帰路の途中
「ここは……」
目紛しい変化と、続く緊張感で心身ともに疲れ切っていたイリアは、馬車での移動中、いつの間にか眠ってしまった。
走る馬車からでも逃げ出そうとするイリアの、尋常ではない様子に見ていられなくなったティールは、ひとまず問い詰めることをやめて、静かに寄り添うことにした。
その間にイリアは眠ってしまい、陽がとっぷりと暮れた頃には、王都までの帰路の途中にある村に着いていた。
慣れない場所で暗い中、馬車の扉に寄りかかる黒髪の男に気付いたイリアは、驚いて反対側の扉へ勢いよく後退った。
その拍子にガタンと物音を立ててしまったことを悔やんだが、遅かった。音に気付いた目の前の男が振り返る。
「おっ、眠り姫のお目覚めだ」
人懐っこい笑顔をぱっと見せたその男は、クリスと呼ばれていた騎士だ。騎士団のひとりだとわかって安堵したが、今度は別のことが気になった。
(ティールがいない。それに、どうしてここに留まっているの?)
「驚かせてごめん。あと、ティールはあっちにいるから安心しな」
イリアの不安そうな様子を見てなにかを悟ったクリスは、自身の後ろにある建物を指差す。すると隣から別の男が顔を覗かせ、イリアを更に安心させるように声をかけた。
「疲れただろう。今ティールが宿を用意してくれているから、もう少し待っていてくれ」
「あ……ありがとうございます」
親しみやすい笑みを浮かべる栗毛の男、ヘクターは若い団員ばかりのフローガー騎士団の中では壮年に見え、落ち着いた雰囲気を纏っている。
ティールから何か聞いているのかもしれないが、見ず知らずの相手を気遣ってくれる彼らに申し訳なく思っていると、宿から人が出てきた。
夜も深まっている中、宿からの明かりが彼の存在をはっきりと映し出す。ティールの煌めく金眼とばっちり視線が合ってしまい、イリアは慌てて馬車の奥へ身を寄せた。
「宿の者に食事の用意を頼んだ。キーリは先に行っている。二人も休んでくれ」
「それはありがたい。お言葉に甘えて先に休ませてもらおう。行くぞクリス」
ヘクターに呼ばれたクリスは「じゃーね」とウィンクを添えて手を振り、イリアを困惑させた。隣にいたヘクターがすぐに「やめろ」と肩をはたくと、陽気に笑うクリスの背中を押して宿屋に追い立てていた。
彼らを見送ってから馬車の扉を開いたティールは、イリアにそっと手を差し出す。
「今夜はあの宿に泊まる。狭いが、清潔だ」
「……っ」
ティールの大きな手を見つめ、イリアはどうすべきか悩む。
ここで抵抗したところで、もうどうにもならないとわかってはいても。
「動かないなら、抱いて部屋まで運ぶ。それでもいいか」
「じ、自分で、歩きます……」
正直なところ、イリアは疲労困憊の状態だった。馬車で眠ったとはいえ、時間は短く、休息として充分とは言えない。
ティールに触れないよう、避けて馬車から降りる。彼の顔を見ないままでいると、それについては言及されずに扉を閉めると、宿へ先導された。
宿の中は確かに清潔で、案内された部屋は暖かい雰囲気のこじんまりした室内だった。
「食事を運んでくる。ここで少し待っていてくれ」
「あのっ……お気遣いはありがたいのですが、食欲がなくて」
顔を俯けたまま、髪で顔を隠すように横を向く。失礼な態度ばかり取っているのに、ティールは気を悪くした様子はなく、むしろ余計に気遣われてしまう。
「なら、消化に良さそうなものを持ってこよう。食べられなければ、それでもいい」
イリアの返事を聞かないまま、ティールはすぐに部屋を出ていった。確実に彼が離れただろう時を見計らって、ドアをほんの少し開く。
廊下には、見覚えのある後ろ姿が見えた。先ほどの騎士たちが部屋から出て、宿の入り口側へ向かっていく。
そちらに行けば、食事をとれる広間があった。きっとそこへ向かっているのだろう。今イリアが横を通ったら、すぐに気付かれる。
諦めてドアを閉め、今度は部屋を見渡した。ベッドの近くに小さな窓を見つけて開こうとしたが、取手がない。
どうやらはめ殺し窓のようで、力任せに破壊でもしない限りはどうにもならなかった。
(考えなければ……これからのことを)
エフィとアグスに助けられてから一度も村を出たことがなかったイリアは、王都と村の間の土地勘がないに等しい。
今いる場所を把握し、夜の暗闇に乗じて逃げ出せたところで、騎士たちを撒けるほど速く移動する手段がない。なにより、魔獣を倒した際のティールの身体能力を鑑みるに、イリアが彼から逃げ切れる可能性は限りなく低い。
八方塞がりでどうすることもできずにベッドへ腰掛けると、靴を脱いで膝を抱えた。
(ティールは……ふたりに何を話したのだろうか)
アグスとエフィに本当のことを話したとして、それを信じただろうか。少なくとも、何も話さなかった身寄りのないイリアより、王都の騎士の話の方が、比べるまでもなく信頼性は高い。
ともかく、二人は家から出てこなかった。それが答えということかもしれない。
抑えていた感情が溢れ出して、涙が込み上げてくる。
仕方がないとはいえ、あんなにも優しい人たちに自身を偽り続けたことを、今更になって悔やんだ。もうなにもかも手遅れなのに。
(せめて、今までの感謝を伝えておきたかった)
コンコン、とドアをノックする音が聞こえてイリアは肩を跳ねさせた。
「ティールだ。食事を持ってきた、入るぞ」
慌てて目元を拭いながら抱えていた脚を下ろし、小さく返事をする。
入ってきたティールは、ベッドの脇にある小さなサイドテーブルに、温かいスープと柔らかいパンを乗せたトレーを置いてくれた。
「足りなければ言ってくれ」
「ありがとうございます……」
いい匂いだとは思ったが、食欲がないというイリアの話は本当だった。続く緊張感と疲労で、食事がまともに喉を通る気がしない。
けれどせっかく用意してくれたものを無碍にはできなくて、とりあえずスプーンを手に持った。
「王都までは、早駆けでもあと三日はかかる。明日の朝、この村で足りない物資を調達してからすぐに発つつもりだ」
それは決定事項のように告げられる。有無を言わせずイリアを王都へ連れていくつもりのティールの意志は固く、誰に何を言われてもそれは絶対に変わらない。
「途中、何度か休憩は挟むが、今晩ほどしっかり休めるとは限らない。慣れない移動でつらいだろうが、もう暫く我慢してほしい」
そこで話は途切れた。用を終えて部屋を出るかと思ったが、ティールは突然、イリアの目の前に跪いた。
「休む前に、少し話がしたい。……いいか?」
予想外の行動に驚いたイリアは、見上げるティールを真っ赤な瞳で見つめ返してしまう。
「まずは、彼らから無理矢理引き離してしまったことを謝罪させてほしい。馬車へ強引に乗せてしまったことも」
見る者を惹きつける力強い金色の瞳はあまりに真摯で、紡がれる言葉には心がこもっていた。
「……本当にすまない」
逞しい体格も、低くなった声も、思い出の彼とは違っているのに。
やはりティールは変わっていなかった。イリアが愛した心優しい彼のまま。
「だが、後悔はしていない」
けれど愛する者を突然失った彼の心は、大切なものを再び失うことを恐れるあまり、強引な行動を取らざるを得なかった。
「もう二度と、君を失いたくない」
ティールの切実な言葉に耐えかねたイリアは、顔を逸らしてぎゅっと目を閉じる。その想いが、どんなに嬉しいことかを伝えたい衝動を堪えるように。
「イリア」
名を紡ぐティールの声を、記憶と心に刻む。
いつか再び彼から離れた時に、心の支えにするために。
「何故、なにも話さない」
「騎士様にお話しできるようなことが、私には何もないからです」
「身元を偽るのには理由があるんだろう。俺を頼ってくれ、全てを話してほしい」
「なにも偽ってなどいません」
ティールを真っ直ぐに見据えて話す度胸は、今のイリアにはなかった。余裕のない精神状態でこれ以上詰められたら、感情が爆発してしまいそうになる。
「……泣いていたのか」
不意に手を伸ばしたティールが、ついさっきイリアが擦って赤くなった目元にそっと触れた。
触れられたことに驚いたイリアは、持っていたスプーンをベッドに落とし、顔を青ざめさせて顔を背ける。
「俺に触れられるのは、嫌か」
(違う、そう言いたいのに)
目も髪も変色してしまうほど穢れた身に、高潔な騎士となったティールを触れさせたくない。ただそれだけなのに、イリアは何も言えない。
微かに震える彼女を見て、ティールは行き場のない感情をどうにか抑え込みながら、手を降ろす。
「死んだと思っていた。だけどずっと、諦めらめきれなかった……イリアだけを希望にして、今までなんとか生きてきた」
イリアが解放されたのは、拐われてから三年以上は確実に経ったあとのことだったため、事件が起きた直後からのことを殆ど知らない。
むしろティールとの再会を避けるように王都から離れたイリアに、彼がどんな思いをしてきたのか推し量ることなど、到底できるはずもなかった。
「イリアとこうしてまた会えて、本当に嬉しい」
イリアを驚かせないようにそっと立ち上がったティールは、ベッドに転がったままのスプーンを拾い上げ、トレーに戻す。
「それだけは、知っておいてほしかった」
そう告げるティールの声があまりに切なく、少し震えているような気がした。
「おやすみ、イリア」
ドアが閉まった瞬間、イリアの感情は耐えきれず溢れ出し、思わず枕へ顔を突っ伏した。
泣き声を聞かれないように、誰にも知られてしまわないように。
◇
翌朝、窓からの陽光でイリアは早々に目が醒めた。
いつもと違う場所にいることをすぐに思い出して、ベッドから降りると窓の外を眺める。
当然、目の前に広がるのは見知らぬ光景で、昨日まで過ごしていた小屋を懐かしく思う。エフィとアグスのことを鮮明に思い出して、込み上げる涙で視界がぼやける。
部屋に備え付けの小さな水桶を見つけて、顔を洗うついでに、赤くなった目元を冷やした。焼石に水の状態で、効果はあまり期待できない。
タオルで顔を拭いていたら、控えめなノックの音が静かな部屋に響いた。返事をすると、やはりティールが入ってくる。
「おはよう。早くに起こしてすまない」
「おはようございます……」
もうすでに癖になったように、イリアはさっと顔を俯ける。
けれどティールは彼女の振る舞いを気にとめず、手に持っていたものをベッドに置いた。
「気に入らないかもしれないが、着替えを用意した。遅くなってすまない。あと、何か少しだけでも食べてくれないか」
昨夜と同様にトレーに乗せた食事を持ってきてくれたティールに、イリアは心から申し訳なく思った。
用意してくれた朝食と、ひと口も食べられなかった昨夜の夕食を交換するのを目にして、涙腺が崩壊しそうになる。昨夜、一晩中泣いていたからだろうか。
涙脆くなっている気がする。
「ごめんなさい……残してしまって」
「謝らなくていい。今朝は果物を用意してもらったんだが、食べられそうか」
食欲がないと言ったイリアの言葉を気にしていたのだろう。気遣うティールの気持ちを蔑ろにはできなくて、サイドテーブルのそばにある椅子に腰掛けた。
そこにはイリアが昔からずっと好きな果物が用意されていた。幼少の頃の好みをティールが覚えてくれていたことに気付いて、また涙が込み上げてくる。
「急かすようで悪いが、準備が整ったらすぐにここを出る。また……呼びにくるよ」
そう言って、すぐに部屋を出ていくティールを見送る。
出発の準備と物資の調達で忙しい中、わざわざ会いにきてくれたティールに感謝しながら、用意してくれた果物を口にした。
甘い果汁が口いっぱいに広がって、彼の優しさとともにじんわりと体中に沁み入る。
「……おいしい」
彼への想いを断ち切らなければ。そう思うのに、ティールが用意してくれた服を手に取ったイリアは、そっと抱きしめた。
愛おしく想う心は募っていくばかりで、相反する気持ちに苦しくなる。
彼がくれたものだ。どんなものだって、大切にしたい。
◇
ティールが再びイリアの部屋に訪れたのは、まだ人が少ない時間帯だった。
魔獣討伐に訪れたことは知られているとはいえ、王都の騎士が辺境に近い村にいるのは、どうしたって目立ってしまう。あまり騒がれないうちに村を出たかったのだろう。
ひとけのない場所に移動していた馬車まで歩いていくと、王都への帰還をともにする騎士たちが、既に馬に乗って待っていた。
注目を浴びてしまうのは忍びなく、他の騎士に迷惑をかけてしまうのも本意ではないイリアは、今回は素直に馬車へ乗り込んだ。
またティールとともに過ごすことになるのかと身構えていたら、バタンと目の前で扉を閉められる。
「降りればすぐに気付く」
逃げようとした昨日のイリアを当然覚えているティールは、先に釘を刺した。
「頼むから、無謀なことは考えないでくれ」
心配そうな表情を見せるティールは、それでもイリアを一人にすることを決めた。二人きりでいると、緊張してばかりいるイリアを見ていられなかったからだ。
イリアにとっては慣れない長旅になる。少しでも安らげる方を選んであげたかった。
馬車の前へ移動し、手綱を手にしたティールが仲間に告げる。
「戻ろう、王都へ」




