第13話 評価の反転と魔族たちの土下座〜「人間の女」から「最強の法務顧問」へ。結果を出せば手のひら返しも鮮やかですわね〜
人間国の傲慢な外交使節団が、顔面蒼白で魔王城を敗走してから、わずか半日。
たったその半日で、城内の空気は驚くほど劇的に変わっていた。
もともと魔王城という場所は、噂話と陰口が大好きな人間国の貴族社会とは違う。
だが、情報の伝播速度が遅いわけではない。むしろ逆だ。
軍務、財務、外務、法務、補給――それぞれの部署が、極限の予算不足の中で生き残るために機能的に繋がっているぶん、「誰が何をしたか」「先ほどの会談で何が決まったか」というファクト(事実)は、必要な実務担当者たちの間を信じられない速度で駆け抜けていく。
そして今回の件は、一部の幹部だけが知れば済む種類の話ではなかった。
あの、二十年間ふんぞり返っていた憎き人間国の外交官たちが。
追加納入を要求するどころか、条約の履行停止と破棄手続きへの着手、さらに莫大な違約金請求まで顔面に叩きつけられ、震え上がりながら逃げ帰っていったのだ。
しかも、その歴史的快挙の中心にいたのが、つい数日前まで「人間の小娘に何ができる」「温室育ちのお飾りだろう」と陰で囁かれていた、魔王領専属法務顧問ルチア・フォン・クライスである。
面白がられないはずがない。
城中がざわつかれないはずがない。
そして、徹底した実力主義の魔族たちにとって何より大きかったのは――彼女が叩き出した『結果』が、あまりにも分かりやすく圧倒的だったことだ。
西棟の廊下を歩けば、すれ違う文官たちの視線がまるで違う。
赴任初日の露骨な疑念や敵意ではない。
圧倒的な能力を見せつけられた者が向ける、明らかな畏怖と敬意が混じった緊張だ。
屈強な近衛兵たちの前を通れば、先程まではなかった「一拍の間」が生まれる。
誰もがぎこちなく背筋をピンと伸ばし、慌てて壁際に寄って道を譲る者すらいた。
ルチアはそれを、特に感慨もなく、ただの『社内評価の変動』として冷静に観察していた。
(分かりやすいわね。嫌いじゃないわ)
人間国の貴族たちのように、腹の中では見下しながら、口先だけは甘い言葉で持ち上げる陰湿な連中より、こうして実力(数字)を出した途端に露骨に手のひらを返すほうが、よほど合理的で誠実だ。
もっとも、だからといって浮かれて気を抜く理由にはならない。
「ルチア様」
後ろを歩いていた外務記録官のエイルが、おずおずと小声で呼びかける。
「さっきから皆、ルチア様のことをすっごく見てるよ」
「見ればいいでしょう。減るものではありませんし」
「いや、あれは“見てる”っていうより……完全に“怯えてる”よ」
「心外ですわね」
「心外かなあ……。あの外交官を言葉の暴力だけで泣きそうにさせたのを見た後だと、無理もないと思うけど」
エイルは引き攣ったような乾いた笑みを浮かべる。
その手には、先ほどの会談記録の清書前写しが大事そうに抱えられていた。
彼もまた、昨日までより明らかにルチアへ打ち解けている。
というより、完全に『彼女の有能さにひれ伏し、観念した』のだろう。
この女は、放っておいても過去の資料を地の底から掘り起こし、敵対者を合法的に社会から抹殺するのだと。
「怯えられるより、私が要求した追加の裏付け資料を、一秒でも早く執務室に持ってきてくださるほうが、よほど有益ですわ」
「はいはい、分かってる。もう城の皆がそう思って、必死に過去の書類を漁ってるよ」
「結構」
そう返したところで、前方から宰相補佐シュタールが歩いてくるのが見えた。
銀灰色の髪をきっちり撫でつけた財務のトップは、今日も一分の隙もなく神経質そうに整っている。
だが、近づくにつれ、そのレンズの奥の表情がわずかにいつもより硬いことに気づいた。
「ルチア嬢」
「何かしら、シュタール殿」
「陛下がお呼びです」
「また会議? それとも人間国からの抗議文でも届いた?」
「いえ」
シュタールは一拍置き、言いづらそうに視線を彷徨わせた。
「……少々、想定外の集まり(イレギュラー)になっております」
その曖昧な言い方に、ルチアはピクリと片眉を上げた。
想定外、という非論理的な言葉を、この鉄面皮の実務家が使うのは珍しい。
「どちらで?」
「中央棟の『第二訓練広間』です」
「……訓練広間?」
なおさら妙だった。
法務顧問を呼び出すような場所ではない。
ルチアは一瞬だけ、脳内で最悪のケースをシミュレーションする。
人間国側の報復工作(暗殺)か。武闘派の魔族たちの反発か。あるいは魔族内部の示威行動か。
どれにしても面倒極まりないが、雇用主に呼ばれた以上は行くしかない。
「分かりましたわ。ご案内を」
「念のため申し上げますが」
シュタールが、ごくわずかにため息をついて補足した。
「……私個人としては、止めようとしたのです。非効率的だと」
「何をですの?」
「行けば分かります」
そう言い残し、彼は重い足取りで先導するように歩き出した。
エイルは後ろで「うわぁ、絶対ろくでもないやつだ……僕の胃薬返して……」と小さく呟いている。
ルチアも、だいたい同意見だった。
◇ ◇ ◇
中央棟第二訓練広間は、本来、近衛兵の訓練や城勤めの実務官たちが全体招集(朝礼)に使う場所らしい。
高い天井、広い石床、無駄な装飾の一切ない、実用一点張りの巨大な空間。
そこへ着いたルチアは、両開きの扉の前でほんのわずかに目を細めた。
中に、人が多い。
いや、多いどころではない。
分厚い扉越しにも、異常なほどの熱気と気配が伝わってくる。少なくとも数十名、いや百名近い。
文官、武官、書記官、会計係、補給担当、衛兵、使用人頭。立場の違う城中のあらゆる気配が、一箇所にひしめき合っていた。
「……何これ。ストライキでも起きたの?」
「だから申し上げたでしょう。想定外だと」
シュタールが低く返す。
その顔は、完全に「面倒くさい熱血部下たちを持つ中間管理職」の諦めの顔だった。
重い扉が開く。
途端、広間中の視線が一斉に、射抜くようにルチアへ向いた。
最前列には、近衛副長のゼノヴィア、法務庫管理官のバルグ、各部署の中堅文官たち。
その後ろには、会談の痛快な結果を聞きつけた血気盛んな近衛兵や事務官たち。
さらに後方には、普段なら法務顧問の顔を見る機会もないだろう、城仕えの下働きの魔族たちまで集まっている。
何事かとルチアが怪訝に眉を寄せた、その次の瞬間だった。
どさっ、と。
最前列のゼノヴィアが、いきなり床に膝をついた。
続いてバルグ。
その隣の会計官。
補給官。
記録官。
そして、それを合図にしたように、広間のあちこちで次々と膝が折れる音が響き――最後には、百名近い魔族のほぼ全員が、床へ額がつくほどの勢いで深く頭を下げた。
文字通りの、一斉土下座だった。
「……は?」
ルチアの口から、前世も含めてめったに出ない、素の間の抜けた声が漏れた。
エイルが後ろで「うわあ……」とドン引きした声を出し、シュタールは「やれやれ」と片手で目元を押さえる。
どうやら本当に、この暑苦しい光景は彼らにとっても『想定外』だったらしい。
巨大な広間いっぱいに広がる、百人の魔族たちによる一斉土下座。
壮観といえば壮観だが、新任の法務顧問として素直に歓迎したい光景かと言われれば、極めて微妙(リアクションに困る)である。
最初に口を開いたのは、ゼノヴィアだった。
額を深く下げたまま、広間によく通る、腹の底からの声で叫ぶ。
「ルチア・フォン・クライス殿!」
「……何かしら」
「我々は、貴女を侮っていた!」
広間の空気が、ピーンと張り詰める。
言い訳を一切しない、実力主義の女武官らしい、潔く無駄のない謝罪だった。
「人間であること。ひ弱い女であること。剣も振れず、安全な机上の理屈(法律)だけを弄ぶ者であること。……それらを理由に、貴女が我らの国を救えぬと、一方的に決めつけた!」
「……」
「だが、完全に我々が間違っていた。貴女は、我々が武力でも何でも、二十年間どうにもできなかった憎き人間国の外交官どもを、たった一度の会談で完全に打ちのめし、青ざめさせてみせた!」
「……そうね。泣きそうになっていたわね」
「よって!」
ゼノヴィアはさらに深く、床にめり込む勢いで頭を下げる。
「己の不明を恥じる! 我が無礼を、心よりお詫び申し上げる!」
その言葉を皮切りに、あちこちから堰を切ったように声が上がった。
「私もです、ルチア様!」
「生意気な口を利いて申し訳ありませんでした!」
「人間の女に何ができると陰で言いました! 全面撤回いたします!」
「資料の提出が遅れたこと、万死に値します!」
「お見それしました! 一生ついていきます!」
次々に飛ぶ、大合唱のような謝罪と称賛の声。
それも、人間国の貴族のような表面的な社交辞令ではない。本気で自分の無知を恥じ、本気でルチアの実力に感服している声音だった。
魔族という種族は、信じた相手には率直だが、実力を認めた相手には『もっと率直で熱苦しい』のかもしれない。
老文官のバルグなどは、ほとんど泣きそうな顔で頭を下げている。
「わ、わしは……法務庫の記録をもっと早く、すべてお出しすべきでしたのじゃ……!」
「それは猛省して、今後の業務フローを直ちに改善してくださいませ」
「はいっ! 徹夜でやりますじゃ!」
反射的に恐ろしいブラック労働の宣言が返ってくるあたり、だいぶ広間の空気がおかしい(狂信的になっている)。
ルチアは数秒、広間を冷静に見回した。
頭を下げる魔族、魔族、魔族。
(……壮観ね。でも、感動というより、この狂信的な空気をどう処理すべきか、少し困る案件だわ)
「……顔を上げてちょうだい」
そう言っても、すぐには誰も上げない。
皆、リーダー格であるゼノヴィアが先に動くまで、様子を窺っているのだろう。
仕方なく、ルチアはパンッと一度だけ柏手を打ち、よく通る声で凛と告げた。
「顔を上げなさいと言っているの。私の業務指示が聞けませんの?」
「はっ!」
ゼノヴィアが反射的に軍人のように返し、ようやく頭を上げる。
それに続いて、広間じゅうの百人がバタバタと起き上がった。
整列し直す様子が、どことなく新兵訓練めいていて、ルチアはかすかに眉を上げる。
(統率が取れているのか、ただの脳筋の集まりなのか、判断に迷うわね)
◇ ◇ ◇
「謝罪は受け取りますわ」
ルチアは広間の中央へ、ヒールの音を響かせて優雅に進み出る。
高い位置から傲慢に見下ろすのではない。
あくまで同じ床の上に立ったまま、全員の顔を真っ直ぐに見回した。
「ただし」
その一言で、百人の魔族たちの背筋がピッと伸びる。
「私が欲しいのは、このような熱苦しい『謝罪のパフォーマンス』そのものではありません」
ゼノヴィアがハッと目を細める。
シュタールは黙って眼鏡を押し上げている。
エイルだけが、後ろで少しおかしそうに口元を押さえていた。
ルチアは淡々と続ける。
「結果(数字)を見て評価が変わるのは結構ですわ。実力主義(成果主義)というのは、そういうものでしょう。私も嫌いではありません」
「……」
「ですが、今後同じような重要案件が来た時に、貴方たちに求められるのは、このような立派な土下座ではありません。……迅速な資料提出、正確な記録の保管、そして各部署間の無駄のない連携です」
「はいっ!」
前列の会計官が反射的に元気よく返す。
(良い返事だけれど、少し食い気味ね)
ルチアはそこで、ほんの少しだけ笑った。
いつもの冷酷な悪魔の笑みではない。ごく薄い、実務家としての素の笑みだった。
「私は、法務顧問として当然の仕事をこなしただけです。ですから、私に対する必要以上の忠誠や、カルト宗教のような崇拝は一切不要ですわ」
「……では、我々はどうすれば」
バルグがおずおずと問う。
ルチアは即答した。
「次から私が頼んだ資料は、小出しにせず、最初から『全部』爆速で出しなさい。一日でも遅れたら減給査定にしますわよ」
広間に、一瞬妙な静寂が落ちる。
次いで、あちこちで「ヒッ」と息を呑む音が重なった。
それから何人かが、そのあまりにブレない実務家(ブラック上司)すぎる要求に、耐えきれないように肩を震わせる。
最初に吹き出したのはエイルだった。
続いて後方の補給官たちが笑いを噛み殺し、ゼノヴィアですら口元を歪めて肩を揺らす。
張り詰めていた狂信的な場の緊張が、そこでようやく少しだけ、健全な職場の空気へとほぐれた。
「しょ、承知しました!」
「最優先で提出いたします! 徹夜で!」
「もう何も隠しません! 絶対に!」
「ええ、それで結構よ」
ルチアは涼しい顔で頷く。
「あと、私の陰口を叩くのは個人の自由ですから構いませんけれど、それで業務(進捗)を遅らせるようなことがあれば、合法的に粛清しますわよ」
「……耳が痛いな」
エイルが横で小さく呟く。
「あなたもよ、エイル殿」
「はい……!」
ゼノヴィアがそこで、一歩前へ出た。
彼女はもう膝をつかない。ただ真っ直ぐ立ったまま、戦友を見るような目でルチアを見る。
「ルチア」
「何かしら、副長」
「私は言ったな。お前の手腕に、少しだけ期待してやると」
「ええ。たしかに」
「撤回する」
「……それは残念ですわね」
「違う」
ゼノヴィアの口元が、獰猛に、かつ頼もしく笑う。
「少し、では全く足りん。お前はもう、我が国を護る『最強の最前線(矛)』だ」
広間がワァッとどよめいた。
それは単なるお世辞ではない。
誇り高い近衛副長が、百人の部下の前で、人間の女を自分たちと同等以上の『戦士』として認めたのだ。その意味は重い。
ルチアは一瞬だけ黙り、それから淡々と、ビジネスライクに答える。
「極めて高い評価ですこと。光栄ですわ」
「当然だ。我らの最前線を任せるのだからな」
「では、その最前線(私)が、次に戦うために何を必要とするか、優秀な副長ならご理解してくださる?」
「言ってみろ」
「人員です」
即答だった。
「法務補助二名、会計のクロスチェック担当一名、外交文書の整理担当一名、記録の搬送係二名。……最低でもこれだけのチームが必要です」
「ただちに確保する」
ゼノヴィアが迷わず請け負う。
すると、シュタールがそこでスッと口を挟む。
「会計の照合担当はこちら(財務)から出します。最も数字に強い優秀な者を一人」
「外交文書の整理なら、私のところから専属の補佐を回すよ。僕も手伝うし」
エイルも続く。
「法務補助は、法務庫の若手をつけますじゃ……! わしも徹夜で働きますぞ!」
バルグが食い気味に言う。
ルチアはその有能な反応の連鎖を見て、心の中で静かに、そして深く頷いた。
(素晴らしいわね。謝罪のパフォーマンスだけで終わらせず、その場の熱を即座に『次の実務』に転換できる。……この組織、ポテンシャルは極めて高いわ)
◇ ◇ ◇
広間の空気がすっかり『ひとつのチーム』としてまとまった頃。
最後方に腕を組んで控えていた魔王レオンハルトが、ようやく一歩前へ出た。
どうやら彼も、最初からこの騒ぎを全部見ていたらしい。
止めるでもなく、煽るでもなく、ただ静かに「ルチアがどう組織を掌握するか」を見ていたのだ。
(本当に、人を試すのが好きな雇用主ね)
深紅の瞳が、ルチアから広間の魔族たちへと向けられる。
「聞いたな」
低く、圧倒的な覇気を孕んだ声が、広い空間によく響く。
「今後、ルチア・フォン・クライスの指示は、法務・外務・財務の連携案件に関して、私(魔王)の直命と同等に扱え」
「はっ!!」
「彼女への資料提出の遅延、隠匿、虚偽報告は、国家反逆罪に準ずる処分対象とする」
「はっ!!」
百人の返答が一斉に揃う。
先程の熱苦しい土下座より、よほど実質的で重みのある、絶対的な組織命令だった。
レオンハルトはそこで、ルチアへ視線を戻した。
「これで満足か」
「概ね」
「概ね、か」
「ええ。実際に彼らが完璧に動くまでは、信用しませんので」
「手厳しいな」
「当然ですわ。プロですから」
淡々とした、いつものドライなやり取りなのに。
なぜか広間の空気が、また少しだけ妙な(生温かい)ものになる。
ゼノヴィアがわざとらしく「ゴホン!」と咳払いし、エイルは「あー、今日の天気いいなぁ」と不自然に目を逸らした。
シュタールだけが無表情を貫いているが、貫き方が少し上手すぎて逆に怪しい。
(……なによ、この空気)
ルチアはあえて気づかないふりをした。
いま必要なのは変なラブコメの空気ではなく、快適な作業環境の確保である。
「では、私からは以上ですわ。業務に戻ります」
そう言って踵を返しかけた、その時だった。
後方から別の声が飛ぶ。
「お、お待ちくださいルチア様!」
振り向くと、若い会計官の一人が、顔を真っ赤にして前へ出てきた。
「その……本日、対人間国会談の歴史的勝利を記念して、城内で簡単な『祝勝会』を開こうという話が持ち上がっておりまして……!」
「祝勝会?」
ルチアがピクリと眉を上げると、シュタールがわずかに「やれやれ」と顔をしかめた。
どうやら、これが彼の言っていた「止めようとした案件」のもう一つらしい。
「士気向上のため、という名目の飲み会です」
シュタールが低く横で補足する。
「実際には、城内の空気がお祭り騒ぎになりすぎておりまして。何かしら公式な形(宴会)にして発散させないと、収まりがつかない連中が多いのです」
「……なるほど」
ルチアはあっさり理解した。
勝ったのだ。
しかも、長年鬱屈し、理不尽に搾取され続けていた憎き相手へ、初めて明確な『法的な一撃』を入れた。
血気盛んで実力主義の組織が高揚するには、十分すぎる出来事だ。
無理に押さえ込むより、うまくガス抜き(福利厚生)をしてやったほうが、明日からの業務効率は上がる。
「構いませんわ」
ルチアは経営者の目線で言う。
「ただし、経費が無駄に膨らむような豪華すぎる宴なら、財務の観点から反対します」
「そこか……」
エイルが小さく呻く。
「当然でしょう。違約金を回収するまでは、我が国は財政難ですのよ?」
「まあ、うん、ルチアらしいけどさ」
レオンハルトがそこで、王として短く告げた。
「正式に開く」
全員の視線が彼へ向く。
「今夜だ。規模は城内の関係者限定とする。無駄な虚飾は一切不要。だが、旨い食事と極上の酒は出せ。……勝った日にしかできぬこともある」
「おおおおっ!!」
広間の空気が、再び明るく、爆発的に揺れる。
魔族たちの表情に、今度こそ隠しようのない歓喜の色が走った。
ルチアはその様子を眺めながら、心の中で少しだけ驚いていた。
(冷酷無慈悲な魔王と呼ばれる男にしては、思ったより部下の士気の扱い(マネジメント)をよく分かっているわね。……いや、冷酷な合理主義者だからこそ、アメとムチの使い分けを知っているのかもしれないわ)
そのとき、不意にレオンハルトがごく自然な口調で言った。
「ルチア」
「何ですの」
「君も当然、出席しろ」
「……業務命令ですか?」
「半分はな」
「残り半分は?」
「最高殊勲者として、祝われる側の義務だ」
広間のあちこちで、再び何とも言えない(ニヤニヤとした)気配が揺れた。
ゼノヴィアが口元を押さえてそっぽを向き、エイルは「ヒューヒュー」と小声で言いかけてシュタールに小突かれている。
ルチアは一瞬だけ沈黙し、それから整った声音で、あくまでビジネスライクに返した。
「分かりましたわ。ただし、私は騒ぎすぎる宴席は好みません」
「知っている」
「静かに食事ができる席も用意してくださいませ」
「極上の席を用意させる」
「あと、私の紅茶の質は絶対に落とさないこと」
「……祝いの酒の場でも、そこは譲らんのだな」
「重要ですわ。私の生命線ですもの」
「承知した」
そのあまりにいつも通りの『ドライな応酬』に、とうとう広間の後方から「クスクス」と堪えきれない笑いが漏れた。
空気が完全に柔らかく、温かいものになる。
ルチアはそれを聞きながら、静かに目を細めた。
敵意は完全に消えた。
少なくとも、初日のあからさまな拒絶は跡形もない。
代わりにここにあるのは、圧倒的な結果を認めた者たちの率直な敬意と、勝利の高揚と、少しばかり行き過ぎた熱烈な歓迎だ。
(……悪くないわね。この職場)
◇ ◇ ◇
広間を出て、西棟の執務室へ戻る回廊の途中。
人払いされた静かな石廊に、ルチアとレオンハルトの二人の足音だけが重なって響く。
先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。
窓の外では、美しい夕陽が魔王城の尖塔を黒く染めている。
「派手な謝罪劇だったわね」
ルチアが先に口を開いた。
「一斉土下座のことか」
「ええ。さすがに少し驚いたわ。カルト教団かと思ったもの」
「私もだ」
「雇用主殿なら、事前に止めればよろしかったのではなくて?」
「止めようかとも思ったが」
レオンハルトは、隣を歩きながら淡々と言う。
「君が、あの狂信的な集団を『どう処理するのか』、手腕を見たくなった」
「……趣味が悪いですわね」
「否定はしない」
ルチアは小さくため息を吐いた。
この男は本当に、時々妙なところで人を観察している。
「それで」
レオンハルトがふと、深紅の瞳を向けてくる。
「気分は悪くないか」
「悪くはありませんわ。実力を正当に評価されるのは、労働者の喜びですもの」
「そうか」
「もっとも」
ルチアはにこやかに、あくどく続ける。
「土下座を百回されるより、私が要求した証拠資料が『一時間早く』届くほうが、何百倍も嬉しいですけれどね」
「……君らしいな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
短いやり取りの後、二人の間に静かな間が落ちる。
不思議と居心地の悪い沈黙ではない。
大きな仕事を一つ終えた、対等なビジネスパートナー同士の、心地よく乾いた静けさだ。
やがてレオンハルトが言った。
「今夜の祝勝会だが」
「ええ」
「君の衣装は、こちらで用意させる」
「そこまでしていただかなくても。手持ちのドレスで十分ですわ」
「雇用主としての体面だ。我が国の恩人に、みすぼらしい格好はさせられん」
「……業務上必要だというなら、従いますわ」
「そうしろ」
ただの事務連絡のような会話なのに。
なぜか、夕暮れの廊下の空気が、少しだけ甘い熱を持つ。
ルチアはそれを「交渉を終えた興奮の残り香」だとして、強引に片づけることにした。
いま気にすべきなのは、そんなことではない。
神聖帝国と聖教会の不穏な動き。
持ち帰った人間国の次なる卑劣な一手。
そして、今夜の祝勝会という名の半ば業務上の『社内接待』だ。
「魔王様」
「何だ」
「今夜は祝われますけれど、案件は全く終わっていませんわよ」
「知っている」
「人間国は必ず、法廷以外の汚い手で次を打ってきます」
「ああ」
「ですので、私は一切浮かれすぎるつもりはありません」
「……ルチア」
思わず、ルチアの足が止まる。
レオンハルトは少し先で立ち止まり、ゆっくりと振り返った。
夕陽を背にした黒衣の姿は、相変わらず絵画のように美しく、なんだか腹立たしいほどだ。
「勝った日にくらい、少しは胸を張って浮かれろ」
その声は低く、ひどく優しく、静かだった。
「君の仕事が、二十年澱んでいたこの城の空気を、完全に変えたのだ」
ルチアは一瞬、返す言葉を失う。
有能だ、使える、悪魔のようだ、勝てる。
前世から、そういう能力への評価には慣れている。
だが、「空気を変えた(救った)」とまで、こんなに真っ直ぐな目で言われたのは初めてかもしれなかった。
数字や勝率では測れない働きとして評価されると、少しだけ、本当に少しだけ、調子が狂う。
「……極めて高い業務評価として、受け取っておきますわ」
「好きにしろ」
また同じ返答。
なのに今日は、その響きが少しだけ不器用で、甘く聞こえた。
ルチアはそれ以上何も言わず、再びカツカツとヒールを鳴らして歩き出す。
胸の奥がわずかに騒ぐのを、徹夜明けの仕事疲れのせいだと、無理やり誤魔化しながら。
その夜。
魔王城では、人間国を法的に撃退した勝利を祝う、ささやかだが熱狂的な宴が開かれる。
そしてそこで、冷酷無慈悲と噂される魔王が、誰よりも優しく甘い態度で一人の女をエスコートすることになるのだが――。
それをまだ、ルチアは知らない。




