第15話 執務室への呼び出しと新たな羊皮紙〜『終身雇用契約書』のサブタイトルが『婚姻届』だなんて、聞いていませんわよ!?〜
祝勝会がお開きに近づくころには、広間の熱気もすっかり落ち着いていた。
高揚してジョッキを掲げていた兵たちは程よく酒が回り、有能な文官たちは「明日の朝イチで例の裏帳簿の精査に入らねば」と現実(業務)を思い出したのか、名残惜しさを残しつつも三々五々に散り始めている。
勝利を祝う社内イベントとしては、ダラダラ長引かない、最高の上々の収まり方だった。
ルチアもまた、ようやく一息つけるかと思っていた。
思っていたのだが、現実はそう甘くはない。
「では、参ろうか」
レオンハルトが、まるで「次の会議室へ移動するぞ」とでも言うような、極めて自然な声音で言った。
広間の端、喧騒から少し離れた静かな位置で一息ついていたルチアは、手元の特注のティーカップをコトリと置いて顔を上げる。
「……本当に今夜ですの?」
「今夜だ」
「『重要な書類』をお渡しくださるというお話でしたわね」
「ああ、そうだ」
「条約関係? それとも神聖帝国に関する特秘資料?」
「それに近い」
「……『近い』というのは、法務顧問としては少々看過できない曖昧な表現ですわね」
「読めば分かる」
その返答の時点で、ルチアのプロとしての勘は、もう『極めてよろしくない予感』をガンガンと鳴らしていた。
条約関係の緊急事態にしては、彼の声のトーンが硬すぎない。かといって、酔った勢いの冗談にしては、その深紅の瞳が真剣すぎる。
しかも、この男は妙なところで段取り(根回し)が良い。
わざわざ祝勝会が終わる絶妙なタイミングを見計らって、トップのプライベートな執務室へ個別に呼ぶ以上、ただの追加の外交資料ではないのだろう。
「……承知しましたわ」
ルチアは優雅に立ち上がる。
「ただし、長引くようなら極上の紅茶のおかわりを要求しますわよ」
「すでに淹れたてを用意させてある」
「……本当に、抜かりがありませんわね」
「君がうるさい(細かい)からな」
「有能なトップであるという最高の褒め言葉として受け取っておきます」
周囲の残っていた魔族たちの視線が、また少しだけ(ニヤニヤと)こちらへ集まる。
祝勝会の主賓であり、魔王自らエスコートされて入場し、ダンスまで踊った挙句、宴の終わりに個別で『魔王の私的執務室』へ呼ばれる。
事情を知らぬ者から見れば、いや、事情を知っている者から見ても、百パーセント誤解の育ちやすい状況である。
もっとも、ルチアはその視線を気にする素振りを見せなかった。
正確には、気にして赤面などしたら相手のペースに乗せられるだけだと、論理的に割り切った。
どうせ何をしても見られる(噂される)なら、せめて仕事(実務)を優先したほうが合理的だ。
◇ ◇ ◇
夜の魔王城は、昼の戦場のようなピリピリとした空気とも、先ほどまでの宴の喧騒とも違う、ひどく静謐な空気を纏っていた。
長い石廊。
等間隔に灯る魔導灯が、二人の影を長く伸ばす。
窓の外には、群青へ沈んだ険しい山並みと、遠く城下に散る領民たちの小さな灯りが星のように瞬いている。
賑やかだった広間から少し離れるだけで、空気はすっと冷えて、二人の靴音だけが内緒話のように響く。
レオンハルトは無駄に喋らない。
ルチアも、今はあえて何も問わなかった。
問えば、律儀に答えるだろう。
だが、その答え方によっては、法務顧問としての心構え(ロジック)が狂う気がしたのだ。
それなら、実物(書面)を見たほうが早い。
やがて辿り着いたのは、魔王城中央棟の最上階――レオンハルトの『私的執務室』だった。
祝勝会の後に仕事の話で通される場所としては、ずいぶんと奥まっており、プライベートな領域に近い。
警備も厳しく、扉は重厚で、前に立つ屈強な近衛兵たちも、ルチアを見て一瞬だけ目配せをした後は、必要以上に口を開かなかった。
明らかに、国家の最高機密レベルの書類が扱われる区画だ。
(……条約原本の隠し金庫か、あるいは裏帳簿の原本級かしら)
そう無理やり仕事脳に切り替えたところで、重い扉が静かに開く。
中は、予想より落ち着いた部屋だった。
広さは十分にあるが、成金趣味の豪奢というより、極めて『整然』としている。
巨大なマホガニーの執務机、壁一面を埋め尽くす分厚い魔導書と法律書の書架、広域の地図台、いくつもの封印箱。
そして中央には、応接用の低いアンティーク卓と革張りのソファがあり、そこへ既に約束通り、最高級の茶葉を使った紅茶の支度が完璧に整えられていた。
灯りは明るすぎず暗すぎず、書類を読む――あるいは、誰かと親密に語り合うのにちょうどいい。
「……本当に、完璧なタイミングで紅茶が用意されていますのね」
「君にとって、必要なのだろう?」
「ええ。脳の栄養として重要ですもの」
「知っている」
ルチアはそう言いながらも、鋭い視線で机上をさりげなく観察する。
普段の決済や執務に使っているらしい書類の束は、すべて脇へ綺麗に寄せられ、中央のスペースだけが不自然なほどぽっかりと空いていた。
つまり、今夜見せたい『たった一つのもの』のために、わざわざ神聖な場所を作ってあるのだ。
やはり、ただの追加資料の束ではない。
レオンハルトは扉が閉まるのを確認すると、侍従たちへ一瞥だけ送り、全員を完全に下がらせた。
部屋に残るのは、魔王と、人間の令嬢の二人だけ。
その瞬間、部屋の静けさの『質』が、甘く重いものへと少し変わる。
日中の仕事部屋としては自然な状況だ。
だが、あの祝勝会の熱のあとで、こうして二人きりの密室になると、どうにも意識の置き場に困る。
ルチアはとりあえず、逃げるように先にソファへ腰を下ろし、平常心を保つためにも即座に紅茶へ手を伸ばした。
「それで」
極上の紅茶を一口飲んでから、きわめてドライな、実務的な口調で問う。
「私に見せたい『重要書類』とは?」
レオンハルトはすぐには答えない。
代わりに、執務机の奥へゆっくりと歩み寄り、そこに大切に置かれていた『細長い木箱』を手に取った。
黒檀の木肌に、精緻な銀の留め具を打った箱だ。装飾は少ないが、素材も仕立ても一級品。見るからに、国宝級の特別扱いの書類を収めるためのものだった。
彼はそれを応接卓の中央へコトリと置き、ルチアの向かいへ深く腰を下ろす。
深紅の瞳が、静かに、真っ直ぐにルチアを見た。
「君に渡したいものがある」
「ですから、それが何なのかを先ほどから伺っているのですけれど?」
「『契約書』だ」
「……追加の雇用契約?」
「そうとも言える」
曖昧だ。
曖昧だが、妙に真面目で、しかも少しだけ声音が低く、熱を帯びている。
ルチアはソーサーにカップをカチャリと置いた。
いよいよ、法務顧問としての危険信号が鳴り響いてきた。
「私の雇用契約の修正ですの?」
「雇用の『延長』に関わる」
「延長」
「そうだ」
「今の契約は、私が望めば『一年更新制』というお話でしたわね」
「その通りだ」
「でしたら、それを複数年の専属契約へ切り替えたいと?」
「……近いな」
「本当に歯切れが悪いですわね、今夜の魔王様は。いつもなら結論からズバッとおっしゃるのに」
「普段の君のロジックが、鋭すぎるだけだ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」
会話が妙に噛み合わない。
いや、噛み合ってはいるのだが、相手が意図的に『核心(本題)』をわざとずらしている。
それがさらに不穏だった。
レオンハルトは観念したように、あるいは覚悟を決めたように、黒檀の木箱の銀の留め具をカチャリと外した。
中から現れたのは、ペラペラの一枚紙ではない。
厚手の上質な最高級羊皮紙を数枚重ね、さらに表紙用の美しい飾り紙で丁寧に綴じた、かなり正式な体裁の『分厚い文書』である。
封印蝋はまだ押されていない。
つまり、相手の合意を待つ『草案』ではあるのだろう。
だが、表紙に刻まれた流麗な金文字のタイトルを見た瞬間、ルチアは心臓を鷲掴みにされたように、ピタリと動きを止めた。
『終身雇用契約書』
「…………」
「読め」
「……今、何と?」
「『終身雇用契約書』だ」
「見れば分かりますわよ! 読めますもの!」
分かる。
意味は分かるが、分かりたくない。
終身雇用契約書。
字面(ビジネス用語)としては完全に理解できる。
法務顧問として極めて優秀な人材を、他国へ流出させず長期的に確保したい。雇用主としてそう考えること自体は、理屈の上では全くおかしくない。むしろ当然の防衛策だ。
だが。
(この男が、今このタイミングで、わざわざこんな大仰な木箱へ入れて、夜の密室で、二人きりで、あんなロマンチックな祝勝会のあとに渡すものとしては……だいぶ文脈が物々しすぎるでしょうが!)
ルチアは無言で、恐る恐る羊皮紙を受け取る。
厚み、質感、インクの筆致。
どれも本気だ。
酔った勢いの冗談や、悪ふざけの類ではない。
そうなると、余計に困る。
「念のため、法務顧問として確認しますけれど」
ルチアは表紙から目を離さず、防衛線を張るように言う。
「これは、法務顧問(弁護士)としての私を、魔王領で『長期雇用』したいという、ありがたいビジネスの提案ですのよね?」
「その理解で、大きくは外れていない」
「“大きくは”というエクスキューズがつく時点で、ろくでもない地雷の気配しかしませんわね」
レオンハルトは何も言わず、ただ「読めば分かる」というように静かに顎を引いた。
仕方なく、ルチアは震えそうになる指先を叱咤し、一枚目をめくる。
◇ ◇ ◇
冒頭の条文は、意外なほどまともだった。
雇用主:レオンハルト・ヴァルツェンベルク。
被雇用者:ルチア・フォン・クライス。
役職:魔王領『終身』法務顧問。
職務内容は、法務助言、契約監査、条約交渉、外交補佐、必要に応じた内政監督助言。
(ここまではいい。少し強引な囲い込みではあるけれど、長期の専属顧問契約として法的に成立しうるわ)
「……ふむ。なるほど」
ルチアは低く呟きながら、プロの目で次頁へ進む。
『第一条 雇用主は被雇用者に対し、生涯にわたり住居、食事、被服、執務環境、健康管理、および精神的安寧の維持に必要な一切を完全に保証する』
「待ってくださいませ」
ルチアが顔を上げる。
「何だ」
「保証範囲(福利厚生)が広すぎます」
「不足か?」
「逆です」
ルチアは即答した。
「『生涯にわたり』、住居、食事、被服、健康管理、おまけに『精神的安寧』まで全部丸抱えで保証する雇用契約が、どこの世界にあるのです! 過保護すぎますわ!」
「ここにあるだろう」
「そういう物理的な問題ではありませんわ!」
彼女はぐっとこめかみを押さえる。
まだ第一条だ。第一条目で既にツッコミどころ(重さ)がおかしい。
「百歩譲って衣食住はいいとして。“精神的安寧の維持”とは、具体的に法務上どう定義するおつもりで?」
「君が不快に思うもの(敵)を、私がすべて物理的・法的に遠ざけて排除する」
「危険な思想ですわね! マフィアの契約ですか!」
「なぜだ」
「定義が雇用主の裁量(独占欲)に寄りすぎています」
「なら、君が自由に定義すればいい」
「そこは大幅な修正(赤字)の余地がございますわね」
落ち着け。
まだ、ただの異常に過保護でホワイトすぎる『長期雇用契約』かもしれない。
雇用主の愛がやや重いだけで、法的にはなんとか整えられる余地があるはずだ。
そう自分へ必死に言い聞かせ、ルチアは次頁をめくった。
『第二条 雇用主は被雇用者の地位、名誉、身体、生活基盤を脅かす全ての外的要因から、自身の全存在を懸けて可能な限りこれを防衛する義務を負う』
「……」
「どうした、何だ」
「外的要因の範囲が広すぎますし、雇用主の防衛義務が重すぎます。“全存在を懸けて”などという文学的な表現は契約書には不要です」
「君はそれだけ、価値が高い(失いたくない)からな」
「高評価はありがとうございます。ですが、これでは雇用契約というより、完全な『保護(囲い込み)契約』に近いですわ」
「何か問題あるか」
「大いにあります!」
ルチアはそう言いながらも、妙に喉がカラカラに渇くのを感じて、再び紅茶のカップへ手を伸ばした。
一口飲む。
全然、全く落ち着かない。
目の前のレオンハルトは真面目だ。大真面目だ。
一切の照れもなく、真剣な顔でこの激重な契約書を差し出している。
つまり本人は、この条文の『どこがどうおかしいのか』、本気で分かっていない可能性が高い。
その事実が、書類の狂った文言以上に、ルチアにとって厄介だった。
「……続けますわよ」
「そうしろ」
三頁目。
『第三条 被雇用者は、雇用主の統治領域において、雇用主と“最も近しい立場”にてその職責を補佐し、必要に応じて私的領域においても助言、同行、同席、監督その他を生涯行うものとする』
「……はい?」
「何だ」
「私的領域?」
「ああ。公私を完全に切り分けるのは、一緒に過ごす時間が減って非効率だろう」
「公私混同にも限度がありますわ!」
ルチアは思わず、バンッと机を叩いて声を強めた。
「だいたい、“最も近しい立場”とは法的に何ですの! 曖昧すぎます!」
「文字通り、私の隣だ」
「曖昧です。解釈の余地があります」
「ならば、明確に書き換えるか?」
「当然ですわ。ビジネス文書ですから」
「なら、“配偶者に準ずる近接権限”でどうだ」
「即刻却下です!!」
声が少し、いや、かなり大きく響いた。
だが仕方がない。
いま、この男は何と言った。
『配偶者に準ずる近接権限』。
いくらなんでも、雇用契約に入れるべき文言ではない。
レオンハルトは、少しだけ目を瞬いた。
自分の完璧な提案が、そこまであっさりと大きく弾かれると思っていなかった顔だ。
「そこが問題か」
「そこ以外もツッコミどころ満載ですけれど、特にそこが大問題ですわ!」
「そうか」
「そうです」
「では、表現を言い換えよう」
「言い換え(言葉遊び)で済むレベルの話とは思えませんけれど」
「“伴侶としての義務を当然には伴わないが、事実上それに近い絶対的な信頼関係を前提とした、生涯の補佐体制”」
「余計に生々しくて駄目ですわ!!」
今度こそ、ルチアははっきりと頭痛がしてきた。
◇ ◇ ◇
ルチアは深く、長く深呼吸を一つ入れる。
落ち着け。弁護士としての冷静さを取り戻すのよ。
これはまだ、最後まで読了していない。
全体を見なければ、正確な法的評価とツッコミはできない。
前世の優秀な実務家として、それは鉄則だ。
「……最後まで読みます」
「賢明だ。さすが私の顧問だ」
「読んだうえで、全面的に『真っ赤に染まるほどの駄目出し(リジェクト)』をする権利を事前に行使いたします」
「受けて立つ」
何を受けて立つのか。
本当にろくでもない。
四頁目。
五頁目。
読み進めるほどに、ルチアの顔から完璧な営業スマイルが消え失せていった。
『第六条 被雇用者が、他者との新たな契約(特に婚姻等)により、本契約上の義務遂行に支障を生じさせることを固く禁ずる』
『第七条 雇用主は、いかなる理由があろうとも被雇用者の離職(別離)を認めない』
『第八条 契約解除は、原則として双方の合意によらない限り不可とする』
『第九条 被雇用者が外部の者より求婚、その他これに類する親密な提案を受けた場合、ただちに雇用主へ報告し、雇用主がこれを物理的・法的に排除する権利を有する』
『第十条 被雇用者が本契約へ署名した時点で、雇用主は被雇用者を“国における唯一無二の地位”に置くものとする』
「…………」
「どうした、ルチア」
「どうした、ではありませんわよ」
ルチアはバシッと顔を上げた。
もはや完全に、法廷で相手の矛盾を詰める『実務家の修羅の顔』である。
動揺(照れ)の感情がキャパシティを超えすぎて、逆に冷え切った。
「これ、どう見ても雇用契約ではありませんわよね?」
「立派な雇用契約だ」
「どこがですの! 労働基準法違反のオンパレードですわ!」
「終身雇用だからだ」
「単語の問題ではありません!」
ルチアは羊皮紙をバタンと閉じ、卓へドンッと置いた。
「離職の絶対不可、解除原則不可、他者との契約(恋愛)の完全制限、求婚の事前報告義務、おまけに唯一無二の地位! ……どう見ても、労働契約の皮を被った『超重量級の独占契約』です!」
「ああ。君を独占したいからな」
「開き直らないでくださいませ!!」
「何が問題だ」
「全部です!」
レオンハルトは、ルチアの猛烈な怒涛のツッコミを受けても、特に動じない。
むしろ静かに、自分の正当性を論理的に確認するように言った。
「生活保障は手厚い」
「そういう金銭的な問題ではありません」
「地位も名誉も完璧に守る」
「そこでもありません」
「絶対に離職(手放)させない」
「そこが特に問題なのです!」
「他の男へ渡すつもりも一切ない」
「それはもう、完全に『雇用』の文脈から外れていますわ!!」
言い合いながら、ルチアの胸の奥で、いやな、しかし甘い確信が完全に形になっていく。
最初から、薄々気づいていなかったわけではない。
ただ、認めたくなかったのだ。
表題が『終身雇用契約書』であることを盾にして、これはまだビジネスの仕事の範囲内かもしれないと、必死に論理で誤魔化していた。
だが、もう無理だった。言い逃れできない。
ルチアはゆっくりと、羊皮紙の豪華な表紙へ視線を戻す。
金文字の『終身雇用契約書』。
そのすぐ下に記された、小さな副題を、先ほどは動揺のあまり読み飛ばしていたことに気づく。
極めて流麗な、しかし絶対の意志を感じる筆致で、こうある。
――(別名、婚姻届)。
「…………」
「……気づいたか」
「気づきたくありませんでしたわ!」
レオンハルトは、ほんのわずかに、しかし確かな優越感を持って口元を上げた。
その反応で、ルチアは完全に確信する。
(この男……最初から、私がどう反応するか全部分かったうえでやっているわね!)
“重要な書類”だの“雇用の延長”だの、微妙にビジネス用語で濁して警戒を解いたのも、全部。
自分がどの時点でこの書類の『真意』に気づき、どう赤面して反応するかを、特等席で見て楽しんでいたのだ。
(性格が悪すぎる……! 優秀なトップはこれだから厄介なのよ!)
「魔王様」
「何だ」
「法務顧問として、最終確認します」
ルチアは一言一言、噛み締めるように、区切るように告げた。
「これは、私に対する『婚姻の申込み(プロポーズ)』ですのね?」
「ああ。そうだ」
「雇用契約の延長ではなく?」
「実質的な雇用契約でもある」
「婚姻が主目的では?」
「どちらも主目的だ。君の頭脳も、君自身も欲しい」
「一石二鳥を狙って『二重契約』にしないでくださいませ!」
思わずソファから勢いよく立ち上がる。
座っていられない。
あまりにも落ち着いて、真面目な顔でそんな甘い独占欲を語るから、余計に始末が悪い。心臓に悪い。
「恋愛感情という不確定要素に基づく終身契約は、法的リスクが高すぎます!」
ルチアはもう、ほとんど前世の弁護士の反射(職業病)で言っていた。
「感情の変動、認識の齟齬、生活領域の衝突、利害不一致、親族関係の波及、外交的影響! ……どれを取っても、国家のトップとしては危険要因しかないではありませんか!」
「なら、そのリスクはすべて契約の条件で詰めればいい」
「そういう事務的なものではありません!」
「契約(結婚)とは、そういうものだろう?」
「プロポーズまで論理的な『契約処理』にしないでくださいませ!」
レオンハルトは静かに、ゆっくりと立ち上がる。
長身の影が卓越しにルチアを覆うように落ちる。
だが、威圧するためではない。
あくまで彼女の言葉(拒絶)を、逃げずに正面から受け止める姿勢だった。
「ルチア」
「……何ですの」
「君が、誰よりも『契約』を重んじ、法理を信じているのは知っている」
「ええ、重んじますとも。契約は裏切りませんから」
「だからこそ、その場の感情や軽い言葉ではなく、絶対に裏切らない『正式な文書(契約)』の形で示した」
「……愛が重すぎますわ!」
レオンハルトは、ルチアがどれだけロジックで突っぱねても、一歩も退かない。
その深紅の瞳は、祝勝会の最中で見せた熱よりもむしろ静かで、真っ直ぐで、射抜くようだった。
「私は、君を傍に置きたい」
「……」
「仕事の有能なパートナーとしてでも、生活を共にする伴侶としてでもだ。君以外は考えられない」
「……だから、それを合理的にまとめて、一枚の羊皮紙に押し込まないでくださいと申し上げているのです」
「その方が効率がいいだろう」
「悪いです!」
ルチアは真っ赤になった顔を隠すように、きっぱり言い切る。
「そもそも、私はまだ貴方を『極めて優秀な雇用主』として高く評価している段階であって、それ以上の個人的な関係性(恋愛)に移行する『合理的根拠』を持っておりませんわ」
「なら、これから私が示せばいい」
「示されても困ります」
「なぜだ」
「困るからです!」
だいぶ、いや完全に、ルチアの理屈が雑になってきた自覚はある。
だが、こんな甘すぎる状況で、整然と論理的に論じられるほうがどうかしている。
レオンハルトは少し考えるように沈黙したあと、低く、核心を突くように言った。
「……君は、私を嫌ってはいないだろう」
「……ええ。嫌ってはおりませんけれど」
「私の手腕を、信頼もしている」
「……業務上は、ええ」
「それで、十分始められる」
「十分ではありません!」
またしても話が噛み合わない。
いや、この男は完全に噛み合わせたうえで、自分のペースで強引に押しているのだ。
自分に有利な定義へと、平然と会話の主導権を滑らせてくる。
(交渉相手として、最悪(最強)だわ……!)
同時に、心のどこかが、この手強い相手との『落とし所の見えない交渉』を、たまらなく面白がっている自分がいて、なおさら腹立たしかった。
◇ ◇ ◇
しばしの気まずい沈黙のあと、ルチアはようやく乱れた息を整えた。
そして卓上の、分厚い愛の塊のような羊皮紙を見下ろし、弁護士として静かに結論を出す。
「……いずれにせよ」
「何だ」
「今この場で、この恐ろしい書類に署名はいたしません」
「そうか」
思ったよりあっさりと返ってきて、ルチアは少しだけ拍子抜けして目を瞬く。
「……強引に止めませんの?」
「止めても無駄だろう。君は自分が納得しない契約には、絶対にサインしない女だ」
「……よく存じていらっしゃるなら結構ですわ」
「だが」
レオンハルトは、一歩だけルチアに近づく。
近い。
祝勝会のダンスで、腰を抱かれた時を思い出す程度には、危険なほど近い。
「『保留』は、『完全な拒絶』ではないな?」
「……都合の良い解釈ですこと」
「違うのか」
「……」
「違わぬのなら、私は待てる」
「待つ気満々ですわね」
「当然だ。欲しいものは逃がさない」
その即答が、やはりずるい。
ルチアはたまらず視線を逸らし、コホンと咳払いを一つした。
「……保留です」
あくまで冷静に。
あくまで実務的に。
そう見えるよう、必死に努力しながら告げる。
「恋愛感情という不確定要素を含む終身契約(結婚)については、法務顧問として厳密な『追加審査』と『長期検討』を要します」
「承知した」
「その間、この羊皮紙(地雷)は私は預かりません。お返しします」
「なぜだ」
「持ち帰ったら、寝室のベッドの上でまで、気になって徹夜で赤入れ(修正)しそうですもの」
「それはそれで、ぜひ見たいな」
「絶対に見せませんわ」
レオンハルトが、そこで本当に少しだけ、心底嬉しそうに笑った。
静かな、しかし隠しきれない『手応え』に対する満足の混じった笑みだった。
「では、ここに置いておく」
「そうしてくださいませ」
「気が変われば、いつでも署名していい」
「変わりませんわ」
「どうだろうな」
ルチアはもう、それ以上は反論しなかった。
反論したところで、この有能な男はたぶん全部ロジックで受け止めたうえで、自分に有利なように甘く解釈するだけだ。
今はこれ以上、この危険な応酬を続けるべきではない。
そう判断した。
「今夜はこれで失礼します」
ルチアは深呼吸して、ようやく完全な淑女の笑み(鉄壁の防御)を取り戻す。
「業務外の重すぎる重要書類まで処理させられては、さすがに私の脳が休まりませんわ。労災が下ります」
「業務外、か」
「ええ。少なくとも、現時点では」
「いずれ『業務内(夫婦の共同作業)』になる可能性は?」
「ありません」
「そういうことにしておく」
「……本当に、どこまでもずるいですわね、貴方」
「君の悪魔のような交渉術ほどではない」
最後まで、その飄々とした余裕で押し通すつもりらしい。
ルチアは半ば諦めながら優雅に一礼し、足早に扉へ向かう。
背中に、強烈な視線を感じる。
ひどく真っ直ぐで、逃がす気のない、オスとしての熱のある視線だ。
振り返らない。
振り返ったら、また絶対に調子が狂う。
重い扉に手をかけたところで、背後から低い声が届いた。
「ルチア」
「……何ですの」
「君がこの書類に署名したくなるまで、私は何度でも、徹底的に『論理的』に口説くつもりだ」
「……やめてくださいませ。迷惑です」
「無理だ」
「即答ですのね」
「君も、本当は嫌ではないのだろう?」
「私は違いますわ」
「そうか」
本当に、どこまでも余裕のある、底知れない男だった。
ルチアはそれ以上返さず、バンッと扉を開けて執務室を後にする。
冷たい廊下に出て扉が閉まった瞬間、ようやく深く、肺の底から息を吐いた。
廊下の空気は冷たい。
なのに、自分の頬はまだ熱で茹で上がっている。
頭の中では、さっきの狂った条項が、呪文のように何度も再生されていた。
生涯にわたる生活保証。
離職不可。
解除原則不可。
他者への牽制。
唯一無二の地位。
そして――別名、婚姻届。
(何なのよ、あの激重な契約書……!)
まともではない。
まともではないが、妙に本気で、妙に筋が通っていて、逃げ道を塞がれていて……だからこそ、最高に厄介なのだ。
ルチア・フォン・クライスは、夜の回廊をカツカツと早足で歩きながら、自分の心臓の音がまだ少し速いことを、論理的に認めざるを得なかった。
そして同時に、分かってしまってもいた。
あの書類に、今すぐ署名する気は微塵もない。
けれど、完全に「くだらない冗談だ」と笑い飛ばして終われるほど、彼の想いも、自分の感情も、決して軽いものではなかったのだと。
魔王の執務室には、まだあの分厚い羊皮紙が残っている。
ルチアの署名のないまま。
けれど、確かに『次の一手』を待っている、運命の契約書として。
その夜。
ルチアは、用意された最高級の寝台に入ってからも、しばらく眠れなかった。
終身雇用契約書――否、どう見ても束縛の激しい婚姻契約書の条項が脳裏を巡り続けたせいもある。
だがそれ以上に、最後に向けられた、あの真っ直ぐで熱い深紅の視線が、ひどく厄介だったのだ。
保留。
たしかに、答えは保留した。
だが、その「保留」が、法的に、そして感情的に何を意味するのかを……。
最もよく分かっていないのは、もしかすると法務顧問である自分自身なのかもしれない。




