兄と弟 1
ディランside
ティアナを無事に送り出したあと、令嬢たちの輪をどうにか振り切って廊下へ出た瞬間――胸の奥がざわりと波立った。ジョルジュ陛下の姿が、どこにもない。つい先ほどまで玉座の間にいたはずだ。レイもいない。だが護衛も侍従も、誰ひとりとして彼の行方を知らない。
「……くそ」
嫌な予感が、氷の指先で背骨をなぞる。何かを仕掛けるはすだ。ましてティアナを送り出した直後――最悪のタイミング。歩幅が自然と大きくなる。進むほどに胸のざわめきは、警鐘のように激しさを増していった。
そして――
角を曲がった瞬間、空気が変わった。騎士団たちが剣を抜き、こちらへ向けて構えている。その刃先は微かに震えていたが、俺を狙う角度だけは揺らがない。
「……何をしている」
低く問いかけても、誰も答えない。ただ怯えを隠しきれない目だけが、俺を射抜いてくる。ゆっくりと、俺も剣に手をかけた。
(――やる気か)
静寂が、爆ぜる寸前のように張りつめた。陛下直属の騎士団は、一瞬だけ動きを止めた。だが、それでも剣先は下がらない。額に汗を浮かべ、喉を鳴らしながらも、彼らは“王命”という鎖に縛られていた。
俺が――本気で剣を構えた、その刹那。
「……おいおい」
低く、空気を震わせる声が廊下に落ちた。
「次期国王に剣を向けるとはな。
いくら陛下の命令でも、度が過ぎている」
足音が近づく。ゆっくりと、しかし一歩ごとに場の空気が締め上げられていく。その存在感だけで、騎士たちの背筋が強張るのがわかった。
振り向くと――そこに立っていたのは、アランだった。
「……兄上」
胸の奥が、ひどく痛む。ずっと嫌われていると思っていた。
いや、そう思い込むことで、自分を守っていただけなのかもしれない。
「で、ですが……!」
騎士の一人が声を上げるが、アラン殿下は一歩前へ出て、
静かだが絶対に逆らえない声音で命じた。
「下がれ」
その一言で、空気が変わった。騎士たちは息を呑み、剣を下げ、道を開ける。アランは俺を見据えた。
「ディラン」
幼い頃、何度も呼ばれた声。胸が詰まる。
「行け。
……間に合わなくなる」
短い言葉。だが、その裏にある焦りが痛いほど伝わった。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げ、踵を返す。その瞬間――
「ディラン」
呼び止められ、振り返る。アランはまっすぐ俺を見ていた。
「気をつけろ。必ず生きて戻れ」
時間が止まったようだった。俺の身を案じた言葉。ずっと嫌われていると思っていたから。胸の奥が熱くなる。俺はただ走り出した。兄の温かな視線を背に受けながら。理性なんて、とっくに置き去りだ。
ただ走る。間に合え。間に合え。間に合え――!
その時。
「……おい、なんだあれは」
「ま、魔宝獣……っ!」
魔宝獣。よりによって、今。次の瞬間。
――ガシャァンッ!耳を裂く破砕音。廊下のガラスが粉々に砕け散り、黒い影が飛び込んできた。黒曜石のような毛並み。剥き出しの牙。狂気に濁った瞳。咆哮が空気を震わせ、床石がビリビリと鳴る。
「……チッ」
足が止まりかけた、その刹那。
「ディラン殿下!」
「ここは俺たちが!」
アレンとロベルトが、迷いなく前へ飛び出した。
「加速する――トパーズ!」
アレンの剣が雷光をまとい、黄色の閃光が床を裂く。次の瞬間、彼の身体は稲妻のように魔宝獣へ突っ込んだ。
「支える力を――スモーキークォーツ!」
ロベルトが剣を地に突き立てる。茶褐色の光が地面を走り、
分厚い土壁が轟音とともに立ち上がった。魔宝獣の突進が、土壁に激突する。衝撃で空気が震え、砂塵が舞い上がる。
「ディラン殿下!」
「先へ行ってください!」
2人の背中が、言葉より雄弁に叫んでいた。
「――恩に着る!」
短く叫び、俺は再び走り出す。剣も、魔宝獣も、すべてを振り切って。
奪われる前に――必ず辿り着く。




