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第1話 断罪の夜会と目覚める「弁護士」の記憶

 王城のメインホールは、目を焼くような絢爛豪華な光に満ちていた。

 天井から吊るされた何千ものクリスタルが連なる巨大なシャンデリア。壁面を覆い尽くす金糸のタペストリーに、精緻な彫刻が施された大理石の柱。建国記念を祝うこの夜会は、本来であれば国の威信と繁栄を国内外に知らしめるための、極上の舞台となるはずだった。


 だが今、その場を支配しているのは、息が詰まるような沈黙である。


 優雅にホールを満たしていた管弦楽の調べは、指揮者が弾かれたようにタクトを止めたことで不自然に途絶えていた。

 色とりどりの豪奢なドレスや、勲章を輝かせた礼装に身を包んだ何百人もの貴族たち。彼らは皆、手にしたワイングラスや扇を止め、広間の中央へと釘付けになっている。


 その無数の、好奇と嘲笑と、わずかばかりの哀れみが混じった視線の中心に立たされているのは、一人の令嬢だった。

 公爵令嬢ルチア・フォン・クライス。

 王太子の正式な婚約者であり、次期王妃として幼い頃から血の滲むような厳格な教育を修めてきた、非の打ち所のない完璧な淑女。


「ルチア・フォン・クライス! 貴様の悪逆非道な振る舞いも、今日で終わりだ!」


 張り詰めた空気を切り裂くように、王太子ユリウスのヒステリックな声が響き渡る。

 金糸雀のように艶やかな金髪に、王族特有のサファイアの瞳。黙っていれば誰もが見惚れるであろうその秀麗な顔立ちは、今やルチアへの激しい嫌悪と憤りによって醜く歪みきっていた。


 そして、彼の腕の中には、怯えた小動物のように身を震わせる一人の少女がすっぽりと収まっている。新興貴族である男爵家の令嬢、ミアだ。


「ミアに対する数々の陰湿な嫌がらせ、侮辱、さらには脅迫! もはや断じて看過できん! 私はここに、貴様との婚約を破棄する!」


 ユリウスが高らかに宣言した瞬間、ざわっ、とホール全体の空気が波立った。

 だが、誰一人として前に出て止めようとする者はいない。これは最高権力者である王太子による、公開処刑なのだから。


「殿下……」

「ご安心くださいませ、ユリウス様……。わたくし、ユリウス様が一緒なら、少しも怖くなんて……っ」


 ミアが潤んだ瞳で見上げながら震える声で囁くと、ユリウスは「ああ、私が必ず君を守り抜く」とばかりに、さらに強く彼女の肩を抱き寄せた。

 まるで、悪辣な魔女から可憐な村娘を救い出す悲劇の英雄気取りである。そして当然のように、その三文芝居の『悪役』は、ルチアただ一人に押し付けられていた。


(……どうして?)


 ルチアの全身から、急速に血の気が引いていく。

 指先は氷のように冷たくなり、きつく締め上げられたコルセットがさらに肺を圧迫し、呼吸が浅くなる。


 頭の中で、幼い頃から何度も何度も叩き込まれてきた『王太子妃としての完璧な作法』が警告音のように鳴り響いていた。

 感情を表に出してはならない。いかなる時も取り乱してはならない。王族の隣に立つ者として、常に高貴で、優雅で、隙のない微笑みを絶やしてはならない、と。


(私はただ、彼女に次期王妃の側近として相応しい礼儀と節度を教えただけ……。教育の一環として、当然のことをしたまでなのに……!)


 それを「嫌がらせ」と断じたのだ。

 何百人もの貴族が注視する、この公の場で。

 他でもない、長年支え続けてきた婚約者自身の口から。


 理不尽な屈辱と絶望が喉の奥から込み上げ、ルチアの美しい双眸に、熱い涙が滲みそうになった。

 まさに、その刹那だった。


「私とミアは、すでに真実の愛を見つけたのだ! 貴様のような冷酷で血も涙もない女など、私の隣にはふさわしくない! さっさとこの場から立ち去れ!」


『冷酷で血も涙もない女』。


 ユリウスの口から飛び出したそのひと言が耳朶を打った瞬間、ルチアの脳天を、目も眩むような白く灼けた稲妻が貫いた。


 ◇ ◇ ◇


 ――ドクン。


 心臓が、肋骨を突き破るのではないかと思うほど、異様なまでに大きく跳ねた。


 途端に、視界が激しく明滅する。

 磨き上げられた大理石の床がぐにゃりと歪み、絢爛なシャンデリアの光が弾け飛ぶ。世界の輪郭がドロドロに溶け落ちていくのと引き換えに、まるで決壊したダムの濁流のように、まったく別の『記憶』がルチアの脳内へと雪崩れ込んできたのだ。


 眠らない街、東京のネオンサイン。

 天を突くようなガラス張りの摩天楼。

 深夜二時、無機質な白いLED照明に照らされた法律事務所のデスク。

 重厚な木目調で統一された、家庭裁判所の法廷。

 机の上に山のように積み上げられた、六法全書と分厚い判例集の束。

 胃を焼くような、濃すぎるブラックコーヒーとエナジードリンクの入り混じった匂い。

「どうしても許せないんです」とすがりついてくる依頼人たちの、愛憎と執着と打算がどろどろに煮詰まった涙声。

 そして、それらの感情的なノイズを一切合切切り捨て、ひたすらに『証拠』と『金銭』と『勝率』へと冷徹に変換していく、自分自身の冴え渡った思考回路。


(ああ……そうか。そうだったわ)


 前世の記憶。

 公爵令嬢ルチアとしての十八年間とはまったく違う、泥臭くも苛烈な三十余年の人生。

 それは妄想でも幻覚でもなく、紛れもない『私』の記憶だった。


(思い出したわ。私は――)


 勝訴率九十九パーセント。

 依頼人にとっては絶対に負けない救いの女神。対戦相手にとっては、身ぐるみ剥がされる絶望の悪夢。

 感情論を徹底的に排除し、論理と法律の刃で相手を解体するその手腕から、法曹界で「血も涙もない悪魔」と恐れられた、現代日本の超エリート離婚弁護士。


 それが、私だ。


 過労で意識を失い、デスクに突っ伏したあの夜までの記憶と、公爵令嬢ルチアとして生きてきた記憶が、頭の中でカチリと音を立てて完璧に融合した。


 ルチアは、ゆっくりと一度だけ瞬きをした。

 するとどうだろう。先程まであれほど恐ろしく、絶望的に見えていた世界が、嘘のようにクリアに、そして静まり返って見えた。


 胸を締め付けていた悲壮感も、理不尽な仕打ちに対する混乱も、跡形もなく消え去っている。

 震えていた足は大地に根を張ったようにピタリと止まり、零れ落ちるはずだった涙は一瞬にして蒸発した。


 代わりに、体の奥底からフツフツと湧き上がってきたのは――極上の『案件(獲物)』を目の前にした時だけ脳内に分泌される、冷たく研ぎ澄まされたアドレナリンだった。


 ルチアは改めて、現在の状況を冷静に、客観的に観察した。

 目の前には、勝ち誇ったようにふんぞり返る王太子ユリウス。

 その腕の中で、被害者ぶってルチアをチラチラと盗み見る男爵令嬢ミア。

 そして周囲を取り囲むのは、この国の政治・経済を牛耳る有力貴族、将軍、文官、聖職者たち。


(……なるほど。現在の状況を法的に整理してみましょうか)


 第一に、王家と公爵家の正式合意のもと締結された『婚約』という名の契約の、正当事由なき一方的破棄宣言。

 これは文句なしの、明白な債務不履行。


 第二に、男爵令嬢との「真実の愛」とやらの、公衆の面前における堂々たる自白。

 事実上の不貞行為の証明であり、言い逃れ不可能な有責配慮。


 第三に、この場にいる何百人もの証人を前に、「悪逆非道」「陰湿な嫌がらせ」と大声で断定したこと。

 具体的事実の摘示を伴う、極めて悪質な名誉毀損。


 そこまで思考を走らせたところで、ルチアは思わず天を仰ぎそうになった。


(……馬鹿なの? いや、素晴らしいわ。素晴らしすぎるわね)


 前世の弁護士としての血が、歓喜のあまり沸騰しそうだった。


(契約違反、不貞行為、名誉毀損! 慰謝料請求の主要論点が、ここまで美しく一直線に並ぶなんて! しかも加害者本人が、わざわざ何百人もの証人を集めた公開の場で、ご丁寧に自分の有責を補強する発言を繰り返してくれるなんて……。弁護士こちらからすれば、ボーナスステージ以外の何物でもないじゃない!)


 相手は一国の王太子?

 それがなんだと言うのだ。特権階級だろうが何だろうが、法と契約の前では等しく裁かれるべき『当事者』にすぎない。


 証拠はある。証人は腐るほどいる。そして何より、私には『知識』がある。


(勝てる。――いや、違うわね。これは『勝つべくして勝つ』ボーナス案件よ)


 ルチアの薔薇色の唇が、わずかに吊り上がった。


 その劇的な変化に真っ先に気づいたのは、貴族席の最前列で顔面を蒼白にしていたルチアの父、公爵クラウス・フォン・クライスだった。

 彼は、愛娘の瞳を見た瞬間に息を呑んだ。


 ほんの数秒前までそこにあった、傷つき怯える令嬢の儚い揺らぎが、綺麗さっぱり消え失せている。

 代わりにその瞳に宿っているのは、相手の急所を冷徹に見極める、冬の刃のような絶対零度の理性だった。


「……ルチア?」


 思わず漏れた父の戸惑うような声も、もはやルチアの耳には入っていない。

 彼女の意識は完全に、目の前の愚かな債務者をいかに料理するかという、法務処理モードへと切り替わっていた。


 ◇ ◇ ◇


「……何を黙っている。己の罪深さに言葉も出ないか、この悪女め!」


 無言で真っ直ぐに見つめ返してくるルチアの態度を、ユリウスは「絶望と恐怖で声も出せないのだ」と都合よく解釈したらしい。

 勝利を確信したような浅薄な声で、さらに追撃を浴びせようと口を開いた。


「そもそも貴様は、昔から可愛げがなく尊大で――」

「殿下」


 凛、と。

 よく透る、それでいて一切の熱を持たない澄みきった声が、王太子の言葉を真っ二つに断ち切った。


 そのたった一声だけで、広間の空気が一変する。


 ユリウスの眉が不快げにピクリと動く。

 彼の腕の中にいたミアもまた、ルチアの声に孕んだ説明のつかない凄みに、無意識のうちにビクッと肩を震わせた。


 ルチアは慌てる様子など微塵も見せず、極めて優雅な所作で、腕に下げていた小ぶりなイヴニングバッグへ手を伸ばした。

 純白のシルクの手袋に包まれた指先が、ためらいなくその口を開く。

 高度な空間収納魔法が施されたそのバッグは、見た目の何十倍もの容量を持つ、高位貴族の令嬢ならではの特注品だ。


 もちろん、この場にいる誰もが、そこから取り出されるのは涙を拭うためのハンカチか、顔を隠すための扇だろうと信じて疑っていなかった。


 次の瞬間、ルチアがバッグの奥深くまで腕を差し入れ、重々しい『何か』を引き抜くまでは。


 ドサッ。


 重力を伴った鈍い音が、静寂の大広間に轟いた。


 大理石の床に落とされたのは、分厚い羊皮紙の束だった。

 数枚などという可愛らしいレベルではない。何十枚、いや百枚近い文書が厳重に革紐で綴じられた、鈍器のような書類群である。

 ルチアは表情一つ変えず、バッグから次々とその書類の束を取り出し、床の上に整然と積み上げていく。


「な……っ!?」

「ひっ……!」


 誰かが息を呑み、別の誰かが小さく悲鳴を上げる。


 ルチアは最後に、一際上質な装丁が施された分厚い一冊を取り出した。

 その表紙には、王家の百合の紋章と、クライス公爵家の双剣の家紋。その双方の厳重な封蝋印が押されている。


「……ま、まさか、婚約契約書か……?」

「原本の写しだと……? なぜあのようなものを夜会に……?」


 広間に、動揺の波紋が急速に広がっていく。


 ユリウスの顔から、ついに余裕の笑みが剥がれ落ちた。

 彼にしてみれば、ルチアが涙ながらに許しを乞うか、あるいは怒りに我を忘れて喚き散らすかの二択しか想定していなかったのだ。

 まさか断罪の場で、当の婚約者が平然と『契約書』を引っ張り出してくるなど、彼の貧困な想像力では予測の範疇外だったに違いない。


「る、ルチア……? 貴様、それは一体何のつもりだ!」

「何のつもり、ですか?」


 ルチアは書類の束から一部を抜き取ると、手にしていた扇をパチンと閉じ、その先端でさらりと羊皮紙を整えた。

 背筋はピンと伸び、首の角度は一分の隙もなく美しい。

 完璧な令嬢の笑みを浮かべているにもかかわらず、その瞳だけが異様なほどに冷え切っていた。


「事実確認の作業でございますわ、殿下。貴方が今しがた、この場でおっしゃったことの」


「な……っ」

「私と殿下の婚約破棄。男爵令嬢との真実の愛。そして、私に対する悪逆非道との断定。いずれも、この場に集まった何百人もの皆様の前で、殿下ご自身がはっきりと明言なさいましたわね?」


 一語一語、逃げ道を塞ぐように言葉を置く。


 ユリウスが何か言い返そうと口をパクパクとさせるが、言葉が出てこない。

(当然ね。何の法的根拠も想定問答も用意せず、感情のままに見切り発車で破棄を宣言したのだから)

 ルチアは心中で、呆れを通り越して感心すらしていた。前世で相手にしてきた、浮気がバレて逆ギレするモラハラ夫たちのほうが、まだしも言い訳のバリエーションがあったというものだ。


「真実の愛。ええ、たいへん素晴らしい響きですわね」


 ルチアは、あえてこの上なく優しく、柔らかく微笑んだ。

 だがその声には、相手を思いやる温度など微塵も存在しない。あるのは、冷酷なまでに研ぎ澄まされた職業的礼儀ビジネスマナーだけだ。


「愛は自由ですもの。殿下がどなたを愛されようと、それ自体は個人の自由意志です。……ですが」

「…………ッ」

「然るべき法的手続きを経ない、正当な事由なき一方的な契約破棄には、相応の『責任』が伴うことをご理解いただいておりますわね?」


 その瞬間、広間のあちこちで貴族たちが息を呑む音が重なった。


 ルチアは婚約契約書の該当ページを開き、そこに記された条項を白魚のような指先でなぞった。

 両家の署名、王家の印章、そして、違約に関する厳しい補足条文。


「王家とクライス公爵家の間で交わされた本契約に基づき、正当事由なき婚約破棄には、明文化された賠償義務が発生いたします。加えて、公衆の面前における私への謂れのない名誉毀損、ならびに婚約関係の誠実義務違反に基づく精神的苦痛。これらにつきましても、別途請求の対象となりますわ」


「き、貴様……たかが女の身で、王族である私に……何を言うつもりだ……!」

「つまり」


 ルチアは、花の綻ぶような極上の笑みを浮かべて、はっきりと告げた。


「慰謝料(正当な対価)のお支払いを、お願いいたしますわ、殿下」


 それはもはや、見捨てられた令嬢の哀れな強がりなどではない。

 圧倒的な勝率を背にした、弁護士による無慈悲な『開戦宣言』だった。


 ユリウスの喉がヒュッと鳴り、ミアの顔面からサァッと血の気が引く。

 周囲を取り囲む貴族たちも、ようやく事態の異常さに気づき始めていた。

 これは単なる痴話喧嘩でも、一方的な断罪劇でもない。泣き寝入りするはずの悪役令嬢が、法と契約という名の最強の武器を手に、王太子その人を『被告席』へと引きずり上げたのだ。


「さて、殿下」


 ルチアは、氷細工のように冷たく美しい笑みのまま、王太子を見据えた。

 もはや彼女の目に映っているのは、かつて愛した婚約者ではない。

 ただの『極めて愚かな債務者』である。


「まずはどの請求原因からご説明いたしましょうか? 一方的な契約破棄の違約金、不貞行為に対する慰謝料、あるいは名誉毀損の損害賠償……。どれからでも結構ですわよ。もっとも――」


 ルチアはパチンと扇を開き、口元を隠して小首を傾げた。


「まとめて一括で精算なさるほうが、破産の手続きとしては効率的かと存じますけれど?」


 その言葉が落ちた瞬間。

 王城のメインホールにいた誰もが、確かに理解した。


 今夜、この場で断罪されるのは、ルチア・フォン・クライスではないのだと。



第1話をお読みいただきありがとうございます。

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