奪われた王子 1
ティアナside
足を踏み入れた瞬間――ずっと会いたいと願っていた、金髪の彼の姿が目に飛び込んできた。
「ティアナ」
その声を聞いた途端、胸の奥がざわりと波立つ。確かにディランの声なのに、そこに混じるのは湿った冷気。
背筋を撫でる、不吉な気配。
「ディラン……?」
一歩近づいた瞬間、氷の指で背骨をなぞられたような悪寒が走った。目の前に立つのは、確かにディランの姿――けれど、違う。瞳の奥にあったはずの温もりが、跡形もなく消えている。代わりに沈んでいるのは、底なしの闇。その視線を浴びるだけで、皮膚の下を黒いものが這い回る錯覚に陥った。
「……あなたは誰?」
震える声で問いかけると、ディランの口元がゆっくりと歪む。その笑みは、彼が決して浮かべない種類のものだった。
「はは、さすがだな。よく気づいた。
ディランの婚約者だけある」
ぞっとする声。部屋の空気が重く沈み、呼吸が浅くなる。
「まさか……ジョルジュ陛下……?」
名を口にした瞬間、ディランの身体がわずかに傾き、影が揺れた。その影が、まるで別の生き物のように蠢いた気がした。
「ああ、そうだよ。来るのが少し遅かったな」
ディランの手がゆっくりと持ち上がる。その動きは、彼のものとは思えないほど滑らかで、冷たく、無機質。
「ディランの身体は――もう私のものだ」
その言葉が落ちた瞬間、世界が音を立てて崩れた。
「ディランは……貴方の孫でしょ!
どうしてそんなことが!!」
声が震え、喉が焼けるように痛む。叫びは冷え切った空間に吸い込まれ、まるで最初から存在しなかったかのように消えた。ディランの姿をした“それ”は、ぎこちなく首を傾けた。
その動きは、人間の仕草を後から模倣したような、微妙にズレた軌道を描く。かつての彼の柔らかさとはまるで違う。
まるで、壊れた人形が無理やり笑おうとしているような、不気味な違和感。
「長年の夢だよ」
返ってきた声は、低く湿っていて、耳の奥にまとわりつく。
その瞬間、空気がひやりと沈み、肌の表面に冷気が張り付いた。
「老いた身体で不老不死になったって意味はない…
美しい見た目でなくてはね。完璧ではない」
ディランの顔に浮かんだ笑みは、皮膚の下で別の生き物が蠢いているような歪みを帯びていた。私は反射的に一歩後ずさる。
「ディランは完璧だ」
その言葉だけが、異様な熱を孕んでいた。熱といっても、人の情ではない。狂気が沸騰しているような、濁った熱。
「整った顔立ち、体つき。
瞳の色――明るいところではエメラルド、
暗いところではルビーのように輝く」
ディランの瞳が、光を受けて妖しく揺らめく。その色は確かにアレキサンドライトのようだった。だが今は、宝石の輝きではなく、獲物を値踏みする捕食者の目だ。
「まさにアレキサンドライトを象徴するものだ!」
声が弾け、空気が震えた。心臓が跳ね、血が逆流するような感覚に襲われる。
「だからディランは、いずれ私の器になる。
そのつもりで育ててきた」
その言葉を聞いた瞬間、血の気が一気に引いた。ジョルジュ陛下の声は甘く、慈しむようで――しかしその奥には、底なしの欲望が渦巻いている。
「強く、賢く、美しく。
立派にね」
ディランの身体が誇らしげに胸を張る。だがその動きは、彼のものではない。そこにいるのは“孫を誇る祖父”ではなく、“理想の器を完成させた創造主”だった。
「だけど……指導のせいかな」
ディランの口元が、ゆっくりと歪む。その笑みは誇らしげでありながら、どこか人を嘲るような影を落としていた。
「次期王としての資質は十分だった。
強さも、賢さも、美しさも――すべて備えていた」
胸が締めつけられる。本来なら祖父が孫を褒めるときの言葉のはずなのに、今の声には温度がない。あるのは、冷たい計算と、所有物を眺めるような歪んだ満足だけ。
「ただ……心も強くなりすぎた」
ディランの瞳が、暗い光を宿して私を射抜く。
「大切なものも、執着するものもなくてね。
一時期は、人形のようだったよ」
背筋が震える。ジョルジュ陛下の声には、失望と同時に、奇妙な愛おしさが混じっていた。まるで“理想の作品が未完成だった”と嘆く芸術家のように。
「完璧に育てすぎたんだ。
弱みも、隙も、揺らぎもない――そんな器では、私が入り込む余地がなかった」
息が止まる。
「だけど君だよ、ティアナ」
名を呼ぶ声は、甘く、ねっとりと絡みつく。耳の奥に残り、逃げ場を奪う。
「君のおかげでディランは変わった。
大切なものを失う怖さを知り、弱さを見せた」
胸が痛む。それは本来、彼が“人間らしさを取り戻した”証のはずなのに――今はそれが、最悪の形で利用されている。
「しかも君は共鳴が使える。
その力は貴重だ」
ディランの瞳が、宝石のように妖しく揺らめく。
「ディランの器。
そして――お前の血と魂」
声が低く沈み、空気が震えた。部屋の温度がさらに落ち、息が白くなりそうなほど冷たい。
「それがあれば、私は完璧な王となれる」
その宣言は祝福の言葉のように響いた。だがその実、底なしの欲望と狂気が渦巻いている。目の前にいるのは“王”でも“祖父”でもない。永遠を求め、孫を理想の器へと作り替えた――ただの怪物だ。




