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第3話 王室法の盲点と決定的な一撃〜「俺は王族だ」は免罪符になりません〜

 重厚な王城の大広間の扉が、ギーッと重苦しい音を立てて開かれた。


 その向こうから現れたのは、華やかな夜会にはおよそ不釣り合いな一団だった。

 揃いの濃紺の礼装に身を包み、胸元には『公平と厳格』を象徴する銀の秤の徽章。彼らは儀礼用の剣すら佩いていない。代わりに手にしているのは、分厚い書類鞄と、何重にも魔術結界が施された封印箱だ。


 王家直属・監査局。

 彼らは剣で人を斬らない。だが、法と記録でもって、どれほど高位の貴族であろうとその財と地位を容赦なく切り刻む。王都の上流階級において、もっとも敵に回したくない「合法的処刑人」たちだった。


 先頭に立つ初老の男が、靴音も立てずに広間の中央まで進み出ると、一糸乱れぬ動作で深く一礼した。

 鷹のように鋭い灰色の瞳が、この場にいる全員を等しく、そして冷徹に検分していく。


「王家監査局・特別査察官、ベルナルド・エーヴェルスにございます。本日付で受理された『王家・クライス公爵家間における婚約契約紛争』の仮保全申請につき、状況確認ならびに執行準備のため参上いたしました」


 その声音は低く、抑揚のない事務的なものだった。

 だからこそ、その一言が持つ暴力的なまでの現実味は凄まじかった。


 ざわっ、と大広間が大きくどよめく。


「か、仮保全申請だと……!?」

「では、本当に事前に……」

「まさか、建国記念の夜会に監査局を乗り込ませたというのか……あの令嬢は!」


 貴族たちの驚愕の中心で、ユリウスの顔は死人のように真っ白に抜け落ちていた。

 対してルチアは、まるで事前にアポイントメントを取っていた来客を応接室で迎えるかのような落ち着き払いようで、優雅にスカートの裾を摘まんで完璧なカーテシー(挨拶)を披露した。


「夜会の最中にもかかわらず、迅速にご足労いただき恐れ入りますわ、ベルナルド査察官」

「公爵令嬢。事案の緊急性、ならびに『資産隠匿のおそれあり』との事前申告がございましたので。職務を遂行するまでです」

「頼もしい限りですわ。よろしくお願いいたします」


 完璧な応酬だった。

 そこにあるのは、感情に振り回される貴族たちの痴話喧嘩ではない。申立人(弁護士)と公的執行機関(裁判所)との間で交わされる、極めてドライで実務的な会話の温度感だった。

(ああ、この事務的なやり取り……落ち着くわ。やっぱり話の通じる実務家相手が一番ね)

 ルチアは内心で、前世で裁判所の書記官と打ち合わせをしていた頃の安心感を覚えながら、ほっと息をついた。


 だが、蚊帳の外に置かれたユリウスが、ついに我に返ったように金切り声を上げた。


「ま、待て! 何の権限があって、このような無礼を! 私はこの国の王太子だぞ! 監査局の分際で、私を罪人扱いする気か!」


 そのヒステリックな怒鳴り声にも、歴戦の監査官であるベルナルドは眉ひとつ動かさない。


「存じております、ユリウス殿下。ゆえにこそ、本件は『王室法第十二章第三節』、および『附属私契約執行規定』に基づき、慎重な確認が必要と判断されたのです」


「…………は?」

「王族であっても、私的契約の当事者たる地位において締結した義務については、王家の公財とは切り分けて審査されます」


 静かに告げられたその一文に、広間の空気がピキリと凍りついた。

 年長の貴族たち、特に法務や財務に関わる官僚たちの何人かが、はっとしたように目を見開く。王室法の条文に詳しい者ほど、その恐るべき意味を即座に理解したのだろう。


 だが、愚かな王太子は違った。理解できていないからこそ、己の特権を盲信して喚き散らす。


「馬鹿なことを言うな! 王族の財は、すなわち王家の財だ! 貴様ら下級役人に、私から何かを差し押さえることなどできるはずがない!」

「いいえ」


 その無知蒙昧な叫びを切り捨てたのは、ルチアの絶対零度の声だった。


 澄み切って、容赦がなかった。


 ◇ ◇ ◇


 ルチアは一歩、靴音を鳴らして前へ進み出る。

 分厚い婚約契約書を抱えたその姿は、もはや儚い公爵令嬢などではない。完全に法廷の中央で弁論を行う、凄腕の実務家のそれだった。


「殿下は大きな、そして極めて致命的な誤解をなさっておりますわ」

「誤解だと……?」

「ええ。『王家の公財』と、『王族個人の私財』は別枠です」


 ルチアは書類の束から一枚の羊皮紙を抜き出し、パラリと掲げた。


「王室法第十二章第三節第二款。『王族が王家の名において保持する財と、婚約・贈与・相続・私的事業その他、私人として取得した財産とは、監査上これを厳格に区別する』」

「そ、そんな条文……!」

「さらに附属私契約執行規定第八条。『王族であっても、私的契約の不履行により生じた債務については、私人資産の範囲において保全および執行の対象となる』」


 すらすらと、淀みなく。まるで息をするように条文が口をついて出る。

(まったく。株式会社の社長が『会社の金は俺の金だ! だから個人の借金で会社の資産は差し押さえられない!』って喚いてるのと同じレベルね。公私混同も甚だしいわ)


 ルチアは扇の先で、怯むユリウスの胸元をピタリと指し示した。


「要するにですわ、殿下。貴方の地位が『王太子』であることと、私人として『婚約契約の当事者』であることは、法的にはまったくの別問題です。公務の特権を盾にして、個人の借金(違約金)を踏み倒すことなど不可能ですのよ」

「そんな都合のよい理屈があるものか!」

「都合がよいのではなく、一部の愚かな王族の放埓によって、王家の公的な財産が食いつぶされないための『防波堤システム』ですわ。むしろ、これは王家を護るための条文ですもの」


 その的確すぎる解説に、貴族席の最前列にいた宰相が「なるほど……」と感嘆の唸り声を上げた。

 まさしくその通りだった。王族の個人的なやらかし(不貞や契約違反)で王室の予算まで差し押さえられては、国家運営が立ち行かなくなる。だからこそ法は、公の財と個人の財を厳密に分けているのだ。


 そして今、その国家を護るためのシステムは、ユリウスを護る盾ではなく、彼を逃がさないための『完璧な檻』として機能していた。


「殿下が本件で負うのは、王太子としての責任ではなく、私的な婚約を破棄した『債務者』としての責任。よって対象となるのは、殿下個人名義の別荘、美術品、国外商会への投資持分、および嗜好品収集室の希少魔石コレクション――」

「や、やめろ……!」


 愛してやまない己のコレクションの数々を列挙され、ユリウスが思わず悲鳴のような声を上げた。

 そのわかりやすすぎる反応に、広間の空気がさらに冷える。今ので、ルチアのリストアップが完全に図星だと誰もが理解した。


「まあ。ずいぶん具体的な反応ですこと。痛いところを突かれましたか?」

「き、貴様……たかが女の身で、どこまで調べ上げた……!」

「婚約者の財産状況を正確に把握するのは、将来のパートナーとして当然の務めですわ。……もっとも今回は、『慰謝料債権の保全』という実益の方が大きかったですけれど」


 扇の陰で、いくつもの貴婦人が息を呑む。

 温度のない、あまりにも残酷で美しい追撃だった。


 ◇ ◇ ◇


「お待ちください!」


 張り詰めた空気を破ったのは、これまでユリウスの腕の中で震えていた男爵令嬢ミアだった。

 彼女は青ざめた顔で、それでもなお「愛ゆえに理不尽な目に遭う健気なヒロイン」という役柄を演じ切ろうと、涙ながらに前に出た。


「い、いくらなんでも酷すぎます……! ユリウス様は王太子でいらっしゃるのよ? たとえ婚約を解消なさるとしても、こんなふうに個人の財産まで奪うなんて……あんまりです!」


(出たわね、恋愛脳のお花畑発言。「愛があれば何をしても許される」「お金の話をするなんて意地汚い」ってか。……前世の不倫相手(第二債務者)も、判で押したように同じことを言ってたわね)


 ルチアはゆっくりと彼女を見下ろした。

 その視線に宿るのは嫉妬でも怒りでもない。「回収可能な資産価値があるか」を見定める、事務的な査定の光だけだ。


「男爵令嬢ミア様。ひとつ確認いたしますわ」

「……え」

「貴女は、私と殿下の婚約が、王家と公爵家の『正式な契約』であることをご存じでしたわね?」

「そ、それは……一般教養として、そのくらいは……」

「その事実を認識した上で、殿下と親密な交流を反復継続し、この不法な破棄の場にも同席し、事実上その履行不能状態を積極的に招いた」

「ち、違……っ、愛し合っていただけで……!」

「だとすれば、『共同不法行為』の成否も十分に検討の余地がございますわね」


 しん、と。大広間が水を打ったように静まり返る。


「きょ、共同……ふほう……?」

「ええ。専門用語で『不真正連帯債務』とも申しますわね。既存の婚約関係を知りながら、その破綻を誘引・促進したとなれば、貴女にも慰謝料の連帯責任が生じるということです」


 ルチアは、虫の息の相手にトドメを刺すように淡々と告げる。


「現時点での主たる請求先は殿下です。ですが、貴女が虚偽の申告によって私への社会的評価を損ねた証拠が積み上がれば、話は別。男爵家の資産を取り崩してでも、責任の一端を負っていただきますわよ」

「ひっ……!」


 ミアが完全に黙り込み、恐怖でガタガタと震え出した。自分が「悲劇のヒロイン」から「数千万単位の借金を背負う債務者」に転落する可能性があると悟ったのだ。


 そのとき、貴族席から一人の男が一歩前に出た。ルチアの父、公爵クラウスだ。


「ベルナルド査察官」

「はい、公爵閣下」

「この場で確認しておきたい。仮に本件の請求が成立し得るとして、殿下の私人資産に対する仮保全は、現行法においてどの段階まで可能なのだ?」


 父の声音は低く、慎重だった。娘を感情的に擁護するのではなく、国家の重鎮として「法的手続きの正当性」を周囲の貴族に確認させるための、極めて計算されたパスだった。

(さすがはお父様。最高のタイミングでのアシストだわ)


 ベルナルドは即答した。


「第一段階として、名義財産の移転停止。第二段階として、換価容易資産の封印。第三段階として、散逸のおそれが高い宝飾・美術品・魔石収蔵物の仮差押えを実行いたします」

「別荘や狩猟館は?」

「権利移転禁止登記を即刻先行させます」

「匿名出資口は?」

「商会側への通知と、利益分配の凍結手配を」

「……なるほど。法に則った正当な手続きだな」


 クラウスは深く頷き、後ろへ下がった。

 その瞬間、広間の空気は決定的なものとなった。公爵家当主自らが「これは合法的な手続きである」とお墨付きを与え、監査局がそれに同意したのだ。もはや、誰もルチアの行動を「悪役令嬢の暴走」などとは言えない。


 ◇ ◇ ◇


 そのときだった。

 監査局の若い役人のひとりが、血相を変えてベルナルドへ小声で耳打ちをした。報告を受けたベルナルドの灰色の瞳が、スッと細められる。


「……確認が取れました」

「確認、とは?」

「殿下個人名義で管理されている王都南区画の別荘、ならびに北方保養地の狩猟館について、先ほど『別名義への移転申請』の準備が水面下で進められていた形跡がございます」


 大広間が、爆発したようにどよめいた。

 ユリウスの顔色が、白から今度は土気色へと変わる。


「そ、それは……!」

(ははっ! 慰謝料請求から逃れるための財産隠しか! 現代日本でも古典中の古典だけど、まさか王太子自らがその『自爆スイッチ』を押してくれるなんて。役満もいいところね!)


 ルチアは内心で拍手喝采を送った。


「資産隠匿の明白なおそれあり、と判断いたします」


 ベルナルドの宣告は、死神の鎌のように冷徹だった。


「よって監査局は、本件に関し『緊急仮保全手続き』へ移行します」


 その言葉と同時に、後方に控えていた役人たちが一斉に動き出した。

 重々しい封印箱が開かれ、拘束用の魔力札が取り出され、記録係が凄まじい速度で魔導筆を走らせ始める。武力行使ではない。だが、それは間違いなく、王族に対する国家権力の執行の始まりだった。


「待て! 私に無断でそんなことが許されるはずが――」

「殿下!」


 ベルナルドが、初めて声を荒らげ、鋭く一喝した。


「既に貴殿は、私人資産の不正な散逸を図った嫌疑を受けております! もはや任意協力の範囲は越えました。これより当局は、法に基づきすべての資産の記録・封印・保全を強制的に実施いたします!」

「そんな……そんな馬鹿な……」


 ユリウスの声は、もはや国を統べる王太子のものではなかった。

 ただの、自分の無知と傲慢によってすべてを失いかけた、追い詰められた債務者のひび割れた声だ。


 ルチアは静かに踵を返した。

 シャンデリアの光が、銀糸を織り込んだ彼女の髪を冷たく、そして気高く照らし出す。


「……ルチア」


 背後から、掠れた情けない声で名前を呼ばれた。

 少し前まで自分を「血も涙もない悪女」と罵っていた男の、すがりつくような声。

 だが、ルチアはすぐには振り向かず、肩越しに冷え切った視線だけを投げかけた。


「ご安心くださいませ、殿下」


 完璧な淑女の微笑み。

 だがその奥に潜むのは、どこまでも事務的で、冷徹な回収者の顔だ。


「これはまだ、保全スタートにすぎませんわ。正式な慰謝料の請求と、合法的な身ぐるみ剥がし(精算)は――これからですもの」


 その言葉が響いた瞬間、ユリウスの顔が完全な絶望に染まり、膝から崩れ落ちた。


 大広間の中央。

 監査局の役人たちが淡々と封印処理を進め、貴族たちが恐怖に沈黙する中で、ルチア・フォン・クライスだけが極上の微笑みを浮かべていた。


 今夜、彼女は涙など一滴も流さなかった。

 代わりに、法と契約と証拠を武器に、王太子を合法的に完全論破したのだ。


 さあ、楽しい強制執行ざまぁの時間の始まりである。



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