難しいですね、本当に」


レオンは苦笑した。

それでも、諦めてはいない。

もう一度、禮の足元を見る。

そして、小さく呟いた。


「だったら……避ける必要がないものを、避けさせようとしても意味がない」


彼は破片を拾うのをやめた。

今度は、禮の反応ではなく、禮自身が動こうと思う理由を探し始めた。


「創約(そうやく)」


禮の足元に、淡い光が走った。

指定したのは――自分が今立っている位置と姿勢。

それを《創約》によって維持する。

禮は相変わらず、その場から一歩も動かない。


「……また何かしましたね?」


レオンが警戒する。


「でも、見たところ何も変わっていない……」


観客席からも声が上がった。


「今の、何の技だ?」

「動いてないから分かんねえ……」


審査席では、禮歌が小さく笑った。


「今度は《創約》か」


久世が頬杖をつく。


「へえ。ますます動かすのが難しくなりそう」


一方、レオンは禮の足元を見つめていた。

《逆算》。

結果は変わらない。

――神成禮を一歩動かす。

だが、そこへ至る手順が、また組み直しを迫られる。


「……困りましたね」


レオンは苦笑した。


「あなたを動かすどころか、何をしたのかも分からない」


それでも、彼は視線を逸らさない。


「だったら、まずは今の技を確かめないと」


レオンは再び周囲を見渡した。

今度は、禮ではなく、禮が立っている場所そのものを、注意深く観察し始めた。


「……ちょっと考えすぎだな」


禮の声に、レオンが顔を上げた。


「《逆算》ってのは、決められた結果に対して、どういった手順で辿り着くかを読み解くものだろ?」

「……はい」

「なのに、なんでそこまで深く悩む?」


禮はその場から動かず、続ける。


「お前が選んだ手順が、答えになるんだぞ」


レオンは何も言わなかった。

禮が足元に掛けた《創約》。

一瞬だけ現れた模倣《アポカリプス》。


先ほどの《断絶ノ界線》。

それらをどう突破するか。

レオンは、禮の行動すべてに対処できる完璧な手順を探そうとしていた。

だが。


「……僕は、失敗しない手順を探していたのか」


ぽつりと呟く。


「それじゃ、いつまで経っても動けませんね」


観客席から声が上がる。


「どういうことだ?」

「何か分かったのか?」


レオンは禮を見た。


「一つ、聞いてもいいですか」

「ん?」

「僕が選んだ手順が失敗したら……その時は、別の手順を選んでもいいんですよね?」


審査席の久世が、口元を緩める。


「ようやく動きそうだね」


レオンは小さく息を吐いた。

そして《逆算》を発動する。

目指す結果は変わらない。

――神成禮を一歩動かす。

ただし、今度は考え込まない。


「まずは、一つ試します」


レオンが構えた。


「結果が変わったら、そこからまた組み直せばいい」


そう言って、彼は禮へ向かって駆け出した。

先ほどまで慎重に距離を測っていた足取りとは違う。

まだ、勝利へ至る手順が完成したわけではない。

それでもレオンは、ようやく自分の選んだ一手を実行に移した。

レオンが駆け出した、その時。


「あぁ、そうか」


禮がふと思い出したように声を上げる。


「今のままだと、無限に挑戦できてしまうな」


レオンが足を緩めた。


「……確かに」

「なら、条件を一つ追加しよう」


禮はその場から動かず、レオンを見る。


「俺がお前に有効打を当てたら、お前の負け。それでどうだ?」


レオンは一瞬、目を丸くした。


「……つまり」

「お前は俺を一歩動かせば勝ち。俺はお前に一発当てれば勝ち」

『勝利条件の変更を確認』


運営AIの音声が響く。


『レオン・ハルトマン:神成禮を現在位置から一歩以上移動させる』

『神成禮:レオン・ハルトマンに有効打を与える』

『いずれかの条件が達成された時点で、評価を終了します』


観客席がざわついた。


「一発で終わりか!」

「しかも神成、遠距離からも攻撃できるだろ?」

「さっきの空間の技を使われたらどうするんだ?」


レオンは苦笑した。


「……急に厳しくなりましたね」

「嫌か?」

「いえ」


レオンは首を振る。


「むしろ、考えることが減りました」

「へえ?」

「あなたが攻撃するなら、その瞬間には必ず何かを選ぶはずです」


レオンは禮を見据える。


「どの技を使うか。いつ使うか。僕がどう動くと予測するか」


そして、ゆっくりと構え直した。


「その選択も、僕の《逆算》に組み込めます」


審査席で久世が笑う。


「なるほど。禮が動かなくても、攻撃するなら判断は必要だもんね」


禮歌はレオンの足元に目を向ける。


「でも、一回でも判断を間違えたら負けるよ」


闘技場。

レオンは再び走り出した。

今度は一直線ではない。

左右に進路を変えながら、禮との距離を縮めていく。

その表情には、先ほどまでの迷いがなかった。


「では、神成審査官」


レオンが笑う。


「今度は、あなたの攻撃も利用させてもらいます」

「条件成立だな」


禮は、近づいてくるレオンを見た。


「ここからは技を使わない。《創》だけで勝負を決める」

「……技は使わない?」

「ああ。すぐに勝負をつけるから、その間に俺を動かしてみせろ」


禮は動かない。

足元には、先ほど発動した《創約》が維持されている。


「俺が能力を十回使い終わる頃には、お前に有効打を当ててるだろうな」


レオンの表情が引き締まった。


「十回……」

「行くぞ」


《創》。

禮の周囲に、十本の剣が現れた。

刃先はすべて、レオンへ次の瞬間。

一斉に発射された。


「――っ!」


レオンは咄嗟に横へ跳ぶ。

一本目が脇を通過。

二本目。

三本目。

《逆算》によって選んだ移動経路を走るが、十本すべてを余裕をもって避けられるわけではない。


「くっ……!」


四本目の剣が足元へ突き刺さる。

それを飛び越えたところへ、五本目。

レオンは身体を捻った。


剣が上着を切り裂く。

だが、有効打には至らない。

六本目から十本目までが、立て続けに地面へ突き刺さった。

レオンは最後の一本をかわし、ようやく足を止める。


『有効打なし』

『神成禮、能力行使――一回』


観客席がざわめいた。


「十本出して一回!?」

「一回の《創》でまとめて作ったからか!」

「あと九回もあるのかよ!」


レオンは肩で息をしながら、禮を見た。

禮の足は最初の位置から、まったく動いていない。


「……なるほど」


レオンは短く息を吐く。


「十回というのは、十本という意味じゃなかったんですね」


目の前には、地面へ突き刺さった十本の剣。

そして、動かない禮。

レオンはその両方へ視線を走らせた。


先ほどまでの自分なら、次の攻撃をどう避けるか考えていただろう。

だが、それでは勝てない。

九回の攻撃を避け切ることが、勝利条件ではないのだから。


「……よし」


レオンが地面を蹴った。

次の攻撃が来る前に自分から仕掛ける。

禮を一歩動かすための手順を、今度こそ実行するつもりだった。

レオンが距離を詰める。


「――っ!」


右拳。

禮は受け止めない。

軽く腕を添え、拳の軌道を外側へ流す。

レオンの身体が前へ傾いた。


だが、すぐに左手が伸びる。

今度は禮の襟元。

それも、手首を払って受け流す。

足は動かさない。

ただ、必要最小限の動きだけで対処する。


「……っ、やっぱり!」


レオンが一歩引いた。

観客席から声が上がる。


「全部流されてる!」

「神成、足を一回も動かしてないぞ!」

「近づけても駄目なのか……?」


レオンは呼吸を整えながら、禮の足元を見た。

《創約》が維持されている。

その位置から、禮は動かない。


「力ずくで押しても、駄目ですね」


レオンは小さく呟く。

しかし、次に禮の腕を見た。


「……でも」


先ほど、拳を受け流された瞬間自分の身体は、意図しない方向へ動いた。

禮は動かない。

だが、相手の力の向きは変えられる。


「そうか。僕が動かされるなら……」


レオンが再び《逆算》を働かせる。

今度は禮を直接押す手順ではない。

禮が攻撃を受け流す、その動きまで含めた手順。


「もう一度、行きます!」


レオンが踏み込んだ。

先ほどと同じ右拳。

だが、その左手は拳を放つ前から、別の動きを始めていた。

レオンが再び踏み込む。

右拳を放とうとした、その瞬間。


「黙って殴られ続けるわけでもないぞ?」


禮の拳が、正面から飛んだ。


「――っ!」


レオンは咄嗟に身体を右へ逃がす。

だが、禮は、その回避を見ていた。

《創》。


一本の剣が現れる。

刃先は、禮の正面ではない。

レオンが避けた先。


「なっ――!」


剣が発射される。

レオンの《逆算》が、慌ただしく次の手順を組み立てる。

後ろへ退く。

間に合わない。


左へ戻る。

禮の拳がある。

身を沈める。


――それならレオンは膝を折り、地面へ倒れ込むように姿勢を崩した。

剣が頭上を通過する。

髪が数本、宙を舞った。


『有効打なし』

『神成禮、能力行使――二回』

「危っ……!」


レオンは地面に片手をつき、すぐに距離を取った。

観客席が沸く。


「今の避けたのか!」

「でも、完全に逃げ道を読まれてたぞ!」

「剣を十本出しても一回、一本出しても一回か……!」


レオンは荒い息を吐きながら、禮を見た。

その足元は、変わらない。

開始位置から一歩も動いていなかった。


「……あなたを動かすつもりが、僕ばかり動かされていますね」


悔しそうに笑う。

だが、視線は禮の拳と、剣が通り過ぎた軌道を往復していた。

攻撃する。


相手が避ける。

避けた先へ、さらに攻撃する。

今の一連の動きを、レオンは頭の中で繰り返す。


「……残り、八回」


《逆算》。

今度は攻撃を受けてから手順を探さない。

禮が次に攻撃する、その前からレオンは自分の次の一手を組み立て始めた。


「さて、次は――」


禮はレオンへ向けて手を伸ばす。


「同時に二回だ」


《創》。

一本の剣が現れた。

先ほどと同じ。

レオンへ向けて、一直線に発射される。


「同じ手なら――!」


レオンは横へ踏み出そうとした。

だが、その瞬間。


「《創》」


二度目の発動。

レオンの周囲で、空気の流れが止まった。


「……え?」


踏み出しかけた足が、進まない。

腕も身体もまるで周囲の空間ごと制止させられたように、動きを封じられる。


「なっ……動け――!」


目だけが、迫る剣を捉えていた。

観客席がどよめく。


「おい、レオンが止まったぞ!?」

「剣は動いてるのに!?」

「これ、避けられなくないか!?」

『神成禮、能力行使――三回、四回』


運営AIの音声が響く。

レオンは歯を食いしばった。

《逆算》。


結果は変えない。

神成禮を、一歩動かす。

だが、身体が動かなければ手順を実行できない。

剣は刻一刻と近づいてくる。


「くそっ……!」


レオンの視線が、剣から禮へ移った。

禮は依然として、その場に立っている。

――あと六回。


いや。

次の一撃を受ければ、そこで終わりだ。

レオンは動かない身体の中で、必死に思考を巡らせた。

禮は、動きを封じられたレオンを見つめる。


「なら、これも追加だ」


《創》。

レオンの頭上に、数本の剣が現れた。

切っ先は、すべて真下。


「――っ!」


正面から迫る一本。

頭上から降り注ぐ複数の剣。

そして、動きを封じる空間。

観客席から悲鳴に近い声が上がった。


「ちょっ、待て!?」

「動けないんだぞ!?」

「これ、どう避けるんだよ!」

『神成禮、能力行使――五回』


レオンは歯を食いしばる。

《逆算》。

正面の剣を避ける。


頭上の剣を避ける。

だが、どの手順も最初の一歩で止まる。

身体が動かない。


「……違う」


レオンは、迫る剣を見た。

剣は動いている。

空間のすべてが止まっているわけではない。

動けないのは、自分だ。

ならば。


「動くための手順を……!」


頭上から、一本目の剣が落ちる。

その切っ先が、レオンのすぐ脇を通過した。

動きを押さえつけていた空気が、刃に押し分けられる。

ほんの一瞬腕に掛かっていた抵抗が緩んだ。


「――今だ!」


レオンは、その隙間へ身体を倒した。

通常なら到底、回避とは呼べない動き。

踏み込むのでも、跳ぶのでもない。


ただ、全身の力を使って横へ倒れ込む。

ザシュッ!

二本目が上着を裂く。

三本目が、直前まで頭のあった場所を貫いた。


「ぐっ!」


レオンの肩が床に叩きつけられる。

そのまま転がる。

正面から飛んできた剣が、背後の壁へ突き刺さった。

最後の一本が床を穿つ。

――静寂。


『有効打なし』

『レオン・ハルトマン、回避成功』


観客席が一気に沸いた。


「避けた!?」

「動けなかったのに!」

「上からの剣で、逆に動ける隙間ができたのか!」


審査席で久世が目を細める。


「……今のは危なかったね」


禮歌も頷いた。


「剣の通り道を使って、身体を抜いたんだ」


闘技場。

レオンは片膝をついたまま、荒い息を吐いていた。

上着は裂け、肩には床へ打ちつけた痛みが残る。

それでも、笑っていた。


「……今のは、本当に駄目かと思いました」


ゆっくりと立ち上がる。

禮の足元を見る。

まだ、一歩も動いていない。


「でも、一つ分かりました」


レオンは自分の裂けた袖を見た。


「相手が作った状況でも、全部が不利とは限らないんですね」


《逆算》。

目指す結果は、変わらない。

神成禮を、一歩動かす。

残された《創》の行使は、あと五回。

レオンは禮を見据えた。


「……次は、僕から仕掛けます」

「ほう、来い」


禮は足を動かさず、レオンを見据えた。

レオンが一気に距離を詰める。

最初の攻撃は、右拳。


禮は避けない。

《創》。

目の前に小さな盾が現れ、拳を受け止めた。

ガンッ!


『神成禮、能力行使――六回』

「……っ!」


レオンはすぐに腕を引く。

だが、距離は取らない。

今度は低い蹴り。


禮の足を狙う。

《創》。

床から小さな防壁が立ち上がり、蹴りを遮った。


『神成禮、能力行使――七回』


観客席から声が上がる。


「また《創》を使った!」

「神成、全然避けないな」

「あと三回だぞ!」


レオンは一歩下がった。

呼吸は荒い。

だが、その目は禮の足元に向けられていた。


「……なるほど」


二度の攻撃。

二度の《創》。

禮は反撃することも、足を動かすこともなく対処した。


「僕が攻撃するたびに、能力を使うんですね」


禮は答えず、軽く笑う。

レオンも、つられて笑った。


「なら……残り三回」


《逆算》。

レオンは結果へ至る手順を組み直す。

攻撃を防がれること自体は、失敗ではない。


禮がどう防ぐのか。

何を創るのか。

それを見れば、次の手順を選べる。


「もう少しだけ、試させてもらいます」


レオンは再び踏み込んだ。

ただし、今度の狙いは禮の身体ではない。

禮が立っている、その足元。

レオンは低く身を沈め、床に向けて拳を振り下ろした。

レオンの拳が、禮の足元へ迫る。


「《創》」


瞬間禮の足を囲うように、硬質な防壁が現れた。

ゴンッ!

レオンの拳が防壁に弾かれる。


『神成禮、能力行使――八回』

「……やっぱり、防ぐか!」


レオンは痛む拳を引きながら、素早く後退した。

だが、その視線は禮から離れていない。

拳を防いだ防壁。

一歩も動かない禮。

そして、最初の攻撃で床に突き刺さったままの剣。


「……そうか」


レオンは短く呟いた。

次の瞬間、地面に突き刺さっていた一本の剣を引き抜く。


「おっ?」


観客席がざわついた。


「武器を拾った!」

「あれ、神成が創った剣だよな?」


レオンは握りを確かめる暇もなく、禮へ駆け出した。

《逆算》。

残り二回。

一回は、今から使わせる。

そして――。


「はあっ!」


レオンが剣を横薙ぎに振るう。

禮は、その場から動かない。


「《創》」


剣の軌道上に、もう一枚の防壁が現れた。

ガキンッ!

レオンの剣が止まる。


『神成禮、能力行使――九回』

『残り能力行使回数――一回』


会場が沸いた。


「あと一回!」

「次の攻撃で終わりか!?」

「いや、レオンはまだ一歩も動かせてないぞ!」


レオンは防壁から剣を引いた。

そのまま、距離を取る。


「……残り、一回」


荒い息を整えながら、禮を見る。

禮の足は動いていない。

だが、レオンの表情からは、先ほどまでの焦りが消えていた。


「九回も見せてもらいましたからね」


レオンは拾った剣を構え直す。


「最後は、僕の選んだ手順で行きます」


《逆算》。

目指す結果は、ただ一つ。

神成禮を、一歩動かす。


レオンは大きく息を吸った。

そして、最後の一手へ向けて踏み出した。

レオンが踏み出す。

その瞬間。


「《創》」


禮の周囲に、無数の岩が現れた。

一つや二つではない。

大小さまざまな岩が、レオンを取り囲むように浮かび上がる。

そして、一斉に襲いかかった。


「――っ!?」

『神成禮、能力行使――十回目』

『最終攻撃を確認』


観客席がどよめいた。


「多すぎるだろ!?」

「剣どころじゃないぞ!」

「これ全部避けるのか!?」


レオンは咄嗟に身を沈める。

頭上を岩が通過した。

右へ跳ぶ。

だが、着地先にも岩。

後ろへ逃げようとすれば、そこにも。


「くっ……!」


逃げ道が次々と塞がれる。

その時、レオンの目が、僅かに動いた。

《逆算》。


目指す結果は変わらない。

――禮を一歩動かす。

しかし、目の前の岩をすべて避ける手順など、とても組み立てられない。

だから、レオンは避けることだけを考えるのをやめた。


「……使える!」


足元へ迫った岩を、拾った剣で横から叩く。

軌道が僅かに変わった。

その岩が、別の岩へ衝突する。

ガァンッ!

二つの岩が砕け、レオンの前に一瞬だけ隙間が生まれた。


「そこだ!」


レオンが飛び込む。

肩を掠めた破片が上着を裂く。

それでも止まらない。

今度は落下してくる大岩を足場にして、斜め前へ跳んだ。

禮の方へ審査席で久世が身を乗り出す。


「へえ! 逃げ道がないなら、自分で作るんだ!」


だが、レオンの正面には、まだ岩が残っている。

そして禮は依然として、一歩も動いていなかった。

レオンは剣を握り直す。

残された距離は、あと僅か。


「――まだ、終わってない!」


最後の岩が、真正面から迫った。

最後の岩が、レオンの正面へ迫る。

避ける余地はない。

だが、レオンは横へ跳ばなかった。


「――ここだ!」


拾った剣を、岩の側面へ斜めに突き立てる。

ガキィンッ!

剣が軋む。

岩の進行方向が僅かに変わった。

その反動でレオンの身体が浮く。


「っ、ぐ……!」


レオンは剣を手放し、そのまま岩を蹴った。

跳躍。

向かう先は――禮。

だが、レオンは拳を構えていなかった。

空中で身体を捻り、禮の足元へ向かって落ちる。


「……ん?」


禮が僅かに目を細める。

レオンは着地と同時に、床へ手をついた。

そして、禮の足首を掴みにいく。

禮は動かない。


その手を払おうとした。

だが、――ゴォッ!

先ほどレオンが軌道を変えた岩が、遅れて迫っていた。


狙いは禮の身体ではない。

足元。

岩は床を削りながら、禮の立つ位置へ滑り込んでくる。


「……なるほど」


禮が笑った。

正面にはレオン。

足元には岩。

そして、レオンの手が伸びてくる。


一つずつなら、どうとでもなる。

だが、今の禮は自ら条件を設けていた。

能力の行使は十回まで技は使わない。


そして、既に十回目の《創》は終わっている。

先ほどから維持していた《創約》で踏みとどまることもできる。

しかし、それでは足元へ滑り込む岩と、倒れ込んだレオンが衝突する。


「……そこまで考えたか」


禮は《創約》を解除した。

そして、トンッ。

右足を、一歩だけ後ろへ引いた。

岩が目の前を通過する。

レオンの伸ばした手は空を切り、その身体が床へ転がった。


『――判定』


運営AIの声が響く。


『神成禮の位置移動を確認』

『移動距離、勝利条件の規定値を超過』

『レオン・ハルトマン――勝利条件達成!』


一瞬の静寂。

そして。


「動いたあああっ!?」

「本当に一歩動かしたぞ!」

「最後の岩まで使ったのか!」


観客席が一気に沸いた。

レオンは床に仰向けになったまま、荒く息を吐いている。


「……は、はは……」


自分でも、まだ信じられないようだった。

禮は一歩下がった位置から、その様子を見下ろす。


「俺が作った岩を使って、俺を動かす理由を作ったわけか」


レオンが顔を向ける。


「……はい」

「最初から、あそこまで考えてたのか?」

「いいえ……」


レオンは苦笑した。


「最初は、あなたを動かす方法なんて……全然分かりませんでした」


一度、息を整える。


「でも、手順が失敗するたびに、使えるものが増えていったんです」


禮が作った剣。

禮が作った防壁。

そして、最後の岩。


「全部、あなたが見せてくれたものです」


レオンはゆっくりと上体を起こした。


「結果を決めるだけじゃ……駄目だった」


禮を見上げる。


「そこへ行くために、まず自分が動かないと」


審査席。

久世が楽しそうに笑った。


「いいじゃん。最後はちゃんと、自分で答えを作ったね」


禮歌も頷く。


「しかも、禮が使った十回目の《創》まで利用した」


天倉は端末の表示を確認する。


「……神成が一歩動いたのは、間違いありませんね」


闘技場では、レオンがようやく立ち上がっていた。

膝は震えている。

拾った剣も、途中で手放してしまった。

それでも、その顔には、確かな達成感があった。


禮はレオンへ向き直る。

二日目、二人目。

レオン・ハルトマンの最終実戦評価は、ここで終了した。

レオンが退場すると、闘技場に残された岩や剣が、施設の修復機構によって回収されていく。

禮が立っていた位置にも、再び滑らかな床が広がった。


『次の評価対象者を発表します』


大型モニターが切り替わる。

――白峰 凪。

十五歳。

能力《交換》。


指定した二つの対象が持つ物理的な状態を、一つだけ交換する能力。

位置。

移動速度。

温度。

大会の救助部門では、落下する鉄骨の速度を停止車両と交換し、火災現場では熱と冷たさを入れ替え、最後には救助対象の位置まで交換してみせた。


「お、あの子か」


観客席から声が上がる。


「落ちてきた鉄骨を止めた子だろ?」

「そうそう。最初は小さい物しか交換してなかったのに、最後は救助対象まで動かしてた!」


審査席の久世が、楽しそうに頬杖をついた。


「この子も禮が選んだんだよね?」


禮歌が頷く。


「うん。大会中、どんどん使い方が変わってた子」


やがて通路から、小柄な少女が現れた。

白峰凪(しらみねなぎ)。

彼女は闘技場に入ると、まず周囲を見渡した。

壁。


天井。

床。

そして、禮。

一度、足を止める。


「……広い」


ぽつりと呟いた。

これまでの救助競技とは違う。

目の前には救助対象も、崩れかけた建物もない。

あるのは、広い闘技場と、一人の審査官だけ。

凪は禮の前まで歩き、軽く頭を下げた。


「白峰凪です。よろしくお願いします」

「よろしく」


凪は顔を上げる。

そして、禮の足元を見る。


「さっきの人、一歩動かすのが条件だったんですよね」

「ああ」

「……私も同じ条件なら、できると思います」


観客席がざわつく。


「えっ?」

「確かに、《交換》なら位置そのものを入れ替えられるのか!」

「でも、神成が簡単に交換させてくれるか?」


凪は周囲の反応に少しだけ肩をすくめた。


「……だから、同じ条件じゃないんですよね」


禮を見上げる。


「私の勝利条件は、何ですか?」


その声には、少しの緊張が混じっていた。

けれど、目は逸らさない。

凪は既に、この闘技場で何と何を交換できるか考え始めていた。


「なら、俺の指定したもの二つを交換できたら、君の勝ち。どう?」


凪は一瞬、目を丸くした。


「……二つ、ですか?」

「ああ」


凪は考え込む。

《交換》は、対象を正確に認識しなければ成立しない。

何を交換するかによって、難易度は大きく変わる。


「それって、私が交換するものを選ぶんじゃなくて……神成さんが選ぶんですよね?」

「そういうこと」

「……分かりました」


凪は小さく頷いた。


「やります」


観客席がざわつく。


「今度は能力の精度を見るのか?」

「でも、対象が何か分からないぞ」

「神成が何を指定するか次第じゃない?」


審査席では、久世が興味深そうに笑っていた。


「《交換》に対して、交換する対象を指定するんだ」


禮歌も頷く。


「凪が大会で扱っていたのは、位置や速度、温度だったね」

「そう。だからこそ、何を指定されるかで話が変わる」


闘技場。

凪は少し緊張した様子で、禮を見上げた。


「……それで」


一度、周囲を見渡す。

床。

壁。


天井。

どれも交換の対象になり得る。

けれど、禮がそれらを選ぶとは限らない。

凪は再び禮へ向き直った。


「何と何を、交換すればいいんですか?」


その目には、緊張と同じくらいの好奇心が浮かんでいた。


「じゃあ、指定するぞ」


禮が片手を上げる。


「《創》」


瞬間闘技場の遥か上空。

施設内部に広がる拡張空間へ、巨大な岩が現れた。


「…………え?」


凪が固まる。

それは、ただの大岩ではなかった。

この施設一つを丸ごと埋めてしまえるほどの、途方もない質量。

空中に固定された岩の影が、闘技場を覆い尽くす。

観客席から悲鳴が上がった。


「でっっっか!?」

「おい、あれ落ちてこないよな!?」

「何を交換させる気だよ!」


禮はもう一度、《創》を発動した。

今度は、指先ほどの小石。


「もう一つは、こいつ」


禮は小石を軽く放り上げる。

そして、それを闘技場の外側へ移した。

ただし、施設の外ではない。

拡張された施設内部――闘技場の外周にある、誰もいない区画。


「この場所で入れ替えると、いろいろ文句を言われそうだからな」

『既に言いたいことは山ほどあるぞ』


天倉の通信が飛んできた。

禮は構わず続ける。


「小石は闘技場の外側に置いた。でも、ちゃんとこの空間の中にある」


上空の巨大岩を指さす。


「この石同士を入れ替えてくれ」


凪は上を見た。

それから、禮を見る。


「……あの大きいのと?」

「ああ」

「……小石を?」

「そう」


凪はもう一度、上を見た。


「…………」


数秒。


「大きさ、違いすぎません?」


禮は笑う。


「まったく別々の大きさ、質量だ。それでも位置を交換できるか?」


ここで求められているのは、大きな岩を小さくすることではない。

巨大岩は巨大岩のまま。

小石は小石のまま。

それぞれが存在する位置だけを交換する。

審査席で、久世が目を細めた。


「へえ……ずいぶん極端な条件だね」


禮歌は上空を見上げる。


「大きさだけじゃない。小石は闘技場の外にあるから、凪には直接見えてないんだよね」

「正確に対象を認識できなければ《交換》は成立しない、か」


久世が凪へ視線を戻す。


「どうするんだろう」


闘技場。

凪はしばらく考えていた。


「……一つ、確認していいですか?」

「ん?」

「交換するのは、位置だけですよね。重さまで交換するわけじゃなくて」


禮が頷く。

凪は小さく息を吐いた。


「だったら……」


彼女は上空の巨大岩を見る。

大きすぎる。

輪郭を目で追うだけでも時間がかかる。

そして、もう片方の小石は見えない。

大会中に行った交換とは、条件がまるで違っていた。


「……でも、見えないからできないって決めるのも、違うか」


凪は目を閉じた。

まずは、上空の巨大岩。

それが一つの対象であることを、意識の中で捉える。

次に、闘技場の外側禮が小石を移した方向へ、意識を向けた。


「……そこ、に……」


《交換》。

淡い反応が生じる。

しかし、発動には至らない。

凪が目を開けた。


「……小石の方が、まだ曖昧」


失敗を認める声だった。

それでも彼女は、諦めずに顔を上げた。


「もう一回、試します」


今度は巨大岩ではなく、見えていない小石をどう認識するか。

凪はそこから考え始めた。

小石の位置を探していた凪へ、禮が声をかけた。


「あ、悪い」

「……はい?」

「今回は、条件がまったく違う二つのものを交換できるかを見る試験だからな」


禮は軽く手を振る。


「場所は共有するわ」


《創》。

凪の目の前に、施設内部の立体図が現れた。

闘技場。


観客席。

外周の通路。

そして、その先に設けられた無人区画。

一か所に、小さな光点が灯る。


「小石はここ。位置も大きさも、今の状態も確認できるようにしておいた」


立体図が拡大される。

映し出されたのは、禮が先ほど創った小石だった。

凪は目を瞬かせる。


「……いいんですか? ここまで教えてもらって」

「いいんだよ。見つける試験じゃないから」


禮は上空の巨大岩を指さした。


「試したいのは、あれと小石の位置を交換できるかどうか。それだけだ」


凪は立体図を見つめた。


「……分かりました」


今度は、対象を見失わない。

上空の巨大岩。

外周区画の小石。

位置も、形も、正確に認識できる。

だが、問題はそこからだった。


「……こんなに大きさが違うもの、交換したことない」


凪が小さく呟く。

審査席で、久世が頬杖をつく。


「これで条件は揃ったね」


禮歌も頷いた。


「うん。あとは凪の《交換》が、どこまでできるか」


闘技場の中央。

凪はゆっくりと両手を上げた。


「……やってみます」


《交換》。

巨大岩と小石。

二つの対象を捉えた凪の周囲に、淡い光が生まれる。


先ほどとは違う。

今度は、能力の発動へ向けて反応が進んでいた。

しかし――。


「っ……重い……!」


凪の額に汗が浮かぶ。

交換するのは位置だけそれでも、対象の規模が違いすぎる。

凪は歯を食いしばった。


「位置だけ……大きさまで、揃える必要はない……!」


上空の巨大岩が、僅かに震えた。


「さぁ――できるか?」


禮の声が、闘技場に響く。

凪は答えない。

額から汗が流れる。

上空の巨大岩が、低く震えた。


「……っ、まだ……!」


《交換》。

二つの対象は、認識できている。

位置も分かっている。

なのに、成立しない。

凪は歯を食いしばった。


「大きい方を……動かそうとしてるから……?」


彼女は、ふと手を止めた。

位置の交換。

それは、巨大岩を小石の場所まで運ぶ能力ではない。


小石を巨大岩の場所まで運ぶ能力でもない。

二つの位置を、入れ替える。

必要なのは、移動させる力ではなく――交換する対象を確定させること。


「……そうか」


凪の表情が変わった。


「大きさを、気にしすぎてた」


審査席で禮歌が目を細める。


「気づいたね」


久世も上空を見る。


「でも、気づいただけでできるかな?」


凪はもう一度、両手を上げた。

今度は巨大岩の質量を意識しない。

小石との大きさの違いも考えない。

ただ、二つを別々の対象として捉える。


「《交換》!」


瞬間上空の巨大岩を包む光が、先ほどよりも強くなった。

外周区画に置かれた小石も、立体図の中で光り始める。


『能力反応を確認』


運営AIの声が響く。


『両対象の指定、成立』


観客席がどよめいた。


「おっ!?」

「今度はいけるのか!?」


凪は両手を震わせながら、最後の条件を定める。


「交換するのは……位置だけ!」


巨大岩の輪郭が、僅かに揺らぐ。

同時に、立体図に映る小石の姿も揺れ始めた。


『位置交換処理――進行中』


凪が顔を上げる。


「……いける!」


だが、次の瞬間巨大岩の輪郭が激しく明滅した。


「っ――!」


まだ交換は完了していない。

凪は歯を食いしばったまま、能力を維持する。

あと少し。

二つの位置が、重なり始めていた。


「よし、これならいけるな」


禮は上空の巨大岩を見ながら、少し笑った。

その声が聞こえたのか。

凪は一瞬だけ禮を見る。


「……はい!」


再び、両手へ意識を集中させる。


「大きさも……重さも関係ない……!」


巨大岩。

小石。

二つの対象。

交換するのは、ただ一つ。

位置。


「《交換》!!」


瞬間巨大岩が――消えた。


「…………え?」


観客席が静まり返る。

先ほどまで闘技場の上空を覆い尽くしていた岩が、跡形もなく消失していた。

代わりにぽとっ。

小さな石が、闘技場の床に落ちる。


『判定』


大型モニターが切り替わった。

そこに映し出されたのは、闘技場の外周に設けられた無人の拡張区画。

先ほどまで小石が置かれていた場所に、巨大な岩が存在していた。


『対象A――巨大岩』

『対象B――小石』

『位置情報の交換を確認』

『両対象の質量・形状に変化なし』


少し間を置いた。


『勝利条件――達成!』

「…………!」


凪は目を見開いた。


「でき……た?」


自分の手を見る。

それから、空を見上げる。

巨大岩はない。

そこにあるのは、何もない空間だけ。


「……できた!」


その瞬間、観客席が沸いた。


「うおおおっ!」

「マジで入れ替えた!?」

「あの大きさで!?」

「小石と巨大岩だぞ! どうなってんだよ!」


審査席。

久世が楽しそうに笑う。


「すごいね。あれだけ規模が違うのに、本当にやっちゃった」


禮歌も頷く。


「うん。途中で、力ずくで動かそうとするのをやめたんだね」


闘技場では凪がふらふらと、その場にしゃがみ込んでいた。


「……つっかれたぁ……」


それでも、顔は笑っている。

今まで交換したことのない規模。

初めて扱う、極端に異なる二つの対象。


それを、自分の能力で入れ替えた。

凪は床に落ちた小石を拾い上げる。

掌の上で転がしながら、禮を見上げた。


「神成さん」

「ん?」

「……これ」


小石をそっと持ち上げる。


「私、本当にできたんですね」


嬉しそうな声だった。

禮は凪の手のひらに乗った小石を見て、頷いた。


「ああ。できたな」


凪の顔がぱっと明るくなる。


「それに、これだけ極端な組み合わせで成功したんだ」


禮は上空を指さす。


「大きさも質量もまったく違う。それでも位置を交換できた。なら、交換できる対象の幅は一気に広がったはずだぞ」

「……対象の幅?」

「ああ。例えば救助の時だ」


凪が顔を上げる。


「今までは人や小さな瓦礫を交換してたよな。でも、これからは――」


禮は少し考えてから続けた。


「倒壊寸前のビルを、丸ごと別の場所へ交換することだって考えられる」

「……ビルを?」

「ああ。安全な交換先を確保できれば、だけどな」


凪は思わず、施設の壁を見た。

建物。

それも、丸ごと。


「……今まで、そんなこと考えたことなかったです」

「だろうな。でも、できるかもしれないって分かっただけでも大きい」


禮は笑う。


「橋が崩れそうなら、橋を交換する。巨大な瓦礫が救助の邪魔なら、瓦礫そのものをどかす」

「人を移動させるだけが救助じゃない。危険なものを移動させても、同じように人を助けられる」


凪は小石をぎゅっと握った。


「……そっか」


大会中。

凪は、落下する鉄骨の速度を交換した。

火災現場では温度を交換した。

救助対象の位置も交換した。

けれど、建物そのものを交換するという発想は、なかった。


「……私、ずっと」


凪はぽつりと言う。


「大きいものは、動かせないと思ってました」


少し笑う。


「だから、小さいものを交換して、何とかする方法を考えてて」


禮は頷く。


「それも十分すごいことだぞ」

「……はい」

「ただ、今ので選択肢が増えた。あとはそれを、どう使うかだな」


凪はもう一度、上空を見た。

さっきまで巨大岩があった場所。

そこにはもう、何もない。


「……もっと練習します」


その声には、試合前にはなかった自信があった。


「次は、もっと大きいものでも。位置以外の交換も」


少し間を置き、慌てて付け加える。


「あっ、でも人がいない場所でやります!」


審査席から、天倉の声が飛んだ。


『それは絶対に守ってくれ!』


観客席から笑いが起こる。

禮歌も小さく吹き出した。


「ちゃんと分かってる子でよかったね」


久世が笑う。


「誰かさんにも聞かせたいなぁ」


凪は何のことか分からず首を傾げる。

禮の方へ向けられた二人の視線には、気づかなかったらしい。

やがて、運営AIが告げる。


『白峰凪――最終実戦評価終了』

『勝利条件達成を記録しました』


凪は禮へ深く頭を下げた。


「ありがとうございました!」


そして、小石を大事そうに握ったまま、退場口へ駆けていった。

その背中を見送りながら、禮は次の表示へ目を向ける。

残る詳細評価対象者は――あと一人だった。


「さて、最後は?」


禮が大型モニターを見上げる。


『最終評価対象者、最後の一名を発表します』


会場の照明が、ゆっくりと落ちた。

画面に、一人の少女の姿が映し出される。

――月城(つきしろ) 詩音(しおん)(つきしろ しおん)。


十七歳。

能力選択。

禮と同じ年齢の少女だった。


「……十七歳?」

「特別審査官と同い年じゃん!」

「最後の一人って、あの子なのか?」


観客席がざわめく。

詩音は大会中、能力制御部門で高い評価を得ていた。

ただし、戦闘部門には出場していない。


派手な記録もなく、観客の間で名前が知られているわけでもなかった。

審査席。

天倉が端末を確認し、眉を寄せる。


「……最後の推薦枠、久世さんでしたよね?」

「そうだよ」


久世は楽しそうに笑う。


「どうしても最後にしてほしかったんだ」

「何か理由が?」

「んー……見れば分かるんじゃない?」

「そういう説明が一番困るんですが」


禮歌は久世をちらりと見たあと、入場口へ視線を移した。

通路の奥から、少女が姿を現す。

肩より少し長い、黒に近い紺色の髪。

特別な武装は見当たらない。

詩音は観客席を一度見渡し、闘技場の中央まで歩いてきた。


「こんにちは」


禮の前で足を止める。


「月城詩音(つきしろしおん)です。よろしくお願いします」


声は穏やかだった。

緊張していないわけではないらしい。

握っていた手を、一度だけ開いている。

それでも、視線は真っ直ぐだった。


「……あの、始める前に一つ聞いてもいいですか?」


詩音が小さく首を傾げる。


「昨日から見ていたんですけど、神成さんって、相手に合わせて勝利条件を変えていますよね」

「そうだな」

「じゃあ、私にも何か条件があるんでしょうか」


そこで、詩音は少し笑った。


「それとも――普通に戦ってもらえますか?」


審査席で、久世が頬杖をついた。


「さあ。禮はどうするかな」


詩音は禮の返事を待っている。

先ほどまでの参加者たちとは違い、彼女は勝利条件を聞く前から、戦うことそのものを選択肢に入れていた。


「ごめんな。俺、君の競技は見られてなくてさ」


禮は少し申し訳なさそうに笑った。


「戦闘が好きなら、単純な戦いでも全然いいぞ?」


詩音は一瞬、きょとんとした。

それから、小さく笑う。


「……正直ですね」

「そうか?」

「普通、審査官なら見ていたふりくらいするのかと思ってました」


観客席から、くすくすと笑い声が漏れる。

禮は肩をすくめた。

詩音は少し考えてから、答える。


「戦うのは、嫌いじゃないです」


少し間を置いた。


「でも、今回ここに来たのは、戦闘が好きだからというより……」


彼女は禮を真っ直ぐ見た。


「神成さんと戦ってみたかったから、です」


審査席で久世が楽しそうに笑う。


「お、言った」


天倉が隣を見る。


「……久世さん。彼女について、まだ何か隠してます?」

「隠してるつもりはないけど?」

「じゃあ、何か知ってるんですね」


久世は答えず、闘技場へ目を戻した。

禮歌も詩音を見つめる。


「……《選択》か」


能力の名称は公表されている。

だが、それが戦闘でどう働くのか。

観客のほとんどは知らなかった。

闘技場。

詩音は一歩下がり、禮との間に距離を作った。


「では、普通に戦いましょう」


彼女は両手を軽く開く。

武器は出さない。

構えも、どこか自然体だった。


「ただ、一つだけお願いしてもいいですか?」

「ん?」

「私の能力を知らないからって、最初から手探りで付き合わなくても大丈夫です」


穏やかな声。

けれど、その目には確かな闘志がある。


「私も、神成さんがどこまでできるのか、まだ知りませんから」


観客席がざわついた。


「……あの子、結構強気じゃない?」

「昨日の試合、見てたんだよな?」

「同い年同士の勝負か……!」


詩音は周囲の声に少し照れたように頬を掻いた。


「……あんまり注目されると、緊張するんですけどね」


それでも、禮から視線は外さない。

やがて運営AIの声が響く。


『最終実戦評価――第七試合』

『神成禮 対 月城詩音』

『勝利条件は通常戦闘規定を適用。有効な戦闘不能判定、または降参によって決着とします』


詩音がゆっくり息を吸った。


「よろしくお願いします、神成さん」


そして、ほんの少しだけ笑った。


「――私の《選択》、見ていてください」


禮は詩音を見つめたまま、通信を開いた。


「天倉さん」

『何だ?』

「俺、この子には本気で相手をしないと勝てない気がする」

『……は?』

「制限なしで戦わせてくれ」


通信の向こうが静かになった。

数秒後。


『待て待て待て。お前、相手の能力も知らないんだろ?』

「知らないな」

『じゃあ何を根拠に――』

「勘」

『勘で制限解除を要求するな!!』


審査席で天倉が立ち上がる。

その声に、久世が振り向いた。


「どうしたの?」

「神成が、制限なしで戦わせろと」

「……へえ」


久世の笑みが深くなる。


「いいじゃん」

「よくありません!」


禮歌も詩音へ目を向けた。


「……禮がそこまで言うの、珍しいね」


闘技場では、詩音が不思議そうに首を傾げていた。


「……どうかしました?」


禮は通信を繋いだまま、彼女へ笑いかける。


「ちょっと許可を取ってる」

「許可?」

「全力で戦う許可」


詩音の目が、僅かに見開かれた。


「……本当に?」


その声から、先ほどまでの照れが消える。

天倉は深いため息をついた。


『……分かった。出力制限は設けない』

「お」

『ただし、観客席と施設外への被害は絶対に出すな。防護機構を最大稼働させる。危険と判断したら試合を止める。それが条件だ』

『防護機構、最大出力へ移行します』


運営AIの音声が響く。

観客席と闘技場を隔てる透明な防壁が幾重にも展開された。

久世は立ち上がり、詩音を見た。


「……さて」


いつもの気楽な表情のまま。

ただ、目だけは真剣だった。


「私の推薦、どうなるかな」


闘技場。

詩音がゆっくりと息を吐く。


「ありがとうございます、神成さん」

「ん?」

「私を見てもいないのに、全力で戦おうとしてくれて」


彼女は一度、緊張をほぐすように肩を回した。

それから禮を見据える。


「……だったら、私も遠慮しません」


その足元に、淡い光が走った。

《選択》。

詩音はまだ攻撃していない。

けれど、その表情は明らかに変わっていた。


「始めましょうか」

「ああ、始めよう」


禮が片手を上げた。


「《闇すら光すら拒絶する結界》」


瞬間闘技場を包み込むように、巨大な結界が展開された。

観客席。

審査席。

施設の外周。

そのすべてを、戦闘の余波から隔てる。


『独立防護結界を確認』

『観客席への被害経路――遮断』


天倉が目を見開いた。


「おい、神成! それを張るってことは――」


返事はなかった。

禮は既に走り出していた。

全力。


一歩目で、闘技場の床が沈む。

二歩目。

姿が掻き消える。


「無手・創乱(むしゅ・そうらん)」


走りながら、禮の身体が再構築されていく。

踏み込みに合わせて脚の構造が変わる。

肩。

肘。


手首。

拳へ力を伝えるため、肉体そのものが絶えず組み替わる。

普通の攻撃ではない。

構えを見てから軌道を読むこともできない。

振り始めた後でさえ、身体の構造が変わるのだから詩音の目が見開かれた。


「――速っ!」


禮の拳が迫る。

詩音は咄嗟に両腕を上げた。

そして。


「《選択》!」


ドゴォンッ!!

禮の拳が、詩音の防御へ叩き込まれた。

衝撃が闘技場を駆け抜ける。

床に亀裂が走った。

詩音の身体が後方へ吹き飛ぶ。


「うわっ!?」


観客席から悲鳴が上がる。

しかし、詩音は倒れない。

空中で姿勢を立て直し、床を滑りながら着地した。

両腕が震えている。


「……いったぁ……!」


思わず漏れた声。

それでも、彼女は笑っていた。

禮が目を細める。

確かに拳は当たった。


防御ごと吹き飛ばした。

だが――。

詩音が受けた衝撃は、明らかに本来のものより小さい。

審査席。

久世が楽しそうに笑う。


「初撃から全力かぁ」


禮歌は、詩音の着地した場所を見つめていた。


「……今、何か選んだね」


闘技場。

詩音は震える腕を軽く振った。


「すごいですね。今の、まともに受けてたら立っていられなかったかも」


一度、深く息を吸う。

そして禮へ向き直る。


「でも、次は――」


彼女の姿が、僅かに揺らいだ。


「私から行きます!」


詩音が踏み込む。

速い。

だが、それだけではない。


禮の正面へ迫ったはずの彼女が、一瞬のうちに右側へ回り込んでいた。

足運びは見えていた。

にもかかわらず、途中の動きが噛み合わない。


「《選択》」


詩音の拳が、禮の脇腹へ迫った。

詩音の拳が、禮の脇腹へ迫る。

だが、直前の攻撃なら防御は間に合う。

禮は肘を下げ、拳を受け止めた。

バシッ!


「……っ!」


詩音の拳が止まる。

しかし、彼女はすぐに身体を捻った。

今度は左側禮が腕を動かして防ぐ。

続けて、正面から蹴り。

これも防御。


「……へえ」


禮が気になったのは、攻撃そのものではなかった。

――今の動き、何だ?

速いだけなら分かる。

瞬間移動なら、移動前後の位置を見ればいい。


だが、詩音の動きはどちらとも違う。

右へ踏み込んだはずなのに、次の瞬間には左から攻撃している。

それなのに、身体の向きも重心も不自然ではない。

まるで最初から、そちらへ動いていたかのように。


「《選択》……ね」


禮は攻撃を防ぎながら考える。

何を選んでいる?

移動先か。

行動か。

それとも――。


「考え事ですか?」


詩音が笑った。


「まぁ、少しな」

「じゃあ、もう少し見せますね!」


詩音が床を蹴る。

真正面から接近。

禮はその足運びを見ていた。

右足が前へ出る。


肩が動く。

重心は左。

なら、次は左側から――。

その瞬間、詩音の姿が揺らいだ。


「……!」


右。

予測とは逆の方向。

禮は反射的に腕を上げ、拳を受け止める。


ドンッ!

衝撃が腕へ伝わった。

観客席がどよめく。


「また変な動きした!」

「今の、どうやって右に行ったんだ!?」

「神成、全部防いでるけど……」


審査席では、久世が楽しそうに二人を見ていた。


「禮、気になってるね」


禮歌は頷く。


「うん。まだ能力の仕組みを掴めてない」


闘技場。

詩音は一度距離を取った。

禮も追わない。

今見た動きを頭の中で繰り返す。


詩音は確かに左へ動こうとしていた。

少なくとも、禮にはそう見えた。

なのに、実際には右から攻撃してきた。


――俺の予測を外した?

いや。

それだけなら、ただのフェイントでもできる。

問題は、途中の動きだ。


「……面白いな」


禮の口元が、自然と上がった。

まだ答えは出ていない。

だからこそ、もう少し見てみたい。

詩音はそんな禮を見て、小さく笑う。


「……まだ、分かりませんか?」


その問いに、禮はどう答えるのか。

詩音が踏み込む。

右へ傾いた重心。

禮も、それに合わせて身体を向ける。


「《選択》」


瞬間詩音は左側にいた。


「――っ!」


禮は振り抜かれた拳を腕で受ける。

続けて、詩音が蹴りを放った。

これも防御。

だが、彼女はその反動を利用し、さらに一歩踏み込んでくる。


右から来る。

そう見えた。

しかし、詩音が《選択》を発動した瞬間、攻撃は逆側から届いた。

ドンッ!

禮は肩で受け流す。


「……なるほどな」


詩音が距離を取ろうとする。

その瞬間。


「《零衝》」


禮の拳が放たれた。

目に見える大きな予備動作はない。

詩音の退路を捉えた一撃。


「っ!」


詩音が左へ跳ぼうとする。

だが、その足が床を離れる直前。


「《選択》!」


姿が揺らいだ。

《零衝》が空を穿つ。

衝撃は彼女のすぐ脇を抜け、遠方の壁へ激突した。

ゴォンッ!!

詩音は数歩離れた場所に着地する。


「……危なかったぁ」


安堵の息を漏らし、顔を上げた。

その正面で禮は笑っていた。


「分かったぞ」

「……え?」

「お前、途中で移動方向を変えてるんじゃないな」


詩音の表情が止まる。


「右へ行くか、左へ行くか。踏み込むか、引くか」


禮は先ほど《零衝》を放った拳を開く。


「行動する瞬間には、いくつかの可能性がある。お前はその中から、一つを選んでるんだろ」


詩音は答えない。


「だから重心を見ても、足運びを読んでも、途中から辻褄が合わなくなる」


禮は詩音を見据えた。


「お前の《選択》は、起こり得た行動の分岐から、実際に起こるものを選んで確定させる能力だ。」


審査席で、久世の笑みが深くなった。


「……気づいちゃったか」


禮歌も、静かに頷く。


「だから普通のフェイントとは違ったんだね」


闘技場。

詩音はしばらく禮を見つめていた。

それから、困ったように笑う。


「……正解です」


観客席がどよめいた。


「行動を選ぶって、どういうことだ?」

「じゃあ、右に動いたのが左になったんじゃなくて……?」

「最初から左に動く可能性もあったってこと?」


詩音はゆっくり構え直す。


「でも、神成さん」


先ほどまでの穏やかな笑顔が、少しだけ変わった。


「仕組みが分かったからって、簡単に捕まえられるとは限りませんよ?」


禮の前で、再び《選択》の光が揺れた。


「あまり甘く見るなよ?」


禮は詩音を見据えた。


「俺の手数の多さは、知ってるはずだ」

「……はい。昨日から見てますから」

「なら、もう少し増やそうか」


禮の隣で、神器ノア(のあ)のページがめくれる。


「禁忌開放(きんきかいほう)」


詩音が首を傾げた。


「……禁忌?」


聞き慣れない言葉だった。


「それって、技の名前ですか?」


禮は答えず、右手を上げる。


「四重詠唱(しじゅうえいしょう)」


《ノア》のページが、四つの異なる光を放った。


「《再竜聖歌》」


禮がこれまで使ってきた技が、闘技場に再現され始める。


「再龍聖歌(さいりゅうせいか)」


再現された技同士が繋がり、互いの隙を補うように動き出す。


「最竜聖歌(さいりゅうせいか)」


その一つ一つが、現在の禮に可能な範囲で最適化される。

そして。


「最龍聖歌(さいりゅうせいか)」


四つ目の詠唱が重なった。

個々の技だけではない。

攻撃が外れた時の次の一手。


防がれた後の追撃。

詩音が《選択》によって別の行動を確定させた場合の対応。

それらが、一つの戦術として組み上がっていく。


「…………」


詩音の笑顔が、少しずつ消えた。

正面。

左右。


頭上。

背後。

どこを見ても、技の気配がある。


「えっと……」


彼女は思わず苦笑した。


「これ、全部同時に来るんですか?」


審査席では、天倉が立ち上がっていた。


「おい、四つ同時って聞いてないぞ!」


久世は楽しそうに笑っている。


「詩音の《選択》に、どこまで対応できるか試すつもりかな」


禮歌は、闘技場に並ぶ技をじっと見つめた。


「……詩音も、いつもの避け方だけじゃ難しいだろうね」


詩音は一歩、右へ踏み出しかける。

その先に、斬撃が走った。

左を見れば、別の技が待ち構えている。


「《選択》……!」


彼女の姿が揺らいだ。

左へ動く可能性を選び直す。

しかし、移った先へ向けて、今度は別の一撃が軌道を変えた。


「――っ!」


詩音は咄嗟に身を沈める。

頭上を衝撃が通過した。


「……なるほど」


息を吐きながら、彼女は禮を見た。


「私が選んだ後にも、対応してくるんですね」


詩音は困ったように笑った。

けれど、その目はまだ諦めていない。


「だったら……」


彼女は床に手をつき、低く構え直す。


「選んだ後のことまで考えて、選ばないと。」


再び、《選択》の光が揺らいだ。


「……対応速度が速すぎるな」


禮は、次々と攻撃をかわす詩音を見つめていた。

《再竜聖歌》。

《再龍聖歌》。

《最竜聖歌》。


《最龍聖歌》。

四つの詠唱によって、無数の技が連携しながら詩音へ迫る。

それでも、彼女は対応していた。

右へ左へ一歩後退。

時には、攻撃が迫る寸前で別の行動へ切り替える。


「《選択》!」


詩音の姿が揺らぐ。

頭上から降り注ぐ斬撃をかわし、着地と同時に背後から迫る衝撃も避けた。


「……っ、危なっ!」


余裕があるわけではない。

息は乱れているし、判断が遅れれば攻撃が掠めることもある。

だが、対応そのものが途切れない。

禮は目を細めた。


――俺と同じ系統だな。

未来を見ているのではない。

起こり得る可能性に干渉している。

その点では、禮自身の力にも通じるものがあった。


そして、もう一つ。

気になることがある。

――能力を、生かしきれてない?

詩音の《選択》は強い。


間違いなく強い。

それなのに、今の彼女は回避のために使うばかりだった。

攻撃する時も、身体の動きを切り替える程度。


技らしい技は、一つも見せていない。

禮がさらに攻撃を重ねる。

詩音は身を沈め、次の瞬間には反対側へ抜けた。


「はぁっ……! まだ増えるんですか!?」


詩音が思わず叫ぶ。

禮は答えず、彼女の動きを追った。

――あそこまで対応できるなら、もっと別の使い方があるはずだ。

単に思いついていないのか。


何か制約があるのか。

それとも――使わない理由がある?

まだ分からない。

詩音は再び《選択》を使い、連続する攻撃の隙間を抜ける。


その表情は真剣だった。

少なくとも、今の彼女が必死に戦っていることだけは伝わってくる。

だからこそ、禮には奇妙だった。

これほどの能力を持ちながら、なぜ彼女は一つも技を使わないのか。


禮の中に、小さな疑念が生まれ始めていた。

禮は、四つの詠唱を維持したまま詩音を見つめた。

右から迫る斬撃。


それを避けた先に、別の衝撃。

さらに背後からの追撃。

詩音は《選択》を繰り返し、辛うじて攻撃の網を抜け続けている。


「……よし」


禮が笑った。


「とりあえず、今まで避けてきた経験と可能性――全部もらうぞ」

「…………はい?」


詩音が思わず聞き返す。


「もらうって、何を!?」

「《レインビーナ》」


ぽつり。

一粒の雨が落ちた。

詩音の表情が変わる。


「……それ、昨日の!」


エリオットとの評価戦。

あの時、闘技場を埋め尽くした可能性の雨。

彼女も観客席から見ていた。

だが今回は、状況が違う。


詩音の周囲で、雨が一気に強まった。

右へ逃げる可能性。

左へ切り返す可能性。


攻撃を受け止める可能性。

先ほど実際に選んだ回避行動。

選ばなかった別の動き。

その一つ一つが、雨粒となって現れていく。


「……うそ」


詩音が目を見開いた。

彼女自身が《選択》で扱ってきた分岐が、目に見える形で降り注いでいる。


「私の……?」


審査席で、久世が身を乗り出す。


「へえ。今度はあの子の選択まで雨にするんだ」


禮歌は、禮の背後を見た。


「……あ。次も来るね」


禮が片手を掲げる。


「祭龍星歌」


瞬間禮の背後に、巨大な龍が現れた。

黒い炎で形作られた龍。

その口が、ゆっくりと開く。

ゴオオオオッ――!

雨が、龍へ向かって吸い込まれ始めた。


「えっ!? ちょっと、待って!」


詩音が後退する。

だが、雨粒は次々と龍の口へ消えていく。

彼女が選んだ回避。


選ばなかった回避。

次に選び得る行動。

それらの可能性が、黒い炎の中へ飲み込まれていった。

観客席が騒然となる。


「雨が消えてる!?」

「昨日はあんな龍、出なかったぞ!」

「可能性を食ってるのか、あれ!?」


詩音は咄嗟に《選択》を発動する。

右へしかし、その分岐を示す雨粒も龍へ吸い込まれる。

左へ同じ。


「……何、これ」


詩音の額に汗が浮かんだ。

能力が消えたわけではない。

まだ、選べる。


だが、自分が選択しようとするたび、その可能性までもが禮の技へ取り込まれていく。

四つの詠唱は、今も攻撃を続けていた。

そして、その背後で黒炎の龍が、彼女の選択を飲み込み続けている。


「……私が避けるほど」


詩音は禮を見た。


「そっちの材料が増えていくってこと……?」


禮の背後で、龍が低く唸った。

詩音は唇を噛む。

今まで通りに避け続けるか。

それとも、別の使い方をするか。

その判断を迫られながら――彼女は初めて、攻撃の手を止めた。


「別に、能力を奪ったわけじゃないぞ?」


禮は、困惑する詩音へ声をかけた。


「《選択》は今まで通り使えるはずだ」

「……じゃあ、この雨は何なんですか?」

「お前が今まで、どうやって選んできたのか。何を見て、どう対処してきたのか」


禮は背後の黒炎の龍を見上げる。


「その可能性と経験を、俺の技が取り込んでる」


龍の口へ、雨粒が吸い込まれていく。


「そして、それを次の攻撃に反映する。簡単に言えば――」


禮は詩音へ視線を戻した。


「今まで通りの戦い方を続けると、逃げ道がなくなっていくって感じだな」

「…………」


詩音は黙り込んだ。

能力が使えなくなったわけではない。

選べる行動が消されたわけでもない。


ただ、自分が選びやすい行動を、禮の技が覚えていく。

右へ避ければ、次は右側を塞ぐ。

左へ切り返せば、その先に追撃が待つ。

詩音が選んだ結果を受けて、四つの詠唱が連携を変えていく。


「……なるほど」


詩音は苦笑した。


「私が何度も同じように避けてたら、そりゃ読まれますよね」

「そういうこと」

「しかも、人が覚えるより速い……」


詩音が足を引く。

途端に、背後へ斬撃が走った。


「っ!」


《選択》。

別の方向へ移る。

だが、そこにも次の攻撃が迫る。

詩音は身を沈め、辛うじて回避した。

観客席がどよめく。


「さっきまで余裕で避けてたのに!」

「攻撃が詩音の動きに合わせて変わってる……?」


審査席では、久世が詩音を見つめていた。


「これで、いつもの《選択》だけじゃ厳しくなったね」


禮歌も頷く。


「うん。でも、能力そのものは使える。どう変えるかだね」


闘技場。

詩音は荒い息を整えながら、禮を見た。


「……神成さん」

「ん?」

「さっきから、私が一つも技を使ってないの、気になってました?」


禮の目が僅かに細くなる。

詩音は困ったように笑った。


「やっぱり」


一度、自分の両手を見る。


「本当は、もう少し普通に戦っていたかったんですけど……」


その表情から、笑みが消えた。


「今までと違う選び方をしないと、駄目みたいですね」


詩音はゆっくりと両手を下ろす。

そして、初めて。

《選択》による回避をやめた。

正面から迫る斬撃。

彼女は、それを見つめたまま動かない。


「……だったら」


小さく息を吸う。


「別の使い方を、見せます」

「来い」


禮は拳を構えた。

詩音が駆け出す。

正面から斬撃。


右側には衝撃。

頭上からも、別の技が迫っていた。

四つの《さいりゅうせいか》が、彼女の動きに合わせて攻撃を組み替えていく。

だが。


「《選択》」


詩音は、後ろへ逃げなかった。

斬撃の内側へ踏み込む。

身体を捻って刃をかわし、その勢いのまま禮へ拳を放った。


「――ほう!」


禮が腕で受ける。

詩音はすぐに反対の拳を繰り出す。

それを防いだ瞬間、彼女の背後に追撃が迫った。


「《選択》!」


詩音の身体が僅かに揺らぐ。

彼女は禮への攻撃を中断せず、踏み込む角度だけを変えた。

背後の一撃が空を切る。

そのまま――蹴り。


「っ!」


禮は腕を下げて防御した。

しかし、そこから反撃へ繋げる暇がない。

詩音がさらに前へ出る。

拳。


肘。

蹴り。

彼女自身にも技が襲いかかっている。

それでも、その一つ一つに対応しながら、禮への攻撃を止めない。

観客席がどよめいた。


「待て、あの子……!」

「周りからも攻撃されてるんだよな!?」

「なのに神成を攻め続けてるぞ!」


審査席。

久世が思わず立ち上がった。


「……あはっ。そう来たか!」


禮歌も目を見開く。


「回避と攻撃を、別々に考えてない……」


詩音は迫る斬撃に対して、ただ避ける行動を選んでいるのではない。

攻撃をかわしながら、禮へ最も近づける行動。

防御を成立させながら、次の打撃へ繋がる行動。

それらを選び続けている。


「《選択》!」


詩音の拳が、禮の顔へ迫る。

禮は首を傾けてかわした。

直後、腹部への蹴り。

腕で防ぐ。


そこへ、四重詠唱による追撃が詩音の頭上から降ってきた。

今度こそ離れる――。

そう思った瞬間詩音は前へ踏み込んだ。

禮の懐へ降り注いだ攻撃は、彼女の背後を通過して床を穿つ。


「……なるほどな!」


禮が笑う。

だが、その笑みとは裏腹に拳を防ぐ。

蹴りを流す。

次の打撃をかわす。


禮は、ひたすら防御へ回っていた。

《再龍聖歌》が追撃を繋げる。

《最竜聖歌》が技を最適化する。

《最龍聖歌》が、これまでの攻防から次の手を組み立てる。


それでも、詩音はその対応を受けて、また別の行動を選ぶ。

新しい攻撃が来る。

防ぐ。


また来る。

防ぐ。

禮自身の反撃を差し込む余地が、少しずつ削られていった。


「はぁっ!」


詩音が踏み込む。

禮が拳を受け流す。

しかし、その腕を引き戻すより早く、詩音の膝が迫った。


「――っ!」


禮は咄嗟にもう片方の腕を下げる。

ドンッ!

衝撃を受け止めた、その瞬間詩音の右拳が、既に次の軌道へ入っていた。


「……これでも、まだ防ぎますか?」


息を切らしながら、詩音が笑う。

禮は彼女を見据えた。

四つの詠唱が攻撃を続けている。

それなのに、目の前の少女から反撃の主導権を奪えない。


神成禮が、防戦一方になっていた。

詩音の拳を、禮が受け流す。

続けて迫る蹴り。

それも防ぐ。

だが、反撃に移ろうとした瞬間には、既に次の拳が迫っていた。


「……さすがに強いな」


禮は楽しそうに笑った。


「俺も、もう少し本気で行くぞ」

「……まだ上があるんですか!?」


詩音が思わず声を上げる。

禮は答える代わりに、通信を開いた。


「レイカ、すまん。借りるぞ」


◇


観客席からは見えない、関係者用の審査室。

禮歌はその声を聞き、目を細めた。


「……やっと呼んだね」


隣にいた久世が振り向く。


「お、出番?」

「うん」


禮歌は立ち上がった。

天倉が慌てて顔を上げる。


「待ってください。まさか本物を――」

「大丈夫。禮が呼んだんだから」


禮歌は微笑む。


「それに、私もあの子と戦ってみたい」


その姿が、銀白の光に包まれた。

次の瞬間、審査室から、禮歌の姿が消える。


◇


闘技場。

禮の手に、一本の剣が顕現した。


「神器――《アポカリプス》」


これまでの模倣ではない。

禮歌そのもの本物の神器。

観客席が沸き立つ。


「昨日の剣と似てるぞ!」

「いや、何か違わないか……?」


その正体までは、誰にも分からない。

詩音は禮の手元を見た。


「……さっきまで、何も持ってなかったのに」

「こいつは、ちょっと特別でな」


禮が剣を握り直す。


「《双魂共鳴》」


瞬間禮と禮歌の感覚が重なった。

視界。

思考。


詩音の呼吸。

足運び。

ほんの僅かな重心の変化。

禮が捉えたものを禮歌も捉え、禮歌が感じたものを禮も知る。


『……なるほどね』


禮歌の声が、禮の内側へ届いた。


『《選択》。面白い能力だね』

『だろ?』

『うん。でも、次にどっちへ来るかは、私にもまだ分からない』


二人の意識が、同じ少女へ向いた。

詩音が踏み込む。


「《選択》!」


右へそう見えた瞬間、左から拳が迫る。

禮は《アポカリプス》を引き寄せた。

ガキンッ!

刃の腹で拳を受ける。

その瞬間、禮歌の声が響いた。


『次、下!』


禮が剣を下げる。

詩音の蹴りがぶつかった。


「――っ!」


詩音はすぐに後ろへ跳んだ。

さっきまでとは違う。

禮の防御が、僅かに早くなっている。


「……今の剣」


詩音は息を整えながら、禮を見た。


「持った途端、動きが変わりましたね」


禮の口元が上がる。


『禮』

『ああ』

『今度は、こっちから行こうか』


禮は《アポカリプス》を構えた。

詩音もまた、低く身を沈める。

二人の視線が交差した。


「もし、まだ手札を隠してるなら――」


禮は《アポカリプス》を構え直した。


「全部出した方がいいぞ」


詩音が目を細める。


「……気づいてたんですか?」

「技を一つも使ってないからな」


禮は笑った。


「俺も、ここから反撃を始めよう」


傍らに浮かぶ神器《ノア》へ、視線を向ける。

そして、パタン。

本が閉じた。

瞬間闘技場を埋め尽くしていた攻撃が、一斉に止まる。


四つの《さいりゅうせいか》。

可能性の雨。

黒炎の龍。

それらが、次々と姿を消していった。


「……え?」


詩音が思わず周囲を見渡す。

先ほどまで、息をつく暇さえなかった。

なのに今は、驚くほど静かだった。


「攻撃を……やめた?」

「いや」


禮は剣を握る手に力を込める。


「一度、仕切り直すだけだ」

『……禮』


《双魂共鳴》を通じて、禮歌の声が届く。


『今度は、それを使うんだね』

『ああ』


禮は詩音を見据えた。


「終焉創世(しゅうえんそうせい)」


――ドクンッ。

空気が震えた。

《アポカリプス》を中心に、相反する力が重なり始める。


何かが終わっていくような気配。

その終わりから、何かが生まれてくるような気配。

二つが混ざり合い、剣の周囲で揺らめいた。

観客席が静まり返る。


「……何だ、今の」

「さっきまでと、空気が違う……」


審査室では、天倉が防護結界の表示を確認していた。


「……頼むから、あの中だけで済ませてくれよ」


久世は画面から目を離さない。


「詩音も、そろそろ本当の戦い方を見せないとね」


◇


闘技場。

禮が一歩踏み込む。

今度は、無数の技に任せた攻撃ではない。

禮自身が剣を振るう。

《アポカリプス》の刃が、詩音へ迫った。


「《選択》!」


詩音は右へ逃れる可能性を選ぶ。

だが、禮の追撃が速い。

斬撃をかわした直後には、返す刃が迫っていた。


「っ……!」


もう一度《選択》。

さらに次の一撃。

詩音は後退する。

それでも、禮は止まらない。

防戦一方だった先ほどとは逆に、今度は詩音が押され始めていた。


「……ふふっ」


詩音が、息を切らしながら笑った。


「なるほど。ここからが本番なんですね」


彼女は一度、大きく距離を取る。

禮は剣を構えたまま、その動きを見ていた。


「だったら――」


詩音が右手を胸の前へ掲げる。

これまでと違う、明確な構え。


「私も、使わせてもらいます」


その指先に、《選択》の光が集まった。

詩音は初めて、回避のためではなく、一つの技を成立させるために能力を使おうとしていた。

詩音の指先に、《選択》の光が集まっていく。

禮はそれを見て、口元を大きく上げた。


「そうじゃないと面白くない!」


《アポカリプス》を構え直す。


『……嬉しそうだね、禮』


禮歌の声が頭の中に響く。

詩音も、つられて笑った。


「そんなに期待されると、失敗できないじゃないですか」

「別に失敗してもいいさ」


禮は剣先を向ける。


「その後、どうするかも見たいからな」

「……じゃあ、遠慮なく」


詩音が右手を握る。


「《選択》――《択定》」


瞬間詩音の周囲に、三つの淡い光が現れた。

正面から踏み込む詩音。

右側へ回り込む詩音。


距離を取って構え直す詩音。

どれも、次の瞬間に彼女が取り得る行動だった。

しかし――。


「……っ?」


禮の目が細くなる。

三つの動きが、同時に始まった。

いや。

正確には、どの行動が現実になるのか、まだ確定していない。


『禮、あれ……』

『ああ。今までとは違うな』


これまでは、動作の途中で別の可能性へ切り替えていた。

だが今は、複数の行動を並べたまま、確定を先延ばしにしている。

詩音が笑った。


「今までは、先に選びすぎてたんです」


三つの姿が、それぞれ違う方向へ動く。


「だから――」


次の瞬間、正面の詩音が消えた。

同時に、右側の詩音も消える。

残ったのは、距離を取っていたはずの詩音。


「選ぶのは、最後にします!」


彼女の足が床を蹴る。

禮の間合いへ飛び込んでくる。

その拳には、先ほどまでとは異なる力が込められていた。


「なるほどな」


禮は、迫り来る詩音を見据えた。


「だが、まだ足りない」


《アポカリプス》を横へ引く。


『禮、三つとも?』


《双魂共鳴》を通じて、禮歌が問いかけた。


『ああ。一振りで処理する』


詩音の踏み込みから、三つの行動が分岐する。

正面からの拳。

右へ回り込んでの蹴り。

左へ抜けてからの追撃。

どれを選んでも、禮の剣が届く位置。


「――っ!」


詩音が目を見開く。

禮は大きく踏み込んだ。

《終焉創世》を纏(まと)った《アポカリプス》が、横一文字に振り抜かれる。

ゴォッ!!


剣閃が、三つの進路をまとめて薙ぎ払った。

正面。

右。


左。

詩音がどれを確定させても、同じ一撃に巻き込まれる。

観客席から歓声が上がる。


「全部まとめて斬った!?」

「選ぶ前に、逃げ道を塞いだのか!」


だが。


「……なるほど!」


詩音が笑った。


「だったら――!」


《選択》!

三つの姿が、一瞬で消える。

詩音は拳を引いた。

右にも左にも行かない。

その場で膝を折り、剣閃の下へ身体を沈める。


「――そこ!」


禮の剣が頭上を通過した。

詩音は低い姿勢から踏み込み、禮の懐へ潜り込む。


『禮、下!』


禮歌の声が響く。

詩音の拳が、禮の腹部へ迫った。


「三つとも斬られるなら――」


彼女は、楽しそうに笑っていた。


「四つ目を選べばいい!」


攻撃を捨てて身を沈める。

それも、彼女が取り得た行動の一つ。

禮が三つの分岐を同時に処理した瞬間、詩音は別の可能性を選んでいた。

拳が、目前まで迫る。


詩音の拳が、禮の腹部へ迫る。

禮は《アポカリプス》の柄を引き寄せ、その一撃を受け止めた。

ドンッ!

衝撃が腕へ伝わる。

だが、禮が気にしていたのは拳の威力ではない。


「なるほどな」


詩音が顔を上げる。


「確定していないからこそ、途中から新しく選べるようになった可能性まで拾えるわけだ」


禮は楽しそうに笑った。


「厄介だな、お前」

「……褒め言葉として受け取っておきます」

「もちろん」


禮は《アポカリプス》を構え直す。


「なら、これはどうする?」


傍らに浮かんでいた神器《ノア》へ、意識を向けた。

パラッ――。

閉じていた本が、再び開く。


「……!」


詩音が警戒する。

《再竜聖歌》。

《再龍聖歌》。

《最竜聖歌》。


《最龍聖歌》。

四つの聖歌が、再び動き出した。

続けて、黒い炎が立ち上る。


《祭龍星歌》。

禮の背後に、巨大な龍が姿を現す。

しかし、攻撃は来ない。

斬撃も衝撃も虚無もただ、五つの技が、それぞれの力を保ったまま静かに展開されていた。


「……あれ?」


詩音が目を瞬かせる。


「攻撃、しないんですか?」


審査室では、久世の表情が変わっていた。


「……待って」


画面に映る五つの技を見て、ゆっくりと立ち上がる。


「御影(みかげ)の時は、四つだったよね?」


天倉も端末を確認する。


「四つの聖歌を消費して成立させた、未完成版……」


そこで、言葉が止まった。


「まさか、あの施設で使った完成版を――?」


以前、禮が完成させた終龍葬歌(しゅうりゅうそうか)。

その初回試験では、誰もいない方向へ放った一撃が、施設内部の空間境界を破り、さらに外側へと貫通した。

修復機構が境界を再構築し、強度まで引き上げたことで、ようやく施設は再使用可能になった。

天倉はその後の現場と記録を確認している。

だが、完成版が放たれる瞬間を、間近で見たわけではない。


「……神成」


通信に、緊張した声が乗った。


『それは、今ここで使っていい技なのか?』


禮は答えず、詩音を見据える。


『禮』


《双魂共鳴》を通じて、禮歌の声が届いた。


『五つ、揃ってるね』

『ああ』

『……私も、完成版を直接受けるのは初めてだよ』


禮の手には、本物の《アポカリプス》。

傍らには、《ノア》。

そして、五つの歌。


詩音は周囲を見渡した。

攻撃されていない。

なのに、先ほどまでよりも遥かに息苦しい。


「……何をするつもりですか?」


その問いと同時に禮が、詠唱を始めた。


「再びし竜よ、重なりし龍よ」


《再竜聖歌》。

《再龍聖歌》。

二つの聖歌が、ゆっくりと形を崩す。


「最へ至り、星を喰らい、渦へ還れ」


《最竜聖歌》。

《最龍聖歌》。

その出力が、一つの場所へ流れ込み始めた。

黒炎の龍が、大きく口を開く。


「数多の軌跡を飲み込む龍となれ」


《祭龍星歌》。

これまで取り込んだ可能性と経験。

四つの聖歌が組み上げた攻防。

そのすべてを抱えた龍が、静かに収束していく。

詩音が息を呑んだ。


「……これ、まさか」


五つの技が、同時に停止する。

存在が消されたわけではない。

《ノア》に記録された技も、失われない。


ただ、今この瞬間に稼働していた五つの歌。

その状態と出力が、一つの技を成立させるために消費されていく。

禮の声が、静まり返った闘技場へ響いた。


「五つの歌をここに葬り、ただ一つの終わりとなれ――」


《ノア》のページが、一斉に光を放つ。

そして。


「《終龍葬歌》」


――静寂。

音が消えた。

先ほどまで揺れていた空気も、黒炎も、光も。

すべてが一つへ収束する。


禮の前に現れたのは、巨大な斬撃ではなかった。

小さな、一点。

だが、その一点を中心に空間が、音もなく軋み始めた。

審査室。

天倉が叫ぶ。


「防護結界、最大出力!」

『既に最大出力です』

「だったら、境界の監視を――!」

『空間境界に異常反応』


久世が画面を見つめる。


「……あれが、完成版」


禮歌も、《双魂共鳴》を通じてその力を感じていた。


『禮……』


静かな声。


『本当に、すごいもの作ったね』


闘技場。

詩音は動かなかった。

いや。

動けないわけではない。


《選択》は、今も使える。

右へ逃れる可能性。

左へ抜ける可能性。


防御する可能性。

攻撃する可能性。

それらを探ろうとする。

だが。


「……っ」


詩音の額に、汗が浮かんだ。

どの行動を選んでもその先に、同じ一点が見える。


「……何、これ」


思わず声が漏れた。

まだ攻撃は届いていない。

それなのに、詩音は初めて、自分の選択がどこへ繋がるのかを見失いかけていた。


禮の前で、《終龍葬歌》が動き始める。

詩音は歯を食いしばった。

そして、これまで隠していた何かを、ようやく使う決心がついたように――右手を掲げた。


「食らうなよ」


禮が笑った。

詩音は目を見開く。


「……言われなくても!」


《終龍葬歌》。

その一点が、静かに進み始める。

詩音は《選択》を発動した。

右へ逃げる。


左へ逃げる。

後退する。

防御する。

無数の可能性を並べる。

だが――。


「……全部、駄目?」


どれを選んでも、最後には同じ場所へ辿り着く。

詩音の額から汗が流れた。


「……あはは」


思わず、乾いた笑いが漏れる。


「本当に、とんでもない人ですね……!」


それでも、彼女は諦めなかった。

右手に集めた光が、さらに強くなる。


「《選択》――《択定》!」


複数の行動が、確定しないまま重なった。

逃げる。

受ける。


迎え撃つ。

だが、いずれも《終龍葬歌》へ繋がってしまう。

詩音は歯を食いしばった。


「……だったら」


彼女が選んだのは、これまで試していなかった行動。

攻撃から離れるのではなく、攻撃が届く前に禮へ近づく。


「――前!」


詩音が地面を蹴った。

審査室。

久世が目を見開く。


「……えっ、そっち!?」

『禮、来るよ!』


《双魂共鳴》を通じて、禮歌の声が届く。

詩音は真正面から踏み込んでくる。

《終龍葬歌》が迫る中で。

自分から、その発動者へ。


「逃げ続けても駄目なら――!」


詩音が叫んだ。


「あなたのところまで行ってみせる!」


その瞬間、詩音の姿が、幾重にも揺らいだ。

一歩。

二歩。

そして――。

《終龍葬歌》の一点が、彼女の目前へ迫った。


「馬鹿野郎!」


禮の声が響いた。

詩音の目前《終龍葬歌》が、あと僅かで接触する。

禮は即座に《ノア》へ意識を向けた。


――解除。

瞬間一点へ収束していた力が消えた。

空間を軋ませていた異様な圧力も、跡形もなく失われる。


「――えっ!?」


詩音は止まれなかった。

勢いのまま踏み込み、何もない空間へ飛び込む。

そして。


「わっ!?」


着地に失敗し、床を転がった。

ゴロゴロッ。

数メートル先で、ようやく止まる。


「……いたた」


闘技場が静まり返った。


『《終龍葬歌》の消失を確認』

『空間境界――正常』


審査室。

天倉が椅子へ崩れ落ちた。


「……寿命が縮んだ」


久世も、珍しく笑っていなかった。


「今のは……さすがに危なかったね」


《双魂共鳴》を通じて、禮歌の声が届く。


『……禮、止めてくれてよかった』


闘技場。

詩音はゆっくり起き上がった。


「……あれ?」


周囲を見渡す。

技がない。

自分も無事。

そして、禮の表情。


「……もしかして」


詩音が恐る恐る尋ねる。


「私、今……とんでもないことしました?」


禮は《アポカリプス》を握ったまま、詩音を見ていた。

詩音は気まずそうに目を逸らす。


「……だって、どこへ逃げても駄目だったから」


ぽつり。


「だったら、神成さんのところまで行けば……何か変わるかなって」


少し間を置く。


「……変わりましたね。技、消してくれましたし」


そう言って小さく笑ったが、禮の顔を見て、すぐに口を閉じた。


「……ごめんなさい」


それでも、詩音の目から戦意は消えていない。

ただ今度は、次の行動を選ぶ前に、禮の言葉を待っていた。


「……馬鹿なのか、本当に」


禮は、床から立ち上がった詩音を見つめた。


「なんであの状況で突っ込むんだ」

「……だって、ほかの選択肢じゃ避けられなかったから」

「だからって、あれに突っ込む奴があるか!」


詩音は気まずそうに視線を逸らした。


「……ごめんなさい」


禮はため息をつく。

だが、すぐに口元を緩めた。


「まぁ、戦闘はまだ終わってないのか」


その言葉に、詩音が顔を上げる。


「……続けるんですか?」

「ああ」


禮は傍らに浮かぶ《ノア》へ手を向けた。

パタン。

本が閉じる。

そして、その姿が完全に消えた。


五つの聖歌は、先ほどの《終龍葬歌》へすべて注ぎ込まれた。

現在、展開中の歌は一つもない。

ただし、《ノア》に刻まれた記録まで失われたわけではなかった。

禮の手に残るのは、本物の神器《アポカリプス》。


『……禮?』


《双魂共鳴》を通じて、禮歌が問いかける。


『今度は何をするの?』

『前に使った、あれだ』


一瞬禮歌の意識が、過去の光景を捉えた。

白と黒。

《創》と《破》。

異常な出力で交わり、生まれた斬撃。


あの時は、禮が《創》で《破》を再現し、模倣の《アポカリプス》を用いて成立させた技だった。

だが、今は違う。

禮の手にあるのは、模倣ではない。

《破》を本来の力として宿す、禮歌そのもの。


『……なるほどね』


禮歌が静かに答える。


『今回は、私の《破壊》を使うんだ』

『ああ』

『分かった。でも禮、あの技の危険さは覚えてるよね?』


禮は詩音を見た。

その目から、先ほどまでの軽さが少し消える。


◇


「勝利条件を変更する」


禮の声が、闘技場へ響いた。

詩音が姿勢を正す。


「……はい」

「俺がこれから使う技を、あと一つ対処できたらお前の勝ちだ」

『勝利条件の変更を確認』


運営AIの音声が続く。


『月城詩音――神成禮が指定する次の技への対処を成立させること』

『直接の命中を受ける必要はありません』


観客席がざわついた。


「一つだけ?」

「さっきの技より簡単なのか?」

「いや、逆だろ……」


審査室。

天倉が立ち上がった。


「……待て」


画面に映る《アポカリプス》。

禮の周囲で生まれ始めた、白と黒の力。

見覚えがあった。


「神成、それは……!」


久世の表情からも笑みが消える。


「……あの時の技?」


かつて、禮が怒りの中で放った一撃。

久世の界定(かいてい)だけでは止められず、禮歌が《神裂装》まで用いて破壊した技。

それと同じ名を持つ力が、再び現れようとしていた。

ただし、今回の成立条件は違う。


◇


禮は《アポカリプス》を両手で構えた。


「《神器位階昇華――双極相》」


瞬間白い光が、禮の身体から溢れた。

《創》。

それに呼応するように、《アポカリプス》から黒い力が立ち上る。

《破》。


今度は《創》による再現ではない。

禮歌が持つ、本来の《破壊》。

二つの力が、剣を中心に重なり始めた。

白。


黒。

反発する。

だが、離れない。

《双魂共鳴》によって繋がった禮と禮歌の感覚が、二つの力の流れを捉える。


『……これ、前とは感触が違うね』

『ああ』

『私の方も、合わせるよ』


剣の周囲で、二つの力が循環し始めた。

審査室の計測装置が警告を鳴らす。


『高密度の能力反応を確認』

『複数の異なる現象が、同一の武装上で成立しています』


天倉は通信機を握り締めた。


『神成! 防護結界は維持されているな!?』

「維持してる」

『絶対に観客側へ向けるなよ!』

「分かってる」


禮は詩音を見据えた。


「もう一度、食らっちゃいけない技を出す」


詩音の顔が引き締まる。


「……今度は、突っ込むなってことですね」

「ああ」


禮は笑った。


「今度こそ、乗り越えてみせろ」


詩音は大きく息を吸った。

そして、ゆっくりと構えた。


「……分かりました」


その声には、先ほどのような焦りがない。


「今度は、ちゃんと対処します」


禮は剣を振り上げた。

白と黒の力が循環し、圧縮される。

創り出す力。

破壊する力。

その二つが、互いを押し潰すことなく一つの斬撃へ集約されていく。


「双極葬界(そうきょくそうかい)」


――一閃。

白と黒の斬撃が、詩音へ向けて放たれた。

ドォォォォンッ!!

闘技場の床が、大きく震える。

観客席を覆う結界にも、幾重もの光が走った。


「うわあっ!?」

「何だ、あれ!?」

「さっきの技とは違うのか!?」


詩音は、迫る斬撃を見つめた。

《終龍葬歌》とは違う。

あれは、幾重もの戦闘の結果が一つへ収束した技だった。

だが、今回は白と黒。

二つの異なる力が、同じ斬撃の中に存在している。


「……っ!」


《選択》。

詩音の周囲に、複数の行動が並ぶ。

右へ回避。

左へ回避。


後退。

防御。

迎撃。

それぞれを見比べ――。


「……違う」


詩音が、小さく呟いた。

先ほどは、逃げ道が見つからなくなったから前へ出た。

けれど、今回は逃げるか、受けるか。

その二つだけで考えていては、また同じことになる。


「……神成さん」


詩音の目が、禮を捉えた。


「さっきは、止めてもらいましたけど」


右手に《選択》の光が集まる。


「今度は――私が何とかします!」


迫る《双極葬界》。

詩音はその斬撃へ視線を固定した。

そして、初めて。

自分が逃れる未来ではなく、斬撃そのものに対処する未来を選び始めた。


「……いくぞ」


禮は、静かに告げた。

《アポカリプス》を振り抜く。

ただ、それだけ大きな掛け声も、派手な予備動作もない。


白と黒が重なった斬撃が、音もなく詩音へ向かう。

《双極葬界》。

かつて久世の《界定》でも止めきれず、禮歌が《神裂装》を用いて破壊した技。

今回は、その禮歌自身が《アポカリプス》となり、禮の《創》と本来の《破》を重ねている。


『……来るよ』


《双魂共鳴》の内側で、禮歌が告げた。

詩音は、迫る斬撃から目を逸らさない。


「《選択》……!」


右へ逃げる可能性。

左へ逃げる可能性。

防御する可能性。

次々と分岐が現れる。

しかし、詩音はどれも確定させなかった。


「……違う。さっきと同じじゃ駄目」


斬撃が近づく。

床が軋む。

観客席を隔てる結界が、低く唸った。


「おい……あれ、本当に防げるのか!?」

「月城、動かないぞ!」


審査室では、久世も天倉も黙っていた。

詩音は一歩も退かない。

だが、先ほどのように無謀に突っ込むわけでもない。

彼女は目を細め、白と黒が交わる一点を見つめた。


「……見つけた」


小さな呟き。

右手を前へ出す。

《選択》の光が、これまでとは違う形に集まり始めた。


「これなら――」


詩音が息を吸う。


「選べる。」


《双極葬界》が、彼女の目前へ到達した。


「お前の答えを見せてみろ」


禮の声が響く。

白と黒。

二つの力が重なった《双極葬界》が、詩音へ迫る。


「……はい!」


詩音は右手を構えた。


「《選択》――《択定》!」


幾つもの可能性が、彼女の周囲に現れる。

右へ逃げる。

左へ逃げる。


後退する。

防御する。

そして――。


「……あった」


詩音が、小さく笑った。


「逃げることばっかり考えてました」


彼女は一歩、斜め前へ踏み出す。


「でも、神成さん。私の能力は――」


白と黒の斬撃が目前へ到達する。


「逃げ道を選ぶためだけのものじゃない!」


詩音は、斬撃の真正面には立たなかった。

その縁。

二つの力が交わりながら進む、僅かに外れた位置。

そこへ身体を滑り込ませる。


「《選択》!」


最初の選択。

斬撃に触れる直前の、身体の角度。

次の選択。

触れた瞬間、力を加える方向。


さらに次。

生じた反動を、次の動作へ繋げる位置。

一つの大きな可能性を選ぶのではない。


小さな選択を、連続して繋いでいく。

バギィィンッ!!

詩音の右腕が、斬撃の縁と衝突した。


「っ、あああっ!!」


防御のために集中させた力が、白と黒の奔流に削られる。

腕が軋む。

足元の床が砕ける。

それでも、詩音は、真正面から押し返そうとはしなかった。


「こっち……!」


《選択》。

自分が押し潰される方向ではなく、斬撃の進行を、僅かでも横へ逸らせる動作を選ぶ。

その瞬間、ズズッ――!

《双極葬界》の軌道が、ほんの僅かに変わった。


「……!」


審査室で、久世が目を見開く。


「今、逸らした!?」


天倉も計測画面を見る。


『攻撃軌道に変化を確認』

『ただし、斬撃の出力は依然として高水準』


詩音は歯を食いしばった。

まだ終わらない。

斬撃は、彼女の身体を巻き込む位置にある。

ここで選択を止めれば、そのまま呑み込まれる。


「……まだ、選べる!」


《択定》。

もう一度今度は、逸れた斬撃を前提にそこから成立し得る次の行動を並べる。

詩音の目が、禮を捉えた。


「神成さん……!」


血の滲む右腕を押し出しながら、彼女が叫ぶ。


「私の答えは、一回で正解を選ぶことじゃない!」


斬撃が、再び軋む。


「選んだ後も――何度だって、選び直すことです!」


白と黒の奔流が、詩音の目前で激しく揺らいだ。

禮の目にも、その変化がはっきりと映っていた。

《双極葬界》は、まだ消えていない。

だが詩音は今、初めてその進行へ干渉していた。


「危ないことするな、ほんと!」


禮の声が、闘技場に響いた。


「破壊の力もあるんだぞ! 腕が消し飛んだらどうするんだ!」

「……っ!」


詩音の表情が変わる。

白と黒の斬撃。

今まで彼女が触れてきた攻撃とは、性質そのものが違う。

《創》と《破》。

そのうちの一方は、触れたものを破壊する力だった。


「……それ、先に言ってくださいよ!」

「見りゃ分かるだろ!?」

「分かりませんって!!」


詩音が叫び返した、その瞬間右腕を覆っていた防御が、一部崩れた。


「――痛っ!」


彼女は反射的に腕を引く。

白と黒の奔流が、すぐ目の前を通り過ぎた。


『禮、あの子……!』


《双魂共鳴》を通じて、禮歌の声が響く。

詩音は息を荒げながら、自分の右腕を見た。

傷は浅くない。

あと少し判断が遅れていたら。

そう考えたところで、背筋が冷たくなる。


「……危なかった」


だが、彼女はまだ倒れない。

《双極葬界》も、まだ消えていない。

詩音は再び斬撃へ視線を向けた。


「……分かりました。もう直接触りません」


右手を下ろす。

代わりに、左手を前へ掲げた。


「《選択》」


今度は、自分の身体を斬撃へぶつける可能性を捨てる。

先ほど僅かに逸らした軌道。

その先斬撃が通過する位置。

詩音はそれらを見つめながら、小さく呟いた。


「……私が受け止めなくても」


少し間を置いた。


「ほかに、選べるものがあるはず」


審査室。

久世が身を乗り出した。


「……あれ?」


天倉が顔を上げる。


「どうしました?」

「詩音、今までと見てるところが違う」


闘技場。

詩音は、もう自分の逃げ道を見ていなかった。

《双極葬界》が進む、その先を見ていた。


「まぁ、それならきっと大丈夫だろう」


禮は《アポカリプス》を構えたまま、詩音を見つめる。


『……禮、止めなくていいの?』


禮歌が問いかける。

詩音は既に、斬撃から距離を取っていた。

傷ついた右腕を庇いながら、左手を掲げる。


「……さっき、ほんの少しだけ逸らせた」


彼女が見つめているのは、自分の逃げ道ではない。

《双極葬界》の軌道。


「だったら、その先にも……!」


《選択》。

詩音の周囲に、幾つもの光が現れる。

先ほどの接触によって生まれた、僅かな軌道のズレ。

そこから起こり得る展開を、次々と捉えていく。


「……あった!」


詩音が踏み込む。

ただし、斬撃には近づかない。

その進路から外れた場所へ移動し、床へ手をついた。


「《択定》!」


詩音の足元で、砕けかけた床が跳ね上がる。

飛び散った破片が、斬撃の縁へ触れた。

瞬時に破壊される。

だが、その接触によって生まれた僅かな変化を、詩音は見逃さない。


「もう一つ!」


《選択》。

斬撃の進行方向が、再び変わった。

ほんの僅か。

それでも、確かに。


「おい……!」


観客席がざわめく。


「軌道が変わってないか!?」

「直接触ってないぞ!?」


詩音は歯を食いしばる。

白と黒の斬撃は、まだ消えていない。

その威力も、ほとんど失われていない。

ただ――。

詩音が立つ場所から、少しずつ外れ始めていた。


「……これが、私の答えです!」


詩音が叫ぶ。


「全部を受け止める必要なんて、なかった!」


《双極葬界》が、彼女のすぐ脇を通過する。

轟音。

凄まじい衝撃が床を揺らした。

詩音は吹き飛ばされかけながらも、踏みとどまる。

そして、斬撃は彼女を通り過ぎ――闘技場の無人区画へ向かっていった。


『禮!』


禮歌の声が響く。


『あの子、やったよ!』


詩音は荒い息を吐きながら、禮を見た。

右腕は傷ついている。

足も震えている。

それでも、彼女は笑っていた。


「……どうですか、神成さん!」


その背後で《双極葬界》が、なおも進み続けていた。


「……無茶しすぎだろ」


禮は、傷ついた右腕を押さえる詩音を見て呆れたように呟いた。

その言葉を聞いた瞬間審査室で、久世の眉がぴくりと動いた。


「…………ん?」


彼女の脳裏に、ある光景が蘇る。

神成禮と初めて戦った時のことあの時、禮は久世の攻撃を避けられたにもかかわらず、あえて自分から受けた。


「……ちょっと待って」


久世が通信機を手に取る。


『ねえ、禮』

「ん?」

『今、無茶しすぎって言った?』

「ああ」

『……私と初めて戦った時のこと、覚えてる?』


禮の動きが、僅かに止まる。

久世はにっこり笑った。


『私の攻撃、わざと食らったよね?』

「…………」

『あれも相当な無茶だったと思うんだけどなぁ?』


禮歌の笑い声が、《双魂共鳴》を通じて届く。


『……ふふっ。確かにそうだね』


久世はさらに続ける。


『しかも、あの時の禮、結構楽しそうだったよね?』


闘技場では、詩音が二人のやり取りを聞いていた。


「……え?」


禮を見る。


「神成さんも、そんなことしてたんですか?」


返事を待つ間もなく、通信から久世の声が飛んでくる。


『してたよ。それはもう、堂々と』


詩音は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「……あははっ!」


笑った拍子に、右腕へ痛みが走る。


「いった……!」


禮はため息をついた。


「……ほら、腕」


詩音が笑いを収める。


「……はい」


禮は彼女の前まで歩いた。


「勝利条件、達成だな」


その言葉に、詩音が目を見開く。


「……本当ですか?」

「ああ。《双極葬界》への対処は成立した。約束通り、お前の勝ちだ」


直後。


『判定』


運営AIの音声が闘技場に響いた。


『月城詩音――勝利条件達成』

『最終実戦評価、終了』


観客席が沸き立つ。


「やったぁぁ!」

「最後の最後で避けきった!」

「しかも、あんな技を相手に!」


詩音はしばらく呆然(ぼうぜん)としていた。

やがて、顔をくしゃっとさせて笑う。


「……勝てた」

「そうだな」

「……本当に、勝てたんだ」


禮は詩音の右腕へ視線を落とす。


「腕、見せろ。直してやる」

「あ……お願いします」


詩音が、おずおずと腕を差し出した。


「《創》」


淡い光が傷を包む。

損傷した組織が再構築され、傷が塞がっていく。

詩音は不思議そうに指を動かした。


「……あれ?」


手を握る。

開く。

もう一度、握る。


「痛くない……」

「どうだ?」

「……すごい。元通りです」


詩音は嬉しそうに笑い、それから少しだけ申し訳なさそうな顔になった。


「……でも、さっきは本当にごめんなさい。あの技に突っ込んだのは、さすがに考えなしでした」


審査室では、久世が腕を組んで頷いている。


「うんうん。危険な技には気をつけないとね」


少し間を置いた。


「……禮も含めて」


禮歌が、また小さく笑った。

闘技場の中央で、詩音は禮を見上げる。


「神成さん」

「ん?」

「……楽しかったです」


その表情に、先ほどまでの緊張はない。


「こんなに必死になって戦ったの、初めてかもしれません」


そして、少し照れたように笑った。


「また、戦ってもらえますか?」

「ま、強いやつはいつでも」


禮はそう答え、《アポカリプス》を肩に担いだ。

詩音は一瞬きょとんとしてから、嬉しそうに笑った。


「……はい! 次はもっと強くなってきます!」

「期待してるぞ」


その言葉を最後に、二人の戦いは幕を閉じた。


◇


『これをもちまして、全競技および特別実戦評価の全日程が終了しました』


運営AIの声が、闘技場全体に響き渡る。


『参加者の皆様、お疲れさまでした』


少し間を置いた。

そして――。

ワアアアアアアッ!!

観客席から、割れんばかりの歓声が上がった。


勝った者。

負けた者。

目標を達成した者。


悔しさを残した者。

それぞれが、長い大会の終わりを迎えていた。

詩音は観客席を見渡し、ようやく実感が湧いたように息を吐く。


「……終わっちゃいましたね」

「ああ」

「なんだか、あっという間でした」


禮が笑う。


「こっちは結構な人数を相手にしたけどな」

「ふふっ。それもそうですね」


◇


関係者用の審査室。

久世は椅子に深くもたれ、天井を見上げていた。


「いやぁ……最後、とんでもないことになったね」


天倉は端末に表示された損傷記録を眺める。


「本当に、最後まで気が休まらなかった……」

「でも、いい大会だったでしょ?」

「それとこれとは別だ」


天倉は即答した。

久世が笑う。

やがて、彼女は闘技場の中央に立つ禮と詩音へ目を向けた。


「……見つかったね」

「何がだ?」

「面白い子たち」


天倉も画面を見る。

今回の大会で示された能力。

戦いの中で変わっていった判断。

まだ伸びる余地を残した参加者たち。


「……そうだな」


彼は静かに頷いた。


◇


闘技場。

禮は最後に一度、観客席を見渡した。


『お疲れさま、禮』


《双魂共鳴》を通じて、禮歌の声が届く。


『ああ。お前もな』

『……それで?』

『ん?』

『今度は何をするつもり?』


禮は少しだけ考え、笑った。

大会は終わった。

だが、ここで出会った能力者たちの物語まで終わるわけではない。

今日の敗北を糧にする者もいる。


勝利を手に、次の目標へ進む者もいる。

そして、いつかまた。

彼らが禮の前に立つ日が来るかもしれない。


場内に、閉会を告げる音楽が流れ始める。

こうして――

特異事象対策局《とくいじしょうたいさくきょく》主催、世界規模の能力者選抜大会は、その全日程を終了した。


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