第14話 祝勝会と冷酷魔王の甘いエスコート〜社内接待(飲み会)かと思いきや、どうして私が主役のようになっていますの?〜
その夜、魔王城の大広間は、昼間の殺伐とした空気(戦場)とはまるで別の顔を見せていた。
軍議や重苦しい外交交渉に用いられる重厚な空間から、今は勝利を祝う熱気あふれる宴席へと姿を変えている。
とはいえ、人間国の王城で開かれていたような、貴族たちが成金趣味の金箔と虚飾を競い合い、甘ったるい香油の匂いで頭が痛くなるような夜会ではない。
照明となる魔導灯の光量は明るすぎず必要十分。壁を飾るタペストリーも落ち着いた濃色で、過剰な花の装飾はない。
代わりに、磨き抜かれた黒石の床、機能的に配置された円卓、よく冷えた極上の酒と、湯気を立てる肉料理。そして何より、長年の鬱屈を晴らし、勝利を素直に喜ぶ魔族たちの熱狂的なざわめきが、空間を隅々まで満たしていた。
無駄な見栄がない。
それでいて、決して冷たくはない。
(悪くないわね。会社の打ち上げ(祝勝会)としては理想的な空気感だわ)
ルチアは執務室の隣に用意された控室の大きな姿見の前で、自分の姿を客観的に査定しながらそう思った。
用意されていたドレスは、予想していたよりずっと――いや、恐ろしいほど趣味が良かった。
深い夜空を思わせるミッドナイトブルーの最高級の絹地。そこに、動くたびに光の加減で星屑のように瞬く、極細の銀糸が織り込まれている。
胸元や背中は過度に露出せず、それでいて令嬢としての華やかさを損なわない、計算し尽くされた絶妙な裁断。裾には魔王領の紋章である双剣と百合を幾何学的にアレンジした刺繍が、ごく控えめに、しかし確かに施されている。
決して、男の庇護欲を煽るような『着せ替え人形(お飾り)』の意匠ではない。
ルチアという人間の実務家としての矜持と、知的な美しさを完璧に引き立てるための、完全なオーダーメイドだった。
「……随分と上等な仕上がりですこと。経費の無駄遣いではなくて?」
ルチアがわざとらしく呟くと、背後でドレスを整えていた侍女頭の魔族女性が、恭しく頭を下げた。
「いいえ、ルチア様。こちらは陛下がご自身で、王都の最高位の職人を呼び寄せて最終指定なさいました」
「ご自身で?」
「はい。“無駄に甘く媚びた趣味は不要だ。だが、今夜誰よりも誇り高く目を引くものを仕立てろ”と」
「……」
ルチアは一瞬、返す言葉に詰まった。
心のどこかで、もっと露骨に「魔王の寵姫」めいた、毒々しい赤や黒の扇情的なドレスを押しつけられる可能性もリスクヘッジとして考えていた。
だが実際には、その真逆だった。
甘すぎず、媚びすぎず、けれど明らかに『最高殊勲者としての特別扱い』だと分かる。
こちらの好みと立場を完全に読み切って、そんな絶妙な最適解を突いてくるあたりが――有能すぎて、妙に腹立たしい。
「お嬢様――いえ、ルチア様! 本当に、ものすごくお似合いですよ!」
控室まで同行していたエイルが、扉の隙間からひょっこりと顔を出して感嘆の声を上げる。
「男が令嬢の着替えを覗き見ですの? セクハラ事案として処分しますわよ」
「違います外務記録官としてです! いや、純粋な客観評価として!」
「結構」
ルチアは扇で口元を隠し、涼しい顔で返す。
「ただ、貴方のそのニヤニヤした顔は少し腹立たしいわね」
「心から褒めてるのに」
「存じています」
そう言いながらも、鏡の中の自分をもう一度見る。
たしかに悪くない。というより、かなり良い。気分が上がる。
前世の感覚で言えば、外資系ファームのトップが、大勝訴したパートナー弁護士のために「君にはこの勝負服が一番似合う」と全力でコーディネートしてきたような仕上がりだった。
それを、あの冷酷無慈悲と噂される魔王本人がやったというのだから、どうにも調子が狂う。
「……あくまで、業務上必要な『主賓としての装い』ですわ。制服のようなものですもの」
誰にともなくそう言い訳(論理武装)すると、背後で侍女たちが「ふふっ」と微笑みを噛み殺した。
聞こえている。だいぶ聞こえている。
そのとき、控室の重厚な扉が静かに叩かれた。
「ルチア様。陛下がお迎えに上がりました」
部屋の空気が一瞬でピンと整う。
侍女たちがサッと壁際へ下がり、エイルは「うわ、本当にトップ自らエスコートに来たよ……」と小声で戦慄いてから、ササッと気配を消すように廊下の隅へ退避した。
ルチアは一度だけ深く呼吸を整え(戦闘モードに切り替え)、ゆっくりと扉へ向かう。
◇ ◇ ◇
開かれた扉の向こう。
そこに立っていたレオンハルトを見た瞬間、ルチアはほんの一瞬だけ、ヒールの動きを止めてしまった。
黒一色。
ただし、昼間の軍服風の実務用の装いとは明らかに違う。
最高級の礼装として仕立てられた漆黒の上衣は、光をほとんど吸い込むような深いベルベットで作られ、襟元と袖口にだけ、ルチアのドレスと対になるような極細の銀の意匠が走っている。
無駄な宝飾(ジャラジャラとした勲章など)は一切ないのに、ひと目で『王』と分かる圧倒的な上質さと威厳があった。
肩から流れるマントは重すぎず、彼が歩けば、夜の闇そのものが滑っていくような幻想的な気配を生んでいた。
そして何より、彼がこちらを見下ろした時の、深紅の瞳の破壊力が良くない。
(……ずるいわね。顔面偏差値が高すぎるわ)
整った顔立ちだとは、初対面の不法侵入の時から知っていた。
知っていたが、こうして正式な礼装に身を包まれると話が変わる。
冷酷無慈悲と恐れられる魔王のはずなのに、今はその冷酷さすら、ひどく洗練された大人の男の魅力に見えてしまうのだから、だいぶ質が悪い。
レオンハルトは数秒、何も言わずにルチアの全身を見つめた。
その沈黙が妙に長く、熱を帯びて感じられて、先に口を開いたのは耐えきれなくなったルチアのほうだった。
「……何か、ドレスに不備でも?」
「いや」
彼は低く、少しだけ掠れた声で言う。
「予想以上に……よく似合っている。美しい」
たったそれだけ。
だが、声が近い。しかも、一切の迷いも衒いもない。
王都の社交界の男たちのように、下心を持って女性を褒めること自体を『駆け引きのツール』に使う言い方ではない。
本当に心の底からそう思ったから、ただ事実として口にした、という単純な響きがある。
だから余計に困るのだ。防御のしようがない。
「……ありがとうございます」
ルチアは完璧な、しかし少しだけ引き攣りそうな営業スマイルで返す。
「衣装の選定者へも、素晴らしいセンスだとお礼を申し上げたいですわ」
「私だ」
「存じております」
「なら、その賛辞は甘んじて受け取ろう」
「……そうですの」
さらりとマウントを取り返してくるのも反則だった。
レオンハルトはそこで、わずかに片腕を差し出す。
ごく自然な、しかし決して拒否を許さない、王としてのエスコートの姿勢だ。
「参ろうか、我が法務顧問」
「魔王様自らがエスコートですの? 私はただの従業員ですけれど」
「私のエスコートでは不満か(嫌か)?」
「嫌とは申しませんけれど。悪目立ちしすぎますわ」
「では問題ないな」
「そういう論理のすり替え(押し方)は、少々ずるいですわね」
「君との交渉で負けた覚えはない」
ルチアは小さくため息を吐く。
たしかに、ここで意地を張って断るほうがよほど不自然(非論理的)だった。
今夜の祝勝会の主催者は彼で、自分はその最大の勝因(立役者)として招かれている。しかも既に最高級の衣装も用意され、トップ自ら迎えまで寄越されているのだ。
ここで今さら「一人で歩けます」と突っぱねるのは、むしろ社内の空気を乱す行為だ。
(これも業務上必要な『接待』の一環よ)
そう強引に結論づけて、ルチアはそのたくましい腕へ、そっと純白の手袋を添えた。
触れた瞬間、上質な布地越しに、予想よりずっと高く、しっかりした男の体温が伝わってくる。
冷たい印象の男だと思っていたぶん、その熱を妙に生々しく意識してしまって良くない。
「緊張しているのか」
歩き出しながら、レオンハルトが唐突に問う。
「しておりませんわ。私は修羅場(法廷)に慣れておりますもの」
「なら、先ほどから少しだけ君の鼓動が速いのはなぜだ?」
「これから長い階段を降りるからですわ。有酸素運動です」
「まだ平坦な廊下だが?」
「……細かい上司ですわね」
「君の書類の赤字チェックほどではない」
またそれだ。
本当に腹立たしいほど、会話のラリーが安定している。
◇ ◇ ◇
大広間へ入った瞬間。
ざわり、と。空間の空気が大きく揺れた。
もともと熱気に満ちていたざわめきが、一拍だけ完全に止まり、それから爆発的な歓声とどよめきに変わる。
数百の視線が、一斉に扉へ集まる。
魔王領の重臣たち、武官、文官、侍従、側近たち。その全員が、魔王レオンハルトの腕に手を添えて現れたルチアを見た。
当然だろう。
ただ主賓として出席したのではない。あの、他者を寄せ付けない魔王が自ら、嬉しそうにエスコートして入場してきたのだ。
しかも、その扱いは明らかに「有能な客人」の枠を完全に越えている。
ルチアはそういう好奇の視線には慣れている。
前世の法曹界でも、今世の貴族社会でも、常に値踏みされ、推測の目に晒されること自体は日常茶飯事だった。
だが、今日のそれは少しだけ性質が違った。
あからさまな敵意や嫉妬はほぼ消え去っていて、代わりに「なるほど、王がご執心になるのも無理はない」「お似合いだ」という、妙な『納得感(祝福)』が混ざっているのだ。
(違うわよ。これはただの『社長と顧問弁護士の入場』よ)
と心の中で即座に否定のプレスリリースを打ったが、顔には出さない。
ムキになって否定した時点で、相手のペースに乗せられて負ける気がするからだ。
レオンハルトはそんな周囲の騒がしい視線など意にも介さない様子で、ルチアを広間の中央、最も格式高い主賓卓へと導いた。
その一連の動作がまた、驚くほど丁寧で、スマートだった。
重い椅子をスムーズに引く。
ドレスの裾を踏まないよう、完璧に歩幅を合わせる。
卓の角を曲がる際、彼女がぶつからないよう自然に手を添えて庇う。
乾杯の飲み物を選ぶ際も、勝手に決めるのではなく、先にルチアへ視線で確認してから侍従へ指示を出す。
一つ一つは、本当に小さな所作だ。
だが、小さいからこそ誤魔化しが利かない。
女の扱いに慣れている、というのとは少し違う。相手を一個の独立した人間として尊重し、不快な思いをさせないことが『自然に身についている』者の振る舞いだった。
(……前世の、私の歩くペースも考えずにズンズン先に進む同僚の男弁護士たちに見習わせたいわ)
「紅茶を」
ルチアがリクエストする前に、レオンハルトが侍従へ視線を向けて命じる。
「城の蔵にある最上の茶葉で淹れろ。彼女には酒より、そちらのほうがいい」
「かしこまりました、陛下」
「……随分と、私の嗜好の把握が早いですわね」
「君にとって、生命線(重要)なのだろう?」
「重要ですけれど。アルコールは脳のパフォーマンスを下げますし」
「なら、忘れない」
まるで当然のように、真っ直ぐな目で返される。
少し離れた位置からそのやり取りを眺めていたゼノヴィアが、「やれやれ、うちの王も甘くなったものだ」と肩を竦めて酒をあおっていた。
エイルはというと、隣の若い外務補佐官へ何かヒソヒソと囁かれ、「君たち、明日ルチア様に殺されるよ?」と盛大に顔をしかめている。
どうせ、ろくでもない噂話で盛り上がっているのだろう。
やがて広間のざわめきが整い、宰相補佐のシュタールが前に出て、短い開会の言葉を述べた。
無駄なく、端的に、実務家らしく。
本日の勝利はまだ『中間成果』であり、油断して浮かれすぎるべきではないこと。
だが、二十年間一方的に搾取され、押し込まれてきた人間国へ、初めて『明確な反撃』を成立させた意味は歴史的に大きいこと。
そして、その大逆転劇の中心に立った専属法務顧問、ルチア・フォン・クライスの卓越した働きに、魔王領として最大の感謝と敬意を示すこと。
最後の一文で、広間中の杯が高々と掲げられる。
酒、果実水、茶。
それぞれの器が一斉に上がり、割れんばかりの歓声が響く。
「ルチア様に乾杯!」
「我らが最強の法務顧問に!」
「人間国にざまぁみろだ!!」
ルチアは、そのあまりの熱狂に一瞬だけ目を瞬いた。
「……少し、大袈裟ですわね」
「事実だ」
隣でレオンハルトが、手元のワイングラスを傾けながら静かに言う。
「君の功績だ。君は誇っていい」
「だから、それは正当な業務評価として――」
「ああ。好きに解釈しろ」
もう何度目か分からない、お決まりの応酬だった。
なのに、そのたびに自分のペースが少しだけ崩され、調子が狂うのは本当に困る。
◇ ◇ ◇
宴が中盤に進むにつれ、城内の幹部や実務官たちが、グラスを片手に順にルチアの卓へ挨拶へやって来た。
最初はぎこちない「昨日は無礼な態度をとって申し訳ありませんでした」という謝罪から始まり、次第に「次はこの証拠資料を整理しておきます!」「会計の裏帳簿の癖をまとめました!」「人間国側の使節が来た時の過去の発言録も洗い出します!」と、熱を帯びた実務的な提案へと変わっていく。
ルチアとしては、中身のない世間話より、そのほうがよほど歓迎すべき流れだった。
「ルチア様! こちら、過去三年分の倉庫出納記録の所在一覧です!」
「優秀ですわね。よくまとめましたわ」
「明日、朝イチまでにすべて完璧に整理いたします!」
「今夜は祝勝会でしょう? 明日の昼で結構よ。労基法違反で私を捕まえさせる気?」
「はっ……! お心遣い、痛み入ります!」
言われた若い記録官が、なぜか「なんて慈悲深い上司だ」と感極まった顔をして戻っていく。
解せない。(ブラック企業に毒されすぎているわね、この国も)
会計係の一人は、違約金差額の再計算の補助表を自発的にエクセル並みの精度で持ってきた。
補給官は輸送護衛体制の変遷図を可視化して提示し、老文官のバルグは「法務庫の最高機密である閉架記録の一部を、ルチア様限定で仮搬出許可しますじゃ!」とまで言ってのけた。
(土下座の百倍有益ね。実に結構だわ)
「思った以上に、皆よく動くようになっただろう?」
気づけばルチアの隣へ来ていたゼノヴィアが、強い酒の入った杯を傾けながらニヤリと笑う。
「あなたたちが徹底した実力主義だからではなくて?」
「それもある」
彼女は口元を少し上げる。
「だが、明確に『勝たせてくれるトップ』がいると、現場の兵(人間)は動きやすいんだ」
ルチアは、極上の紅茶の湯気越しに広間を見渡した。
確かに、空気は明るい。
ただ浮かれているだけの軽さではない。長年鬱屈していた重い岩盤に、初めて風穴を開けられたという、カタルシスと安堵と興奮がある。
「魔族たちは長いこと、人間国の卑劣な外交に『やられっぱなし』だと思わされてきた」
ゼノヴィアが低く、噛み締めるように言う。
「武力で殴り返せば、神聖帝国が介入してきて大戦争になる。外交でやれば、理屈で丸め込まれる。そういうものだと、どこかで諦めて、貧しさに耐えていた」
「……」
「そこへお前が来て、血も流さず、ただ机の上の『論理と証拠』だけで、あいつらを完膚なきまでに叩きのめした」
彼女はそこで、珍しく真っ直ぐ、戦友を見るような熱い目でルチアを見た。
「気分がいいんだよ、単純に。スカッとした」
「そう」
「だから、今夜くらいは素直に祝われておけ。これはお前個人への称賛だけじゃなく、魔族皆の長年の鬱憤晴らし(デトックス)でもあるんだ」
「……了解しましたわ、副長殿」
ゼノヴィアは満足そうに頷くと、そのまま武官たちの騒がしい輪へ戻っていった。
どうやら彼女なりの、不器用な気遣いだったらしい。
実に分かりやすくて、悪くない。
その直後、今度はエイルがひょいと寄ってくる。
「君、全然酔ってないね」
「紅茶ですもの。アルコールは一滴も入っていませんわ」
「いや、お酒じゃなくて、この空気に」
「酔うような場面かしら。まだ案件の途中よ」
「それもあるけどさ。……魔王陛下にあれだけ甘く丁寧に扱われて、平常心でいられるのがすごいなって」
「……何の話?」
「えっ、本当に自覚ないの? 今日の陛下、いつもより機嫌がいいっていうか、ルチア様に対する態度が完全に……」
「ないですわね」
「うわあ……」
本気で「この人、仕事以外は鈍感すぎる」と引いた顔をされる。
心外である。
「彼は私の雇用主でしょう」
「まあ、うん、そうだけど」
「優秀なトップが、有能な部下へ慰労のために相応の待遇を示すのは、マネジメントとして当然の行為ですわ」
「その論理的(?)な説明で自分が納得できるなら、僕はもう何も言わないよ……」
「何が言いたいのよ」
「なんでもありませーん」
絶対に何か言いたい(からかいたい)顔で、エイルは肩を竦めてササッと逃げた。
失礼な男である。後で書類整理の刑に処してやろう。
◇ ◇ ◇
宴の熱が少し上がってきた頃、不意に、広間に優雅な音楽が流れ始めた。
人間国の夜会で奏でられるような、うるさいだけの金管楽器の編成に比べれば、ずっと小さい。
だが、低音の深い弦楽器と柔らかな木管楽器が重なり、広間に不思議と深みのある、大人の旋律を満たしていく。
飾り気は少ないのに、耳の奥へ心地よく残る曲だった。
「誰か踊るのですか?」
ルチアが何気なく問うと、近くに控えていた侍従が「主賓の方のご希望があれば、皆様も踊られます」と恭しく答える。
その瞬間、強烈な嫌な予感がした。
案の定、すぐ隣から低い声が落ちてきた。
「一曲、どうだ」
「……は?」
「私と踊れと言っている」
「聞こえておりますけれど。……祝勝会(会社の飲み会)で?」
「祝勝会だからだ」
「私に、社長とダンスを踊る法的義務はありませんわ」
「法務顧問としての義務はないな」
「では遠慮――」
「だが、主賓としての義務はあるかもしれんぞ」
「契約書にない曖昧な解釈ですわね」
「なら、『私の個人的な希望』と言い換えよう」
さらりと。
本当にさらりと、ストレートにそう言われて、ルチアは一瞬だけ完全に言葉を失った。
個人的な希望。
強権的な業務命令ではない。
祝勝会の面倒な慣例でもない。
この、他者を寄せ付けない冷酷な男自身が、ただ純粋に「私と踊りたい」と言っているのだ。
(……ずるい)
断れる。理屈の上では断れる。セクハラだと突っぱねることもできる。
だが、ここで意固地に断った場合に広間中へ走る『妙な凍りついた空気』まで含めて計算すると、面倒が大きい。
何より、この至近距離で赤い瞳に見つめられた状況で、「嫌です」と冷たく言い切るには――こちらの心臓の鼓動が、少々うるさすぎた。
「……一曲だけですわよ」
「十分だ」
「十分なのね」
「いまはな」
最後の一言に、また少しだけ調子が狂わされる。
レオンハルトが立ち上がり、再び腕を差し出す。
今度は大広間の中央、数百人の視線が最も集まるダンスホールへ向かうためのものだ。
先ほどと違って、ここで断れば確実に悪目立ちする。
ルチアは心の中で「これは業務上必要な社交(接待)! 取引先とのゴルフと同じ!」と三回唱えて自己暗示をかけてから、その手を取った。
広間の中心へ出ると、音楽が一段柔らかく、ムーディーになる。
周囲の魔族たちが一斉に道を空け、熱い視線が集まるのを感じながらも、ルチアは顔へ完璧な『社交用の微笑(仮面)』を貼りつけた。
だが、腰へ添えられた彼の手の位置が驚くほど正確で、リードして導く力が自然すぎて、その微笑の内側では、ルチアの冷静さが少しずつ、確実に削られていく。
「……お上手ですのね。魔王様がダンスを踊られるとは意外でしたわ」
「王族としての最低限の嗜みはな」
「最低限でこれなら、十分すぎますわ。プロ並みです」
「君も下手ではない。驚くほど軽い」
「次期王太子妃教育に、血を吐くほど含まれておりましたもの」
「……そうか」
ほんの一瞬、レオンハルトの声の温度が冷たく変わった。
ルチアの過去――自分以外の男(王太子)の隣に立つための教育だったという事実が、気に入らなかったのかもしれない。
だが、彼はすぐにそれを押し流すように、力強く引き寄せて続ける。
「なら、今夜はその忌々しい教育も役に立ったな」
「そうですわね」
「無駄ではなかった。私の腕の中で踊るために、君はそれを学んだのだ」
「……傲慢な解釈ですこと。慰謝料回収(身ぐるみ剥がし)の役にも立ちましたし」
「君らしい」
くすり、と。
今度ははっきりと、心底楽しそうに彼が笑った。
その低い笑い声が耳元に響くだけで、胸の奥が妙に騒ぐ。
音楽に合わせて一歩、二歩。
完全に導かれるままに動いているはずなのに、不思議と抑圧感や不快感はない。
むしろ、恐ろしいほど心地よい。
相手の歩幅、回転の速度、手の位置、視線の合わせ方。そのすべてが、こちらへ余計な負担をかけないよう、完璧に調整されているのだ。
人間国の王城の夜会では、男性の技量よりも家格や形式が優先され、女性はただ振り回されるだけの飾りにすぎなかった。
だがこの男は違う。
相手が一番美しく見え、最も踊りやすいことを最優先している。
それがこれほど自然にできる者は――本当に、厄介だ。
「顔が少し赤いぞ」
「……魔導灯の照明のせいですわ」
「そうか」
「そうです」
「なら、もう少し近づいても問題ないな」
「問題大ありです」
即答して抵抗したのに、レオンハルトはまた少しだけ笑い、腰を抱く手にグッと力を込めた。
広間の周囲では、既にあちこちで「陛下が笑った!」「あんなお顔、初めて見たぞ」「完全に落ちてらっしゃるな」といった気配がヒソヒソとざわめき始めていた。
実に気が散る。
「魔王様」
「何だ」
「周囲の外野が騒がしいのですけれど」
「放っておけ」
「そういうわけにも――」
「放っておけ」
二度目は少しだけ声が強く、低かった。
だが威圧ではなく、周囲の雑音をすべて遮断するような、奇妙な安心感を伴う強さだった。
「今は、君だけ見ていればいい」
「……それは」
「私と君の、ダンスの話だ」
「……存じていますわ」
たぶん。
たぶん本当に、ただのダンスのリードの話だ。
そういうことにしておくのが、精神衛生上、最も賢明だろう。
ルチアは視線を逸らしそうになり、結局逸らせずに、至近距離にある赤い瞳を見返した。
近い。
思っていたよりずっと近い。
これ以上見つめていると、法務顧問としての論理的な思考回路がショートして、胸の高鳴りを処理しきれなくなる気がした。
(落ち着きなさい、私。証拠資料を読み解くように冷静に!)
これは業務上の祝勝会。
相手は雇用主。
自分は専属法務顧問。
以上。それ以上でもそれ以下でもない、完全なるビジネスの関係。
そう結論づけようとして、ふと気づく。
レオンハルトの視線が、普段の「有能な人材を見る目」とは明らかに違うことに。
能力への評価の熱がある。敬意もある。
だがそれだけではない。もっと深く、もっと甘く、もっと独占欲に満ちた、もう一段別の『オスとしての熱』が混じり始めている。
それを正面から認識してしまった瞬間、ルチアは動揺のあまり、危うくステップの足をもつれさせそうになった。
「あっ……」
だが、腰へ添えられた彼の手が、ほんのわずかに力強く支え、体勢は崩れない。
「危ない」
「……申し訳ありません。ありがとうございます」
「珍しいな」
「何がですの」
「鉄壁の君のペースが、乱れるのは」
「乱れておりません」
「そういうことにしておく」
またしても、退路を断つような返しがずるい。
曲が終わりに近づく。
一周、また一周。
気づけば、最初に感じていた周囲の騒がしい視線はもう遠のき、全く気にならなくなっていた。
世界に残っているのは、柔らかい音楽と、腰を抱く手の確かな温度と、近すぎる深紅の瞳だけだ。
最後の旋律が静かに落ちる。
レオンハルトはごく自然にルチアの動きを止め、深くではなく、しかし極めて丁寧に、最高のレディを扱うように礼(お辞儀)を取った。
広間に、割れんばかりの拍手が起こる。
控えめなどではない、熱狂的な拍手。
それにようやく現実(ビジネスの世界)へ引き戻され、ルチアは完璧な笑みを顔に貼り付け直して、美しいカーテシーで礼を返した。
ただし、彼女の心臓の音は――少しも完璧(冷静)ではなかった。
◇ ◇ ◇
「お疲れのようですわね、主賓殿」
宴席へ戻った直後、ゼノヴィアがニヤニヤと意地悪く笑いながら言う。
「別に。ただの軽い有酸素運動ですわ」
「その割には、顔が少し熱いぞ?」
「……照明のせいですわ」
「ああ、そういうことにしておいてやるよ。うちの陛下も同じことを言ってたしな」
「……あなたまで」
「気の毒にな、最強の法務顧問」
「何がかしら」
「うちの陛下、獲物を見つけた時だけは、どこまでも執念深く粘るんだ。絶対に逃がさない」
「人聞きが悪いですわね。私は顧問であって獲物ではありません」
「そのうち分かるさ」
意味深なことだけ言って、彼女は高笑いしながら酒の輪へ戻っていく。
本当にろくでもない職場だ。
ルチアはようやく熱い息をひとつ吐き、差し出された紅茶のカップへ手を伸ばした。
一口飲む。
上質で、香りもいい。カフェインが少しだけ荒れた心を落ち着かせてくれる。
「やはり、君には酒より紅茶のほうが似合うな」
気づけば、またすぐそばの席にレオンハルトが座っていた。
「……気配を消して背後に近づくのは、心臓に悪いのでおやめいただけます?」
「消してはいない。君が隙だらけなだけだ」
「十分に静か(ステルス)ですわ」
「そうか」
「そうです」
レオンハルトはそれ以上は何も言わず、ただ同じ卓へ深々と腰掛けた。
それだけなのに、周囲の空気がまた少しだけ「お邪魔しないように」と気遣ってざわつく。
本当に面倒な男だ。
だが。
面倒で、ペースを乱されて困るくせに、彼の隣が『嫌ではない』のが、もっと困る。
しばらくして、宴は少しずつ落ち着きを見せ始めた。
高揚していた兵たちも酒と食事で腹を満たして丸くなり、有能な文官たちは明日の激務(人間国への追撃準備)を見越して、早めに引き始める。
勝利の夜としては、ダラダラ長引かない、ちょうど良い着地だろう。
その頃合いを見計らったように、レオンハルトが低く、真剣な声で言った。
「ルチア」
「何ですの」
「この後、少しだけ時間をもらう」
「……明日の業務の打ち合わせですか?」
「いや。君に渡したい『重要な書類』がある」
「今夜ですの?」
「今夜だ」
彼の表情は落ち着いていた。
だが、その落ち着き方が少しだけ引っかかる。
重大な外交書類という割には空気が硬すぎず、しかし決して軽くもない。
妙な、甘く危険な気配だった。
「私の執務室へ来てくれ」
「……分かりましたわ」
業務の話(書類の受け渡し)なら、断る理由はない。
そう自分へ論理的に言い聞かせながら、ルチアはカップを置いた。
今夜はこれで終わりだと思っていた。
祝勝会へ出て、多少周囲に持ち上げられ、踊らされて――いや、魔王と踊って――それで一区切り。
そういう夜のはずだった。
だが、どうやら魔王はまだ、何か特別な罠を用意しているらしい。
しかもその“重要な書類”という言い方には、なぜか法務顧問としての勘が『あまり良くない(逃げられない)予感』を告げていた。
宴のざわめきの向こうで、黒衣の魔王がこちらを見る。
その視線がひどく静かで、ひどく真っ直ぐで、熱を帯びていて。
ルチアはまた少しだけ、完璧な実務家としての落ち着きを失いそうになった。
(……業務よ。絶対業務だわ)
そう。きっと業務だ。
業務書類。
契約関連。
条約破棄の通知書の最終確認。
そういう真っ当で血生臭い実務に違いない。
そのはずなのに、なぜか胸の鼓動は、ただの法務資料を受け取る前のそれではなかった。




