侍女ティアナ3
「さて……君は、誰だ」
その一言で、思考が真っ白になった。逃げる。それ以外の選択肢が浮かばなかった。
踵を返し、扉のノブに手をかけた――その瞬間。
「っ……!」
手首を掴まれ、強く引き戻される。背中が扉に叩きつけられ、息が詰まった。逃げ道は、完全に塞がれた。
ディランが、至近距離で私を見下ろしている。その瞳は、じっとりと値踏みするように細められていた。
――久しぶりに見る。この、冷たい目。感情を切り離し、相手を測るときの、あの目。
(ああ……)
観念するように、私はゆっくりと顔を上げた。その瞬間。ディランの動きが止まった。まるで時間が凍りついたみたいに。
「……て」
喉がかすれる音。
「ティ……アナ?」
ぽつりと落ちた、その名前。私は視線を逸らしたまま、静かに口を開く。
「……はい」
短く。それだけで十分だった。空気が、静かにひび割れた。
コン、コン。不意に、扉を叩く音が響いた。空気が、一瞬で張りつめる。
「……こっちだ」
低く囁かれ、私は手を引かれた。有無を言わせない力で、そのままクローゼットの中へ押し込まれる。
扉が、静かに閉まった。
(え、ちょ、なに――!?)
問いを口にする暇もなく、ディランが私をぐっと引き寄せた。
……近い。近すぎる。肩が触れ、呼吸の温度まで分かる距離。心臓の音が聞こえたら終わりだ。
「殿下……入りますよ」
レイさんの声が部屋に響く。
「……いませんね」
「どちらに行かれたのでしょう」
クローゼットの中で、私は必死に息を殺した。ディランは微動だにしない。まるで、最初からこうなると分かっていたかのように。
「……忘れ物は……あ、ハンカチですね」
足音が近づく。扉の外、すぐそこ。
「はい」
レイさんが部屋に入り、ソファに落ちていたハンカチを拾い上げる。
――ローゼの、だ。
「見事な刺繍ですね」
「ありがとうございます」
ローゼの声が、少しだけ弾む。
「今度、殿下にもプレゼントしたくて。
どういう刺繍がお好みなのかも、聞きたかったのですが……」
(……聞くな、今)
クローゼットの中で、私は全力で念じた。
「さあ……どうでしょうね」
レイさんの声は淡々としている。
ガタッ。小さな音が、やけに大きく響いた。
「……なんでしょうか?」
ローゼの声。
(まずい)
近くに置いてあった何かに、肘が当たったらしい。
その瞬間、ディランが反射的にこちらへ身を寄せてくる。
……ち、近い。息が触れる。心臓が、耳のすぐそばで暴れているみたいだ。
(やだ、音、絶対聞こえてる……!)
「……きっと、風でしょう」
レイさんが、淡々とした声で言う。
その直後、ほんの一瞬だけ、こちらへ視線を投げた――
ような気がした。一秒が、異様に長い。
「もう遅いですから。お部屋までお送りしましょう」
少し間を置いて、レイさんが続ける。
「夜分に男性の部屋を訪れるのは、あまり感心できませんよ。ローゼ嬢」
「……す、すみません」
ローゼが小さく頭を下げる気配。やがて二人分の足音が遠ざかり、扉が閉まった。
――しん。空気が、急に軽くなる。
私は、弾かれたようにクローゼットから飛び出した。
「……あ、焦った……!」
胸に手を当てて、思わず息を吐く。
「いやー、危なかったな」
隣で、ディランが平然とした声を出す。
「……そもそも、なんでディランまで隠れるんですか?」
「ローゼ嬢が、ちょっと面倒でね」
即答。
「……へぇー」
じとっと睨むと、ディランが眉をひそめた。
「何だ、その顔は」
「いえ。別に」
「ほんとに?」
覗き込むように近づいてくるディランの顔に、思わず息をのむ。もう逃げられない、と観念するしかなかった。
「……噂になっていたので」
「何が?」
「ローゼ嬢が、ディランの部屋から出てきたって」
「あー……」
気の抜けた返事。その声音が妙に自然で、逆に胸がざわつく。
「夜に押しかけてくるんだ。別に、大した用でもないのに」
さらっと言うその軽さが、少しだけ胸に引っかかった。
「公爵家の令嬢だからね。あまり無下にもできなくてさ」
「……ふーん」
自分でも驚くほど、声が低く出た。ディランが、面白がるように目を細める。
「なに。妬いてくれてるのかな」
そのまま、私のウィッグへ手を伸ばした。軽く触れられるだけで、心臓が跳ねる。
「ちょ――」
「それにしても」
指先で髪を弄びながら、楽しそうに続ける。
「なんて可愛い侍女なんだろう。俺専属にしたいな」
「……さっきは、殺気を出しまくっていたじゃありませんか」
じとっと睨むと、ディランは悪びれもせず笑った。
「本気でやられると思いました。ほんとに」
「はは。だって、怪しかったから」
反論できないのが悔しい。でも、ウィッグに触れたままの手を――どうしても振り払えなかった。
むしろ、その温度に、少しだけ甘えてしまいそうになる。




