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おいでませ夢幻喫茶へ  作者: 榊原蓮華草
不思議な店と、奇妙な噂
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9/44

十七時、縁結びの姿見・1





 無明の暗闇の中で、美咲はゆっくりと意識の糸を手繰り寄せた。


「……ここ、は……?」


 鉛のように重たい身体をどうにか起こし、恐る恐る辺りを見渡す。

 けれど、視界には何ひとつ映らない。

 右を向いても、左を向いても、何処まで視線を凝らしても。そこにあるのは光すら届かない、底のない漆黒の虚無だけだった。


「なんで……私、こんな場所に……」


 混乱する頭で必死に記憶を辿ろうとする。

 夕暮れの放課後。

 立ち入りが制限されていたはずの古い本館。

 ギシギシと音を立てる木造の階段。

 その踊り場に置かれた、冷たい姿見。

 そして――そこまで思い出した瞬間、美咲の胸の奥をゾワリと凶悪な毛虫が這い回るような嫌な感覚が駆け抜けた。


「……っ!」


 何かが、狂っている。

 確か、自分はあの大きな鏡の前に立っていたはずだ。いつものように、胸の前で両手を固く組み、密かに抱き続けてきたあの願いを口にして。

 そうして――それから、どうなった?


「……分からない」


 美咲は溢れ出る冷や汗を拭うことも忘れ、頭を強く抱え込んだ。

 思い出そうと試みれば試みるほど、記憶の輪郭が霞み、ぼやけて散っていく。

 まるで、誰かの冷たい指先によって、自分にとって最も大切な「何か」を無理やり黒い塗料で塗り潰されているかのようだった。

 その時、底知れぬ暗闇の遠い向こう側に、ぽつりと仄かな明かりが灯った。


「……?」


 それは無数の闇の中で揺らめく、細長い長方形の光。

 あそこが出口かもしれない。

 そう直感した瞬間、美咲は弾かれたように立ち上がっていた。


「待って……!」


 光を目指して、遮るもののない暗闇を無我夢中で駆け出す。

 何分走ったのか、何十分走り続けているのかすら分からない。

 どれだけ必死に脚を動かしても、不思議なことにその光との距離は一向に縮まらなかった。

 それでも諦めずに、破裂しそうな心臓を押さえて走り続け――ついに、その光の正体へと辿り着く。


「……鏡?」


 暗闇の中にぽつんと佇んでいたのは、一枚の姿見だった。

 縁の木が黒ずんだ、古びた鏡。

 見覚えがある。何度も、何度も自分自身の姿を映し出してきた鏡だ。あの古い本館の踊り場に置かれている、あの姿見そのものだった。


「どうして……こんなところに……?」


 美咲は膝の震えを抑えながら、恐る恐る鏡面を覗き込んだ。

 次の瞬間、息を呑む。


「……私?」


 鏡の中に、自分がいる。けれど――何かがおかしかった。

 鏡の中の自分は、こちら側の美咲を見ていない。焦点の合わない虚ろな瞳で前だけを見つめ、胸の前で細い両手を祈るように組んでいる。

 そして、縋るような顔つきで唇を動かしていた。


『――好きな人と、結ばれますように』

「……っ!」


 違う。

 駄目。

 そんなことをしたら――絶対に駄目!


「やめて!」


 美咲は叫びながら、鏡に向かってがむしゃらに駆け寄った。


「そんなこと、願っちゃ駄目……!」


 両手を冷たい鏡面へと叩き付ける。

 掌が痺れるほど、何度も、何度も。


「やめて!  お願いだから、もう何も願わないで!」


 けれど、ガラスの壁はビクともしない。

 鏡の向こう側にいる無垢な自分には、美咲の必死の声など何ひとつ届いていなかった。


「違う……違うの……!」


 喉が裂けるほどに叫ぶ。

 けれど、鏡の中の自分は何も知らない顔で、ただ一心に愚かな願いを唱え続けている。


『好きな人と、結ばれますように』

「駄目ぇ――っ!」


 そう叫んだ瞬間。

 鏡の中にいた「自分」が、首をギギギと歪な音で曲げ、ゆっくりとこちらへ顔を向けた。


「……え?」


 虚ろだった瞳が、鏡のこちら側にいる美咲の存在を完璧に捉える。

 そして――鏡の中の自分が、静かにこちらへ向かって手を伸ばしてきたのだ。


「……っ!」


 血の気が引き、反射的に後ずさる。

 けれど、伸ばされた白く細い手は鏡面の境界線を滑らかに通り抜け、こちら側の世界へと蠢き出てきた。

 まるで、美咲をあの暗い虚無の奥底へ引きずり込もうとするかのように。


「来ないで……嫌……!」


 美咲が震える声で拒絶の言葉を口にした、その時だった。

 鏡の中に映っていた背景が、水面に石を投じたかのようにぐにゃりと歪んだ。


「……なに、これ……?」


 揺らめく視界の中で、古い木造校舎の薄暗い踊り場が滑らかに解けていく。

 そうして再構築された景色に映し出されたのは――見慣れた新校舎の明るい教室棟だった。


「学校?」


 いつも自分が登下校で歩いている、太陽の光が差し込む廊下。

 窓枠から降り注ぐ、柔らかな午後の陽光。

 遠くから微かに聞こえる生徒たちの笑い声や喧騒。

 何処にでもある、何の変哲もない平和で眩しい学校の風景。

 そして、その廊下を――。


「あれは……私?」


 一人の少女が、照れくさそうに笑いながら歩いていた。

 間違いなく自分だった。

 そして、そのすぐ隣には、背の高い一人の男子生徒が並んでいた。

 二人は何気ない会話を交わし、互いに視線を合わせながら、楽しそうに歩を進めている。

 まるで、最初からそうなることが運命づけられていたかのように。


「……誰……?」


 隣を歩く男子生徒の顔には、薄く白い靄が掛かっていた。

 目も、鼻も、口元も、その表情すら何一つ読み取ることができない。

 誰なのか、見分けがつかない。


「なんで、知ってるの⋯⋯?」


 胸の奥が、締めつけられるようにきゅっと甘く痛んだ。

 顔なんて見えない。

 名前だって呼ばれていない。

 それなのに、何故か美咲には、その人が誰なのかが痛いほど理解できてしまった。


 自分がずっと、手の届かない場所から胸を焦がして想い続けてきた誰か。


 その人と、こうして並んで歩いている。

 ただ、それだけの光景。

 ただそれだけの、ありふれた夢のような瞬間。

 それだけなのに――。


「……こんな日が、本当に来たら……」


 美咲の唇から、ぽつりと哀しいほど切ない言葉が漏れ出た。


 幻だ。

 そんなことは百も承知だった。

 この不気味な鏡が見せかけているだけの、甘く残酷な偽物の光景。

 なのに――もしも。

 もしも、これが現実だったなら。

 毎朝、同じ校舎に通って。

 廊下ですれ違うたびに、くだらない話をして笑い合って。

 放課後には、一緒に夕暮れの道を帰って。

 時々、あの優しい声で自分の名前を呼んでもらって。


 そんな、当たり前で愛おしい何気ない日々を過ごせたなら――。


「……私……」


 気づけば美咲は、吸い寄せられるように鏡へ向かって手を伸ばしていた。

 触れたい。

 あの温かい光が溢れる世界に行きたい。

 そんな抑えきれない欲望が、胸の奥底から泥水のように溢れ出してくる。


 後少しでそんな世界に手が届く、その瞬間だった。


『――羨ましい?』

「……っ!」


 耳元のすぐ近くで、ゾクリとするほど冷たい女の声が響いた。

 美咲の身体が瞬時に凍りつく。

 その声には聞き覚えがある。いつかの中庭で、あの不気味な予言のように聞いた、あの何処か哀しげで禍々しい声。

 振り返るために首を動かそうとする。

 けれど、金縛りに遭ったかのように全身がピクリとも動かない。


『ここにいれば、全て叶うわよ』

「……誰……なの……?」


 返事はない。ただ、自分の背後に「ナニカ」がぴったりと密着して立っている。

 凍えそうなほど冷たい気配だけが、肌を通じてはっきりと伝わってくる。


『貴方がずっと望んでいた世界』


 耳たぶを撫でるような、甘く滑らかな囁き。


『貴方が死ぬほど欲しかった未来』

「……違う……っ」


 拒絶するように呟きながらも、美咲の視線は鏡の中に広がる幸せな光景からどうしても離れなかった。


「そんなの……ただの、偽物……」

『そうかしら?』


 背後の気配が、クスクスと哀しそうに笑った。


『だったら、どうしてそんなに愛おしそうな顔をしているの?』


 目の前の幸せな光景が闇包まれ、次に映し出されたのは、自分自身だった。

 その姿を見た美咲は、何も言い返せない。

 鏡の向こうの世界では、世界で一番幸せそうな自分が笑っていた。

 その隣には、顔の見えない好きな人がいた。

 二人は肩を寄せ合い、何処までも穏やかに歩いていた。

 その光景を見つめれば見つめるほど、胸の奥が狂おしいほど苦しくなった。


 羨ましい。

 欲しい。

 私をあの場所へ行かせてほしい。

 ずっと、ずっとそれだけを願っていたのだから。

 だから――。


「……私、ここにいたら……」

『ええ』


 背後の声が、我が子を諭す母親のように優しく静かに応じる。


『何も失わなくていいの。もう、これ以上』


 ふわりと、何かが肩に乗る。


『誰にも傷つけられないわ。拒絶される恐怖も、届かない苦しみもない』


 その声はこれまで以上に近い距離で、最早直接脳内に語りかけてきた。


『貴方の好きな人も、永遠に貴方だけを愛してくれる』


 その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、美咲の瞳が激しく揺れ動いた。


「……本当に……?」

『ええ、約束するわ』


 甘い。甘すぎる。

 吐き気がするほどに甘く、優しい誘惑だった。だからこそ、美咲の理性は警鐘を鳴らし続けていた。

 これは罠だ。

 こんな場所に居続けてはいけない。

 この声の誘惑に従ってはいけない。

 鏡の中へ足を踏み入れてはいけない。

 頭では、嫌というほど理解しているのに――。


「……もし、本当に……そうなるなら……」


 一歩。美咲の足が、自らの意思に反するように前へ踏み出された。


『美咲――!』


 その時、何処か遥か遠くの暗闇の隙間から、自分を強く呼ぶ誰かの声が聞こえた気がした。


「……誰……?」


 けれど、その愛おしい声は一瞬で濃密な暗闇へと溶けて消えていく。

 今美咲の目の前にあるのは、再び映し出された、自分がずっと渇望していた理想の世界だけ。

 鏡の中の自分が、幸せそうに微笑んでいる。

 その隣にいる誰かも、優しく手を差し伸べてこちらを見つめている。

 あと少し。ほんの少しだけ手を伸ばせば、あちら側へ届く。


『そうよ……いい子ね』


 背後から、血のように白い手がすっと伸びてくる。

 ゆっくりと、二度と逃げることすら許さないように、その冷たい指先が美咲の視界を覆い尽くしていく。


『貴方が心の底から欲しかったのは――こういう世界でしょう?』


 視界が、少しずつ深い闇へと塗り潰されていく。

 恐ろしいはずだった。

 絶望的であるはずだった。

 それなのに――美咲は、もう抗おうとはしない。

 むしろ、張り詰めていた心が解き放たれるような安堵感を覚えながら、そっと瞼を伏せる。


「そうだね」


 消え入りそうな声で、小さく呟く。


「こんな世界になれるなら……」


 もう、何も苦しまなくていい。

 好きな人に拒絶されて傷つくこともない。

 自分の届かない想いに涙を流すこともない。

 ただ、自分が望んだ通りの幸せだけが永遠に続く。


 そんな甘く優しい偽りの現実に――。


 美咲は最後の一歩を踏み出し、ゆっくりとその身を委ねていった。




 ❁




 時刻は、十七時。


 放課後の校舎には、昼間まであんなにも賑やかに響き渡っていた生徒達の声も、すでに潮が引くように絶えていた。

 縦長の高窓から差し込んでいた朱色の夕陽もすっかり傾き、橙から濃い紫へと移ろいゆく影が廊下を塗り潰していく。


 薄暗い本館。

 その一階から二階へと続く木造階段の踊り場に、夢月は一人で立っていた。


「…………」


 目の前には、例の姿見。

 木枠の黒ずんだ、古びた鏡だ。

 周囲に人影がないせいか、昨日に増してずっと大きく、まるで怪物の開いた口のように不気味な圧迫感を放っている。

 その前に立ったまま、夢月は乾いた喉を鳴らすように、ごくりと唾を飲み込んだ。


(本当に、やるんだよね)


 今朝から、それこそ息をする度に自分に言い聞かせてきたことだ。

 これは作戦。

 姿見に潜む怪異を誘き出すための、いわば囮。

 必要な手順はただ一つ。

 この鏡に向かって、あの身勝手な恋占いの言葉を口にすること。


 ――好きな人と、結ばれますように。


 そう願えば、姿見に宿る妖が現れる。

 少なくとも、珠吉達の立てた仮説ではそうだった。


(でも……)


 夢月は鏡の中に映る自分をじっと見つめた。そこに映っているのは、いつもと何ら変わらない自分だ。

 緊張で僅かに強張った顔。

 左肩に深く掛けた通学鞄。

 制服の整えられた襟元。

 何もおかしいところはない。


 それなのに、鏡の向こう側の世界だけが、異質なほどに静まり返っていた。

 まるで、あちら側の何かが、夢月が境界線を越える言葉を口にするのを今か今かと待ち構えているような――。


「考えすぎ、考えすぎ」


 自分自身に言い聞かせるように呟き、夢月は小さく頭を振った。

 ここで足が竦んでいては作戦にならない。

 そもそも、今回の目的は自分一人でこの怪異を退治することではないのだ。

 まずは姿を現させる。正体を暴く。そのために――。


(好きな人、か)


 そこが、夢月にとって最大の難関だった。

 夢月には、現在進行形で好きな人などいない。これまでの人生で恋愛経験も皆無に等しい。

 そもそも、異性とまともに目を合わせて話すことすら得意ではないのだ。

 そんな自分が、乙女らしく「好きな人と結ばれますように」なんて願うのだ。

 想像しただけで、顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。


「……うぅ」


 耐えかねて、夢月は両手で熱を持った頬を押さえた。

 昨夜、夢幻喫茶で皆と作戦会議をした時の光景が思い出される。


『我が前で、本気で恋焦がれているような気色の悪い乙女の演技などしてみろ!  容赦なく爪で顔面を引っ描いてやるからな!』


 カウンターの上で、珠吉が怒りに任せて言い放ったことが脳内で木霊した。

 あの時は、上手くいく保証など無くても、これなら怪異を誘き出すのに通用するかもしれないと高を括っていたのだか。

 こうして実際に一人で鏡の前に立ってみると、これが想像以上に難しかった。


(好きな人……好きな人……)


 夢月は必死になって自分の記憶の引き出しをひっくり返した。

 学校の男子生徒。

 駄目だ。顔と名前すら一致しない相手ばかりだ。

 テレビの中のアイドルや俳優。

 もっと駄目だ。ファンとしての好きと恋愛感情の違いすらピンとこない。

 漫画やアニメの登場人物。……次元が違いすぎて、鏡の妖を騙せる気がしない。


「…………」


 夢月はしばらくの間、深刻な顔で考え込んだ。

 しかし、変わらず好きな人どころか気になった人すらも思いつかない。

 その代わりに浮かんだのは、黒くて、つやつやとしたふわふわの毛並み。

 丸っこくて愛らしい身体。

 吸い込まれそうな大きな琥珀色の瞳。

 気まぐれで、上から目線で、横柄で。

 けれど頭を撫でてやると、何だかんだブツブツ言いながらも気持ちよさそうに大人しくしている――。


「珠吉」


 思わず口から名前が零れ落ちていた。

 夢月の脳裏には、夢幻喫茶の木製カウンターの上で、丸くなって欠伸をしている黒猫の姿がはっきりと浮かんでいた。


 ふわふわ。

 もふもふ。

 あたたかい。

 愛くるしい。


 やっぱりあの猫又しか通用する相手はいない。改めて確認すると、感じていた緊張が解けていった。

 少なくとも、強い愛着を持って顔を思い浮かべることはできる。

 これが人間に対する恋愛感情と言えるかどうかは、今は脇に置いておくとして。


(ごめんね、珠吉)


 心の中で平謝りしつつも、今から自分は、あの偉そうな黒猫を「一世一代の好きな人」に見立てて利用させてもらう。

 本人⋯いや、本猫は不本意ながらも了承してくれたし。

 きっと今頃夢幻喫茶の店内で武運を願ってくれていることだろう。そう信じておく。

 夢月は一度だけ深呼吸をした。そして、意を決して姿見へと向き直る。


「…………」


 鏡の中の自分と、真っ直ぐに目が合った。

 胸の前で、細い両手をキュッと組む。

 昨夜、神楽達と何度も頭の中でシミュレーションした手順。

 時間は十七時。

 場所は、この古い踊り場。

 あとは――自分の口から、あの願いを放つだけ。


(大丈夫。皆が、ついていてくれる)


 心臓が暴動を起こしたようにうるさく脈打つ。

 固く組んだ掌に、じっとりと嫌な汗が滲む。それでも夢月は、鏡から目を逸らさなかった。

 鏡面に映る自分自身に向かって、ゆっくりと、祈るような声を落とした。


「――好きな人と、結ばれますように」


 …………。

 しん、と静まり返る踊り場。

 しばらく目を瞑って待ってみるが、何も起こらない。


「…………」


 夢月は恐る恐る鏡面を見つめた。

 何の変哲もない。

 鏡には、夕闇に呑まれつつある階段の踊り場と、硬直した自分の姿が映っているだけだ。


「あれ?」


 珠吉達の予想は外れてしまったのだろうか。

 あるいは、黒猫を「好きな人」だと思い込もうとした生ぬるい偽りの想いでは、妖を騙しきれなかったのだろうか。

 夢月が困惑して首を傾げた、その時だった。


 ――ぽたり。


「……え?」


 何処からか、水滴が落ちるような湿った音が響いた。そしてその音が聞こえた直後には、足元の冷たい床に黒い小さな水溜まりが広がり始める。

 夢月はゆっくりと視線を上げた。

 鏡の中。そこに映る自分の――すぐ背後に。

 いつの間にか、誰かが立っていた。


「――っ!?」


 悲鳴すら声にならなかった。

 弾かれたように振り返る――が、そこには誰もいない。ただの薄暗い階段があるだけだ。

 慌てて、鏡へ視線を戻す。


 ――いる。


 確かに、そこに「何か」がいる。

 夢月のすぐ背後。

 肩越しに覗き込むようにして、密着するほどの近さで佇む影。

 引き摺りそうなほど長い、濡れた黒髪。

 俯けられた顔。

 そして――ぽたり。また一滴。

 現実の床ではなく、鏡の中の空間だけで、赤い水滴が床へ落ちて染みを作っていく。


「だ、誰……っ」


 夢月の声が、ガタガタと恐怖で震えた。

 すると、鏡の中に潜む『それ』が、ギギギと関節を軋ませるような不気味な動作で、ゆっくりと顔を上げた。

 長髪の隙間から見えたのは――。

 血の涙を流し、絶望に歪んだ少女の顔だった。


「……っ」


 夢月は息を呑んだ。

 少女は鏡の内側から、凝視するように夢月を刺すような視線で見つめている。

 その瞳には、底知れぬ悲しみと、世の全てを呪うかのような激しい狂気と憎悪が、ドロドロとした渦を巻いていた。

 そして、血に濡れた薄い唇が、ゆっくりと形を変える。


『好きな人と』


 その声は、分厚いガラスの境界線を隔てているはずなのに。

 まるで夢月の耳元で直接囁かれたかのように、生々しく、はっきりと響いた。


『――結ばれたい?』


 鏡の中の少女が、歪んだ笑みを浮かべた。

 ぞくり、と、頭の先からつま先まで、狂おしいほどの冷気が駆け抜けた。

 直感的に悟る。逃げなければ。今すぐここから離れなければ。

 けれど、足が動かない。

 金縛りに遭ったかのように、両足が粘着質な床に縫い付けられてしまっていた。

 そして、鏡の表面が水面のように波打ち、その内側から、血のように白い細い手が滑り出てくる。

 冷たいガラスの境界線を容易くすり抜け、こちら側の現実世界へ――夢月の胸元へ向かって。


『――なら、叶えてあげるわ』


 その瞬間、視界の全てがぐにゃりと歪み、鏡の中の闇が夢月を呑み込むように、世界が崩壊し始めた。




 ❁




 はっ、と夢月は荒い息を吐きながら目を覚ました。


「…………え?」


 真っ先に夢月の皮膚を打ったのは、異常なまでの静寂だった。

 音という音が、世界から削ぎ落とされている。

 放課後の校舎を揺らしていた風の音も、遠くの幹線道路を走る車のエンジン音も、下校する生徒達の無邪気な話し声も。何も聞こえない。

 あまりにも密度の高い静寂に、耳の奥がツンと痛むほどだった。


「ここ……どこ、なの……?」


 夢月は両手を冷たい地面につき、重たい上体をゆっくりと起こした。

 けれど、カッと目を見開いているはずなのに、視界には何ひとつ映らない。

 右を見ても、左を見ても、頭上を見上げても。何処までも底のない漆黒の暗闇がどこまでも続いている。

 眼前まで掲げた自分の手すら、輪郭すら視認できない。


「…………」


 夢月はあまりの恐怖に、自分自身の冷え切った腕を強く擦った。

 確か、自分はあの古い本館の階段の踊り場にいたはずだ。あの不気味な姿見の前に立ち、胸の前で手を組んで。

 そして――。


「そうだ」


 記憶の断片が、一気に蘇ってくる。

 偽りの願いを口にした。

 その直後、鏡の内側にあの血の涙を流す少女が現れて。鏡面をすり抜けて、冷たい白身のような手が伸びてきて――。


「っ⋯⋯」


 夢月はごくりと乾いた唾を飲み込んだ。

 あれは夢でも幻覚でもなかった。

 そう確信できるほど、あの瞬間に心臓を直接握り潰されたような強烈な恐怖が、鮮明に身体に残っている。


「……私、どうなっちゃったの……?」


 粘着質な暗闇に問いかけても、当然ながら返事など返ってこない。

 夢月は怯えながら、探るようにゆっくりと立ち上がった。

 視覚が完全に遮断されているため、足元に何があるのかすら分からない。底なしの穴の上だったらどうしようと、全身の毛穴が縮み上がる。

 恐る恐る一歩、暗闇の中へ足を押し出す。

 タン、と小さな靴底の音が響いた。ちゃんと足場が存在している。

 夢月は震える胸に手を当て、小さく息を吐き出した。

 少なくとも、無限の滑落へ落ちていくような場所ではないらしい。


(もしかして……)


 夢月の脳裏に、昨夜の夢幻喫茶での作戦会議の光景が暗闇の中に浮かび上がった。

 姿見に宿った妖。

 そこへ偽りの恋の願いを届けること。

 そして、妖を誘き寄せるための囮作戦。


「……妖との、接触には成功した……のかな」


 そう言葉にしてみた途端、ほんの少しだけ胸の過呼吸が収まった気がした。

 少なくとも、自分達の立てた作戦そのものは失敗していなかったのだ。

 姿見の奥から現れたあの少女。あれこそが、この場所に執着し、生徒達を脅かしている怪異の正体に違いない。

 ならばここは、怪異の情念が作り出した「境界」の内部、異界のような場所なのだろう。


(美咲ちゃんを探して、怪異も見つけて⋯⋯あそこに帰ろう)


 そう前向きに捉えればいい。

 そう思えば、この気味が悪いほどの暗闇も、少しだけ怖くなくなるはずだ。

 夢月は自分を必死に勇気づけるように、何度もこっくりと頷いた。


「大丈夫……大丈夫だから……」


 珠吉がついていてくれる。

 きっと、自分が異界に落ちたと気づけば、すぐに助け出す方法を見つけてくれるはずだ。


「大丈夫」


 もう一度、暗闇に向かって言い聞かせた。

 けれど自分の強がりな言葉とは裏腹に、胸の奥底では冷たい嫌な予感が膨らみ始めていた。

 何かが、決定的に狂っている。

 ただ妖と接触しただけなら、どうして自分は現実の踊り場ではなく、こんな何もない無の空間に閉じ込められているのだろう。


「……姿見は……何処?」


 夢月はふと、致命的な違和感に気づいた。

 あの全ての引き金となった大きな姿見が、何処にも見当たらない。

 目を凝らして周囲を見渡しても、一筋の光すら存在しない。完全なる無音と漆黒が広がっているだけ。

 まるで世界そのものが、自分という人間だけを切り取って、この孤独な箱の中に閉じ込めてしまったかのようだった。


「…………」


 夢月は無意識に、制服の胸元をぎゅっと握り締めた。

 静寂の中で、自分の心臓の鼓動だけが、嫌になるほど大きく耳元で打ち鳴らされている。


 トクン。

 トクン。

 トクン。


 その生の証拠のような湿った音だけが、この暗闇の中で確かに存在していた。


「誰か、いませんか?」


 恐怖に耐えかねて、絞り出すような声を出す。

 しかし、その声に答えるものは存在しないまま、静寂が返ってくるだけだ。


「……珠吉……っ!」


 縋るように名前を呼ぶ。けれど、黒猫の軽快な足音も、嘲笑うような生意気な声も聞こえてはこない。

 重苦しい虚無が横たわるだけ。

 夢月は唇を血が滲むほど強く噛みしめた。

 それでも、まだ自分を諦めさせまいと必死に心の中で叫ぶ。


(大丈夫。しっかりしろ、私)


 これはきっと、あの怪異が仕掛けてきた罠だ。

 自分を絶望させて、パニックに陥れようとしているだけ。

 自分はちゃんと、作戦通りに妖を目の前に呼び出すことができたのだから。なら、ここで逃げ出さずに、あの少女の情念と向き合って話をすればいいのだ。美咲を返してもらうために。


「そうだよ」


 夢月は解けそうになる震える指先を、もう一度固く握り込んだ。


「私、ちゃんと……貴方に会いに来たんだから」


 勇気を振り絞ったその言葉が、ひんやりとした暗闇の中へ吸い込まれていく。

 その直後、遥か遠くの暗闇の深淵で、何かの音が微かに響いた。


「…………え?」


 夢月は思わず顔を上げる。微かに、本当に微かにだが、自分以外の誰かの「声」が届いた気がした。

 それは、若い女の人の泣き声のようでもあり、愛を乞うような囁き声のようでもある。

 遠すぎて、何と言っているのかまでは判別できない。

 けれど、確かにそこには「誰か」が存在していた。


「……美咲ちゃん……?  それとも……」


 夢月は声の聞こえた暗闇の向こう側へと、吸い寄せられるように一歩を踏み出した。

 すると、漆黒の視界の遥か彼方に、ぽつりと小さな白い光が灯った。


「なに、あれ」


 夢月は思わず足を止める。

 その光は、暗闇を押し広げるようにして徐々に大きくなっていく。そしてようやく、その光の輪郭が見え始めた。

 縦長の、長方形。

 暗闇の中で白くぼんやりと発光する、一枚の――。


「……鏡?」


 夢月は息を呑んだ。

 底なしの暗闇の向こう側に。確かに、あの古い本館の姿見が、冷ややかに佇んでいたのだ。







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