長すぎた時間
頑なに顔を上げようとしないイリアに痺れを切らしたティールは、頭を下げ続ける彼女の肩をそっと押した。
彼の力には敵わず頭を上げてしまったが、それでも赤い髪で顔を隠すように深く俯く。
「顔を上げて、イリア。俺はティールだ。覚えているだろう」
「申し訳ありませんが、初対面です。どなたかと、思い違いをしていらっしゃるのでしょう」
お互いの存在に確信を持っていることは明らかだった。
それなのにイリアが頑なに認めようとしないことに、ティールが疑問に思わないはずがない。
だからこそ懸命に気遣うように話しかけてくれる彼を拒絶するのは、イリアにとって、心にナイフを突き立てるようなものだった。それでも、どんなにつらくても、嘘をつき通さなければ。
「そのイリアという方を……存じ上げません」
「どうしてそこまで……」
悲痛な面持ちのまま、ティールはそれ以上言葉をなくしてしまう。
そこで馬の駆ける足音が複数聞こえて、イリアはびくりと肩を跳ねさせた。思わず顔を上げてしまい、咄嗟に音の出どころを確認する。
「……心配ない。仲間の団員たちだ」
静かに立ち上がったティールが、手を挙げて合図する。
駆け寄った団員たちが辺りを見渡して現状を把握したらしく、安心したように口々にティールへ話しかけた。
「遅れてすみません。ああ、もう討伐したのですね」
「くそっ、遅かったか。でも怪我がないみたいで安心した」
「しかし、かなりの荒れようだ。魔獣による穢れもひどい。これは後始末が大変そうだ」
それぞれが馬を降りたところで、ティールのそばでふらふらと覚束ない足取りで立ち上がったイリアに気付く。
騎士たちに囲まれて狼狽えるイリアは、それでも決してティールに視線を向けようとはしない。その態度に思うところがあった彼は、この場では問いただすのをやめることにしたらしい。
けれど無理矢理に冷静さを保とうとしているだけで、内心では、激しい感情が燃え盛る炎のように暴れ回っていた。
「すまない。畑や家を壊してしまった」
感情を抑え込もうとするあまり、ティールの声が一段と低くなる。
「騎士様のせいではございません」
遠慮がちに答えながら、イリアは彼の変化に気付かないふりをした。
感情を抑えて、彼に関心など一切ないように振る舞う。
「向こうに見えるふたりは、君の知り合いか」
ティールの言葉で、不安そうな面持ちで家から出て来たアグスとエフィに気付く。心配そうに互いに寄り添いながら、こちらの様子を伺っている。
美しい庭や丹精込めて造られていた畑が踏み荒らされている様を目にして、ショックを受けているようだった。
「両親です」
それは完全な嘘ではない。イリアにとっては両親とも言える大切な存在だ。間違いではない。
(ああ……今すぐふたりのもとへ行って抱きしめたい)
けれど足がすくんで動かない。怪我もなく無事で本当に良かったと安堵しながらも、心はずっとざわついていた。
この場を穏便に済ませて、騎士団一行にはすぐにでも帰還してもらいたい。しかし魔獣に荒らされた惨状を目の前にすれば、そうも言っていられなかった。
魔獣の通ったあとは穢れが残りやすい。
穢れた大地は植物が育ちにくく、アグスとエフィにとって日々の生活の糧でもある畑は、今のままではきっと回復の見込みはない。
だがイリアにはどうすることもできない。救ってくれた彼らに、なにもしてあげられない。無力な己に打ちひしがれていると、ティールが他の団員に指示を出し始めた。
「こちらへ来たばかりで悪いが、先ほどの村へ戻って、魔獣を討伐したことを村長に伝えてほしい」
「わかりました」
「それと、村に馬車があったはずだ。これで一台、借りてきてほしい」
ティールが胸元を探って、馬車一台を借りるには多過ぎるだろう額の金貨を団員に渡す。
「何か入り用でも?」
「彼女を、王都へ連れ帰る」
それを聞いたイリアは、慌てて声を上げた。
「ま、待ってください! そんな……困ります!」
ようやく真っ直ぐ顔を見たイリアを、ティールは見計らったようにじっと見つめ返した。
何もかもを見透かすような鋭い金眼と目が合って、はっとしたイリアはすぐに顔を逸らす。
「ティール、こちらの女性は?」
騎士団のひとりが、あとから来た団員たちが気になっていたであろう疑問を口にする。
どこか違和感のある二人のやりとりに加えて、不自然なまでによそよそしい彼女の態度は、気にするなという方が無理な話だった。
「彼女は、イリア・ネルロウだ」
団員たちの、息をのむ音がはっきり聞こえた。それほどまでに衝撃的なことなのだろうと察する。
彼らは知っていた。数年前に攫われて行方不明になった聖女のことを。
「違います! 私は……っ」
「キーリ、彼女を見ていてくれ。俺はあちらにいる老夫婦と話をしてくる。今後のことを伝えておきたい」
イリアの言葉をあえて無視したティールは、村への帰路を辿る団員のひとりを見届けながら、淡々と指示を出して背を向ける。
指示を受けて頷いたキーリは、それ以上は事情を聞かずにイリアの隣にすっと立つ。「ここにいてください」と制止するように告げて、彼女の前に腕を差し出した。
口調は穏やかだが、有無を言わせない厳格で毅然とした態度は、とても騎士らしい。
国の中心部である王都から直々に派遣された騎士団というのは、その実力も公に認められており、彼らの命令に従わないことは、事によってはそれ自体が罪になることもある。
清廉な騎士であると評判の彼らが、理不尽に理由を付けて罪を背負わせるようなことはないだろうが、平民であるイリアが騎士である彼らの指示には従うべきというのは、世間での一般常識だった。
真面目を体現したようにブロンドの髪をきっちり纏めたキーリは、イリアが無闇に動こうとしないこと悟って、後ろに手を組んで直立不動の姿勢をとる。
アグスとエフィのもとへ着いたティールは、ひどく不安げに狼狽える彼らとともに、家の中へ入ってしまった。
何を話すのか気になって仕方がないイリアの後ろで、待機している団員の話し声が聞こえてくる。
「本当に、彼女が行方不明と聞いていた幼馴染か?」
「しかし、容姿が聞いていたのとは違うような……髪がまるで、血の色だ」
ざわりと胸が昏く騒つく。その瞬間、襲いくる強烈な衝動。
王都には戻れない。ティールのそばにいてはいけない。
微動だにせず真っ直ぐ前を見据えて立つキーリを横目に、イリアは静かに後退ろうとした。が、すぐに何かにぶつかってしまう。
「どこへ行くんだ?」
「わっ……私、きっと人違いをされています。だから……っ」
後ろにはティールと同じくらい恰幅のある騎士が立っていた。どうやら彼にぶつかったらしい。よろけたイリアを支えて、さっと手を離す。
その様子を見ても、やはり後ろに手を組んだまま微動だにしないキーリが、イリアをそっと嗜めた。
「団長の命令です。ここに居て頂かなければ」
「そうそう。あの人、怒ると恐いんだから」
「クリス、余計なことは言わないように」
軽口を言う仲間の男に、キーリはやれやれと首を振る。
厳格なイメージの騎士とは裏腹に、親しげな印象を抱いたイリアだったが、だからといって気持ちが変わるわけではない。
けれど騎士に囲まれたこの状況で身を隠すのは、どう考えても不可能だ。結局、イリアはその場から動けないまま、今にも心臓が飛び出しそうな思いを長く続けていた。
そらからどれほどの時間が経っただろうか。日が暮れて、辺りが茜色に染まり始めた頃。
話を終えたティールが老夫婦の家から出てきたのと、馬車を用意した騎士が、村の護衛に残った仲間とともに戻ったのはほとんど同じタイミングだった。
イリアは更に増えた団員たちに囲まれたまま、戻ってきたティールの指示を聞くことになる。
「俺とキーリ、ヘクターとクリスは先に帰還する。王都へ着いてすぐにこちらへ追加の支援を送るが、それまでは、今出来る限りの手を尽くしてほしい」
戦闘特化の騎士であるティールを含めた四人は、新たな有事に備えて先に帰還することに決めたようだった。
その他の団員はここに残って、魔獣が荒らした場所の片付けや処理をするという。聖女が施す穢れの浄化とは違い、かなりの時間を要してしまうものの、穢れの除去魔術を使えるという団員たちは、早速作業に取り掛かり始めた。
その間に馬車がイリアの近くに用意され、すぐにでもここを発つ準備が整えられる。
窓のない簡素な馬車を操縦しているのはキーリだ。そばを通る時にイリアを一瞥した彼は、すぐにティールへ視線を移した。
「僕はこのまま前にいますが、よろしいですか?」
「頼む。少し先にはなるが、ここへ来る前に泊まった宿屋へ向かってくれ」
ティールが大事に想っていた幼馴染の聖女が攫われたことを知っている団員たちは、それとなく彼らの動向を見守っていた。
何故、感動の再会と言ってもいいはずの状況で、こんなにも重苦しい雰囲気が漂っているのか理解できないまま。
それはきっと、ティールも同じなのだろう。
むしろイリアはそれを望んで、愛想を尽かしてほしいとさえ考えていた。
「乗って」
けれどティールの目的は変わることなく、イリアの目の前に用意された馬車のドアを開ける。
イリアは首を横に振って後退った。
(絶対に行けない。王都へ戻ってしまったら、もう後戻りできなくなる)
名を偽り、将来を誓い合った幼馴染を知らないふりをし、あまつさえ他人行儀な態度のイリアのことを、ティールはそれでも王都へ連れ帰りたいと思っているのだろうか。
「君の……両親だという老夫婦と、話をした」
どこか含みのある言い方だったが、反応しないように努めるので精一杯だった。
ここに留まる正当な理由を考えて、すぐに言葉を返せるよう構える。
「彼らには、君に関する決定権はなにもない」
「私の家はここです。それに、私が王都へ行かなければならない理由がありません」
片腕をぎゅっと握りしめる。爪を立てて、感情を乱さないように痛みで気を紛らせる。
「私には、なにもないのです」
(幼い頃に誓った約束を果たせなくなった、無力な私には……もうなにも)
その時、沈黙を破るように小さな悲鳴が上がる。頑なに動かないイリアを、ティールが抱き上げたからだった。
そのまま有無を言わせずイリアごと馬車に乗ったティールは、ドアを閉めて言い放つ。
「出してくれ」
発進の合図を聞いたキーリが、すぐに馬車を走らせる。
あまりに強引なやり方に驚いている間もなく、みるみるうちに遠ざかる茜色の山々を、窓のないドアから愕然と眺める。
離れゆくちいさな家の窓に、エフィとアグスが見えた気がした。
「お願いです! 降ろしてください……!」
「あの夫婦を両親と言っていたが、ふたりから、君とは血縁関係はないと聞いた」
誤魔化せない。二人から何をどこまで聞いたのかわからない以上、下手なことも言えない。
手が、震えている。恐ろしい。全てを知られることが。
「ふたりは身寄りのない私を、育ててくださったのです」
「確かに、君を本当の娘のように想っていると言っていた。連れて行かないでほしいとも」
ついに涙が溢れた。あれほど優しくしてくれたのに、なにも返せなかった無力さで。
それでもなんとか気付かれないように、ティールから顔を逸らす。
「私も同じ気持ちです。不躾なのは百も承知承知ですが、どうか降ろしてください。王都へ連れられたところで、私にはなんの価値もありません」
それを聞いたティールの、息をのむ音を聞いた気がする。
馬車の駆ける音に掻き消されたのかもしれないが、その後に訪れる沈黙は、イリアを酷く怯えさせた。
「……それで」
唸るような声音だった。何かを許せないような、爆発寸前の感情を抑え込むような、そんな声。
「他に言うことはないか」
窓のないドアに体を寄せて、走る馬車から今にも飛び出したいイリアの気持ちを見透かしたように、ティールが彼女の細い腰に腕をまわす。
「イリア……」
大切にしまっておいた思い出の中の彼の声より、ずっと低い。体も随分逞しくなった。
きっと他にも、イリアの知らないティールがたくさんあるのだろう。
(私も変わってしまった。ティールの知っているイリアはもう、どこにもいない)
「俺を見てくれ」
「……っ」
手の震えを抑え込むように、爪が食い込むほど強く両手を握りしめる。彼に応えたい気持ちを必死に堪えるために。
「ここからでも徒歩で帰ります。お願いです、降ろして……っ」
必死の思いで懇願する。
聞いてくれないことは承知の上だった。それならばと、馬車のドアに手をかけた。しかし取っ手を掴んでも開かない。ロックされている。窓がないなら、飛び降りればいい。
先を急がせているのか、馬車はかなりの速さで走っている。今飛び降りたらきっと頭を強く打ちつけてしまうだろう。それでも構わない。
もっと前にそうすべきだった。早々に死を選んでおけば、こんなことには——
「どうして……なにがあった、教えてくれイリア……っ」
「——!」
後ろからきつく抱きしめられる。
抑えていた感情を爆発させたように縋りつくティールの声は、まるで泣いているかのように震えている。
慰めたい。安心させたい。抱きしめ返して、本当のことを全て話してしまいたい。
けれどそんなことをすれば、全て無駄になる。
七年という歳月は、互いにとって長すぎた。




