偽りの名
——イリアが十歳の誕生日を迎える数日前。
剣術の稽古を終えてからティールと会う約束をしていたイリアは、待ちきれずに聖堂の入り口の手前でそわそわしていた。
本当はフローガー邸へ行って少しでも早く会いたかったが、稽古が終わるのは夕暮れ近いこともあり、黄昏時の一人歩きは危ないからと、ティールに強く言い含められていた。
まだ幼いながらもイリアを一人の女性として見ていたティールにとって、たとえここが王都の中心地で、歴史的にも最強と名高い騎士が住むフローガー邸の近くであっても、少しでも不安になるような要素は取り除いておきたかったのだ。
ティールの説得を聞いて律儀に聖堂から出ずに待っていたイリアは、今か今かと待ち人が来るであろう方向を、背伸びして眺めていた。
そこで突然、ガシャン! と何かがが割れる音が聖堂の敷地内に響いた。
驚いて何事かと振り返ったが、そこには誰も見当たらない。
用事で司祭が不在なのは知っていたが、聖堂の宿舎に住んでいる他の子どもたちの姿も見えない。
隠れんぼでもしているのだろうかと思ったが、やけに静かな敷地内に気付いて、肌がぴりぴりと粟立った。
イリアたちの面倒を見てくれている修道女の姿もないことを不審に思い、念の為、外から人を呼んでこようと後退り——唐突に視界を奪われた。
背後から大きな布袋を被せられたイリアは慌てて叫び声を上げたが、すぐに布の上から口を塞がれ、乱暴に担がれてしまう。
真っ暗で身動きも取れず錯乱状態の中、長時間の移動を強制され——その後、数年に渡ってどこかに軟禁されることとなった。
攫われたという事実を到底受け入れられず、誰に攫われたのかも、その目的も、場所もわからないまま。
常に薄暗く、空気も澱んで息をするのも苦しいような、鬱屈としたところだった。
聖女にとっては致命的ともいえる、惨たらしく命を奪われた人々や魔獣の血に染まる、汚染された水に長期間浸されて。
イリアは穢されてしまった。
美しい白銀の髪と澄んだ碧い瞳が、血の色のように濃い赤に染まるほどに。
——そうしてイリアが十四の歳を迎える頃。
再び目隠しをされてどこかへ連れ出され、軟禁生活は突然終わりを迎えた。
見知らぬ山道へ解放されたが、王都に戻るという考えは最初からなかった。
穢れてしまった身では……とても戻れなかったのだ。
なんとか王都から離れようと飲まず食わずのまま、ひたすら徒歩で南下し続けたイリアは、当然ながら三日と持たず力尽きた。
軟禁されていた間、最低限の食事は与えられていたが、最悪の環境で食事がまともに喉を通るはずもなく、イリアの体力は歩くのもやっとなほど落ちきっていた。
しかし幸運なことに、偶然近くを通り掛かった老夫婦に助けられて生き延びることができた。
それから三年が経ち——イリアは十七歳の歳を迎えた。
王国から南の辺境にほど近い場所に住む老夫婦に小屋を借り、そこで平穏な暮らしを送っていた。
「エマ、この近くに王都から直々に騎士様が来られるそうよ」
「王都から……?」
キッチンに採れたての野菜を盛った籠を置いて、エマと呼ばれた女性が振り返る。
エマ——イリア・ネルロウは、別人として慎ましく暮らしていた。
身寄りのない瀕死の彼女を助け、住むための場所まで提供してくれた老夫婦、主人であるアグスとその妻エフィは、とても心優しい人たちだった。
「ここから少し離れてはいるようだが……村近くの山中に魔獣が出たと聞いただろう。王都の名高い騎士団が、討伐しに来て下さるみたいだな」
椅子にゆったりと腰掛けていたアグスが、魔獣が出たという山の方を指差す。
「おそらく馬に乗って来られるのだろうが、山の中には連れて行けないだろうし、この辺りに馬を待たせるしかないだろうなあ」
「でも、ここは王都からとても離れているのに、どうして」
王都は国の中心から北寄りに位置しているが、ここは国内でも南に近い辺境の地だ。わざわざ王都から騎士が派遣されるなんて、そんなことがあるのだろうか。
エフィも同じことを考えたらしい。不安げに胸元で手をぎゅっと握りしめている。
「近くの討伐隊では手に負えなかったのかしら……心配だわ」
彼女の言うように、通常であれば近くに配属されている地方の討伐隊が派遣されるはずだ。
もちろん、危険な魔獣を討伐してくれるのはとてもありがたいことではある。けれどイリアには、何よりも気掛かりなことがあった。
(村に留まるのか、それとも……ここまで来るのだろうか)
「あの……それはいつ頃のことかわかりますか?」
真っ白な口髭をたっぷり蓄えたアグスが無意識にそれを撫でつけ、小さく唸りながら思い出そうとした。
「確か、昨日村に行った時に聞いた話だと、おそらく今日あたりには来るのではないかな」
「今日……?」
「どうしたの、エマ」
繕う余裕をなくして表情を強張らせたのを見たエフィが、イリアの肩にそっと手を添える。
アグスはもちろんのこと、エフィもまた、イリアのことを本当の娘のように気にかけていた。
「用事を思い出して……今から、村へ出かけてきます」
そう告げたイリアだったが、村へ行く気はなかった。魔獣が出たという場所を避けて、更に南へ向かうことを考えていた。
けれど彼女の急な話に、夫婦揃って心配そうな表情を浮かべる。
「今から? でも、もう少しで夕暮れよ」
「この辺は長閑な場所だが、魔獣が出たと聞いてはなぁ。わしが村まで送ろう」
「おじいさまは休んでいてくださいな。腰を痛めたばかりなのですから」
アグスのそばに寄り添い、皺の刻まれた優しい無骨な手を握る。エフィにも微笑みかけて、二人をなんとか安心させようとした。
「それに魔獣は夜に出やすいと聞きますし、まだ外は明るいです。今から出れば暗くなる前には村に着きます」
三人が住む場所は、村外れの山の麓にほど近い。
歩いて行ける距離とはいえ、今から村へ行って戻るとなれば流石に外も暗くなっているだろう。それはイリアにもわかっていた。
「今日は村の宿に泊まりますから、心配しないで。用を済ませたら、明るいうちに戻ってきます」
エフィとアグスは揃って不安げに顔を見合わせる。けれどそれ以上、強く引き止めようとはしなかった。
二人の贔屓目をのぞいても、イリアは見目麗しく、老若男女問わず惹きつけるような独特な雰囲気を纏っている。
村に行けば同じ年頃の男に声を掛けられることも多かった。誰か気の合う者と出会い添い遂げ、幸せな家庭を築いてほしいと願うこともあったが、今のところその兆しは見られない。
夫婦の管理する畑の作業や水仕事も嫌な顔ひとつせず手伝い、何事も要領よくこなして、日常生活でも頼りになるほどしっかりと自立している。美しい場所ではあるが、不便も多い辺鄙な田舎に身を置かせ続けるには、あまりに勿体無いと思うこともあった。
だからこそイリアを引き止める理由はなく、なによりもまず、本人の意思を尊重していたかったのだ。
それは出会ったばかりの心身ともに痛ましいイリアの姿が、目に焼き付いて離れないことも大きな要因だった。
瀕死の状態にまで至っていたわけをイリアは話せないでいたが、アグスとエフィもまた、聞くことができないまま今日まで至っていた。
根掘り葉掘り聞くのは酷いことだと思わせてしまうほどに弱り果て痩せ細った姿を、三年経った今でも鮮明に思い出してしまい、いまだに心を痛めている。
二人の手厚い看病と無償の愛情を受けてようやく回復したように見えてはいたが、口にするのも憚れるほどの惨たらしい軟禁生活は、イリアにとって思い出すことも苦痛だった。
過去を話せないことを気に病む代わりに、アグスとエフィにもらった愛情を、日々の平穏な暮らしの中で返すことに尽くしていたかった。
けれど、今回ばかりは例外だ。
時間が経ちすぎていた今では、離れた王都の現在の状況を把握しておらず、詳細な情報を得るにも、辺境の地であるここでは難しい。そのため、派遣される騎士団がどこの誰かもわからないが、念のためにここから離れておきたかった。
(たとえ、彼が私を忘れていたとしても)
優しい二人の気遣いを無碍にするのは心苦しかったが、少なくともイリアがいないことで迷惑をかけてしまうようなことはないだろう。
彼らを納得させられたとは思ってはいなかったが、半ば強引に話をつけるようにして、無理矢理にでも平静を装いながら外へ出た。
ふたりから借りて暮らしている小屋へ戻って、必要最低限のものだけを持って再び外へ出たイリアは、ひとまず村へ向かう道を出ることにした。
そこから南へ向かうために途中で道を外れて歩いていくつもりだったが、ひとつ懸念していることがあった。
ここを離れたら、魔獣を討伐し終えて騎士団が去ったことを知る手段がなくなってしまう。
ただ、地方の討伐隊より手練れであるはずの王都の騎士団が今日にも訪れるというのであれば、そこまで時間はかからないはずだ。
あくまで希望的観測ではあるが、あまり時間がかからないことを祈るしかない。
イリアが村へ向かう道へ進もうとした——その時。
山の方から、地鳴りのような音が響き渡った。
脳を直に揺さぶるような、耳をつんざく禍々しい声。それは明らかに魔獣の咆哮だった。
同時に、足元から伝わる振動がみるみるうちに近付いてきて、それはあっという間に姿を現した。
「あっ……!」
大きな木を薙ぎ倒して麓から駆け降りてきた魔獣を、イリアはただ茫然と見上げるしかない。
確かに、地方の討伐隊では手に負えない。
そう思わせるほど禍々しい魔力を纏う巨体が、美しいこの辺境の大地を踏みしめ、辺り一帯を穢していた。




