迷宮の罠 2
レイside
足を踏み入れた瞬間、理解した。これは——精神作用の罠だ。そう思った刹那、視界が揺らぐ。ここは……王国内。殿下の執務室。
「……殿下、ご無事でしたか?」
思わず声が漏れた。エメラルドの瞳。眩しいほどの金髪。いつも見慣れた、あの姿。
「何を言ってるんだ、レイ」
「いえ……」
「レイ、疲れているんじゃないか?今日は休んでいいよ」
「ですが」
「もう、今日の仕事は全部片付けてある」
「それは珍しいですね」
いつも抜け出すことばかり考えている主人だ。オーウェンが苦労しているのは日常だ。
「次期国王になるんだ。さすがにちゃんとするよ」
その表情は、完璧な王太子の顔。
「ティアナとの結婚も控えているしな」
「……そうでしたか」
婚約中のはずだったが?
「ディラン」
ティアナ様が入ってくる。
「ティアナ」
「これ、お渡ししますね」
「さすがだな。次期王妃として申し分ない」
「ありがとうございます」
ティアナ様は、嬉しそうに微笑んだ。……おかしい。ティアナ様は、王妃になりたくないはずだ。王妃教育の最中に退屈しすぎて、甲冑の剣を素振りするような方だ。なのに、この光景は——私が、ずっと望んでいたものだ。殿下が責務を果たし、ティアナ様が隣に立ち、穏やかに笑っている未来。
……違う。これは違う。これは、私が理想としている“幻”だ。そう理解した瞬間、胸の奥がすっと冷えた。
「殿下」
一歩、前に出る。
「どうした? レイ」
「レイさん?」
殿下とティアナ様が、同時にこちらを見る。
「殿下……確かに、今のあなたは私の理想です」
静かに告げる。
「ですが、それは殿下ではありません」
2人の表情がわずかに揺れた。
「私が知っている殿下は、次期国王の座に興味がないくせに、それでも誰よりも国民のために動く方です」
胸の奥が熱くなる。
「今のあなたは……つまらない」
ティアナ様が息を呑む気配がした。
「私が尊敬し、お支えしているのは、 いつも抜け出すことばかり考えて、挙句の果てに『レイを王子にする』なんて軽口を叩くような人です」
言葉が自然とこぼれる。
「手がかかるけれど……
私は、そんな殿下がいいんです」
殿下の姿が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。視線をティアナへ向ける。
「ティアナ様……私は、あなたこそ殿下の隣に立つべき方だと思っています」
ティアナの瞳が揺れる。
「今のあなたは、完璧な理想です。
ですが……あなたも殿下と同じです。
そんな“型”に収まる方ではない」
静かに息を吸う。
「私は行きます」
踵を返した瞬間——幻は、何も言わずに霧のように消えた。
◇
ユウリside
視界がふっと揺れ、気づけば——……お嬢様の執務室だった。
「ユウリ、どうしたの?」
椅子に腰かけたお嬢様が、いつも通りの穏やかな声でこちらを見る。
「いえ、なんでもありません」
「そう? 難しい顔してたから」
お嬢様は微笑む。その仕草も、声も、いつも通りのはずなのに。
「それより……お嬢様。髪、切られていませんね」
「ふふ、何言ってるのユウリ。働きすぎで疲れちゃった?」
お嬢様は長い髪を指に巻きつけ、くるくると弄ぶ。——おかしい。
「いえ……なんだか、夢を見ているようで」
「夢、ね」
お嬢様はクスリと笑った。あたたかな空気。いつもの日常。 なのに胸の奥がざわつく。お嬢様の後を歩き、廊下へ出る。
……違う。これは違う。夢だ。 今は、迷宮にいるはずだ。
「お嬢様……すみません。私は、それ以上先には行けません」
「どうして?
ユウリは私の執事でしょ?
私の行くところに、一緒に来てくれるよね?
……私のそばにいてくれるって、言ったよね?」
――にたり。小首を傾げる。口元だけが、不自然に歪んだ。
……ああ。やっぱり違う。声も、仕草も、記憶の中のお嬢様と寸分違わない。それでも決定的に――違う。
「お嬢様。……いけません」
「……そっか」
急に、声の温度が落ちた。
「ねぇ、ユウリ」
一歩、距離が詰まる。
「ユウリはさ……私のこと、すき?」
「……え?」
心臓が、不必要に跳ねた。首にそっと腕が回される。
「私ね、ユウリのこと、すきだよ」
くすりと笑う。
「執事としてでも、兄のような存在でもない。
……男として」
耳元で甘く囁かれた瞬間――ああ、これはまずい。唇が近づく。理性が警鐘を鳴らすより早く、反射的にその手を掴んでいた。……その笑い方。
「反吐が出る」
声が、低く落ちた。腹の底から、どろりとした怒りが湧き上がる。熱く、重く、醜い感情。お嬢様は、こんなことを言わない。私に、こんな希望を与えたりしない。私はその手を振り払った。
「やめなさい」
冷たく、言い切る。
「お嬢様は私を試さない。
与えられないものを、餌のようにぶら下げたりしない」
偽物は、きょとんと目を瞬かせた。
「どうして? 嬉しくないの?」
……だから、嫌なんだ。
「嬉しいに決まっているでしょう」
そう言った瞬間、自分でもわかるほど——笑顔が歪んだ。執事としての完璧な微笑みではない。主に向けるべき穏やかな笑みでもない。胸の奥に押し込めてきた感情が、ひび割れから漏れ出すように、苦しさと諦めが混ざった、どうしようもない笑顔だった。
「――だからこそ」
声が震えないように、必死で抑える。
「それは“本物のお嬢様”の言葉ではない」
空気が軋む。迷宮が呻く。
「お嬢様は私を信頼している。それは執事として……そして兄のような存在として。
それ以上を望むのは、私の罪です」
静かに、一歩後ろへ退いた。
「……消えなさい」
その瞬間、偽物の笑顔がひび割れ、甘い声がノイズに変わり、光ごと霧散した。残ったのは、静寂と――胸の奥に沈めたままの初恋だけだった。偽物が消え、迷宮の気配が霧のように薄れていく。その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。……いや。動くことが、できなかった。
さっきまで——あの声で、あの顔で、“欲しかった言葉”を差し出されていた。世界で一番、愚かで、残酷な罠。喉の奥で、息が詰まる。幼いころから仕えてきた。
『ユウリ!』
無邪気な笑顔で呼ばれる、その名前。昔から変わらない声。いつも前を向き、努力し続ける彼女。
頑張りすぎて、無理をしてしまう彼女。
「嫌だな」と不貞腐れて唇を尖らせる彼女。
私の前だけで見せてくれる、ありのままの彼女。
……全部。全部が、大切で。どうしようもなく、愛おしい。
「……危なかったな」
ぽつりと、誰もいない空間に零れる。本当に危なかったのは、命でも、理性でもない。――自分の、願いだ。手袋を外す。掌には、爪が食い込んだ赤い跡。血は出ていない。それが、余計にたちが悪い。
「あれが……本物だったなら」
静かに、笑う。自嘲でも、冗談でもない。ただの事実として、そう理解している。
「……お嬢様は」
声が、ほんの少しだけ低くなる。
「そんな地獄を、 私に許す方ではない」
だから。今日もまた、守れた。――彼女の執事である自分を。その直後、聞こえてくる足音。レイの気配。私は即座に背筋を正し、感情を完全に消した。
「ユウリさん、大丈夫でしたか?」
レイが静かに声をかけてくる。
「はい、大丈夫です。……レイさんは?」
「こちらも、何とか」
レイは視線を落としたまま、しばらく黙り込んだ。互いに、何を見せられたのかは聞かない。聞けない。迷宮の空気だけが、まだ肌にまとわりついている。
「……進みましょうか」
私が口を開くと、レイも小さく頷いた。




