悪意 1
まさか――
刺客まで送り込まれるとは。
……はあ。だが、これでようやく確信した。
もう後戻りできないところまで踏み込んでいる。
それよりも――ローゼだ。
逃げる気はない。話すべきことを、正面から話しに行く。
「ローゼ嬢。
少し、お話ししてもよろしいですか?」
声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
優雅に紅茶を口に運びながら、
「ええ、もちろんですわ。
こちらも、お茶会の場所を間違えてお伝えしてしまったようで。申し訳ありません」
――白々しい。
「それで」
彼女は身を寄せ、囁くように問う。
「婚約者候補から、辞退するおつもりは?」
「……ありません」
私は、迷いなく答えた。
「王妃の座そのものには、興味はありません」
ざわ、と周囲の令嬢たちが息を呑む。私は視線を逸らさず、言葉を重ねる。
「けれど――
ディラン殿下の隣に立つことを、私は諦めません」
胸の奥にあるものを、はっきりと形にする。
「脅されようと、傷つけられようと。
私は、退くつもりはありません」
言い切った瞬間、ローゼの頬がわずかに引きつった。
スーザも唇を噛む様子がみえた。
「……そうでしたか」
その声音は、もう冷たかった。
「では、失礼いたしますわ」
取り巻きの令嬢たちを連れ、彼女は踵を返す。去っていく背中を見送りながら、私は静かに息を吸った。
――もう、後戻りはできない。
それでも。私は、ここに立つ。
◇
そして――翌日。
事件は起きた。
王妃教育の場。ガーデンの、ちょうど中央で。
……嫌な気配。
風が止んだ。鳥の声も、遠ざかった。世界が一瞬、呼吸を忘れたように静まり返る。
背筋を、氷の指先でなぞられたような感覚が走る。
どっち――?
視線を走らせた瞬間、“それ”が見えた。黒い靄。
垣根の奥で、ゆらりと揺れている。
まるで、こちらを覗き込むように。
次の瞬間、枝葉が不自然な音を立てて割れた。
姿を現したのは――狼?
……いや、違う。
ただの獣なら、まだよかった。
だが、これは“生き物”の形をしているだけの、何か別のもの。
額に埋め込まれた紅黒い宝石が、脈打つように光る。
その光に合わせて、周囲の空気が歪む。
喉の奥が、ひくりと震えた。
脳裏に、嫌な記憶がよみがえる。ガイルの研究室で見た、あの“失敗作”たち。――魔女の雫で作られた、擬似生命体。
けれど。これは、それよりも明らかに――異質だ。
動きが滑らかすぎる。魔力の濃度が濃すぎる。
存在そのものが、まるで“呪い”の塊のように重い。
これは……。
「……魔宝獣?」
その名を口にした瞬間、狼の瞳が、こちらにぬるりと向いた。
生き物の目ではない。感情のない、深い闇の穴。背筋が、ぞくりと震えた。
「きゃ――っ!」
鋭い悲鳴が弾け、令嬢たちが一斉に後ずさった。
恐怖に押し流されるように、整っていた輪が崩れ、足音と衣擦れが混ざり合う。
「み、皆さん、落ち着いてください!」
教育係が声を張り上げるが、その声は震え、説得力を失っていた。誰も、落ち着けるはずがない。
私は咄嗟にローゼ、そしてスーザへ視線を向ける。
――怯えている。
作り物の表情ではない。
顔色は青ざめ、唇はかすかに震え、指先は胸元を掴んだまま固まっている。
……彼女たちの仕業、ではない?
胸の奥で、疑念がゆっくりと軋んだ。
そのとき。
――視線。
ぞくり、と背中が粟立つ。
皮膚の上を、冷たい刃がそっと滑ったような感覚。
上だ。
ガーデンを見下ろす位置。木々の影の向こう、建物の縁。
そこから、まるで“品定め”をするような目がこちらを射抜いている。
感情のない、冷たい圧。生き物の視線ではない。
もっと、重く、逃げられないもの。
……陛下。
理解が胸に落ちた瞬間、この場が“偶然の事故”ではないことを、私は悟った。
逃げ道は、最初からなかったのだ。




