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第12話 不平等条約の完全破棄と違約金請求〜逃げ帰って終わりだと思いました? 過去二十年分の請求書(ツケ)を精算していただきますわ〜

「では次回、正式にお話しいたしましょう。不平等協定の『完全破棄』と、莫大な『違約金・損害賠償請求』について」


 ルチアの氷点下の宣告が、豪奢な応接会議室の空気の底へ、重い鈍器のように沈んでいく。


 沈んで、それきり浮かび上がらない。

 まるで底なしの泥沼へ足を引きずり込まれたように、人間国側の使節団の顔から、入室時の傲慢な余裕が一つ、また一つと剥がれ落ちていった。


 外務省特別交渉官グレゴール・ヴァン・ローデンは、ギリギリのところで外交官としての体面(顔)を保とうと足掻いていた。

 だが、脂ぎったこめかみに滝のように浮かぶ冷や汗と、机上で組まれた指先の白くなるほどの強張りは、もはや隠しようがない。

 隣の若い補佐官は完全に顔面蒼白で過呼吸を起こしかけており、後方の武官ですら「これは剣や暴力でどうにかなる盤面ステージではない」と本能で理解したのか、死後硬直のように押し黙っている。


 一方、魔王領側は恐ろしいほど静かだった。

 下品な歓声もなければ、勝ち誇った下卑た笑いもない。

 ただ、会議卓の支配権イニシアチブが完全に誰の側へ傾いたかを、全員が正確に理解している『絶対的な沈黙』だけがあった。


 その重苦しい静寂の中で、魔王レオンハルトが低く、腹の底から響く声で口を開く。


「ルチア」

「はい」

「……やれ(トドメを刺せ)」


 短い、ただ一言の命令。

 だがそれは、国家間の外交交渉における全権と主導権を、完全に彼女(法務顧問)へ委ねるという王の絶対的な宣言でもあった。


 ルチアは、完璧なカーテシーのように優雅に、軽く頷く。

 純白のシルクの手袋に包まれた指先で、手元の分厚い資料束を、まるで死刑宣告書を開くようにそっと開いた。


「承知いたしましたわ、雇用主ボス殿」


 その声音は小鳥のさえずりのように穏やかで、そして――絶対零度より冷たかった。


「では、人間国の皆様。ここからは“次回”に先送りするのではなく、本日この場で『結論(精算)』まで進めましょうか」

「……な、何!?」


 グレゴールが血走った目を剥いて顔を上げる。

 その無様な反応を見て、ルチアは内心で小さく、だが確かな手応えを感じて頷いた。


(ええ、そうでしょうね)


 相手は「一旦持ち帰る」と言って時間を稼ぎ、その間に本国の外務省と結託して、証拠の隠滅、口裏合わせ、責任の末端への押し付け(トカゲの尻尾切り)、そして文書の改竄を図るつもりだったのだろう。

 前世の企業法務でも、嫌というほど見てきた手口だ。

 論戦で負け筋が見えた側(ブラック企業)は、まず何が何でも『時間』を欲しがる。


 だから――一秒たりとも与えない。


「先ほど、貴国からの追加納入請求が法的に『完全無効』である理由については、概ねご確認いただけましたわね?」

「か、確認など――断じてしていない!」

「できておりますわ」


 ルチアはやさしく、聖母のように微笑んで言った。

 それがまた、追い詰められた人間の神経を極限まで逆撫でする種類のやさしさだった。


「代金支払の継続的遅延、監督官の収賄(背信)疑惑、受領過程における密輸の不整合、事故報告書の公文書偽造の疑い。……この時点で、貴国はもはや“誠実な履行を前提に、他国へ請求できるクリーンな立場”ではありませんのよ」

「そ、それはそちらの一方的な見解イチャモンだ!」

「結構ですわ」

 ルチアはあっさりと頷く。

「では次に、その見解を具体的な『金額』へ落とし込みましょう」


 グレゴールの喉が、ヒュッと情けない音を立てて鳴る。


「……き、金額だと?」

「ええ。貴国が我が国に長年与え続けた『損害額』ですわ」


 コトリ、と。

 ルチアは、精緻な数字がびっしりと書き込まれた一枚目の算定書を卓上へ滑らせた。


「まず、支払遅延に伴う『遅延損害金相当額』」

「ま、待て!」

「待ちませんわ。タイムイズマネーですもの」

「そ、その前提自体が――」

「争うのは自由ですわ。法廷でいくらでもお聞きします。ただし、請求の数字は先に提示プレゼント申し上げます」


 彼女は視線を落とし、感情を一切交えずに整然と読み上げる。


「過去六年分、確認可能な明らかな支払遅延案件が二十一件。平均遅延日数、二十七日。最長で六十二日。協定に明記された支払期日と、一般商慣行上の遅延補償率(法定利率)を基準に再計算した場合――未精算相当額は、こちらの金額になります」

「……ッ!!」


 グレゴールの前へ滑った羊皮紙を見て、横から覗き込んだ補佐官が「ヒィッ」と短い悲鳴を上げて息を呑んだ。

 記載されたゼロの数は、彼らの腐った金銭感覚で言っても、すでに「事務的な誤差」や「ポケットマネー」で済む次元を完全に超えている。

 国家予算の一部が消し飛ぶ、十分に国家間賠償請求として成立しうる凶悪な規模だった。


「次に、不当な安値固定による『継続的損害額』」

 ルチアは二枚目を開く。

「現行協定に基づく魔石輸出価格は、市場実勢価格の概ね『三分の一』。さらに輸送費、危険負担、品質保証コストはすべて魔王領持ち。完全に下請けいじめの構図ですわ」

「そ、それは二十年前の協定で合意済みだ! 法的に有効な――」

「形式(建前)的には、ええ」


 ルチアはにこやかに、悪魔のように微笑む。


「ですが、著しく不均衡な継続契約において、価格改定条項を二十年間も意図的に凍結し、その間の物価変動や実勢変動を一切反映しない独占的運用は、『信義則違反』および『事情変更の原則』を著しく逸脱しており、違法(無効)の疑いが極めて濃厚ですわ」

「そ、そんな机上の抽象論で――!」

「抽象論ではありません」


 ピシャリと、氷の刃で一刀両断する。


「市場価格との差額、こちらが負担させられた不当な輸送コスト、保管損耗費、魔王領にだけ偏重した違約金、代替供給不能時の理不尽な制裁。……これらを年別に細かく積み上げれば、損害は極めて具体的な『暴力的な金額』になります」

「……ッ」

「こちら、過去十年分の暫定再計算表です。控えめに(温情で)見積もっても、貴国が不当に搾取ピンハネした差額は、この程度になりますわね」


 また一枚、羊皮紙が滑る。

 また数字の暴力が展開される。

 また人間国側の顔色から、血の気が一気に引いていく。


 グレゴールは恐怖を誤魔化すように、バンッと机を叩いて声を荒らげた。


「ふ、ふざけるな! そんなものは協定自体の有効性を根本から争う話であって、いまこの場で急に請求できる性質のものでは――」

「できますわ」

「できぬ!」

「できますのよ」


 ルチアは一歩も引かない。圧倒的な法理の壁となって立ち塞がる。


「協定の一部無効、または大幅な修正可能性を前提にした『予備的請求』として、実務上完全に整理できますもの。少なくとも、今後の外交交渉上の強烈なカード(請求権主張)としては十二分に機能しますわ」

「よ、予備的請求だと……!?」

「ええ。正式な国際法廷の場で、最終的にどの法的構成を主位・予備に置くかは戦術の調整余地がありますけれど。少なくとも、散々好き勝手やってきた今の貴国に、“寝耳に水だ”などと被害者ぶる資格はありませんわね」


 彼女の声音には、怒りも憎しみもない。

 だからこそ、反論の余地も逃げ場もない。ただ、絶対的な『数字の処刑』が淡々と進行していく。


 ◇ ◇ ◇


「次に」


 ルチアは、わざと一呼吸プレッシャー置いた。

 それだけで、巨大な会議室の体感温度がもう一段下がる。


「魔石の横流し(密輸)疑惑に伴う、『不当利得返還相当額』」

「そ、それはまだ疑惑にすぎんと言っているだろう!」

 グレゴールが食い気味に、口角に泡を飛ばして遮る。

「裁判でもない場で、そのような一方的な――」

「いいえ。ですから“疑惑に伴う暫定返還請求”ですわ」

「言葉遊びだ! 同じだろうが!」

「同じではありません」


 ルチアは小馬鹿にするように首を横に振る。


「いきなり断定的に刑事罰を科す話ではなく、受領過程の明らかな不整合(データ上の矛盾)に基づいて、少なくとも消えた魔石の差額分の『説明責任アカウンタビリティ』を貴国に求める、という極めて民主的な話ですのよ」

「せ、説明責任など……我々にはない!」

「ありますわ」

「どこにだ!」

「その区間の受領権限と、絶対的な『監督権限』を貴国が持っていたからです」


 その一言ロジックで、グレゴールが再びカチャリと詰まる。

 ルチアはそこへ、容赦なく追撃の杭を打ち込む。


「事故で失われたとされる大量の積荷が、ほぼ同時期に貴国の市場へご丁寧に現れる」

「監督官と関係商会の間に、継続的で不自然な賄賂の送金が確認される」

「受領印はなぜか二種類存在し、正式な官印以外の流通経路(裏ルート)が強く疑われる」

「護衛権限を貴国が片側移譲(独占)した直後に、なぜか事故がピンポイントで集中する」


 一つずつ、事実ファクトだけを声に出して積み上げていく。

 まるで、死刑台へ向かう階段のステップを数えるように。

 相手の首を絞め上げるための、強靭な論理の縄を編むように。


「この状況で“偶然です”“民間の商人が勝手にやりました”“国家は一切知りません”は、厳しい実務ビジネスの世界では、三流の詐欺師の言い訳にもなりませんのよ?」

「貴様……ッ!」

「説明責任が果たせない以上、少なくとも横流しされたと推定される分に相当する価値の『返還請求』は成立しうる。当然の帰結です」

「か、仮定の話だ!」

「仮定でも請求はできますわ。今後の『証拠保全手続き』と『人間国側の帳簿開示』を国際機関へ求める前提としては、むしろ十分すぎるほどに強固な根拠です」


 グレゴールの額から、ボタボタと大粒の汗が滴り落ちる。

 補佐官は完全に顔を覆って俯き、書記官の一人などはもはや、ルチアの目を見ようともしなかった。


(よし。ここまでで十二分ね)

 ルチアは心の中で、冷徹に盤面を計算する。


 この会談のゴールは「相手を慌てさせること」や「論破してスッキリすること」ではない。

「魔王領側からの協定破棄を宣言しても、相手が一切反論(反撃)不能な状態」に完全に持ち込むことだ。


 だから、もう一段階、深く踏み込む。

 相手の『心』を折るために。


「さらに」

 彼女は新しい一枚の羊皮紙を、パチンと弾いて開く。

「派遣労務者(魔族)の『帰還記録の意図的欠損』に伴う、人権侵害の損害評価(慰謝料)」

「そ、それは外務の案件ではない!」

 グレゴールが反射的に、責任逃れの言葉を叫ぶ。

「労務管理部局の所掌だ! 我々の管轄外だ!」

「結構ですわね。つまり、貴国の外務省は“他部局との連携も全く取れていないポンコツ組織だ”と自白したと受け取ってよろしいのね?」

「そうは言っていない!」

「では、実態を正確に把握していらっしゃる?」

「…………ッ」


 沈黙。

 それ自体が、真っ黒な回答(自白)だった。


 ルチアは淡々と、しかし凄みを込めて告げる。


「労務補助覚書に基づき、魔王領から派遣された鉱夫および加工術者のうち、帰還記録が不自然に欠けている(消息不明の)者が、過去数年で複数確認されております」

「そ、それは延長契約か、本人都合による残留だろう!」

「では、本人が自由意思で署名した『同意書の原本』を今すぐお出しになって?」

「い、いま手元にはない!」

「でしょうね」


 ルチアのサファイアの瞳が、スッと細まる。


「帰還率の継続的低下、労災補償記録の曖昧さ、所在不明者の報告欠落。……実態は過酷なブラック労働と、借金による強制拘束(人身売買)でしょう? このあたりを人道問題として国際社会に深掘りされるのは、貴国としても『だいぶ困る』のではなくて?」

「お、脅しか……!」

「違いますわ」


 彼女は静かに、悪魔のように微笑んで言った。


「確実な『予告』です」


 その一言に、会議室の空気が完全に、そして永遠に凍りついた。


 ◇ ◇ ◇


 グレゴール・ヴァン・ローデンは、そこでようやく、心の底から理解したのだろう。


 目の前の女は、単に口が回るだけの生意気な法務官ではない。

 こちらの言い逃れの順番(逃げ道)を完全に先読みして、その一つ一つに対応する致命的な資料と論理構成を、あらかじめ完璧に用意している『本物のバケモノ(特級法務顧問)』なのだと。

 しかも、決して感情に乗らない。

 挑発しても崩れない。

 大国の名前で脅しても、一歩も引かない。


(前世でもよく見た顔だわ)とルチアは内心で冷笑する。

 法廷で「この手の相手(弁護士)を敵に回したのが一番マズかった」と気づいた瞬間の、敗色の濃い哀れな当事者の顔だ。


「……で、では」

 グレゴールが、プライドも何もかも捨てて、低く絞り出すように問う。

「そちらは、一体……何を要求するつもりだ」


(ようやくそこへ来たわね)とルチアは思った。


 この「妥協点を探る問い」を相手の口から言わせるところまでが、前半戦の狙いだった。

 傲慢な『履行請求側』から、命乞いをする『防御と譲歩の検討側』へ立場を完全に裏返させる。

 ここまで来れば、あとは条文と制度の暴力で、上から一方的に押し潰すだけだ。


 ルチアは机上の資料束をパタンと閉じる。

 そして、両手を胸の前でそっと優雅に重ねた。


「要求ではありませんわ」

「……何?」

「『最終通知』です」


 一拍。

 澄んだ声が、静寂に包まれた会議室の隅々まで行き渡る。


「魔王領は本日付で、現行の附属通商協定および関連するすべての覚書について、貴国の『重大な先行違反』を理由として、ただちに『履行を完全停止』いたします」

「なっ――」

「さらに」


 ルチアは、息継ぎすらさせず、あまりにも滑らかに続けた。


「不平等協定そのものにつきましても、締結経緯の重大な瑕疵、著しい不均衡、継続的運用違反、監督機関の背信、価格改定拒否の不当性を理由として――一部無効ないし全部改定を前提とした『破棄手続き』に正式に入ります」

「ば、馬鹿な! そんな一方的な宣言が通るか!」

「一方的?」


 ルチアはコテッと首を傾げる。

 その仕草は令嬢のように優雅なのに、放つ言葉は鋭利なギロチンの刃だった。


「貴国は二十年もの長きにわたり、一方的な利益(搾取)を貪り尽くしておいて、今さら自分が不利益を被る段になって“一方的”という言葉に敏感になるのですわね。滑稽ですわ」

「きょ、協定は国際的に承認された正当な――!」

「承認されたこと(手続きの形)と、内容が公正であること(実体)は別問題です」

「それを判断するのは貴様ではない!」

「ええ。最終判断は、国際法廷や第三者仲裁機関が下すでしょうね」


 ルチアはにこやかに、全く悪びれずに頷く。


「ですから、その前段階として、こちらは『破棄』と『賠償請求』の意思表示を明確にしておくのです。……正当な『法的手続き(プロセス)』のお話ですわ。法を重んじる人間国の皆様なら、お好きでしょう?」


 その強烈な皮肉ブーメランに、グレゴールの唇がワナワナと戦慄く。

 だが、もう怒鳴り返す気力すら薄い。


 ルチアは最後の、最も分厚い一枚の羊皮紙を、ゆっくりと卓の中央へ置いた。


「そして、これが現時点での『暫定請求額』の総計です」


 誰かが、ヒュッと息を呑んだ。


 補佐官か、書記官か、それとも人間国側の武官か。もう誰でもよかった。

 目の前の羊皮紙の最後に記された『暴力的な数字の羅列』を見れば、誰だってそうなる。


 未払遅延分。

 安値固定による差額損害。

 横流し疑惑相当分の、暫定返還請求。

 違約金条項の無効を前提とした、過去の支払分の逆算(返還)。

 監督背信に伴う精算留保額。

 そして予備的に計上された、派遣労務者の人権侵害に対する調査着手前保全請求。


 ルチアの感覚からすれば「控えめ(温情)」ではあった。

 だが、人間国からすれば『控えめでこの額なのか(国が滅ぶ)』という種類の、絶望的な数字だった。


「こ……こんな法外な額が、通るはずが……」

 補佐官が、ほとんど泣きそうな声で漏らす。

 ルチアは即座に、氷の微笑で返した。


「通るかどうかを、これから国際社会の面前で『争う』のですわ」

「ざ、暫定でこれでは……本請求は……」

「ええ。跳ね上がりますわね。ですので、傷口が広がる前の『早期和解(示談)』のほうが、貴国にとってはよほど有利スマートでしょうね」


 その言葉に、グレゴールがハッと顔を上げる。

 すがるような、蜘蛛の糸を見つけたような反応だった。

 その瞬間を、ルチアは見逃さない。


「もちろん、和解交渉のテーブルにつくための『大前提の条件』はございますけれど」

「……い、言ってみろ」

「現行協定の即時停止、過去の価格の再査定、不正監督官の身柄確保と裏帳簿の開示、未払分の全額即時精算、労務派遣記録の全面提出。……そして」


 ルチアは穏やかに、しかし絶対に譲らない決意を込めて微笑む。


「今後一切、我が魔王領を『対等な交渉当事者』として扱うこと。下請け扱いは二度と許しません」


 グレゴールは唇を噛みちぎるように引き結ぶ。

 その条件が、ただの金(賠償額)の問題ではないことくらい、彼にも分かるのだろう。

 それは、人間国が二十年間握りしめていた『絶対的な優位と特権』を、完全に手放せという意味なのだから。


 レオンハルトが、そこで初めて明確に、王としての言葉を重ねた。


「我が領は、これ以上貴様らに『搾取』されるつもりは毛頭ない」

 その声は静かだった。

 だが、会議室にいる全員が、それを単なる脅しではなく、国家としての『決定』として聞いた。

「条件を持ち帰れ。応じぬなら、こちらは正式に破棄と巨額の請求へ移る。戦争を選ぶなら、それも構わん」


 グレゴールは何か言い返そうと口をパクパクとさせた。

 だが、もう無理だった。

 ここまでボコボコに論破されて、「いいから条約通りに魔石を寄越せ」とは口が裂けても言えない。

 言った瞬間、支払遅延も監督背信も、横流しもブラック労働も、全部もう一度証拠とともに顔面に叩きつけられるだけだからだ。


 長い、屈辱的な沈黙の末。

 彼は椅子の肘掛けを爪が白くなるほど強く掴み、かすれた、死人のような声で言った。


「……ほ、本件は……一旦、本国へ持ち帰る」

「ええ、どうぞごゆっくり」

 ルチアは満足げに頷く。

「ただし」

「……ま、まだあるのか……!」

「もちろん」


 彼女は最後に、完璧な実務家の、血も涙もない微笑でトドメを刺した。


「こちらの『履行停止』と『破棄手続き着手』は、貴国の持ち帰りの有無にかかわらず、本日ただいまの時点をもって『有効』ですわ。魔石の供給は、たった今からストップします」


 その一言で、人間国側の顔色が決定的に、完全に死んだ。


 確認ではない。

 交渉の予告でもない。

 もう、実際に実力行使ストライキが発動するのだ。


 グレゴールがガタッと音を立てて椅子を引く。

 その動作は酷く乱れていた。

 補佐官も慌てて書類を掻き集め、書記官たちは半ば青ざめたまま、逃げるように立ち上がる。

 魔王城へ来た時の高慢さは、もう微塵もない。

 そこにいるのは、自分たちの想定していた「魔族をイジめる楽しい交渉卓」が、いつの間にか「自分たちが処刑される執行前説明会」に変わっていたと気づいた、惨めな敗北者たちだけだった。


 ゼノヴィアが後方で低く「フッ……他愛もない」と笑う。

 エイルは記録板を抱えたまま、「すごいな……本当に、言葉ロジックだけであの外交官を追い返した」と半ば呆然と呟いている。

 シュタールは何も言わない。ただ、その眼鏡の奥の目は、完全に勝負の行方(勝利)を認めていた。


 人間国の外交官たちは、結局、誰一人まともな反論を一つも打ち返せないまま、青ざめた顔でそそくさと会議室を後にした。


 その背中は、ひどく急いていた。

 もはや見送りの外交儀礼を整える余裕すらなく、とにかく一刻も早く城を出て、本国の外務省へ泣きつきたい(あるいは責任逃れの言い訳を考えたい)者たちの、無様な足取りだった。


 ◇ ◇ ◇


 重厚な扉が閉まる。

 会議室に、ようやく静かな勝利の余韻が落ちた。


 数瞬ののち、最初に口を開いたのは武官のゼノヴィアだった。


「……本当に、言葉だけで敗走させたな」

「ええ」

 ルチアはあっさりと、当然のように答える。

「だいぶ綺麗にスッ転びましたわね」

「綺麗、で済ませていいのか、あれは」

 エイルが引き攣った乾いた声で言う。

「途中から、外交交渉というより公開処刑オーバーキルだったけど」

「法的手続きのルール内で殴っている以上、処刑ではありません。正当な業務ですわ」

「そこが一番怖いんだよ……」


 シュタールが、そこで静かにコホンと咳払いをした。


「ルチア嬢」

「はい」

「確認します。本日付で、履行停止通知、破棄手続き着手、暫定請求額提示――この三点は既に公式な会議記録へ載せてよろしいのですね」

「もちろんですわ。逃げられないように確定させておいて」

「承知しました。では、すぐに対外文案プレスリリースを整えます」

「お願いできます?」

「ええ。お任せを」


 その声音は、最初に会った時の“保留(不信)”ではない。

 完全に、自国を救う有能な実務上の同僚パートナーへ向ける、確かな敬意が込められていた。


 ルチアは小さく頷く。

 一つ、また一つと、城内の空気が変わっていくのが分かった。

 熱烈な歓迎ではない。

 だが、圧倒的な『結果』を出した者にだけ与えられる確かな信頼が、少しずつ、しかし確実に積み上がり始めている。


 そのとき、不意に強烈な視線を感じて顔を上げる。

 レオンハルトだった。


 深紅の瞳が、真正面からルチアを捉えている。

 そこにあるのは評価だ。

 隠しようもないほどまっすぐな、強い評価と執着。


「……見事だった」

 短い、しかし王としての重みのある言葉だった。

「ありがとうございます」

「想定以上だ」

「あら、事前の想定ハードルが甘かったのではなくて?」

「それもある」


 珍しく素直な返答に、ルチアはほんの少しだけ目を瞬く。

 だが次の瞬間、彼はさらに低く、熱を帯びた声で続けた。


「君を雇った私の判断は、間違いなく正しかった」

「破格の高い報酬をお支払いいただいておりますもの。プロとして当然ですわ」

「それでもだ」


 一拍。

 ほんのわずかだが、殺伐としていた会議室の空気が、別の甘い温度を帯びる。


「君は、私の予想以上に――良い」


 ゼノヴィアがわずかに眉を動かし、エイルが「見ちゃいけない気がする」とそっと視線を逸らした。

 シュタールは何も聞かなかったふりをして、淡々と書類へ目を落とす。


 ルチアは一瞬だけ言葉を失い、すぐにコホンと咳払いして取り繕った。


「……業務上の高評価として、ありがたく受け取っておきますわ」

「好きに解釈しろ」

「ええ、都合よく解釈します」


 それ以上は踏み込まない。

 いま必要なのは、勝利の余韻や、妙な甘い空気を育てることではない。


 案件(戦争)は、まだ終わっていないのだから。


 人間国は一旦持ち帰った。

 つまり、次は必ず『理屈(法)以外の別の手』で激しく揺さぶってくる。

 経済制裁の圧力か、魔王領内部への買収工作か、軍事的な恫喝か、あるいはもっと露骨な闇討ち(報復)か。


 ルチアは閉じた分厚い資料束へ指を置き、静かに、しかし好戦的に告げた。


「今日のところは、私たちの完全勝利ですわ」

「今日のところは、か」

 レオンハルトが問う。

「ええ」


 ルチアはにこやかに、獰猛に笑う。


「相手が青ざめて逃げ帰った程度で満足しては、実務家(弁護士)として二流ですもの」

「では、一流はどうする?」

「逃げ帰った相手が、二度と我々と同じ土俵へ立ちたがらなくなる(心が折れる)ところまで、徹底的に合法的に追い込んで、むしり取りますわ」


 会議室の空気が、また少しだけ変わる。

 ゼノヴィアは頼もしげに小さく鼻で笑い、エイルは「本当に容赦がない(味方でよかった)」と呟いた。

 シュタールはそこで初めて、微かに口元を緩める。


 ルチアはその反応を見て、静かに目を細めた。


 二十年続いた不平等条約は止めた。

 破棄手続きにも入った。

 巨額の違約金請求も顔面に叩きつけた。

 それだけでも歴史的な大戦果だ。


 だが、これで素直に反省して「ごめんなさい」と終わるような相手なら、そもそも二十年も非道な搾取を続けていない。


 次に来るのは、もっと陰湿で、もっと厄介な『国家ぐるみの反撃』だろう。


 そして案の定、その夜のうちに。

 人間国から急使の形ではなく、別の種類の“見えない圧力”が動き始めていた。


 借りを返せず敗走した無能な外交官たちの背後で、今度は世界最大の宗教国家『神聖帝国』と『聖教会』の名をちらつかせた、新たな理不尽な火種(異端審問)が、静かにくすぶり始めていたのである。



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