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第2話 反撃開始! 逃げ道ゼロの完璧な慰謝料請求

「――さあ、正当な賠償交渉を始めましょうか」


 夜会を彩る絢爛なシャンデリアの下、ルチアの涼やかな声音が響き渡った。

 その一言は、数秒前まで大広間を支配していた「悲劇のヒロインを虐げた悪役令嬢への断罪」という安っぽい三文芝居の空気を、根底から叩き割った。


 つい先程まで、この場の誰もが疑っていなかったはずだ。王太子ユリウスと男爵令嬢ミアこそが真実の愛を勝ち取る主役であり、公爵令嬢ルチアは惨めに泣き崩れるしかない敗者なのだと。


 だが今、広間の中央で分厚い婚約契約書を手に、一分の隙もない完璧な笑みを浮かべているのはルチアの方である。

 対するユリウスは、王太子としての威厳を辛うじて保とうと顎を上げているものの、そのサファイアの瞳には明らかな狼狽と混乱が渦巻いていた。


「ば、馬鹿を言うな!」


 静寂を破ったのは、ひっくり返りそうなユリウスの怒声だった。

 無理に張り上げた声は大広間に響いたが、先程までのような圧倒的な支配力はない。むしろ、想定外の反撃にパニックを起こした子供の癇癪のように響いた。


「慰謝料だと? そんなもの、貴様に支払う理由などあるものか! 私はこの国の王太子だぞ! 気に食わぬ女との婚約を破棄する権利くらい持っている!」


(出たわね、『俺は偉いんだから法律なんて関係ない』理論。典型的なモラハラ気質の債務者が最初に口にするお決まりのセリフよ)

 ルチアは内心で呆れ返りながらも、表情には一切出さない。あくまで聞き分けのない依頼人に基本から説明してやる弁護士のように、優雅に小首を傾げた。


「ええ。婚約を破棄する自由そのものは、当然否定いたしませんわ」

「ふん、ならば――」

「ただし、それは『正規の手続き』を踏んだ場合に限ります」


 ぴしゃり、と。ルチアの言葉がユリウスの安堵を切り捨てる。


「契約の解除には、正当な事由、双方の合意、あるいは契約書に定められた解除条項への該当が必要です。感情に任せて大勢の前で『破棄する!』と叫べば、魔法のように成立するというものではございませんわ」

「う、うるさい! お前にはミアを陰湿に虐げた罪があるではないか! それが正当な事由だ!」

「では、その『罪』とやらの具体的事実をご提示いただけますか?」


 ルチアの返しは、瞬きする間もないほど早かった。

 ユリウスが言葉に詰まる。ルチアはその一瞬の空白すら見逃さない。


「いつ、どこで、誰の前で、私が何をしたのか。客観的な証人はどなたで、物証はございますか? まさかとは思いますが、被害を訴えるご本人の『曖昧な申告』と『涙』だけで、王家が結んだ正式な婚約者を公衆の面前で断罪なさったわけではありませんわよね?」


 言葉の刃が、淡々と、しかし容赦なく王太子の急所へ突き立てられていく。

 貴族たちの間に、ざわめきが広がった。たしかに、先程までの空気に呑まれていたが、ユリウスは何ひとつ具体的な証拠を示していない。


 分が悪いと察したミアが、びくりと肩を震わせ、庇護欲を誘うようにユリウスの袖をきゅっと掴んだ。


「わ、わたくし……っ。ルチア様に、何度も怖い目に遭わされました……。お茶会でも、学園でも、いつも冷たい言葉を投げつけられて……っ」

「冷たい言葉、ですか」


 ルチアはひどく冷ややかな目で、涙ぐむ男爵令嬢を見下ろした。


「たとえば、『王城内では私語を慎みなさい』『茶器は音を立てずに置きなさい』『王太子殿下に許可なく腕を絡めるのは淑女の礼を欠きます』――そのあたりでしょうか?」


 ミアの顔が引き攣る。図星だったらしい。


「そ、それは……」

「すべて、次期王妃の側近候補としての『教育の一環』として申し上げたことですわ。注意の際には毎回、同席していた侍女長や礼法教師の立ち会いもございました。もちろん、記録も残っております」


「記録……?」


 誰かが思わず呟く。

 ルチアはにこりともせず、床に積み上げられた書類の山から別の一冊を取り出した。今度は青い革表紙の薄冊子だった。金文字で『王太子妃教育補助記録』と記されている。


「王城での礼法指導、同席者名、注意内容、指導日時。すべて詳細に記録済みですわ。私、仕事は丁寧な方ですの」


 その瞬間、何人かの貴婦人が扇の陰で息を呑んだ。

 つまり、ミアの訴えは「被害者の涙」だけでは通らない。客観的記録という、絶対的な証拠と照合されるのだ。


(『言った・言わない』の泥仕合に持ち込もうなんて甘すぎるのよ。こちとら証拠保全は弁護士の基本中の基本。相手が泣き落としで来る想定なんて、百手先まで読んでるわ)


 ユリウスの額に、うっすらと脂汗が浮かび始めた。


「そ、それでもだ!」


 論理で勝てないと悟ったユリウスは、追い詰められたようにさらに声を張り上げた。ゴールポストの移動である。


「私はミアを愛している! 愛する者を守るために婚約を破棄した! 真実の愛の前に、くだらん紙切れなど無意味だ!」

「愛を理由に契約違反が免責される条文は、この国の法体系には存在いたしませんわね」


 あまりにもあっさりと切って捨てられ、ユリウスの顔面が痙攣した。

 ルチアは婚約契約書を開いたまま、広間の隅々にまで届くよく透る声で告げる。もう誰も、この場をただの夜会とは思っていない。これは実質的な『公開裁判』だった。


「本契約第七条。『王家または公爵家のいずれか一方が、正当な事由なく婚約を解除した場合、解除を申し出た側は相手方の名誉失墜および将来設計の変更に対する補填として、相当額の賠償責任を負う』。――王太子殿下が本日この場で一方的に婚約の破棄を宣言された以上、この違約条項は当然に発動いたします」

「そ、そんな条項、私は知らんぞ!」

「署名済みの契約書に対して『知らなかった』は、法的には極めて弱い抗弁ですわね」


 広間のあちこちから、くすり、と堪えきれない失笑が漏れた。

 王太子の顔が、茹で上がったように真っ赤に染まる。だが、そこで口を噤めばよかったものを、彼は弁護士相手に絶対やってはいけない「最悪の悪手(自爆)」に踏み切った。


「だいたい、不貞などと勝手に決めつけるな! 私とミアはまだ清らかな関係だ! やましいことなど何一つない!」

「あら」


 ルチアは初めて、本当に楽しげに目を細めた。

(自分から地雷を踏み抜いてくれるなんて。なんて手のかからない債務者なのかしら!)


「では、昨月二十三日、城外南庭園の東屋で日没後にお二人きりでお過ごしになった件は?」

「な……っ」

「同月二十七日、王立歌劇場の特別席にて、婚約者である私ではなくミア様を同伴なさった件は?」

「そ、それは……!」

「さらに今月三日、離宮二番棟の温室で、侍女を下がらせたうえで『君こそ僕の未来の妃だ』と囁きながら抱きしめていらした件については、いかが説明なさいます?」


 ひっ、とミアの喉から小さな悲鳴が漏れた。

 ユリウスは完全に絶句した。顔色が赤から白へ、そして土気色へと忙しく変わっていく。


「証拠もなく申しているとお思いで?」

「ま、まさか……」

「もちろん、すべて揃っておりますわ」


 ルチアは今度は、魔法鞄から薄茶色の封筒を取り出した。中から現れたのは、分厚い束になった調査報告書と、小型の魔導具が埋め込まれた透明な水晶板だった。


「こちらは、王都でも腕利きと評判の調査士に依頼していた『行動記録書』。加えて、離宮の一部区画に設置されている記録水晶の複写ですわ」

「ちょ、調査士だと……!?」

「ええ。婚約者がここ数か月あまりにもお忙しそうでしたので、激務で健康でも害されているのではないかと案じまして。護衛も兼ねて、こっそりと素行を……いえ、お見守りさせていただいておりましたの」


 言葉だけ聞けば慎み深い婚約者の気遣いだが、実態は「プロの探偵を雇った完璧な浮気調査」である。

 ルチアが水晶板に魔力を通すと、空中に淡い映像が浮かび上がった。東屋で身を寄せ合う男女の影。歌劇場で親しげに囁き合う姿。温室で抱き合う決定的な瞬間。


「こ、これは……」

「王太子殿下と、男爵令嬢ではないか」

「しかもあんな密室で……」


 動かぬ証拠の連続投下に、ざわめきが一段と大きくなる。ミアの膝がガクガクと震え、ユリウスの口元がわななう。


「婚約期間中において、将来の配偶者に対する『誠実義務』は当然に発生いたします。肉体関係の有無のみをもって不貞を判断するのは、下級裁判所の古い実務ですわ。近年の判例では、婚約関係の破綻を招くほど親密な交際事実が継続的に認められた場合、慰謝料請求は十分成立いたしますのよ」


 流れるような判例解説。

(ええ、前世の日本でも『肉体関係はないから浮気じゃない』と言い張る不倫夫は星の数ほどいたけれど、親密なメールやデートの反復継続だけで十分不法行為は認定されるのよ。甘く見ないことね)


「つ、つまり……私が悪いと、そう言いたいのか!」


 ようやく絞り出したユリウスの声には、怒りよりも濃い絶望が混じっていた。その問いに、ルチアはにっこりと微笑んで首を横に振る。


「いいえ。言いたいのではなく、『客観的に立証した』のですわ」


 びしり、と。その一言が広間の空気を凍らせた。


「そして最後に、第三の請求原因。公衆の面前での名誉毀損についてです」


 ルチアは視線をゆるやかに巡らせた。王族、宰相、将軍、各家の当主。この国を動かすトップ層のすべてが、今や固唾を呑んでルチアの言葉を待っている。全員が、この裁判の証人だ。


「殿下は先程、私を『悪逆非道』『冷酷で血も涙もない女』と断定し、事実無根の嫌がらせをでっち上げました。建国記念の夜会という公的性質を帯びた社交の場において、公爵家令嬢たる私の名誉を失墜させた影響は甚大。家格評価、将来の縁談、すべてに重大な損害が生じます」


 逃げ道を完全にコンクリートで塞ぐように、論理が積み上がる。


「精神的苦痛、社会的信用の低下、婚約破棄に伴う将来設計の変更、ならびに不貞行為に起因する慰謝料――以上を総合的に勘案したうえで」


 ルチアは、床に広げた書類群の中から、最後の一枚を引き抜いた。

 そこには、あらかじめ美しい筆跡で算定された数字が記されている。


「本件の請求額はこちらになります」


 ひらり、と掲げられた羊皮紙。

 そこに並んだゼロの桁数を見た瞬間、最前列にいた財務卿の目が飛び出さんばかりに見開かれた。


「なっ……!?」

「こ、この額は……桁が違うぞ!」

「王太子の個人資産をすべて売却しても足りるかどうか……!」


 悲鳴に近いどよめきが爆発する。

 無理もない。ルチアが提示したのは、王太子のポケットマネーでどうにかなる額ではなかった。王室の予算すら揺るがしかねない、国家規模の賠償額である。


 だが、ルチアの表情は涼しいままだ。

 当然である。過去の賠償事例、身分差、公開性、不貞の悪質性、将来の不利益――すべてを冷徹に計算し尽くした、極めて妥当かつ戦略的な数字なのだから。


「殿下の立場と本件の極めて高い公開性を踏まえれば、むしろ控えめですわ。初回提示ですので、交渉の余地を残した『温情価格』にしておきましたの」


 温情価格。

 その一言に、ついに何人かの貴族が扇の裏で噴き出した。王太子を相手に、ここまで容赦なくむしり取ろうとする令嬢など、建国以来初めてだろう。


「ふ、ふざけるな! こんな法外な額、認められるはずがないだろうが!」

「あら。認めるか否かは、最終的には監査局および王室裁判所の判断ですわね。もっとも――」


 ルチアはパチンと扇を閉じ、悪魔のように美しい笑みを浮かべた。


「正式な照会と資産保全の事前相談は、王室法務局と監査局に『先月の時点』で済ませておりますけれど」


 一瞬。

 大広間の時間が、完全に停止した。


「……は?」

「ですから。本件のような不測の事態が起こり得る可能性を想定し、婚約契約書、礼法記録、浮気調査の証拠映像の保全について、関係各所にはすでに根回し済みですの」


 ユリウスの顔が、文字通り石像のように凍りついた。

 勝つ交渉というのは、口論の場で始まるものではない。水面下の準備が八割。証拠を集め、論点を整理し、逃げ道を塞ぎ、公権力に唾をつけておく。あとは、相手が自爆するのを待つだけだ。


「さて、殿下」


 ルチアは、もはや哀れな債務者でしかない元婚約者をまっすぐに見据えた。


「まずは本請求を任意にお認めになりますか? それとも、ただちに訴訟提起と『全個人資産の差し押さえ申立て』に移行いたしましょうか」


 選択肢の形をとった、絶対的な最後通告。

 ユリウスはガチガチと歯の根を鳴らし、ミアはついに腰を抜かして床にへたり込んだ。


「ご安心くださいませ」


 ルチアは優雅にカーテシーの姿勢をとる。


「分割払いのご相談にも、法的には応じられますわよ?」


 その血も涙もない優雅な追撃に、広間が震え上がった直後。

 王城の大扉の向こうから、ガシャッ、ガシャッ、と重々しい金属音と足音が響き始めた。


 大広間の扉が乱暴に開け放たれる。

 そこに現れたのは、令状を手にした王室監査局の執行官と、完全武装の近衛兵の小隊だった。


 ルチアは静かに目を細める。

(さあ、合法的な身ぐるみ剥がしの時間よ)



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断罪当日に記憶戻ったのに、いつ、用意したんだろう…計算式も
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