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第13話 評価の反転と魔族たちの土下座〜「人間の女」から「最強の法務顧問」へ。結果を出せば手のひら返しも鮮やかですわね〜

 人間国の傲慢な外交使節団が、顔面蒼白で魔王城を敗走してから、わずか半日。


 たったその半日で、城内の空気モメンタムは驚くほど劇的に変わっていた。


 もともと魔王城という場所は、噂話と陰口が大好きな人間国の貴族社会サロンとは違う。

 だが、情報の伝播速度が遅いわけではない。むしろ逆だ。

 軍務、財務、外務、法務、補給――それぞれの部署が、極限の予算不足の中で生き残るために機能的に繋がっているぶん、「誰が何をしたか」「先ほどの会談で何が決まったか」というファクト(事実)は、必要な実務担当者たちの間を信じられない速度で駆け抜けていく。


 そして今回の件は、一部の幹部だけが知れば済む種類の話ではなかった。


 あの、二十年間ふんぞり返っていた憎き人間国の外交官たちが。

 追加納入を要求するどころか、条約の履行停止と破棄手続きへの着手、さらに莫大な違約金請求まで顔面に叩きつけられ、震え上がりながら逃げ帰っていったのだ。

 しかも、その歴史的快挙の中心にいたのが、つい数日前まで「人間の小娘に何ができる」「温室育ちのお飾りだろう」と陰で囁かれていた、魔王領専属法務顧問ルチア・フォン・クライスである。


 面白がられないはずがない。

 城中がざわつかれないはずがない。

 そして、徹底した実力主義の魔族たちにとって何より大きかったのは――彼女が叩き出した『結果』が、あまりにも分かりやすく圧倒的だったことだ。


 西棟の廊下を歩けば、すれ違う文官たちの視線がまるで違う。

 赴任初日の露骨な疑念や敵意ではない。

 圧倒的な能力スキルを見せつけられた者が向ける、明らかな畏怖と敬意が混じった緊張だ。


 屈強な近衛兵たちの前を通れば、先程まではなかった「一拍の間」が生まれる。

 誰もがぎこちなく背筋をピンと伸ばし、慌てて壁際に寄って道を譲る者すらいた。


 ルチアはそれを、特に感慨もなく、ただの『社内評価の変動』として冷静に観察していた。


(分かりやすいわね。嫌いじゃないわ)


 人間国の貴族たちのように、腹の中では見下しながら、口先だけは甘い言葉で持ち上げる陰湿な連中より、こうして実力(数字)を出した途端に露骨に手のひらを返すほうが、よほど合理的で誠実だ。


 もっとも、だからといって浮かれて気を抜く理由にはならない。


「ルチア様」

 後ろを歩いていた外務記録官のエイルが、おずおずと小声で呼びかける。

「さっきから皆、ルチア様のことをすっごく見てるよ」

「見ればいいでしょう。減るものではありませんし」

「いや、あれは“見てる”っていうより……完全に“怯えてる”よ」

「心外ですわね」

「心外かなあ……。あの外交官を言葉の暴力ロジックだけで泣きそうにさせたのを見た後だと、無理もないと思うけど」


 エイルは引き攣ったような乾いた笑みを浮かべる。

 その手には、先ほどの会談記録の清書前写しが大事そうに抱えられていた。

 彼もまた、昨日までより明らかにルチアへ打ち解けている。

 というより、完全に『彼女の有能さにひれ伏し、観念した』のだろう。

 この女は、放っておいても過去の資料を地の底から掘り起こし、敵対者を合法的に社会から抹殺するのだと。


「怯えられるより、私が要求した追加の裏付け資料を、一秒でも早く執務室に持ってきてくださるほうが、よほど有益ですわ」

「はいはい、分かってる。もう城の皆がそう思って、必死に過去の書類を漁ってるよ」

「結構」


 そう返したところで、前方から宰相補佐シュタールが歩いてくるのが見えた。

 銀灰色の髪をきっちり撫でつけた財務のトップは、今日も一分の隙もなく神経質そうに整っている。

 だが、近づくにつれ、そのレンズの奥の表情がわずかにいつもより硬いことに気づいた。


「ルチア嬢」

「何かしら、シュタール殿」

「陛下がお呼びです」

「また会議ミーティング? それとも人間国からの抗議文クレームでも届いた?」

「いえ」

 シュタールは一拍置き、言いづらそうに視線を彷徨わせた。

「……少々、想定外の集まり(イレギュラー)になっております」


 その曖昧な言い方に、ルチアはピクリと片眉を上げた。

 想定外、という非論理的な言葉を、この鉄面皮の実務家が使うのは珍しい。


「どちらで?」

「中央棟の『第二訓練広間』です」

「……訓練広間?」


 なおさら妙だった。

 法務顧問を呼び出すような場所ではない。


 ルチアは一瞬だけ、脳内で最悪のケースをシミュレーションする。

 人間国側の報復工作(暗殺)か。武闘派の魔族たちの反発か。あるいは魔族内部の示威行動クーデターか。

 どれにしても面倒極まりないが、雇用主ボスに呼ばれた以上は行くしかない。


「分かりましたわ。ご案内を」

「念のため申し上げますが」

 シュタールが、ごくわずかにため息をついて補足した。

「……私個人としては、止めようとしたのです。非効率的だと」

「何をですの?」

「行けば分かります」


 そう言い残し、彼は重い足取りで先導するように歩き出した。

 エイルは後ろで「うわぁ、絶対ろくでもないやつだ……僕の胃薬返して……」と小さく呟いている。


 ルチアも、だいたい同意見だった。


 ◇ ◇ ◇


 中央棟第二訓練広間は、本来、近衛兵の訓練や城勤めの実務官たちが全体招集(朝礼)に使う場所らしい。

 高い天井、広い石床、無駄な装飾の一切ない、実用一点張りの巨大な空間。

 そこへ着いたルチアは、両開きの扉の前でほんのわずかに目を細めた。


 中に、人が多い。


 いや、多いどころではない。

 分厚い扉越しにも、異常なほどの熱気と気配が伝わってくる。少なくとも数十名、いや百名近い。

 文官、武官、書記官、会計係、補給担当、衛兵、使用人頭。立場の違う城中のあらゆる気配が、一箇所にひしめき合っていた。


「……何これ。ストライキでも起きたの?」

「だから申し上げたでしょう。想定外だと」

 シュタールが低く返す。

 その顔は、完全に「面倒くさい熱血部下たちを持つ中間管理職」の諦めの顔だった。


 重い扉が開く。


 途端、広間中の視線が一斉に、射抜くようにルチアへ向いた。


 最前列には、近衛副長のゼノヴィア、法務庫管理官のバルグ、各部署の中堅文官たち。

 その後ろには、会談の痛快な結果を聞きつけた血気盛んな近衛兵や事務官たち。

 さらに後方には、普段なら法務顧問の顔を見る機会もないだろう、城仕えの下働きの魔族たちまで集まっている。


 何事かとルチアが怪訝に眉を寄せた、その次の瞬間だった。


 どさっ、と。

 最前列のゼノヴィアが、いきなり床に膝をついた。


 続いてバルグ。

 その隣の会計官。

 補給官。

 記録官。

 そして、それを合図にしたように、広間のあちこちで次々と膝が折れる音が響き――最後には、百名近い魔族のほぼ全員が、床へ額がつくほどの勢いで深く頭を下げた。


 文字通りの、一斉土下座だった。


「……は?」


 ルチアの口から、前世も含めてめったに出ない、素の間の抜けた声が漏れた。


 エイルが後ろで「うわあ……」とドン引きした声を出し、シュタールは「やれやれ」と片手で目元を押さえる。

 どうやら本当に、この暑苦しい光景は彼らにとっても『想定外』だったらしい。


 巨大な広間いっぱいに広がる、百人の魔族たちによる一斉土下座。

 壮観といえば壮観だが、新任の法務顧問として素直に歓迎したい光景かと言われれば、極めて微妙(リアクションに困る)である。


 最初に口を開いたのは、ゼノヴィアだった。

 額を深く下げたまま、広間によく通る、腹の底からの声で叫ぶ。


「ルチア・フォン・クライス殿!」

「……何かしら」

「我々は、貴女を侮っていた!」


 広間の空気が、ピーンと張り詰める。

 言い訳を一切しない、実力主義の女武官らしい、潔く無駄のない謝罪だった。


「人間であること。ひ弱い女であること。剣も振れず、安全な机上の理屈(法律)だけを弄ぶ者であること。……それらを理由に、貴女が我らの国を救えぬと、一方的に決めつけた!」

「……」

「だが、完全に我々が間違っていた。貴女は、我々が武力でも何でも、二十年間どうにもできなかった憎き人間国の外交官どもを、たった一度の会談で完全に打ちのめし、青ざめさせてみせた!」

「……そうね。泣きそうになっていたわね」

「よって!」

 ゼノヴィアはさらに深く、床にめり込む勢いで頭を下げる。

「己の不明を恥じる! 我が無礼を、心よりお詫び申し上げる!」


 その言葉を皮切りに、あちこちから堰を切ったように声が上がった。


「私もです、ルチア様!」

「生意気な口を利いて申し訳ありませんでした!」

「人間の女に何ができると陰で言いました! 全面撤回いたします!」

「資料の提出が遅れたこと、万死に値します!」

「お見それしました! 一生ついていきます!」


 次々に飛ぶ、大合唱のような謝罪と称賛の声。

 それも、人間国の貴族のような表面的な社交辞令ではない。本気で自分の無知を恥じ、本気でルチアの実力に感服している声音だった。

 魔族という種族は、信じた相手には率直だが、実力を認めた相手には『もっと率直で熱苦しい』のかもしれない。


 老文官のバルグなどは、ほとんど泣きそうな顔で頭を下げている。


「わ、わしは……法務庫の記録をもっと早く、すべてお出しすべきでしたのじゃ……!」

「それは猛省して、今後の業務フローを直ちに改善してくださいませ」

「はいっ! 徹夜でやりますじゃ!」


 反射的に恐ろしいブラック労働の宣言が返ってくるあたり、だいぶ広間の空気がおかしい(狂信的になっている)。


 ルチアは数秒、広間を冷静に見回した。

 頭を下げる魔族、魔族、魔族。

(……壮観ね。でも、感動というより、この狂信的な空気をどう処理マネジメントすべきか、少し困る案件だわ)


「……顔を上げてちょうだい」

 そう言っても、すぐには誰も上げない。

 皆、リーダー格であるゼノヴィアが先に動くまで、様子を窺っているのだろう。


 仕方なく、ルチアはパンッと一度だけ柏手を打ち、よく通る声で凛と告げた。


「顔を上げなさいと言っているの。私の業務指示が聞けませんの?」

「はっ!」


 ゼノヴィアが反射的に軍人のように返し、ようやく頭を上げる。

 それに続いて、広間じゅうの百人がバタバタと起き上がった。

 整列し直す様子が、どことなく新兵訓練ブートキャンプめいていて、ルチアはかすかに眉を上げる。


(統率が取れているのか、ただの脳筋の集まりなのか、判断に迷うわね)


 ◇ ◇ ◇


「謝罪は受け取りますわ」


 ルチアは広間の中央へ、ヒールの音を響かせて優雅に進み出る。

 高い位置から傲慢に見下ろすのではない。

 あくまで同じ床の上に立ったまま、全員の顔を真っ直ぐに見回した。


「ただし」

 その一言で、百人の魔族たちの背筋がピッと伸びる。

「私が欲しいのは、このような熱苦しい『謝罪のパフォーマンス』そのものではありません」


 ゼノヴィアがハッと目を細める。

 シュタールは黙って眼鏡を押し上げている。

 エイルだけが、後ろで少しおかしそうに口元を押さえていた。


 ルチアは淡々と続ける。


「結果(数字)を見て評価が変わるのは結構ですわ。実力主義(成果主義)というのは、そういうものでしょう。私も嫌いではありません」

「……」

「ですが、今後同じような重要案件が来た時に、貴方たちに求められるのは、このような立派な土下座ではありません。……迅速な資料提出、正確な記録の保管、そして各部署間の無駄のない連携チームワークです」

「はいっ!」

 前列の会計官が反射的に元気よく返す。

(良い返事だけれど、少し食い気味ね)


 ルチアはそこで、ほんの少しだけ笑った。

 いつもの冷酷な悪魔の笑みではない。ごく薄い、実務家としての素の笑みだった。


「私は、法務顧問として当然の仕事タスクをこなしただけです。ですから、私に対する必要以上の忠誠や、カルト宗教のような崇拝は一切不要ですわ」

「……では、我々はどうすれば」

 バルグがおずおずと問う。


 ルチアは即答した。


「次から私が頼んだ資料は、小出しにせず、最初から『全部』爆速で出しなさい。一日でも遅れたら減給査定にしますわよ」


 広間に、一瞬妙な静寂が落ちる。

 次いで、あちこちで「ヒッ」と息を呑む音が重なった。

 それから何人かが、そのあまりにブレない実務家(ブラック上司)すぎる要求に、耐えきれないように肩を震わせる。


 最初に吹き出したのはエイルだった。

 続いて後方の補給官たちが笑いを噛み殺し、ゼノヴィアですら口元を歪めて肩を揺らす。

 張り詰めていた狂信的な場の緊張が、そこでようやく少しだけ、健全な職場の空気へとほぐれた。


「しょ、承知しました!」

「最優先で提出いたします! 徹夜で!」

「もう何も隠しません! 絶対に!」

「ええ、それで結構よ」


 ルチアは涼しい顔で頷く。


「あと、私の陰口を叩くのは個人の自由ですから構いませんけれど、それで業務(進捗)を遅らせるようなことがあれば、合法的に粛清しますわよ」

「……耳が痛いな」

 エイルが横で小さく呟く。

「あなたもよ、エイル殿」

「はい……!」


 ゼノヴィアがそこで、一歩前へ出た。

 彼女はもう膝をつかない。ただ真っ直ぐ立ったまま、戦友を見るような目でルチアを見る。


「ルチア」

「何かしら、副長」

「私は言ったな。お前の手腕に、少しだけ期待してやると」

「ええ。たしかに」

「撤回する」

「……それは残念ですわね」

「違う」


 ゼノヴィアの口元が、獰猛に、かつ頼もしく笑う。


「少し、では全く足りん。お前はもう、我が国を護る『最強の最前線(矛)』だ」


 広間がワァッとどよめいた。

 それは単なるお世辞ではない。

 誇り高い近衛副長が、百人の部下の前で、人間の女を自分たちと同等以上の『戦士』として認めたのだ。その意味は重い。


 ルチアは一瞬だけ黙り、それから淡々と、ビジネスライクに答える。


「極めて高い評価ですこと。光栄ですわ」

「当然だ。我らの最前線を任せるのだからな」

「では、その最前線(私)が、次に戦うために何を必要とするか、優秀な副長ならご理解してくださる?」

「言ってみろ」

人員リソースです」

 即答だった。

法務補助パラリーガル二名、会計のクロスチェック担当一名、外交文書の整理担当一名、記録の搬送係二名。……最低でもこれだけのチームが必要です」

「ただちに確保する」

 ゼノヴィアが迷わず請け負う。


 すると、シュタールがそこでスッと口を挟む。

「会計の照合担当はこちら(財務)から出します。最も数字に強い優秀な者を一人」

「外交文書の整理なら、私のところから専属の補佐を回すよ。僕も手伝うし」

 エイルも続く。

「法務補助は、法務庫の若手をつけますじゃ……! わしも徹夜で働きますぞ!」

 バルグが食い気味に言う。


 ルチアはその有能な反応の連鎖を見て、心の中で静かに、そして深く頷いた。

(素晴らしいわね。謝罪のパフォーマンスだけで終わらせず、その場の熱を即座に『次の実務チームビルディング』に転換できる。……この組織、ポテンシャルは極めて高いわ)


 ◇ ◇ ◇


 広間の空気がすっかり『ひとつのチーム』としてまとまった頃。

 最後方に腕を組んで控えていた魔王レオンハルトが、ようやく一歩前へ出た。


 どうやら彼も、最初からこの騒ぎを全部見ていたらしい。

 止めるでもなく、煽るでもなく、ただ静かに「ルチアがどう組織を掌握するか」を見ていたのだ。

(本当に、人を試すのが好きな雇用主ボスね)


 深紅の瞳が、ルチアから広間の魔族たちへと向けられる。


「聞いたな」

 低く、圧倒的な覇気を孕んだ声が、広い空間によく響く。

「今後、ルチア・フォン・クライスの指示は、法務・外務・財務の連携案件に関して、私(魔王)の直命と同等に扱え」

「はっ!!」

「彼女への資料提出の遅延、隠匿、虚偽報告は、国家反逆罪に準ずる処分対象とする」

「はっ!!」


 百人の返答が一斉に揃う。

 先程の熱苦しい土下座より、よほど実質的で重みのある、絶対的な組織命令だった。


 レオンハルトはそこで、ルチアへ視線を戻した。


「これで満足か」

「概ね」

「概ね、か」

「ええ。実際に彼らが完璧に動くまでは、信用しませんので」

「手厳しいな」

「当然ですわ。プロですから」


 淡々とした、いつものドライなやり取りなのに。

 なぜか広間の空気が、また少しだけ妙な(生温かい)ものになる。

 ゼノヴィアがわざとらしく「ゴホン!」と咳払いし、エイルは「あー、今日の天気いいなぁ」と不自然に目を逸らした。

 シュタールだけが無表情を貫いているが、貫き方が少し上手すぎて逆に怪しい。


(……なによ、この空気)

 ルチアはあえて気づかないふりをした。

 いま必要なのは変なラブコメの空気ではなく、快適な作業環境の確保である。


「では、私からは以上ですわ。業務に戻ります」

 そう言って踵を返しかけた、その時だった。

 後方から別の声が飛ぶ。


「お、お待ちくださいルチア様!」

 振り向くと、若い会計官の一人が、顔を真っ赤にして前へ出てきた。

「その……本日、対人間国会談の歴史的勝利を記念して、城内で簡単な『祝勝会』を開こうという話が持ち上がっておりまして……!」

「祝勝会?」


 ルチアがピクリと眉を上げると、シュタールがわずかに「やれやれ」と顔をしかめた。

 どうやら、これが彼の言っていた「止めようとした案件」のもう一つらしい。


「士気向上のため、という名目の飲み会です」

 シュタールが低く横で補足する。

「実際には、城内の空気がお祭り騒ぎになりすぎておりまして。何かしら公式な形(宴会)にして発散させないと、収まりがつかない連中が多いのです」

「……なるほど」

 ルチアはあっさり理解した。


 勝ったのだ。

 しかも、長年鬱屈し、理不尽に搾取され続けていた憎き相手へ、初めて明確な『法的な一撃』を入れた。

 血気盛んで実力主義の組織が高揚するには、十分すぎる出来事だ。

 無理に押さえ込むより、うまくガス抜き(福利厚生)をしてやったほうが、明日からの業務効率は上がる。


「構いませんわ」

 ルチアは経営者の目線で言う。

「ただし、経費が無駄に膨らむような豪華すぎる宴なら、財務の観点から反対します」

「そこか……」

 エイルが小さく呻く。

「当然でしょう。違約金を回収するまでは、我が国は財政難ですのよ?」

「まあ、うん、ルチアらしいけどさ」


 レオンハルトがそこで、王として短く告げた。


「正式に開く」

 全員の視線が彼へ向く。

「今夜だ。規模は城内の関係者限定とする。無駄な虚飾は一切不要。だが、旨い食事と極上の酒は出せ。……勝った日にしかできぬこともある」

「おおおおっ!!」


 広間の空気が、再び明るく、爆発的に揺れる。

 魔族たちの表情に、今度こそ隠しようのない歓喜の色が走った。


 ルチアはその様子を眺めながら、心の中で少しだけ驚いていた。

(冷酷無慈悲な魔王と呼ばれる男にしては、思ったより部下の士気の扱い(マネジメント)をよく分かっているわね。……いや、冷酷な合理主義者だからこそ、アメとムチの使い分けを知っているのかもしれないわ)


 そのとき、不意にレオンハルトがごく自然な口調で言った。


「ルチア」

「何ですの」

「君も当然、出席しろ」

「……業務命令ですか?」

「半分はな」

「残り半分は?」

「最高殊勲者として、祝われる側の義務だ」


 広間のあちこちで、再び何とも言えない(ニヤニヤとした)気配が揺れた。

 ゼノヴィアが口元を押さえてそっぽを向き、エイルは「ヒューヒュー」と小声で言いかけてシュタールに小突かれている。


 ルチアは一瞬だけ沈黙し、それから整った声音で、あくまでビジネスライクに返した。


「分かりましたわ。ただし、私は騒ぎすぎる宴席は好みません」

「知っている」

「静かに食事ができる席も用意してくださいませ」

「極上の席を用意させる」

「あと、私の紅茶の質は絶対に落とさないこと」

「……祝いの酒の場でも、そこは譲らんのだな」

「重要ですわ。私の生命線ですもの」

「承知した」


 そのあまりにいつも通りの『ドライな応酬』に、とうとう広間の後方から「クスクス」と堪えきれない笑いが漏れた。

 空気が完全に柔らかく、温かいものになる。


 ルチアはそれを聞きながら、静かに目を細めた。


 敵意は完全に消えた。

 少なくとも、初日のあからさまな拒絶は跡形もない。

 代わりにここにあるのは、圧倒的な結果を認めた者たちの率直な敬意と、勝利の高揚と、少しばかり行き過ぎた熱烈な歓迎だ。


(……悪くないわね。この職場)


 ◇ ◇ ◇


 広間を出て、西棟の執務室へ戻る回廊の途中。

 人払いされた静かな石廊に、ルチアとレオンハルトの二人の足音だけが重なって響く。


 先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。

 窓の外では、美しい夕陽が魔王城の尖塔を黒く染めている。


「派手な謝罪劇だったわね」

 ルチアが先に口を開いた。

「一斉土下座のことか」

「ええ。さすがに少し驚いたわ。カルト教団かと思ったもの」

「私もだ」

「雇用主殿なら、事前に止めればよろしかったのではなくて?」

「止めようかとも思ったが」

 レオンハルトは、隣を歩きながら淡々と言う。

「君が、あの狂信的な集団を『どう処理するのか』、手腕を見たくなった」

「……趣味が悪いですわね」

「否定はしない」


 ルチアは小さくため息を吐いた。

 この男は本当に、時々妙なところで人を観察テストしている。


「それで」

 レオンハルトがふと、深紅の瞳を向けてくる。

「気分は悪くないか」

「悪くはありませんわ。実力を正当に評価されるのは、労働者の喜びですもの」

「そうか」

「もっとも」

 ルチアはにこやかに、あくどく続ける。

「土下座を百回されるより、私が要求した証拠資料が『一時間早く』届くほうが、何百倍も嬉しいですけれどね」

「……君らしいな」

「褒め言葉として受け取っておきます」


 短いやり取りの後、二人の間に静かな間が落ちる。

 不思議と居心地の悪い沈黙ではない。

 大きな仕事を一つ終えた、対等なビジネスパートナー同士の、心地よく乾いた静けさだ。


 やがてレオンハルトが言った。


「今夜の祝勝会だが」

「ええ」

「君の衣装は、こちらで用意させる」

「そこまでしていただかなくても。手持ちのドレスで十分ですわ」

「雇用主としての体面メンツだ。我が国の恩人に、みすぼらしい格好はさせられん」

「……業務上必要だというなら、従いますわ」

「そうしろ」


 ただの事務連絡のような会話なのに。

 なぜか、夕暮れの廊下の空気が、少しだけ甘い熱を持つ。

 ルチアはそれを「交渉を終えた興奮の残り香」だとして、強引に片づけることにした。


 いま気にすべきなのは、そんなことではない。

 神聖帝国と聖教会の不穏な動き。

 持ち帰った人間国の次なる卑劣な一手。

 そして、今夜の祝勝会という名の半ば業務上の『社内接待チームビルディング』だ。


「魔王様」

「何だ」

「今夜は祝われますけれど、案件は全く終わっていませんわよ」

「知っている」

「人間国は必ず、法廷以外の汚い手で次を打ってきます」

「ああ」

「ですので、私は一切浮かれすぎるつもりはありません」

「……ルチア」


 思わず、ルチアの足が止まる。


 レオンハルトは少し先で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。

 夕陽を背にした黒衣の姿は、相変わらず絵画のように美しく、なんだか腹立たしいほどだ。


「勝った日にくらい、少しは胸を張って浮かれろ」

 その声は低く、ひどく優しく、静かだった。

「君の仕事が、二十年澱んでいたこの城の空気を、完全に変えたのだ」


 ルチアは一瞬、返す言葉を失う。


 有能だ、使える、悪魔のようだ、勝てる。

 前世から、そういう能力への評価には慣れている。

 だが、「空気を変えた(救った)」とまで、こんなに真っ直ぐな目で言われたのは初めてかもしれなかった。

 数字や勝率では測れない働きとして評価されると、少しだけ、本当に少しだけ、調子が狂う。


「……極めて高い業務評価として、受け取っておきますわ」

「好きにしろ」


 また同じ返答。

 なのに今日は、その響きが少しだけ不器用で、甘く聞こえた。


 ルチアはそれ以上何も言わず、再びカツカツとヒールを鳴らして歩き出す。

 胸の奥がわずかに騒ぐのを、徹夜明けの仕事疲れのせいだと、無理やり誤魔化しながら。


 その夜。

 魔王城では、人間国を法的に撃退した勝利を祝う、ささやかだが熱狂的な宴が開かれる。

 そしてそこで、冷酷無慈悲と噂される魔王が、誰よりも優しく甘い態度で一人の女をエスコートすることになるのだが――。


 それをまだ、ルチアは知らない。



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