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夜明けが世界を染めるころ、 悪意の見える伯爵令嬢は王子の執着から逃れられない  作者: 舞響
第四部

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侍女ティアナ3


「さて……君は、誰だ」


その一言で、思考が真っ白になった。逃げる。それ以外の選択肢が浮かばなかった。

踵を返し、扉のノブに手をかけた――その瞬間。


「っ……!」


手首を掴まれ、強く引き戻される。背中が扉に叩きつけられ、息が詰まった。逃げ道は、完全に塞がれた。

ディランが、至近距離で私を見下ろしている。その瞳は、じっとりと値踏みするように細められていた。

――久しぶりに見る。この、冷たい目。感情を切り離し、相手を測るときの、あの目。

(ああ……)

観念するように、私はゆっくりと顔を上げた。その瞬間。ディランの動きが止まった。まるで時間が凍りついたみたいに。


「……て」


喉がかすれる音。


「ティ……アナ?」


ぽつりと落ちた、その名前。私は視線を逸らしたまま、静かに口を開く。


「……はい」


短く。それだけで十分だった。空気が、静かにひび割れた。


コン、コン。不意に、扉を叩く音が響いた。空気が、一瞬で張りつめる。


「……こっちだ」


低く囁かれ、私は手を引かれた。有無を言わせない力で、そのままクローゼットの中へ押し込まれる。

扉が、静かに閉まった。

(え、ちょ、なに――!?)

問いを口にする暇もなく、ディランが私をぐっと引き寄せた。

……近い。近すぎる。肩が触れ、呼吸の温度まで分かる距離。心臓の音が聞こえたら終わりだ。


「殿下……入りますよ」


レイさんの声が部屋に響く。


「……いませんね」


「どちらに行かれたのでしょう」


クローゼットの中で、私は必死に息を殺した。ディランは微動だにしない。まるで、最初からこうなると分かっていたかのように。


「……忘れ物は……あ、ハンカチですね」


足音が近づく。扉の外、すぐそこ。


「はい」


レイさんが部屋に入り、ソファに落ちていたハンカチを拾い上げる。

――ローゼの、だ。


「見事な刺繍ですね」


「ありがとうございます」


ローゼの声が、少しだけ弾む。


「今度、殿下にもプレゼントしたくて。

どういう刺繍がお好みなのかも、聞きたかったのですが……」


(……聞くな、今)

クローゼットの中で、私は全力で念じた。


「さあ……どうでしょうね」


レイさんの声は淡々としている。

ガタッ。小さな音が、やけに大きく響いた。


「……なんでしょうか?」


ローゼの声。


(まずい)

近くに置いてあった何かに、肘が当たったらしい。

その瞬間、ディランが反射的にこちらへ身を寄せてくる。

……ち、近い。息が触れる。心臓が、耳のすぐそばで暴れているみたいだ。

(やだ、音、絶対聞こえてる……!)


「……きっと、風でしょう」


レイさんが、淡々とした声で言う。

その直後、ほんの一瞬だけ、こちらへ視線を投げた――

ような気がした。一秒が、異様に長い。


「もう遅いですから。お部屋までお送りしましょう」


少し間を置いて、レイさんが続ける。


「夜分に男性の部屋を訪れるのは、あまり感心できませんよ。ローゼ嬢」


「……す、すみません」


ローゼが小さく頭を下げる気配。やがて二人分の足音が遠ざかり、扉が閉まった。

――しん。空気が、急に軽くなる。

私は、弾かれたようにクローゼットから飛び出した。


「……あ、焦った……!」


胸に手を当てて、思わず息を吐く。


「いやー、危なかったな」


隣で、ディランが平然とした声を出す。


「……そもそも、なんでディランまで隠れるんですか?」


「ローゼ嬢が、ちょっと面倒でね」


即答。


「……へぇー」


じとっと睨むと、ディランが眉をひそめた。


「何だ、その顔は」


「いえ。別に」


「ほんとに?」


覗き込むように近づいてくるディランの顔に、思わず息をのむ。もう逃げられない、と観念するしかなかった。


「……噂になっていたので」


「何が?」


「ローゼ嬢が、ディランの部屋から出てきたって」


「あー……」


気の抜けた返事。その声音が妙に自然で、逆に胸がざわつく。


「夜に押しかけてくるんだ。別に、大した用でもないのに」


さらっと言うその軽さが、少しだけ胸に引っかかった。


「公爵家の令嬢だからね。あまり無下にもできなくてさ」


「……ふーん」


自分でも驚くほど、声が低く出た。ディランが、面白がるように目を細める。


「なに。妬いてくれてるのかな」


そのまま、私のウィッグへ手を伸ばした。軽く触れられるだけで、心臓が跳ねる。


「ちょ――」


「それにしても」


指先で髪を弄びながら、楽しそうに続ける。


「なんて可愛い侍女なんだろう。俺専属にしたいな」


「……さっきは、殺気を出しまくっていたじゃありませんか」


じとっと睨むと、ディランは悪びれもせず笑った。


「本気でやられると思いました。ほんとに」


「はは。だって、怪しかったから」


反論できないのが悔しい。でも、ウィッグに触れたままの手を――どうしても振り払えなかった。

むしろ、その温度に、少しだけ甘えてしまいそうになる。


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